宮崎市の田の神

 宮崎市は平成の大合併で、近隣の佐土原、田野、高岡の3町を編入合併し、平成18年1月1日、人口約37万人の県都として新たなスタートを切った。旧高岡町は島津領で多数の田の神像が見られる。50体以上の田の神があり、宮崎県ではえびの市につぐ多さである。合併前の宮崎市では、旧生目村地区に田の神像が多くある。生目村は島津領ではないが、隣接する島津領の高岡町などの影響でつくられたと思われる。

 宮崎県の田の神は野尻町のメシゲを笏代わりにした神官型やキ城のメシゲと椀を持ち袴をはいた農民型などそれぞれ地域によって特色がある田の神が見られる。

 旧高岡町・旧生目村の田の神で最も多いのは、シキを頭からずらして光背のようにかぶり、中腰で前方に少し曲げ、メシゲとスリコギのような小さな棒を持った農民型の田の神である。すべてが明治以降の作である。青山幹雄氏はこの像を高岡型と名付けられている。また、高岡町には江戸時代につくられた神官型の田の神も多数見られる。高岡の神官型の田の神は石祠に納められているのがよく見かけられる。

田の神像の分類方法はさまざまあるが、このページは青山幹雄氏の分類に従った。

 



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高岡町の神官型田の神   宮崎市高岡町       

去川の田の神

唐崎の田の神  唐崎の田の神

面早流の田の神

面早流の田の神

柚木崎の田の神
田之平の田の神 田之平の田の神  田之平の田の神   尾谷の田の神

尾谷の田の神

高浜の田の神1

高浜の田の神2 城ヶ峰の田の神1 城ヶ峰の田の神2 城ヶ峰の田の神
 高岡町には高岡五町や浦之名を中心に神官型座像の田の神が多数ある。すべて江戸期のもので、最も古い記年銘は唐崎の田の神の元文二年(1737)である。去川の田の神は腰掛け型の神官型像で様式的にはこの像が高岡町では最も古いと思われる。去川以外の神官型の田の神は台座の上に安座する座像である。
 神官型の田の神も地域的特色がある。高岡町では高岡五町・浦之名を中心に瓜実顔で気品のある顔の田の神で冠の巾子(こじ)を表現した像が多い。柚木崎、面早流(もさる)、田之平などの田の神がそれである。石祠の中に納められた田の神が多いのも特徴である。

 去川の田の神は都城市高崎町や高原町・小林市などに多く見られる腰掛け型の田の神で、両側に振り広げた袖口など衣紋の表現も写実的で、両手を膝の上で輪組みにし、笏をさすようにしている。腰掛け型の田の神多くは享保年間の作で、この田の神もその頃の作と思われる。 
 国道10線沿いにある唐崎の田の神は、キ城の岩満巣立の田の神を思わせる量感豊かな表現の田の神である。両手を膝の上で輪組みする。背面に「元文二年五月吉日」と刻む。

 面早流と柚木崎の田の神は、ともに瓜実顔で切れ長の目の気品のある顔立ちである。ともに冠の巾子は立派で烏帽子のように見える。両手を膝の上で輪組みする。
 浦之名の東、野尻町との境付近にある田之平の田の神も面長で、頭に巾子をのせている。横から見ると巾子から垂れる纓(えい)も表していることがわかる。石祠に納められているが、石祠の柱は新しいものになっている。横に古い石柱の一部が残っていて「嘉永(1848〜1854)」と刻まれている。(年号の部分はコンクリートで固められ読めない。)
  
 尾谷の田の神も石祠に納められていて柱に「安政四年(1857)年巳六月吉日」「尾谷相中」と刻銘がある。柚木崎や田之平の田の神と同じように瓜実顔の田の神像であるが、装束の表現は硬く抽象的で、立体感に欠ける。纓を垂らした冠や笏も彫られいる。撮影の時、居合わせた別府正司さんから「曾祖父の別府金蔵ら尾谷の村人たちによって建立され、昭和になって尾谷林道の入口に移した。」ことを聞くことができた。

 高浜の田の神1は神官型座像で両手輪組をする。この田の神も石祠に納められている。全体を白く塗り、目鼻口は黒で描かれ、装束は黒で田の字の模様を入れている。高浜にはもう一体、全体を白く塗って、黒で田の字の模様を入れてた田の神がある。(高浜の田の神2)

  花見の城ヶ峰自治公民館の北50mの農道脇に2基の石祠に納められた田の神像がある。ともに瓜実顔の田の神で左の像は右手で、右の像は両手で笏を持つ。

アクセス(自動車)
・東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ約12.7kmで柚木崎の田の神。(国道10号沿い)
柚木崎の田の神から国道10号線を南へ仁尾田橋を渡り約1.5km。右折し北へ200mで面早流の田の神
・仁尾田橋付近から国道10号線を西へ約1kmで唐崎の田の神。(国道10号沿い)
・唐崎の田の神から国道10号線を南西へ約1.6kmで去川小学校前。左折し南へ250mで
去川の田の神
東九州道宮崎北ICより国道10号線・国道268号線を西へ約17kmで田之平の田の神(国道268号沿い)
東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ4.8km、県道359号線に入り高岡町市街地を西へ2.7km。右折し北へ500mで尾谷の田の神
東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ1.8km、高岡町宮水流を左折し南西へ2km。宮崎市麓を右折県道28号線を北西へ2.4km、左に入り300mで左折。250mで高浜の田の神。(高浜神社前)

アクセス
(バス)
柚木崎、面早流、唐崎、去川の田の神・・・宮崎駅より「雀ヶ野」行きバス乗車、「柚木崎」「面早流」「唐崎」「去川」各バス停で下車。
田ノ平の田の神・・・宮崎空港より「小林駅」行きバス乗車。「下田ノ平」下車。
尾谷の田の神・・・宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」「小林駅」行きバス乗車。「上高岡」下車。
高浜の田の神・・・宮崎駅より「尾頭」または「高岡温泉・綾」行きバス乗車。「高浜」下車。

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高岡の農民型の田の神   宮崎市高岡町下倉永・上倉永・小山田   

下倉の田の神

下倉の田の神

寺迫の田の神

寺迫の田の神 高野の田の神 小山田の田の神
 高岡町や宮崎市生目地区・綾町にはシキを阿弥陀にかぶり、坊主頭でメシゲとスリコギを持ち、着物に袴姿で中腰で立つ田の神が多数ある。青山幹雄氏はこの像を高岡型と名付けられている。これらの田の神はすべて明治以降の作である。これらは高岡町の石工によって彫られたもので、昭和期の作のものも多数ある。

 青山
幹雄氏の「宮崎の田の神像」によると、これらの田の神は明治2年頃から柳原作兵衛等を中心とした、高岡町川原の石工たちによって作られてきたものであるという。「宮崎の田の神像」には柳原作兵衛が描いたと思われる田の神の下絵が紹介されていて、青山幹雄氏は、その内の一つの下絵が明治十二年像立の下倉の田の神のものと推測されている。

 下倉の田の神は下倉の村の外れに祀られていて、像立年のわかる高岡型田の神では最も古い。また、、最も大きい像でもある。「明治十二年卯(1879)」の紀年銘がある。像高は150pで大きなシキを光背のように背負い、右手にメシゲ、左手にスリコギを持ち、着物に袴姿で中腰で微笑んでいる。高岡型の田の神の代表する像である。

 高岡型の田の神は下倉の田の神以降、高岡町や生目村で多数作られた。旧高岡町上倉永の寺迫や高野、小山田の田の神がそれである。寺迫の田の神と高野の田の神は共に昭和35年(1960)の紀年銘がある。小山田の田の神は昭和16年(1941)の作である。3体とも大きなシキを光背のように背負い、右手にメシゲ、左手にスリコギを持ち、着物に袴姿で中腰で微笑んでいるが、顔はそれぞれ個性的で味わい深い。

アクセス
・東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ1.8km、高岡町下倉永を左折し南西へ0.5km。
宮崎駅より「尾頭」または「高岡温泉」行きバス乗車。「下倉永」下車で下倉の田の神




生目の神官型の田の神   宮崎市富吉、有田町  

有田の田の神

有田の田の神

富吉の田の神

 宮崎市の旧生目地区(旧生目村)は島津領ではないが、隣接する島津領の高岡町などの影響で江戸時代から田の神像がつくられた。高岡町と同じく、江戸時代の田の神像はメシゲやスリコギを持つ農民型の田の神像ではなくすべて神官型の田の神像である。ただし、高岡町のような像高80cmを越える大型の優れた表現の像はなく、数も少ない。
 生目地区で最も整った姿の田の神像が有田の田の神である。高峯墓地の入り口付近の道沿いの小さなお堂に祀られている。衣冠束帯姿で笏を持つように両手を輪組みしている。全体的に風化が進み、目鼻や衣紋など、細かい部分はは一部消えかかっているが上品で穏やかな面影が残っている。 
 10号線沿いの富吉神社の東丘の中腹にある富吉の田の神も神官型の田の神である。明らかに素人がつくったと思える田の神像で、子どものような素朴で愛らしい田の神像である。ともに、紀年銘はないが、江戸時代の作と考えられる。

アクセス
・東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ1.5km。左折し富吉神社前を左折すぐで富吉の田の神。
東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ0.2km、下富吉を右折し0.4km、下富吉公民館前を右折し東へ0.9km、生目の森運動公園前を左折。北へ0.5kmで有田の田の神

アクセス(バス)
富吉の田の神・・・宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」行きバス乗車。「中角」下車。
有田の田の神・・・南宮崎駅前の「宮交シティ」より「記念病院」行きバス乗車、「有田」下車。    または、宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」行きバス乗車。「納島口」下車。北東へ    徒歩2km。



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生目の農民型の田の神   宮崎市柏原、跡江、浮田、有田  

柏原
田の神

八坂神社
の田の神

八坂神社
の田の神

跡江の
田の神

栗下の
田の神
白髭神社
の田の神
浮田の
田の神
生目の
田の神
 生目地区は元々、薩摩藩でなく、江戸時代、田の神像はあまり多くはつくられなかった。そのため、生目地区の田の神の多くは明治以降に制作されたものである。昭和になってつくられたものも多い。それも、すべてシキを阿弥陀にかぶり、坊主頭でメシゲとスリコギを持ち、着物に袴姿の田の神、青山幹雄氏が高岡型と名付けられた田の神像である。

 柏原の田の神は谷口漬物工場近くの田の中にある。昭和十六年九月二十七日につくられたもので、左手にメシゲを持つ、右手は一部が欠けているが、スリコギを持つていると考えられる。ビリケンのような金柑頭で、中腰というより腰掛けているように見える。像高は約80p。基壇には松浦忠蔵氏の表彰記念文が刻まれている。

 跡江の八坂神社にある田の神も柏原の田の神と同じく、基壇に表彰記念文(日與平氏)が刻まれている。昭和十四年三月十二日の像立されたもので、像高は105cmで、中腰で左手にメシゲ、右手にスリコギを持つ。小太りで首がなく丸顔で額や目尻、口の周りに皺が刻まれている。皺が髭のように見え、太ったカワウソのような印象を受けるユニークな田の神像である。
 また、八坂神社の北50mにも像高1mの農民型の田の神がある。痛みがひどく胸元が大きく破損してる。セメントで補修して頭部とつなげている。

 栗下公民館の田の神も左手にスリコギ、右手にメシゲを持つ高岡型の田の神像である。浅い中腰で正面から見ると直立しているように見える。穏やかであるが威厳のある顔で、村の和尚さんといった雰囲気である。「明治二十五年辰二月十九日」の紀年銘が基壇に刻まれている。
 有田の白髭神社の田の神は深い中腰で、大きなメシゲを左手に持ち、右手にスリコギを持った田の神で、動きがあり農民が田の神舞を踊る姿が想像できる。顔は柏原の田の神と同じくビリケンのような金柑頭である。

アクセス
・東九州道宮崎北ICより国道10号線を南東へ0.7km。左折し旧道に入り、0.5kmで左折。谷口漬物工場前を左折すぐで柏原の田の神
・東九州道宮崎北ICより国道10号線を南東へ0.7km。左折し旧道に入り、1.2kmで左折。
県道9号線を北へ1km、右折しすくで八坂神社・跡江の田の神
・東九州道宮崎北ICより国道10号線を南東へ1.9km。
浮田ランプで降りて右折し、10号線下をくぐり、右折して、すぐに左折、西へ1.2km。丘の上の公民館の庭に栗下公民館の田の神
東九州道宮崎北ICより国道10号線を西へ0.2km、下富吉を右折し0.7km、突き当たりを右折し北東へ約1kmで白髭神社入り口。参道横の土手に白髭神社の田の神

アクセス(バス)
柏原の田の神・・・宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」行きバス乗車。「柏原」下車。
八坂神社・跡江の田の神・・・宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」行きバス乗車。「生目」下車。
栗下公民館の田の神・・・宮崎駅より「細江・高岡」経由「尾頭」行きバス乗車。「柳迫」下車。または、宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」行きバス乗車。「生目」下車。南西へ徒歩1.6km。
有田の田の神・・・南宮崎駅前の「宮交シティ」より「記念病院」行きバス乗車、「有田」下車。    または、宮崎駅より「尾頭」「高岡温泉・綾」「雀ヶ野」行きバス乗車。「納島口」下車。北東へ    徒歩1.6km。


 

ballb03.gif (1352 バイト)キ城市の田の神1 ballb03.gif (1352 バイト)高原町の田の神 ballb03.gif (1352 バイト)えびの市の田の神
ballb03.gif (1352 バイト)キ城市の田の神2 ballb03.gif (1352 バイト)小林市の田の神 ballb03.gif (1352 バイト)えびの市の田の神2 
ballb03.gif (1352 バイト)三股町の田の神 ballb03.gif (1352 バイト)野尻町の田の神

 

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