都城市の田の神1 |
人口約17万人の都城市は旧薩摩藩である西諸・北諸・東諸の諸県地方の中心都市としても栄えている。都城市は鹿児島県と接し、えびの市とともに田の神像が多くあり平成の大合併以前の都城市で80体(都城市史参照)を越える。宮崎県ではえびの市とともに農民型の田の神が多い地域でもある。 えびの市の田の神は詳しく調査され、報告書やガイドブックもつくられ、全国的に知られるようになり、梅木の田の神や末永の田の神は多くのHPで取り上げられている。しかし、あまり知られていないが、農民型の田の神はえびの市よりも都城市の田の神像の方が総じて秀作が多く、見応えがある。制作年代もえびの市の田の神は末永の田の神をはじめ、明治以降の田の神が多いのに対して、江戸時代の田の神が多いのが特徴である。 乙房神社の田の神や西生寺の田の神などは、鹿児島の農民型の田の神と比べても遜色のない秀作である。神官型では岩満町巣立の田の神が保存状態もよく優れている。 田の神像の分類方法はさまざまあるが、このページは青山幹雄氏の分類に従った。
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岩満町の田の神 都城市岩満町巣立 |
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関之尾町の田の神 都城市関之尾町関之尾 自治公民館 |
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丸谷町の田の神 都城市丸谷町丸谷 丸谷町中大五郎 文政元(1818)年 |
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都城市高木町西高木
嘉永四年(1854) 都城市上水流町陣用水路脇 宝暦二年(1752) 都城市上水流町 |
都城ICの北一帯が都城市高木町である。高木町は環濠集落で壕に沿って車がやっと1台通れる細い外周道路がある。その外周道路沿いに4体の田の神像を確認することができた。その中でも西高木にある農民型の田の神が優れている。頭をかしげて、右手にメシゲ、左手に碗を持つを持つ田の神で、かぶっているシキが顔より大きい。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。幕末の「嘉永四年(1854)」の記銘がある。 大淀川を隔てた高木町の北が、上水流町である。志和池小学校の西が上水流町で、その集落の南の用水路脇に、神官型の田の神がある。太い眉とつり上げた目の特異な顔をした田の神像でる。背面に「宝暦元壬申十二月 田神宮」の記名があり、1752年、江戸時代中期の作であることがわかる。 上水流町の北が下水流町である。下水流町の東には水田が広がっている。その水田地帯の上水流町近くの三叉路に、農民型の田の神が下水流町耕地整理記念碑の横に祀られている。シキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持ち、ワラヅトの代わりに風呂敷のような物を背負っている。西高木の田の神と同じく袴をはく。鼻が欠け後世の補作になっているのが惜しい。 |
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乙房神社の田の神 都城市乙房町馬場 文政九年(1826) |
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加治屋の田の神 都城市南横市町加治屋 安永年間 |
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川東墓地の田の神 都城市下川東町四丁目 |
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上東町の田の神 都城市上東町 |
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西生寺の田の神 都城市梅北町西生寺 |
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