奈良市の石仏1
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春日山と高円山の麓の高畑町は大正から昭和にかけて多くの画家や作家に親しまれた地域で、古色の土塀が残る町並み、奈良市写真美術館、新薬師寺、志賀直哉旧居などの名所がある趣深い所である。また、その南の白毫寺町には五色の花をつける五色椿や参道の石段を覆う萩で知られた白毫寺がある。 新薬師寺や白毫寺には地蔵十王石仏など多くの古い石仏があり、石仏愛好家にとって見逃せない地域でもある。頭塔は土壇からなる奈良時代の塔で、自然石を利用した石積みの各壇に石仏が配置されていて、現在浮彫や線彫の石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、一括して重要文化財に指定され、奈良時代の数少ない石仏群として知られている。 |
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新薬師寺は天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように建立した。かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院であるが、創建当時の建物は本堂(国宝)のみがとなっている。本尊木造薬師如来坐像(国宝)とそれを囲む等身大の奈良時代の塑造十二神将立像(国宝)が有名である。 その新薬師寺の境内の南の端に多くの石仏を集めた覆堂があり、芳山二尊石仏に似た奈良時代後期の如来立像をはじめとして多くの石仏や板碑が安置されている。覆堂の中央には永正3年の造立銘のある地蔵石仏と鎌倉後期の阿弥陀石仏が安置され、地蔵石仏の向かって左に奈良時代後期の如来立像がある。如来立像の向かって左には鎌倉時代の地蔵十王石仏が置かれている。 他に覆堂には名号石や大永5年の地蔵石仏などがある。他に稲荷社の北にも多くの石仏が置かれていて、その中には双仏石や古式の地蔵石仏などがある。 |
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白毫寺は高円山のふもとにあり、雲亀元年(715)志貴皇子の没後、その地を寺としたのに始まると伝えられ古寺で、鎌倉時代に再興され、閻魔堂や地蔵堂が建てられ、人々に地獄の恐ろしさを教えるとともに、極楽往生のための教えを広げる寺として栄えた。現在でも阿弥陀像や地蔵像とともに閻魔王像や太山王像など冥府に関する諸尊が残っていて、寺の行事として「えんまもうで」もおこなわれている。石仏もそのような信仰に関わるものが多い。 天然記念物の五色椿が植えられた境内の片隅には南北朝時代の十王地蔵石仏を初め、鎌倉時代の不動石仏や慶長15(1610)年の弥勒石仏・地蔵石仏が並べられている。また、山門前には薬師如来石仏がある。白毫寺の東と南には市営墓地があり、墓地の入り口付近には鎌倉時代の丸彫りの地蔵石仏が立っている。 |
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頭塔は、頭塔は方形の7段からなる奈良時代の土の塔で国の史跡になってい。古くより僧玄ムの頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきたが、本来の土塔「どとう」がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われる。
頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会(お水取り)を創始した実忠が、造った塔であるとされている。 1980年代からはじまった本格的な発掘調査で、この場所にはもとは6世紀つくられた古墳があり、それを壊して造られていること、天平宝字4年(760)に最初の土塔は現状より小規模(3段)につくられ(下層頭塔の造営)、その後あまり時期を経ずして、<神護景雲元年(767)頃か?>その上にかぶせるようにして現在の7段の頭塔(下層頭塔の造営)がつくられたことがわかった。(奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」参照) 現在の頭塔は、発掘調査により遺構解明された、南面(頭塔の森としての価値を認めそのままにした)以外を昭和61年から平成12年まで奈良県教育委員会が復元整備を行い、1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造を復元したものである。 頭塔の各段には、浮彫(一部線彫)の石仏が配置されている。復元前には13基の石仏が露出していていたが(他に郡山城の石垣に一基転用されたいたのが確認されている)、発掘によってあらたに14体と抜き取り痕跡5個所を発見された。東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。頭塔石仏の構想には法華経の影響が入った華厳教学の影響の下、東大寺大仏と同じ造像構想を東大寺大仏と同じ造像構想を背景に持つとされている。(各石仏の説明参照)。 東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されていて、デッキ式の回廊をめぐらした見学路から見学できる。隣のホテルウェルネス飛鳥路のフロントにて受付をすれば、予約無しで当日見学が可能。 |