参照文献 |
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都城の田の神1 |
人口約17万人の都城市は旧薩摩藩である西諸・北諸・東諸の諸県地方の中心都市としても栄えている。都城市は鹿児島県と接し、えびの市とともに田の神像が多くあり平成の大合併以前の都城市で80体(都城市史参照)を越える。宮崎県ではえびの市とともに農民型の田の神が多い地域でもある。 えびの市の田の神は詳しく調査され、報告書やガイドブックもつくられ、全国的に知られるようになり、梅木の田の神や末永の田の神は多くのHPで取り上げられている。しかし、あまり知られていないが、農民型の田の神はえびの市よりも都城市の田の神像の方が総じて秀作が多く、見応えがある。制作年代もえびの市の田の神は末永の田の神をはじめ、明治以降の田の神が多いのに対して、江戸時代の田の神が多いのが特徴である。 乙房神社の田の神や西生寺の田の神などは、鹿児島の農民型の田の神と比べても遜色のない秀作である。神官型では岩満町巣立の田の神が保存状態もよく優れている。 田の神像の分類方法はさまざまあるが、このページは青山幹雄氏の分類に従った。 |
宮崎の田の神 (1) 岩満町の田の神 | |||
宮崎県都城市岩満町 | |||
岩満町巣立の田の神 「年代不明」 | |||
岩満町公民館の田の神 「年代不明」 | |||
都城市岩満町は合併前の都城市の一番北の端で、旧高崎町(都城市高崎町)と接している。岩満町には「都城市史」には3体の田の神が記されている。3体とも神官型である。その内の一体は岩満公民館の庭にある。この田の神は風化がひどく、頭は丸坊主になっていてコンクリートで胴体とつなげられている。像高は約45pである。岩満町の田の神の由来などが「都城市史」に詳しくかかれていて、現在の田の神は大正時代に近くの村からオットイ(盗むこと)してきたものであるという。 「都城市史」には、岩満の田の神は、「田の神田」と山林を財産として所有していて、そこからの益金で村人たちがタノカン祭りの費用を賄ったことや、相互の融資事業をおこなったことなどが詳しく書かれている。 岩満公民館から南へすすみ木之川内川を渡ると岩満町巣立である。その岩満町巣立の北の端、木之川内川近くの民家の前に立派な神官型田の神がある。像高75pで旧都城市の神官型の田の神では最も優れた田の神像である。 正面から見た顔は、小林市新田場の田の神や高崎町谷川のような端正ではなく、下ぶくれでやや野暮ったい感じである。しかし、横顔は引き締まっていて、力強く迫力がある。 小林市新田場の田の神や高崎町谷川の田の神に代表される宮崎県の神官型の田の神の秀作の多くは腰掛け型であるが、この田の神は安座している。しかし、小林市新田場の田の神や高崎町谷川の田の神と同じように、両手輪組ではなく、左右の手に笏などを持たせるようにしていて、古い様式を残す。 |
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宮崎の田の神 (2) 関之尾町の田の神 | |||
宮崎県都城市関之尾町7059 | |||
関之尾の滝で知られる関之尾町には神官型の田の神はなく、「都城市史」には農民型(田の舞型)3体と僧型2体が記されている。ここで取り上げた田の神は僧型で関之尾の自治公民館の庭に祀られている。 舟形の石の中央に大きなメシゲを胸の前でも持つ僧衣をきた田の神を半肉彫りにしたもので、蓮華座の上に立つ。メシゲは顔よりも大きく抱えるように持っている。このような田の神は鹿児島県の日置郡によく見られるもので、宮崎県では珍しい。光背風の舟形の石材や僧衣、蓮華座など地蔵をモデルにしたものと思われる。錫杖をメシゲに替えたため、大きなメシゲなったのではないか。 鹿児島県では入佐の田の神(松元町)や笠ヶ野の田の神が同じ様式である。関之尾の田の神とこれらの田の神との違いは、メシゲを右斜めに抱えることとメシゲが非常に大きいことである。(鹿児島の田の神は左斜めに持ち、先端の楕円形部分がほほ゛顔と同じ大きさ)。 |
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宮崎の田の神 (3) 丸谷町の田の神 | |||
宮崎県都城市丸谷町 | |||
丸谷大年神社の田の神 「年代不明」 | |||
中大五郎の田の神 「文政元(1818)年」 | |||
JR吉都線「万ヶ塚」駅の西一帯が都城市丸谷町である。丸谷町には「都城市史」には9体の田の神が記されている。その内3体が農民型(田の神舞型)で残りが神官型である。丸谷大年神社と中大五郎共同墓地及び下大五郎庚神神社にあり、3体とも像高50cm以下の小像である。その内、下大五郎庚申神社の田の神は顔が大きく破損されている。 丸谷大年神社の田の神と中大五郎の田の神はともにシキをかぶり、メシゲを両手で胸の前で持つ農民型(田の神舞型)の田の神である。丸谷大年神社の田の神は、直立した像にかかわらず、風になびくかのように彫られたボリュームある衣が像に動きをつけ、大きなメシゲを持って踊っている巫女のような雰囲気がある。背中に大きなワラヅトを背負う。記銘はなく制作年代はわからない。 中大五郎の田の神は共同墓地下の地蔵堂の横にある。北に面しているため、顔の表情はわかりにくいが、かがみ込んむようにメシゲを持つこの像は、アフリカ彫刻を思わせるプリミティブな表現の田の神像である。顔に彩色の跡が残る。向かって左側面に「文政元戊寅王」などの文字が刻まれていて、江戸時代後期(文政元年は西暦1818年)の作であることがわかる。 |
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宮崎の田の神 (4) 高木町の田の神 | |||
都城市高木町西高木 | |||
西高木の田の神T 「嘉永4(1854)年」 | |||
西高木の田の神U 「年代不明」 | |||
都城ICの北一帯が都城市高木町である。高木町は環濠集落で壕に沿って車がやっと1台通れる細い外周道路がある。その外周道路沿いに5体の田の神像を確認することができた。その中でも西高木の公園の片隅にある農民型の田の神が優れている。頭をかしげて、右手にメシゲ、左手に碗を持つを持つ田の神で、かぶっているシキが顔より大きい。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。幕末の「嘉永四年(1854)」の記銘がある。 西高木の北東端の外周道路の側で水田を向いている2体の田の神の一体も農民型の田の神で右手にスリコギ、左手にメシゲを持つ。他の3体は安座する神官型の田の神で摩滅が進んでいる。 |
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宮崎の田の神 (5) 上水流町・下水流町の田の神 | |||
上水流の田の神 「宝暦元(1752)年」 | |||
宮崎県都城市上水流町 | |||
下水流の田の神 「年代不明」 | |||
宮崎県都城市下水流町 | |||
大淀川を隔てた高木町の北が、上水流町である。志和池小学校の東が上水流町で、その集落の南の用水路脇に、神官型の田の神がある。太い眉とつり上げた目の特異な顔をした田の神像でる。背面に「宝暦元壬申十二月 田神宮」の記名があり、1752年、江戸時代中期の作であることがわかる。 上水流町の北が下水流町である。下水流町の東には水田が広がっている。その水田地帯の上水流町近くの三叉路に、農民型の田の神が下水流町耕地整理記念碑の横に祀られている。シキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持ち、ワラヅトの代わりに風呂敷のような物を背負っている。西高木の田の神と同じく袴をはく。鼻が欠け後世の補作になっているのが惜しい。 |
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宮崎の田の神 (6) 横市町の田の神 | |||
宮崎県都城市横市町 「天明2年(1782)」 | |||
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宮崎の田の神 (7) 乙房神社の田の神 | |||
宮崎県都城市乙房町馬場 文政九年(1826) | |||
宮崎では神官型の田の神が多いが、鹿児島のようにメシゲや椀、スリコギなどを持った田の神像も鹿児島県と接する都城市やえびの市・高原町にはかなりの数、見られる。鹿児島の田の神舞神職型やメシゲ持ち僧型の影響で造立されたものと思われるが、服装は僧衣や納衣、袴をはいた像は少なく、農夫のような姿が多い。「宮崎の田の神像」(鉱脈社)の著者、青山幹雄氏はこれらの田の神を農民型と分類されている。 宮崎の農民型田の神像を代表する一つが乙房神社の田の神である。JR吉都線「日向庄内」駅の北、乙房保育園の向かいの小さな神社(乙房神社)の社殿横に祀られている。体の四分の一を占める、丹念に彫られた縄目が目立つ、大きなシキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持つ農民型の田の神である。高さは70cm。左頬の一部がかけているのが目立つほどで、保存状態はよい。メシゲは柄が細く、メシゲと言うよりはお玉杓子か団扇のように見える。椀は真上から見た姿を真正面に彫りつけていて、見た目にはボールを持ったように見える。大きな鼻とにっこり笑った顔が魅力的である。赤い彩色跡が残る。「文政九丙応庚 戌十月廿二日」の刻銘がある。1826年、江戸時代後期の作。 |
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宮崎の田の神 (8) 加治屋の田の神 | |||
宮崎県都城市南横市町2056 「安永年間(1772〜1780)」 | |||
南横市町加治屋の加治屋大明神の社殿横に祀られている。コンクリートの台座の上に置かれているが、下半身がコンクリートに埋められているため、持ち物等はわからない。優しそうな目とピンク色に塗られた頬紅と口紅かマッチし、正倉院の鳥毛立女屏風の天平美人を彷彿させる。下半身をコンクリートに埋没しているのが残念であるが、豊壌の神にふさわしい田の神である。 背面に記銘があるがコンクリートに埋められたため「奉」の文字しか確認できなかった。「都城市史」にはこの田の神について「安永□□」の銘文があると記されている。この田の神とよく似た表現の田の神が川東墓地にあり、その田の神には「天明二年(1782)」の紀年銘があるので、安永年間(1772〜1780)に作られたものであろう。 |
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宮崎の田の神 (9) 川東墓地の田の神 | |||
宮崎県都城市下川東4丁目1-1 | |||
川東墓地の田の神T 「天明2年(1782)」 | |||
川東墓地の田の神U 「年代不明」 | |||
都城市街地の北のはずれに市営川東墓地の北の端に、田の神像が8体ほど集められている。多くは破損や摩滅がひどく、稚拙な補修されているものもある。その中でほぼ完全な形に残っているのが、「天明二年」の紀年を持つ農民型の田の神と安座する神官型の田の神である。 農民型の田の神は、シキを麦藁帽子のようにかぶり、右手にメシゲ、左にスリコギ(杵?)を持つ立像である。顔の表情等は加治屋大明神の田の神とよく似ている。背面に「天明二壬寅四月 奉寄進御□」の記銘がある。1782年、江戸中期の作。スリコギ(杵?)を持つ像は都城では珍しいが、えびの市や鹿児島県ではよく見かける。 神官型の田の神は、両手で笏を持ち、安座する。小さな目の親しみやすい顔の田の神像である。谷川の田の神や新田場の田の神の田の神のような威厳はないが、いかにも庶民の神らしい田の神像である。 |
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宮崎の田の神 (10) 上東町の田の神 | |||
宮崎県都城市上東町15 「昭和期」 | |||
都城の市街地、都城総合運動公園の南の上東町の児童公園内に、馬頭観音とともに大黒天と農民型の融合型の田の神がまつられている。大黒頭巾をかぶり、ふくよかな耳で、口を開けて笑う姿は確かに大黒天である。しかし、打ち出の小槌と大きな金嚢(袋)のかわりに、メシゲを持ち、稲穂を背負っている。台座の側面に「學竹留吉彫刻」と制作者、背面に像立年を刻むが、年の所が欠けている。彫刻という言葉から近現代の作であることがわかる。 大黒天は音韻や容姿の類似から大国主命と重ねて受け入れられるとともに、農村では豊作の神として信仰を深めていく、そのため田の神信仰は西日本では大黒天と結びついていった。農民大黒天融合型の田の神は宮崎県では他に、野尻町や高城町・鹿児島県霧島市国分などにみられる。 農民大黒天融合型の田の神は野尻町東吉村に天保年間の像があるが、多くは明治以降の像が多い、この像も昭和期の作と思われる。 |
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宮崎の田の神 (11) 西生寺の田の神 | |||
都城市梅北町西生寺 「年代不明」 | |||
都城市の南部、鹿児島県との県境近い、梅北町西生寺の納骨堂前に農民型の田の神像がある。シキを被り、右足を踏み出し、中腰になって体を前に傾け、右手に椀、左手にシャモジを持ち、袖をひるがえして田の舞を踊る姿を表す秀作である。都城の農民型の田の神の多くは田の神舞を踊る姿を表していると思われるが、ほとんどは棒立ちの姿で表していて、このような動きのあるのは宮崎県では、小林市の松元上の田の神、えびの市の下浦の田の神と高原町の梅ヶ久保の田の神ぐらいて、他には見あたらない。顔は摩滅が激しく、目鼻立ちがさだかではないのが残念である。おそらく、鹿児島県から持ってこられたか、鹿児島の石工が彫ったものであろう。 | |||
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