都城の田の神2
(高崎町、高城町、山之口町、山田町)
 
 平成18年1月1日、都城市は、山之口町、高城町、山田町、高崎町の4町を合併し、新しい都城市となった。合併した4町にも多数の田の神像が見られる。特に高崎町には江戸時代の神官型の田の神が多い。その中で特に優れた田の神は谷川の田の神である。80pを越える大型の腰掛け型の田の神像で、小林市の新田場の田の神とともに宮崎の神官型の代表といえるものである。

 高城町も神官型の田の神が多い。その中でも、保存状態がよく、見事な彩色がほどこされた田の神が、桜木町横手の田の神である。また、高城町には、都城の乙房神社の田の神と同じ様式の農民型の田の神や大黒天型の田の神も見られる。

 山田町には農民型と神官型をあわせたような独自の田の神像が見られ、興味深い。大黒天型の浜之段の田の神とともに古江の田の神など農民神官融合型の田の神をこのページでは取り上げた。
宮崎の田の神 Index
都城の田の神1 都城の田の神2 三股町の田の神 高原町の田の神
小林市の田の神1 小林市の田の神2 小林市の田の神3 えびのの田の神1
えびのの田の神2 宮崎市の田の神1 宮崎市の田の神2  



        
宮崎の田の神 (12) 谷川の田の神
宮崎県都城市高崎町前田谷川  「享保9年(1724)」
 JR吉都線「日向前田」駅、北東700m、外達神社と言う小さな神社の入口付近に道路に面した小さな堂に安置されている。

 黒質の緻密な岩肌の滑らかな石像である。像高85pの衣冠束帯姿の腰掛け型で、新田場の田の神と同じように、右手は軽く握っていて孔をつくっている。左も同じような形だと思われるが、手首から先は欠けてしまっている。切れ長の目と筋の通った鼻(鼻先がかけているのが惜しい)、引き締まった口など端正な顔である。束帯姿の衣服の表現も、両側に振り広げた袖口など写実的で、新田場の田の神と共に、宮崎の田の神を代表する像である。像の背部に「享保九年甲辰 奉建立 助成 高崎中 三月吉日 河野長元坊」の刻銘がある。
 
アクセス
・JR吉都線「日向前田」駅下車。北西1.2q。
自動車・ 宮崎道「高原」ICより南東へ2.3q。



        
宮崎の田の神 (13) 田平の田の神
宮崎県都城市高崎町大牟田田平 「年代不明」
 国道221号線から北東へ80m田平の集落の入口付近の山林の中腹の、水田がよく見渡せる高い所に田平の田の神は祀られている。

 柔和に笑っている顔が印象的な田の神である。腰のあたりまで届く長いシキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持った農民型の田の神である。膝よりしたの足を欠損しているためよくわからないが、膝を立てて座っている様に見える。宮崎県の農民型の田の神を代表する像の一つである。

 「毎年六月の田植終了時は苗が供えられ、秋に祈念祭を行う」と高崎町史に書かれていたが、最近あまり手入れがされていないようで、元旦に訪れたにもかかわらず、御幣やしめ飾りは痛んでぼろぼろになっていて、顔にも苔ががはえ、痛ましい姿になっていた。
 
アクセス
・JR吉都線「高崎新田」駅下車。徒歩orタクシーで北へ2.1q。
自動車・ 宮崎道「高原」ICより南東へ5.9q。



           
宮崎の田の神 (14) 高崎町縄瀬の田の神
縄瀬三和の田の神 「享保11年(1726)」
宮崎県都城市高崎町縄瀬三和
 
縄瀬共和の田の神 「天明五年(1785)
宮崎県都城市高崎町縄瀬共和
 
縄瀬横谷の田の神 「文化6年(1809)」
宮崎県都城市高崎町縄瀬横谷
 キ城1で紹介した、岩満町巣立の田の神のあるキ城市岩満町の北が高崎町縄瀬である。ここには、享保11年(1726)の神官型腰掛像をはじめとして天明年間など古い神官型の田の神が多くある。

 享保11年(1726)の神官型腰掛像は縄瀬三和の菅原神社の参道入口にある。高さ91pの束帯姿の腰掛型の田の神で、両側に振り広げた袖口など衣紋の表現も写実的で縄瀬地区を代表する田の神である。しかし、残念なことに頭部はなく、代わりに五輪塔の空輪・風輪が乗せられている。両手を膝の上で輪組みにし、笏をさすようにしている。「享保十一年午四月吉日 日州諸県郡高崎縄瀬村田之神宮」の記銘があり、この地区の中心的な田の神であったと思われる。秋の菅原神社例大祭のとき御幣が供えられる

 縄瀬共和の縄瀬保育園南上にある田の神は両手輪組の安座姿の神官型田の神で、小型(高さ45p)の素朴な表現の像である。「天明五年(1785)乙巳九月吉日」の刻銘がある。

 縄瀬横谷の田の神も頭部がない神官型の田の神で、高さ60pほどの安座神官型像である。現在、歌舞伎の隈取り風に顔が描かれた卵形の石が頭部にのせられている。訪れたときには卵形の頭に麦わら帽子がかぶせられていた。「文化6年(1809)」の刻銘がある。

 高崎町縄瀬地区には頭部がない田の神像がほかにも見られる。これらは意図的に取られたものではないだろうか。(廃仏毀釈で?)
 
アクセス
・JR吉都線「高崎新田」駅下車。タクシーで南東へ5.7qで三和の田の神。5.6qで共和の田の神。4.7qで横谷の田の神。各田の神の間は2〜3q。

・JR日豊線「都城」駅下車。「都城駅前」より、宮崎交通「小林駅」行きバス乗車「横谷入口」下車、南東へ550mで横谷の田の神。そこから東へ1.3qで共和の田の神。そこから北東へ1.6qで三和の田の神。

・JR日豊線「都城」駅下車。駅より南東徒歩約0.4qで国道269号線沿いの「栄町」バス停。「栄町」バス停より高崎観光バス「炭床」または「ラパス高崎」行きバス(1日6本・土日は3本)乗車、「共和公民館」下車、東1.1qほどで横谷の田の神。「縄瀬小学校」下車、南東200mほどで共和の田の神。「三和公民館」下車、東500mほどで三和の田の神。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより北北西へ約11qで縄瀬横谷の田の神。北へ約10.5qで縄瀬三和の田の神。北へ約11qで縄瀬共和の田の神。各田の神の間は2〜3q。



           
宮崎の田の神 (15) 高城町桜木の田の神
横手の田の神 「宝暦元年(1752)」
宮崎県都城市高城町桜木横手
 
桜木の田の神 「文政12(1829)」
宮崎県都城市高城町桜木
 宮崎自動車道のキ城インターの南東にある集落が桜木横手である。桜木横手の東の端、花之木川沿いの菅原天神の入り口に宮崎県の田の神の中で最も見事な彩色がなされている田の神がある。 神官型の田の神で高さ70pで両手を輪組にし安座する。衣裳は赤と黒、顔や手は白く塗られ、目と眉がくっきりと描かれている。「文政十二(1829)年五月奉建立御田神」の銘文がある。

 田の神像の横に小さなコンクリートの碑があり、平成元年に宮田チカ宅から移転奉納されたことが銘記されている。長い間、室内で祀られていたため、風化や破損がなく目鼻の彫りも完全に残っていて、鮮やかな彩色・化粧とあいまって、みすみずしいほど美男の田の神である。頭髪と冠を黒くぬり、衣裳は襟元と中央部を黒で残りを赤で塗っているため羽織を着た相撲取りのように見える。

 桜木の中心となる集落はキ城インターの北東にある。その集落にある将軍神社の入り口にも彩色された田の神がある。高さ67pの両手輪組の神官型田の神で腰掛け型の田の神であるが膝から下が地中に埋められている。像の後ろに彩色したと思われる年月日が書かれていて、訪れた時は平成18年11月4日が一番最新の日付であった。
 
アクセス
・JR日豊線「都城」駅下車。「都城駅」バス停より、高崎観光バス「雀ヶ野」またぱ「本八重・平八重」行きバス乗車(1日8本・土日は3本)「桜木」下車。南へ350mで桜木の田の神。桜木の田のから南へ1.1qで横手の田の神。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより北東へ2.1qで桜木の田の神。桜木の田のから南へ1.1qで横手の田の神。



            
宮崎の田の神 (16) 穂満坊の田の神
都城市高城町穂満坊前田 「天明2年(1782)」
 国道10号線の「高城町穂満坊」交差点の北西、穂満坊前田の集落の外れにこの田の神像はある。現在コンクリートの台石に腰まで埋めこまれている。このようにセメントでしっかりと固定された田の神は高城町ではよく見かける。田の神像のオットイ(盗むこと)がよくおこなわれたためそれを防ぐためである。

 像高45pでシキをかぶり、右手にメシゲを立てて持ち、左手に椀を持つ農民型の田の神である。椀は、真上から見た姿を真正面に彫りつけていて、見た目にはボールを持ったように見える。キ城やその周辺でよく見かけるキ城型といってもよい田の神の姿である。シキとメシゲ・椀は黄色く着色され、衣裳には赤い彩色の跡が残る。旧高城町の指定の有形文化財。
 
アクセス
・JR日豊線「都城」駅下車。「都城駅」バス停より、高崎観光バス「雀ヶ野」またぱ「本八重・平八重」行きバス乗車(1日8本・土日は3本)「穂満坊」下車。南西へ450m。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより北北東へ4q。



           
宮崎の田の神 (17) 高城町石山の田の神
高城町穂満坊の北が高城町石山で石山地区には6体の田の神像がある。その内一体が農民型で他は神官型である。
 
石山片前の田の神 「年代不明」
宮崎県都城市高城町石山片前
 石山片前の水路脇に水田の方に向かって座している石山片前の田の神は像高1mの腰掛型の神官像である。堂々とした姿から江戸時代の中期の作と考えられる。顔は摩滅し目と口の穴が残るだけである。また、輪組みした手の部分や袂も破損している。青山幹雄著「宮崎の田の神像」によると、石山地区と豊満地区(旧都城市)との間で田の神盗みあいがが盛んでその時傷ついたものであるとのこと。 Google Earthで確認してみると、現在は赤や白できれいに彩色されていて見違えるようになっている。
 
石山中方の田の神 「年代不明」
宮崎県都城市高城町石山中方
 石山中方の菅原神社にある神官型田の神も立派なもので像高1mを越える。現在木製の祠に祀られている。束帯姿で手は輪組である。腰掛け型ではなく台座の上に安座する。束帯は赤く彩色した跡が残る。この像も石山片前の田の神と同じように顔は大きく破損摩滅している。この2つの像の顔の破損は自然に摩滅したというよりは意図的に削り取られたような印象をうける。
 
石山萩原の田の神 「年代不明」
宮崎県都城市高城町石山萩原
 石山萩原の北の外れに小さな農民型の田の神像がある。この像も穂満坊の像と同じキ城型で右手にメシゲ、左手に碗を持つを持つ。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。シキと衣裳は赤く着色され、メシゲと椀と顔は白く塗られている。小さな眼とおちょぼ口がかわいい。コンクリートの台石に腰まで埋めこまれているが、台座が白く塗られているため、穂満坊の田の神に比べれば違和感はあまりない。
 
石山迫の田の神 「年代不明」
宮崎県都城市高城町石山迫
 石山迫の田の神は石山迫の集落の北の上園権現という小さな神社の入口に祀られている。神官型座像の田の神で御所人形を思わせる丸顔である。両手を輪組にする。摩滅も少なく目鼻立ちはっきりしている。掛緒に着色の跡が残る。
 
アクセス
・JR日豊線「都城」駅下車。「都城駅」バス停より、高崎観光バス「雀ヶ野」またぱ「本八重・平八重」行きバス乗車(1日8本・土日は3本)「観音寺口」下車、南へ300mで片前の田の神。
・中方の田の神は「石山」下車、西へ500m。片前の田の神からは北北西へ徒歩1.8q。
・萩原の田の神は「香禅寺」下車、西へ1.5q。中方の田の神からは北西へ徒歩1.3q。
・迫の田の神は「観音寺口」下車、北東へ徒歩1.1q。または「観音さくらの里」下車、北へ約1q。中方の田の神からは北東へ徒歩1.4q、片前の田の神へは北北西へ徒歩1.5q。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより北へ、5.6qで片前の田の神、6.9qで迫の田の神、7.3qで中方の田の神、8.6qで萩原の田の神。



        
宮崎の田の神 (18) 有水西久保の田の神と庚申石祠
宮崎県都城市高城町有水西久保 
有水西久保の田の神 「明治28(1895)年」
 
有水西久保の庚申石祠 「慶安元年(1648)」
  有水西久保にこの田の神と庚申碑がある。田の神は像高90の神官型田の神で、両手を輪組した安座型の田の神である。確認できなかったが宮崎県史によると「明治二十八(1895)年三月十八日」の銘文があるという。顔は摩滅して鼻は欠けている。

 隣に立つ庚申碑は石祠造りで屋根は千鳥破風入母屋型で、基壇に三猿を、石祠の正面両脇に香炉を持つ童僧を肉彫りする。石祠の中にはショケラの髪をつかむ青面金剛が半肉彫りされている。非常に珍しい精巧な庚申塔である。同じような石祠造りの庚申塔は高城町石山にもみられる。旧高城町の指定の有形文化財文化財で慶安元年(1648)の造立。
 
アクセス
・JR日豊線「都城」駅下車。「都城駅」バス停より、高崎観光バス「雀ヶ野」またぱ「本八重・平八重」行きバス乗車(1日8本・土日は3本)「有水」下車。西へ徒歩1.9q。
・JR日豊線「山之口」駅下車。「山之口駅」より高城地区コミュニティバス「
自動車・ 宮崎道「都城」ICより北北東へ4q。


        
宮崎の田の神 (19) 正近の田の神
宮崎県都城市山之口町富吉正近 「年代不明」
 「弥五郎どん祭」で知られた山之口町富吉の園野神社の参道近くの農道に面した田の中に正近の田の神像がある。典型的なキ城の農民型の田の神で和服で袴をはき、シキをかぶり、右手でメシゲ、左で椀を持つ。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。

 シキと袴、目と眉は黒く塗り、着物は赤に着色している。同じ様式の高城町萩原や高城町穂満坊の田の神と同じく江戸時代の作と思われ。
 
アクセス
・JR日豊本線「山之口」駅下車。南約1.9q。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより東南東へ約7q。


        
宮崎の田の神 (20) 山田田中の田の神
宮崎県都城市山田町山田田中
田中の田の神 「享保14年(1729)」
 
下中の田の神 「明治28(1895)年」
  旧山田町の田中に享保14年(1729)の刻銘を持つ田の神像がある。両手とも手首から先は欠けてしまっていて、持ち物等はわからない。神官型の田の神像と思われるが、衣装は衣冠束帯や狩衣姿ではない。肩に当世袖のようなものをつけていて鎧姿にも見える。

 田中の田の神から川を隔てた南に、小さな農民風(僧職型?)の田の神、下中の田の神がコンクリートの祠に祀られている。笠状のものを被り、両手を前で合わせているが何も持たない。彩色の跡が残る。
 
アクセス
JR吉都線「東高崎」駅下車。南西へ約1.3qで田中の田の神。田中の田の神から南へ0.2qで下中の田の神。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより北西へ約11.5q。


        
宮崎の田の神 (21) 浜之段の田の神
宮崎県都城市山田町山田浜之段  「昭和37(1962)年」
 浜之段の墓地に大黒天風の田の神像がある。平べったい大黒頭巾をかぶり右手に大きなメシゲを持ち、左手で稲穂を金袋のように背負う。都城の上東町の田の神とよく似た表現の像で、昭和37年の刻銘がある。
 
アクセス
・JR日豊本線「都城」駅下車。「都城駅前」より「やまだ温泉・山田」方面行きバス乗車(1日4本)。「山田中学校前」下車。徒歩で西北西に1.3q。
・「都城」駅よりタクシーで12.6q。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより西北西へ約11.2q。


        
宮崎の田の神 (22) 池ノ原の田の神
宮崎県都城市山田町中霧島  「嘉永7年(1854)」
 山田町には神官型と農民型を融合したような独特の田の神像が何体かある。その一つが池ノ原の田の神である。瓜実顔で頭部は一見、シキを被っているように見えるが、よく見ると頭上には髷か冠の額のようなものを載せている。享保14年の田中の田の神と頭部はよく似た表現である。胴体部の表現は田中の田の神と比べると稚拙で角張った抽象的な表現になっている。背後に嘉永7年(1854)の刻銘がある。
 
アクセス
・JR日豊本線「都城」駅下車。「都城駅前」より「やまだ温泉」方面行きバス乗車(1日3本)、「池ノ原」下車。徒歩で西北西に1q。
・「都城」駅よりタクシーで14q。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより西北西へ約12.9q。


        
宮崎の田の神 (23) 古江の田の神
宮崎県都城市山田町中霧島古江  
神官農民融合型の田の神 「嘉永7年(1854)」
農民型(僧型)の田の神 「大正6年(1854)」
 古江の田の神も山田町独自の神官型と農民型の融合型の田の神である。瓜実顔の顔は肌色に見事に彩色され、布製の白い羽織のようなものを着せられている。背後に池原の田の神と同じ嘉永7年(1854)の刻銘がある。

 また、少し離れた場所には大正6年に建立された小さな農民型の田の神がある。大きな笠のようなシキを被り、右手でメシゲ、左手で宝珠を持つ。青山幹雄「宮崎の田の神」の記述に従って農民型としたが宝珠を持つので僧型としたほうがよいのではないだろうか。
 
アクセス
・JR日豊本線「都城」駅下車。「都城駅前」より「やまだ温泉」方面行きバス乗車(1日3本)、「池ノ原」下車。徒歩で北西に0.5q。
・「都城」駅よりタクシーで12.9q。
自動車・ 宮崎道「都城」ICより西北西へ約11.9q。


都城の田の神1  三股町の田の神