小林市の田の神2 |
このページは霧島連山の麓の小林市の南部から西部の細野地区・南西方地区の田の神を紹介する。細野地区・南西方地区にも享保年間の田の神が目立つ。「南島田の田の神」(享保7年)・「中孝の子の田の神」(享保7年)・「桧坂の田の神」(享保10年)・「東大出水の田の神」(享保10年)などの神官型・僧型の田の神がそれである。 中でも「南島田の田の神」・「中孝の子の田の神」は「仲間の田の神」と同じ石工、毛利七右衛門の作である。残念なことにこれらの田の神は風化や痛みがひどく完全な姿ではなく、「中孝の子の田の神」・「東大出水の田の神」は別の頭部がつけられている。 またこの地域は農民型・僧型の田の神も多くあり、素朴でユニークな「人参場の田の神」「西大出水の田の神」「夷守の田の神」などがある。これらの農民型の田の神の中には明治以降の造立も見られる。 |
宮崎の田の神 Index |
宮崎の田の神 (49) 南島田の田の神 | |||
宮崎県小林市細野字島田前 「享保7年(1722)」 | |||
南島田の田の神は島田前のガソリンスタンドの南隣の林の中、ブロックで作られた祠に祀られている。(現在はガソリンスタンドはなくなっている。)江戸時代の神官型座像の田の神で両手を膝の上ではなく、胸元で輪組みする。装束は赤と黒、面長の顔と手は白で化粧(彩色)されている。訪れた時は雑な化粧で口の周りに黒い絵の具の跡が残っていた。ブロックの壁で見られなかったが、像の背に「享保七壬寅天」の紀年、「御神普守護所」の造立趣旨、「彫者毛利七右衛門」の石工名の刻銘があるという。 | |||
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宮崎の田の神 (50) 桧坂の田の神 | |||
宮崎県小林市細野字中島 「享保10年(1725)」 | |||
細野小学校の北400mの四差路を右折してすぐの道路脇に瓦葺きの立派な祠があり、その中に桧坂の田の神は祀られている(撮影した時は現在ある場所から東80mの場所に祠と田の神はあった。)。像高81pの神官型座像の田の神で、両手は輪組をする。装束は赤と白、顔は白、頭と笏は黒に化粧されている。笏は胴体部に彫りつけている。「享保乙己」の刻銘があり、享保十年(1725)の造立。現在の安置されている住所からH31年に新しく発刊された「小林市の田の神さぁ」では「水落(みずおとし)の田の神」となっている。 | |||
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宮崎の田の神 (51) 湾津の田の神 | |||
宮崎県小林市細野字湾津 | |||
湾津の田の神は撮影した時は、市の上水道浄水場の前、県道に面しておかれていた(現在は東に130m程離れた用水路沿いに移設されている。)。 像高77pの神官型座像の田の神で両手は膝の上で輪組をしていると思われるが、コンクリートで補修しているため確認できない。頭部は体に比べると大きいが、これもコンクリートでの補修である。顔だけが白く塗られている。 | |||
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宮崎の田の神 (52) 山中の田の神 | |||
宮崎県小林市細野字山中今坊 「明治22年(1889)」 | |||
家畜改良センター宮崎牧場の東の細野山中の広域農道沿いに山中の田の神はある。農民型の田の神でシキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持ち、中腰ですねから下を丸出しにして立つ。えびの市などでよく見かける姿の田の神である。2回目に訪れた時は立派な祠に祀られていた。明治22(1889)年の造立。 | |||
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宮崎の田の神 (53) 夷守(ひなもり)の田の神 | |||
宮崎県小林市細野字中夷守 「平成15年(2003)」 | |||
県道104号線の霧島岑神社の参道入口から北に進み、一つ目の三叉路を右に曲がった突きあたりの右側に夷守の田の神は鎮座している。像高77pの農民型の田の神で片膝をついて座り、大きな笠(シキ?)を被り、ついた膝の上で左手で腕を持ち、右でメシゲを持つ。御影石で彫られた像で一見して新しい像であることがわかる。横に建つ記念碑で平成10年〜平成13年にかけての圃場整備事業の完成を記念して地域の発展と豊作を願い造立したものであることがわかる。宮崎の農民型の田の神は明治以降に彫られたものが多く、この田の神のように平成になって造立されたものも見られる。 | |||
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宮崎の田の神 (54) 加治屋の田の神 | |||
宮崎県小林市細野字加治屋堂ノ本 「年代不明」 | |||
加治屋公民館前の小山にある覆い堂の中に祀られている。冠をかぶり両手を輪組にして笏を持たせるようにした像高73pの神官型座像の田の神で、装束はベンガラ色と黒、冠は黒、顔は白・黒・赤で化粧している。そばを流れる用水路は、延宝2年(1674)に新田開発のために作られた出の山溜池から、周辺の水田に水を供給している。田の神像は様式等から用水路が引かれた時の建立とは考えにくい。 | |||
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宮崎の田の神 (55) 中孝の子(なかこうのこ)の田の神 | |||
宮崎県小林市南西方字堂田 「享保7年(1722)」 | |||
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宮崎の田の神 (56) 今別府の田の神 | |||
宮崎県小林市南西方字小田方 「享保16年(1731)」 | |||
県道53号線沿いにある消防団詰所の敷地の裏のコンクリート製の覆屋の中に祀られている。高さ12pの矩形の台座の上に座す像高64pの神官型田の神である。烏帽子をかぶり両手を組んでいる。現在は化粧していないが衣装に朱色が薄く残っている。背面に「五ヶ村 享保十六年二月吉日」の刻銘がある。 | |||
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宮崎の田の神 (57) 東大出水(ひがしおいでみず)の田の神 | |||
宮崎県小林市南西方字芹川山 「享保10年(1725)」 | |||
宮崎県の田の神の中には頭部が壊れたのか意図的に壊されたか頭部が付け替えられてのがよく見られる。中孝の子の田の神のように僧型の胴体の上に神官の頭部を載せたものや縄瀬三和の田の神のように五輪塔の一部を載せたもの、歌舞伎の隈取り風に顔が描かれた卵形の石が乗せた縄瀬横谷の田の神など様々である。その中でも特にユニークなのは東大出水の田の神である。神官型の田の神に仁王像の頭を後に継いだもので、帽子のような笠?(冠)をかぶる。田の神像では珍しい厳めしい顔の像である。 東大出水の田の神は南西方の芹川山地区の田畑の畦に祀られていて、よく見かける神官安座型ではなく宮崎の田の神を代表する「新田場の田の神」や「谷川の田の神」と同じ神官腰掛け型の田の神である。像高80pでその三分の一が頭部で不自然に体躯に比べると大きく一見して後で継いだことがわかる。背面に「享保十乙巳天 寄進進大御支配 十月吉日」の刻銘がある。 |
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宮崎の田の神 (58) 西大出水(にしおいでみず)の田の神 | |||
宮崎県小林市南西方字大出水 「年代不明」 | |||
西大出水の田の神は大出水の集落の北のはずれにコンクリートの祠の中に祀られている。旅僧姿をした像高56pの田の神座像で、笠のような物をかぶっている。両手は軽く膝の上へのせ、何も持たない。鼻は後世の補作であるが素朴で穏やかな顔が印象に残る。胴体は朱塗りで、顔には白粉を塗ったあとがある。 | |||
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宮崎の田の神 (59) 上芹川(かみせいこう)の田の神 | |||
宮崎県小林市南西方字巣の浦 「年代不明」 | |||
上芹川の田の神は芹川の南東のはずれの三叉路のコンクリートブロックの祠の中に祀られている。頭巾のようなシキをかぶり、右手でメシゲをかざし、左手は膝の上に置く。目鼻立ちは風化してわからない。胸の部分に「南無阿弥陀仏」と彫ってあり、神でありながらも仏を思わせる姿である。像高69p。 | |||
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宮崎の田の神 (60) 人参場((にんじんば)の田の神 | |||
宮崎県小林市南西方字鬼塚 「昭和3・4年頃」 | |||
県道53号線沿いにある西小林保育園と保育園を経営する願正寺があり、そこから直線距離で東へ250mの水田地帯の農道の側に人参場の田の神が鎮座している。ベレー帽のような頭巾(シキ?)をかぶった素朴な表現の農民風の田の神像で、手は欠損している。像高70pである。奉納者として「藤崎道ノ助」の名前があり、首には接いだ跡がある。昭和3・4年頃の建立という。 | |||
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