三股町の田の神 |
三股町の中心地は都城市の市街地が接していて市街地は一体化しているが、平成の大合併の時、北諸県郡で三股町だけ都城市と合併しなかった。三股町も都城市と同じように神官型の田の神と農民型の田の神か共に見られる。三股町の農民型の田の神として田上の田の神、長原の田の神、上小石の田の神を取り上げたが、田上の田の神以外は明治以降の造立で、三股町の田の神は神官型が中心といえる。 |
宮崎の田の神 Index |
宮崎の田の神 (24) 田上の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町長田2413 「年代不明」 | |||
JR日豊本線「餅原」駅の南東約1.4q。県道47号線から10mほど西へ入った村の入口に小さなお堂があり、そこに安置されている。格子がはめ殺しなっているため、全身の写真を写すことができない。 シキをかぶり、右手にメシゲを、左手に椀を持つ、典型的な農民型立像の田の神である。シキと衣服は茶色に彩色し、顔を白塗りにする。穏やかな顔で、宮崎県の農民型の田の神の秀作の一つである。 |
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宮崎の田の神 (25) 迫間の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町餅原74 「年代不明」 | |||
迫間の田の神は田上の田の神の西1q、JR日豊本線「餅原」駅からは南約1qにある餅原納骨堂の敷地内の立派な祠の中に祀られている。城下や徳枡の田の神と同じく、神官座像型の田の神で、装束が三角や四角の角張った抽象的な表現になっている。手の組み方は、珍しい、右手が上、左手が下の上下輪握りである。本来、笏を持たすための輪組と思われるが、現在は大きなメシゲを持たせている。 | |||
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宮崎の田の神 (26) 徳枡の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町餅原1012 「文久元年(1861)」 | |||
町営勝岡住宅に向かう坂道の途中には馬頭観音とともに、神官座像型の田の神が祀られている。毎年、化粧直しをしているようで、赤と青・白・黒で見事に彩色されている。城下の田の神と同じく角張った抽象的な造形であるが、胴体部分は三角ではなく四角形になっている。「文久元年 勝岡」の刻銘がある。文久元年は1861年。 | |||
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宮崎の田の神 (27) 城下の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町蓼池1036-2 「年代不明」 | |||
県道12号線から蓼池方面へ抜ける道の脇にある城下の田の神も彩色施された田の神で、像高90センチほどの神官座像型の田の神である。装束が三角や四角の角張った抽象的な表現になっている。牡丹の花が彫られた台座の上に乗っているが田の神像に比べてアンバランスで今にも台座から落ちそうであった。Google Earthで確認してみると、現在はコンクリート製の台座にのっている。城下の地名は田の神の東にあった勝岡城からきていると思われる。 | |||
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宮崎の田の神 (28) 野中の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町蓼池 | |||
野中の田の神は蓼池の集落の東の水田地帯の用水路脇の簡素な覆屋の中に祀られている。像高70pの神官腰掛型の田の神像である。両手を膝の上で輪組している。冠をとめるための紐(掛緒)が丁寧に彫られている。都城市高城町の石山迫の田の神とよく似た表現の田の神である。全体に白く彩色されていて装束の一部と掛緒と唇は赤に、腰から垂らした紐は青に塗られている。 | |||
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宮崎の田の神 (29) 上小石の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町樺山 | |||
谷地区の堂領池の西側の土手に水神碑とともに立っている。右手にメシゲを立てて持ち、左手に椀を持つ農民型の田の神である。椀は、真上から見た姿を真正面に彫りつけていて、見た目にはボールを持ったように見える。このような椀の表現の田の神はキ城でよく見られるが、乙房神社の田の神など他の田の神と違ってシキが笠状になっている。 造立時期についててはについては後ろに写っているのが水神碑に明治8年の刻銘があることからこの田の神の作成時期も その頃ではないかと推定できる。 |
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宮崎の田の神 (30) 長原の田の神 | |||
宮崎県北諸県郡三股町長田長原 「大正6年(1917)」 | |||
三股町長田の椎八重公園の南西500m付近の田んぼの畦道に祀られている田の神である。夏になれば草で隠れしまいそうな高さ35cmの小さな田の神像である。 シキをかぶり、右手にメシゲを、左手に椀を持つ、農民型座像の田の神である。左肩辺りに「大正六年 森田貞則 建設」の刻銘がある。ふっくらとした穏やかな顔の田の神で親しみが持てる。背後の田んぼは訪れたときにはキャベツ畑になっていた。 |
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