小林市の田の神1 |
宮崎県の田の神は、鹿児島のようなメシゲを持つ農民型も見られるが、神官が正装して神前に座る姿で表した神官型や、僧衣を着た仏僧型が多いのが特色である。その神官型と仏僧型の最も古い作例が小林市にある。それが「新田場の田の神」(神官型)と「仲間の田の神」(仏僧型)である。ともに享保年間の記銘があり、彫りも優れ、宮崎を代表作する田の神像である。小林市は神官型が多いが農民型の田の神もある。その中でも田の神舞を舞う「松元の上の田の神」はユニークで動きのある像で見応えがある。この度、「小林市の田の神」をリニューアルするに当たって田の神像の名前を「小林市の田の神さぁ」(H19 小林市教育委員会刊)に合わせた。数体の田の神を追加したため「小林市の田の神」を「小林市の田の神1」と「小林市の田の神2」に分けて掲載することにした。また「野尻町の田の神」を「小林市の田の神3」とした。「小林市の田の神1」は上記にあげた田の神像をはじめとした旧小林市の真方地区・東方地区・堤地区・北西方などの旧小林市の北部から東部の田の神を取り上げることにした。 |
宮崎の田の神 Index |
宮崎の田の神 (39) 新田場(しんでんば)の田の神 | |||
宮崎県小林市真方字新田場 「享保5年(1720)」 | |||
田の神像はシキを被りメシゲを持ったものだけでなく、笏を持った衣冠束帯や直衣・狩衣の神官(神像)姿の田の神もある。これらの田の神は制作年代も古く、江戸時代中期にさかのぼる。神官型は宮崎から始まったと言われていて、その代表といえるのが「享保5年(1720)」の刻銘がある小林市の新田場の田の神である。 木造の覆堂に、牡丹の花が彫られた見事な台座の上に、椅子のようなものに腰かけた衣冠束帯の神官姿の丸彫りの田の神が祀られている。右手は軽く握っていて、指の間にものを差し込むように穴があいている。左も同じような形だと思われるが、手首から先は欠けてしまっている。 田の神の魅力のは農民型に代表される素朴さにあると私は思っていたが。上品で優美な像なこの田の神を見たとき、私のそのような認識を改めざるえなかった。1月初旬に訪れたときには、白塗りの顔とともに、衣服はピンクに台座は水色とピンクにあざやかに彩色されていた。 |
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宮崎の田の神 (40) 二原(にわら)の田の神 | |||
宮崎県小林市真方字北二原 「大正8年(1919)」 | |||
東方二原(にわら)の二原土地改良区事務所の北に小さな祠の中に祀られている。仏僧型の田の神でベレー帽のような丸い頭巾をかぶり、左手で稲穂の束を持ち、右手を受け手にした田の神である。着物と稲穂は朱色に顔と手足、胸元は白に彩色する。稲穂を持つところや丸い頭巾などはキ城市の上東町や山田町浜之段などの大黒天混合の田の神と共通する。しかし、顔は写実的な庶民の顔である。なで肩で穏やか表情が印象的である。 基壇に「二原開田」と、背面に「大正八年四月六日 二原開田 記念祝賀会當日建立 永友繁蔵」と刻まれている。田の神像にはこのように開田記念としてつくられたものがよく見かけられる。(高原町の鷹巣原や並木の田の神など) |
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宮崎の田の神 (41) 仲間の田の神 | |||
宮崎県小林市東方3451 「享保7年(1722)」 | |||
国道265線から「陰陽石」に入る道の入口の覆堂にこの田の神がある。向かい合った唐獅子が浮き彫りにされた台座の上に、大きな大黒帽をかぶり袖の長い僧衣を着て、立つ田の神像を丸彫りする。 手は新田場の田の神と同じように指の間にものを差し込むように穴があいていて、右手には御幣をかざし、左手に竹製のメシゲのような杓子を持っている。衣服と帽子と台座は濃い紅に塗られていて、白塗りにの顔は黒い墨で目鼻が描かれている。顔の彫りは墨で描かれた目鼻口が目立ちわからないが、体躯、台座の彫りはすばらしい。 背面には「享保七壬寅 三月吉日」の紀年銘、「毛利七右衛門」の石工名などの刻銘がある。ペンキによる化粧直しが多い中、この田の神は現在もベンガラを使用した化粧直しが行われている。宮崎県の仏像型・僧型の田の神の代表といえる田の神像である。 |
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宮崎の田の神 (42) 陰陽石と田の神 | |||
宮崎県小林市東方6081 | |||
浜瀬川岸に、高さ17.5mの自然現象で出来た男根の形をした岩と、周囲5.5メートルの女陰の形をした岩があり、「陰陽石」と称されている。 その陰陽石を正面に見る下手の川岸に覆屋を設けて、田の神石像を100基ほど展示している。ほとんどか高さ30p前後の農民型の田の神である。(その中で気にいった田の神の写真を2点、載せた。)また、他に性を表現した石像も数点、展示している。 性に関するものを集めた有料の展示室もあり、現在は性を売り物にした観光地といった感があるが、もともと陰陽石も田の神や道祖神と同じく生産、豊穣の神として信仰されたもので、農民の素朴な信仰から生まれたものである。(農民型の田の神の中には後ろから見ると男性のシンボルに見えるものが多い。) |
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宮崎の田の神 (43) 大丸(おおまる)の田の神 | |||
宮崎県小林市東方字黒土田 | |||
東方郵便局の南の田園地帯の農道の交差点に祀られている。像高76pで、片膝をついて座り、右手にメシゲ、左手に碗を同じ高さで持つ。笠のような物をかぶり、裁付袴をはき、蓑のを肩にかけた農民姿の田の神である。おちょぼ口で団子鼻、垂れぎみの切れ長の目と独特の顔をしている。 建立年は不明。風化や摩滅が見られず、近代の作のように見える。田の神の隣には大丸地区の開田碑(昭和36年2月17日に大丸土地改良区により建立)が立っているが田の神についての記述はない。田の神像には開田記念として作られることが多いので、大丸地区の開田が始まった弘化年間(1844年〜1847年)の建立かもしれない。 |
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宮崎の田の神 (44) 下の平(したのひら)の田の神 | |||
宮崎県小林市水流迫(つるざこ)字下の平 「昭和8年(1933年)」 | |||
下水流迫自治公民館の広場にある覆堂自然石の馬頭観音と一緒に鎮座している田の神である。 像高56pの神官型座像の田の神で、赤と黒で白で化粧されている。三角や四角の角張った表現で、両手は輪組をする。昭和8年に水流迫地区の開田を記念して建立さた。隣接する小林市野尻町三ケ野には水流平(つるのでら)の田の神や佐土瀬の田の神など、同じような表現の神官型座像の昭和初期に作られた田の神がある。これらの像はメシゲを両手で持っていて、下の平の田の神も笏ではなくメシゲを持たしていたのかもしれない。 | |||
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宮崎の田の神 (45) 松元の上の田の神 | |||
宮崎県小林市堤字松元の上 「弘化3年(1846)」 | |||
宮崎県の農民型の田の神の多くは明治以降の作で、動きの少ない棒立ち、もしくは正面を向いた膝をかがめた姿の像がほとんどである。しかし、数少ない宮崎県の江戸時代の農民型の田の神の中にはいかにも田の神舞を踊っているとわかる動きのある像が何体かある。その中でももっとも動きがあるユニークな像がこの松元の上の田の神である。 シキをかぶり、右手にメシゲをかざし、左手に枡を抱いて、野良着を着て、両足を丸出しにして、右足をやや踏み出し、地べたにつきそうなほど、低い姿勢でかがみ田の神舞を踊る田の神像である。弘化3年(1846)7月の記銘がある。 |
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宮崎の田の神 (46) 柏木の田の神 | |||
宮崎県小林市堤字柏木の上 「年代不明」 | |||
柏木の田の神は小林市の南、高原町との境、「下堤」バス停の南西、集落の西の端の小さな祠に祀られている。 神官型座像の田の神で両手は輪組をする。装束と頭は赤と黒で、手と顔は白で化粧されている。顔は切れ長の目に眉、上品な口で、穏やかな気品のある田の神像である。江戸時代の作と思われるが刻銘もなく由来などは不明である。訪れ時は夕日があたり輝いていた。 |
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宮崎の田の神 (47) 大久保の田の神 |
宮崎県小林市北西方字大久保 「年代不明」 |
JR西小林駅から北へ150m、住宅街を抜けた右側の瓦葺きの覆堂に祀られている。像高80cmの神官型座像の田の神で両手を上下に合わせて、笏を持たせるようにしている。衣装全体をベンガラで赤く彩色している。手と首に白い彩色が残るが顔の白い彩色はほとんど残っていない。冠や烏帽子を被っているようには見えず、別の頭部が付けられているかのように見える。 |
宮崎の田の神 (48) 橋谷の田の神 |
宮崎県小林市北西方字橋谷 「年代不明」 |
国道221号線、三本松バス停近くの交差点を南西850mへしばらく行くと道路沿い橋のガードレール先に「耕地供全の碑」とともに並んでいる。像高75pの神官型座像の田の神で右手に丸い団子状のものを持つ。左手は軽く握っていて、指の間にものを差し込むように穴があいている。以前は笏を持っていたという。烏帽子を被った頭部は瓜実顔でがっしりした体格と対照的である。顔は摩滅が進んでいて、鼻は補修されている。 |