令和6年8月30日 撮影 近くの田園地帯にて | |
アマサギ | |
セイタカシギ以外にアマサギも撮影しました。アマサギは5年ほど前までは田植えの頃からよく見かけたサギでしたが、ここ数年はこの田園地帯ではほとんど見かけませんでした。この日は水の張った休耕田に13羽いました。最初、見た時はコサギの群れと思ってカメラを向けました。 | |
アマサギの群れは2つに分かれていて。最初に写した右の群れのサギは橙黄色の部分はなく、幼鳥or冬羽でした。コサギと思ってカメラを向けたのですが、嘴が橙黄色なのでコサギでないことがわかりました、チュウサギかなとも思ったのですか、チュウサギは今まで群れで見たことはなく、左の群れを撮影してようやくアマサギということがわかりました。 | |
左の群れは8羽で、3羽が夏羽のアマサギで頭部と胸が、きれいに生えそろっていませんが橙黄色です。残りの5羽は幼鳥or冬羽です。 | |
軽トラが通ったためアマサギの群れが急に飛び立ちました。カメラの設定を変える暇はなく、飛び立つ姿はピンボケ写真になりました。 |
令和6年8月30日 近くの田園地帯にて | |
セイタカシギ・コサギ・ケリ | |
迷走台風が近づいているのですが、今日は薄曇りでそれほど強い風も吹いていないので、チドリ・シギを撮影しようと近くの田園地帯に行きました。毎年8月末から9月にかけてこの田園地帯でいろいろなチドリ・シギを撮影しているので、期待して出かけました。すると、期待どおり水の張った休耕田にセイタカシギがいました。1羽だけでしたがこの水田地帯では2年ぶりのセイタカシギです。(セイタカシギはシギ科でなくセイタカシギ科ですが) | |
コサギもいました。 | |
ケリの群れもいました。 |
令和6年8月29日 自宅より | |
カワラヒワ・イソヒヨドリ | |
雨の止み間に外に出てみると、カワラヒワの鳴き声が聞こえました。見上げるとカワラヒワが自宅前の電線に2羽いました。慌ててカメラを撮ってきて撮影してみると、カワラヒワの幼鳥でした。 | |
カワラヒワが去ったあと、自宅の斜め向かいの会社の寮の非常階段にイソヒヨドリがいるのを見つけました。カメラを向けるとの電線にとまりました。 | |
令和6年8月28日 奈良市内の石仏(1) 頭塔2 |
頭塔北面の石仏 |
如来三尊像(弥勒如来) |
七段の階段状の石組みの四方の一段目中央には大型の如来三尊像の浮き彫り像が配置されている。四体とも如来座像の中尊と座像または半跏像・立像の両脇持からなる三尊で、上方に宝相華の天蓋と飛雲を配し、群来のある蓮華座で、宝相華の飾りをつける。中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻む。四方の大型如来三尊の中尊はそれぞれ東は多宝如来、西は阿弥陀如来、北は弥勒如来、南は釈迦如来と考えられる。 北面の一段目中央の如来三尊は中尊如来座像は二重円光背を背負って、左手を上げて掌を開き、右手を垂下して右膝で掌を伏せる印相で弥勒如来と考えられる。頭光を付けた両脇持立像は腰を左右に捻った優美な姿である。 |
如来及両脇侍二侍者像 |
北面の第三段の中央の石仏は、楼閣に背にして、右手を施無畏印、左掌を左膝に伏せた中印相で蓮華上に坐す如来像を中心に左右に如来に向けて坐す菩薩像と合掌礼拝する侍者像(菩薩像)を彫った浮き彫り像である。 奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」ではこ中尊は弥勒仏で弥勧仏浄土を表したものとしている。 |
菩薩座像及び一侍者像 |
北面の第一段の西端の石仏は、蓮台上に坐す菩薩形像と合掌礼拝する一人物が表された小型の薄肉彫り像である。南面、西面にも同じような供養あるいは礼拝合掌する一人物を 配した如来座像の小型の薄肉彫り像がある。 奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」ではこれらの像を華厳経入法界品にもとづく普財童子の善知識歴参図と解釈し、北面像の主尊は弥勅菩薩、合掌礼拝する一人物は善財童子としている。 |
令和6年8月27日 門前石仏(臼杵石仏) |
門前石仏・満月寺など
臼杵石仏(13) 門前石仏 | |||||||||
臼杵にはもう一つ平安後期~鎌倉時代の磨崖仏がある。臼杵磨崖仏の北、臼杵川沿いの小高い丘の麓にある門前(もんぜ)石仏がそれである。臼杵石仏の一部として国の特別史跡に指定されている。2mほどの如来形座像を中心に、下記のような像が残っている。不動明王以外は破損が甚だしい。 定印如来形座像の左右に菩薩形座像と思われる像があり、三尊形式になっていたと思われる。面相も体躯もいたみが激しいが、堂々たる像で、臼杵の石仏群と通じるところがある。藤原時代の制作と考えられる。 不動明王は像高150㎝の厚肉彫りの立像で、石仏には珍しい八頭身のすらっとした姿体である。鼻が欠けているが、保存状態はよく、木彫仏の様な写実的な磨崖仏である。鎌倉時代の作と考えられる。二童子が不動の左手に並んで配されているのが珍しい。現在、深田石仏群(臼杵石仏)と同じく立派な覆堂が作られている。 |
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如来形座像・菩薩形座像・不動明王立像・矜羯羅童子・制多迦童子 |
菩薩形座像・如来形座像・菩薩形座像 |
菩薩形座像・如来形座像 |
不動明王立像・矜羯羅童子 |
不動明王立像 |
臼杵石仏(14) 満月寺の石仏 |
大分県臼杵市深田木原 「鎌倉後期~室町時代」 |
ホキ石仏や古園石仏のある丘陵の臼杵川を挟んだ向かいの小さな丘の麓の近くに満月寺がある。現在の満月寺は近年建てられたものであるが、その寺の建物の前に、金剛力士像が残っている。金剛力士像の東には満月寺の開基と伝える、蓮城法師と、その保護者と伝えられる真名長者(炭焼き長者)夫婦の石像が小さな龕に安置されている。 |
金剛力士像 |
阿形 |
吽形 |
臼杵磨崖仏古園石仏・ホキ石仏の北東、シバザクラやコスモスが植えられた臼杵石仏公園をはさんである満月寺にある金剛力士像である。現在の満月寺は近年建てられたものであるが、その寺の建物の前に、仁王像が残っている。石像の仁王像は国東半島でよく見かけられるが、この像も国東半島の金剛力士像と同じように室町以降の作と思われたが、発掘調査で鎌倉時代の建物の跡が見つかっていて、その時の建立とすると鎌倉時代の可能性もある。 風化が激しく、顔の表情ははっきりしないが、ウルトラマンに似た愛嬌あふれる仁王で観光客に人気がある。鼻を削って飲むと疫病に効くという云われがあり鼻は削られて無くなっている。 |
蓮城法師像 |
臼杵石仏(15) 臼杵石仏入口の不動明王磨崖仏 |
臼杵石仏の入り口近くにある不動磨崖仏である。臼杵焼の窯元の横に「不動明王入口」の標識があり、そこから少し上ると山裾にこの不動磨崖仏がある。岩肌に半円形に突き出た台座と深いおにぎり形の彫りくぼみをつくり、その中に右手で剣を立てて持ち、左手を胸まで上げて羂索を持った不動明王座像を半肉彫りしたものである。螺髪風の髪に左肩に辮髪を垂らし、眉を上げて牙を上下に出して睨み付ける姿は力強い。近代彫刻の影響を受けた写実的な表現の磨崖仏である。 |
令和6年8月25日 奈良市内の石仏(1) 頭塔1 |
奈良市内の石仏Ⅰ |
春日山と高円山の麓の高畑町は大正から昭和にかけて多くの画家や作家に親しまれた地域で、古色の土塀が残る町並み、奈良市写真美術館、新薬師寺、志賀直哉旧居などの名所がある趣深い所である。また、その南の白毫寺町には五色の花をつける五色椿や参道の石段を覆う萩で知られた白毫寺がある。 新薬師寺や白毫寺には地蔵十王石仏など多くの古い石仏があり、石仏愛好家にとって見逃せない地域でもある。頭塔は土壇からなる奈良時代の塔で、自然石を利用した石積みの各壇に石仏が配置されていて、現在浮彫や線彫の石仏22基が「頭塔石仏」の名称で、一括して重要文化財に指定され、奈良時代の数少ない石仏群として知られている。 |
奈良市内の石仏(1) 頭塔の石仏 |
奈良県奈良市高畑町921番地 「奈良時代」 |
頭塔は、頭塔は方形の7段からなる奈良時代の土の塔で国の史跡になってい。古くより僧玄昉の頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきたが、本来の土塔「どとう」がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われる。 頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会(お水取り)を創始した実忠が、造った塔であるとされている。 1980年代からはじまった本格的な発掘調査で、この場所にはもとは6世紀つくられた古墳があり、それを壊して造られていること、天平宝字4年(760)に最初の土塔は現状より小規模(3段)につくられ(下層頭塔の造営)、その後あまり時期を経ずして、<神護景雲元年(767)頃か?>その上にかぶせるようにして現在の7段の頭塔(下層頭塔の造営)がつくられたことがわかった。(奈良国立文化財研究所の「史跡頭塔発掘調査報告 2001年」参照) 現在の頭塔は、発掘調査により遺構解明された、南面(頭塔の森としての価値を認めそのままにした)以外を昭和61年から平成12年まで奈良県教育委員会が復元整備を行い、1辺30m、高さ10m、7段の階段ピラミッド状の構造を復元したものである。 頭塔の各段には、浮彫(一部線彫)の石仏が配置されている。復元前には13基の石仏が露出していていたが(他に郡山城の石垣に一基転用されたいたのが確認されている)、発掘によってあらたに14体と抜き取り痕跡5個所を発見された。東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。頭塔石仏の構想には法華経の影響が入った華厳教学の影響の下、東大寺大仏と同じ造像構想を東大寺大仏と同じ造像構想を背景に持つとされている。(各石仏の説明参照)。 東・西・北面の石仏は復元整備後、屋根付きの壁龕に安置されていて、デッキ式の回廊をめぐらした見学路から見学できる。隣のホテルウェルネス飛鳥路のフロントにて受付をすれば、予約無しで当日見学が可能。 |
東面の石仏 |
如来三尊像 |
東面の第一段の中央には北面と同じく上方に宝相華の天蓋と飛雲を配し、群来のある蓮華座で、宝相華の飾りをつけ、中尊下方の左右に合掌する小菩薩(侍者)を刻んだ大型の如来三尊像の浮き彫り像が配置されている。二重円光背を背負った中尊如来座像は、衣を通屑に着け、腹前に置く両手先を組んで印相を表さない(定印?)。中尊にに向けて坐す両脇持像は穏やかでふくよかな面相である。頭塔の石仏の中では最も保存状態がよく見ごたえがある。 東方を浄土する如来として薬師如来が知られているが、この像は多宝如来と思われる。薬壺を持たない薬師如来像もあるため断言はできないが、薬壺を持たない定印の薬師如来像の例はなく、法華経見宝塔品には、多宝仏の宝浄国土は東方世界にあると説かれるから、この石仏は多宝仏浄土を表したものと考えられる。 |
如来及四菩薩二比丘像 |
東面の第五段の北にある石仏である。中尊の如来座像の左右に脇持の菩薩座像、その左右に合掌礼拝する小菩薩、中尊の背後に2体の比丘像を浮き彫りしたもので、彩色の跡が残り、1986年から始まった奈良文化財研究所発掘調査で新しく見つかった石仏である。宝樹を背景にして花茎を伸ばした蓮華上に坐す中尊如来は、右手は第一指と第二指を捻じた施無畏印で、左手は掌を上にして膝上に置く。 宝珠の下、菩薩や比丘像を従えたこれと同じ印相の如来像は、奈良時代に描かれた現在ボストン美術館にある「法華堂根本曼荼羅図」や奈良国立博物館の国宝「刺繍釈迦如来説法図」に見られ、霊鷲山(りょうじゅせん))で釈迦が法華経を説く情景を表わしたものと考えられる。 |
二如来像 |
東面第五段南側にある石仏である。格狭間のある台座に結蜘扶坐する二如来は、左が施無畏・与願印、右は衣のうちに印相を収めたもので、左は釈迦如来、右は一段中央の三尊像と同じ多宝如来である。ともに二重円相光背を負う。前方(下)には六菩薩と合掌のー比丘が表されている(見学路から見上げることになり、見学路からは菩薩・比丘像は見られない)。 |
令和6年8月25日 伊賀の石仏(12)(13) | ||||||||
伊賀の石仏Ⅱ | ||||||||
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「伊賀の石仏Ⅱ」は旧上野市の南部と旧青山町の石仏を紹介する。この地域は「伊賀の石仏Ⅰ」で紹介したような「中之瀬磨崖仏」や「花の木三尊磨崖仏」のような石仏写真集や石仏に関する本でよく紹介される石仏はみられないが、「清岸寺石龕仏」や「蓮生寺阿弥陀石仏」「長隆寺阿弥陀石仏」など鎌倉時代・南北朝時代の優れた石仏がある。また、「別府十王石仏」のようにユニークで愛らしい石仏もあり、それなりに見ごたえはある。 伊賀の国ではないが名張市(伊賀の国名張郡)に接している津市美杉町太郎生の飯垣内(はがいと)に「日神墓地石仏群」がある。津市美杉町太郎生は生活圏・経済圏などで名張市との結びつきが強く飯垣内は名張に最も近い集落であることから、このページで「日神墓地石仏群」を紹介する。「日神墓地石仏群」の石龕に祀られた阿弥陀石仏はこのページではメインともいえる石仏である。 |
伊賀の石仏(12) 長隆寺阿弥陀石仏 | |||
三重県伊賀市森寺93 「南北朝時代」 | |||
森寺の集落北の丘陵の麓にたつ長隆寺は平安時代の後期の木造薬師如来坐像(重要文化財)を所蔵する真言律宗の古寺である。境内の東の片隅に無縁仏が何段にも積まれていて、その中心最上部にこの阿弥陀石仏が祀られている。 大きな花崗岩の自然石に船型の彫り窪みをつくり、像高60㎝ほどの定印阿弥陀如来を半肉彫りしたもので、蓮華座に坐す膝に沿って筋状に並べた図案化した表現の衣紋になっている。これは、美杉町の日神墓地の阿弥陀石仏などこの地方の石仏によく見られる技法である。 日神墓地の阿弥陀石仏に比べると写実性に欠け、日神墓地の阿弥陀石仏より新しい南北朝時代の作と思われる。 |
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伊賀の石仏(12) 清岸寺石龕仏 | |||
三重県伊賀市摺見1315 「鎌倉後期}」 | |||
伊賀鉄道「丸山」駅の東4㎞に摺見(するみ)という集落がある。その集落の東の丘陵の麓の小高い場所に集落を見下ろすように清岸寺がある。浄土宗の寺院で本堂は藁ぶきで、開放的な雰囲気の寺である。境内の西に古い墓地があって、その入口にこの石龕仏がある。 総高117㎝で切石で奥壁と側壁を組み立派な宝珠のついた屋根を載せた石龕で奥壁に像高47㎝の定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。穏やかな締まった表情の優れた像容の阿弥陀像である。左右の側壁には二重円光背の彫り窪みがつくられその中に蓮台を持つ観音と合掌する勢至菩薩が半肉彫りで表されている。脇持を対面させた珍しい形式の阿弥陀三尊である。 |
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令和6年8月24日 古園石仏2(臼杵石仏) |
臼杵石仏(10) 金剛界五仏(五智如来) |
臼杵石仏の白眉といえる古園石仏は、古園十三仏」と呼ばれるように、像高3m近い金剛界大日如来を中心とした五智如来(阿しゅく如来・宝生如来・無量寿如来・不空成就如来)と菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。 もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちていた。現在は修復され、臼杵石仏のシンボル的存在である大日如来の頭部も残っていた胴体部とつながり造立当時の姿に近づいた。 修復前に行ったときは大日如来の横に転がるように置かれていた無量寿如来(阿弥陀如来)と阿しゅく如来の頭部もあごから肩の部分まで残っていた胴体部に付けられた。 |
宝生如来・阿しゅく如来・大日如来 |
大日如来・無量寿如来・不空成就如来・普賢菩薩・観音菩薩 |
阿しゅく如来・大日如来・無量寿如来 |
阿しゅく如来 |
無量寿如来(阿弥陀如来) |
臼杵石仏(11) 古園石仏右脇侍群 |
五智如来の左右の脇を固めるのが、菩薩・明王・二天像である。向かって左の右脇侍群は右から文殊菩薩・勢至菩薩・不動明王・増長天と並ぶ。向かって右の左脇侍群は左から普賢菩薩・観音菩薩・仏座像(降三世明王?)・多聞天と並んでいる。四菩薩(普賢・文殊、観音・勢至)は大日如来と緊密なかかわりのある釈迦如来と阿弥陀如来の脇侍でもある。大日如来を中心にした金剛界五仏、それらを囲むように四菩薩、そしてそれら守るかのように五大明王の不動明王と降三世明王そして二天像を配した構成は金剛界曼荼羅の世界である。このような臼杵石仏の配置は当時の浄土教と密教思想を融合させた結果と考えられる。 古園石仏の中では文殊菩薩などの四体の菩薩像が保存状態がよい。大日如来と同じく冠帯部などの彩色が残る。ただ、下半身は風化が進み、苔むしっているのが残念である。不動明王と増長天は破損や風化が進んでいて、頭部は破損が目立つ。、 |
増長天・不動明王・勢至菩薩・文殊菩薩 |
増長天・不動明王 |
不動明王・勢至菩薩 |
勢至菩薩・文殊菩薩 |
文殊菩薩 |
臼杵石仏(12) 古園石仏左脇侍群・金剛力士像 |
左脇侍群は左から普賢菩薩・観音菩薩・仏座像(降三世明王?)・多聞天である。降三世明王とされる仏座像以外は風化破損状態は古園石仏では比較的ましである。降三世明王とされる仏座像は頭部は剥がれ、光背の跡と摩滅した体躯が残るのみで、剥がれた頭部跡からは四面の顔があったとは考えにくく、降三世明王とは思えない。 |
普賢菩薩・観音菩薩 |
普賢菩薩・観音菩薩は共に顎の下部と鼻の一部が欠けているが、宝冠の冠帯部などの色彩がしっかり残る。 |
普賢菩薩 |
普賢菩薩 |
多聞天 |
多聞天は石仏としての造立は平安時代後期から見られるが単独としての造立ではなく四天王や二天の一員の多聞天としての造立である。隼人塚多聞天や臼杵磨崖仏古園石仏多聞天などが最も古い作例である。大分県の磨崖仏には四天王はなく、多聞天と持国天または増長天の二天を彫ったものが多い。 臼杵石仏も二天像で、ホキ石仏の多聞天と持国天、古園石仏の多聞天と増長天があるが、古園石仏の多聞天以外は破損が著しい。古園石仏多聞天は臼杵磨崖仏を代表する古園石仏大日如来や他の菩薩像に比べると荒っぽい彫り方であるが、力強い作品で平安時代の多聞天像の秀作である。 |
金剛力士像 |
十三仏の向かって右側には金剛力士像の半肉彫りがある(阿形は欠損)。厚肉彫りではないためか追刻と考えられ、1955年、国宝に指定された時はこの像は重要文化財のままであった。しかし、2017年に他の古園石仏と同じ時期に造立されたものとして、国宝に追加指定された。 |
令和6年8月23日 守田地蔵十三仏 | |||
伊賀の石仏(9) 守田地蔵十三仏 | |||
三重県伊賀市守田町 「永正15年(1518)・永正17年(1520)」 | |||
十三仏・地蔵立像 | |||
十三仏 | |||
地蔵立像 | |||
名阪国道の上野ICのすぐ南に九品寺という寺があり、門前の道を丘陵に沿って南に350m進んでいくと、左手てに守田十三仏の彫られた扇形の大きな岩見えてくる。岩の向かって右手上部に舟形後背を掘りくぼめ像高63㎝の半肉彫りの地蔵立像があり、その左側岩の中央には高さ106㎝、幅約40㎝の長方形の枠の中に半肉彫りされた三列四段の十三仏がある。 地蔵菩薩の下には永正15年(1518)の銘、十三仏の枠の外には永正15年(1520)の銘があるとされているが肉眼では判読できなかった。少し離れた場所にも同じような地蔵十三仏がある。 |
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伊賀の石仏(10) 治田地蔵十王磨崖仏 | |||
三重県上野市治田 「室町時代」 | |||
名阪国道「五月橋インター」の東方、名張川に沿って南へ2㎞ばかり進むと、名張川の右岸にある山添村村立のキャンプ場がある。そのキャンプ場の対岸に大小の岩壁が見える所がある。その岩壁の向かって右端の岩面に薄肉彫りと線刻を組み合わせて彫られた大きな地蔵立像がある。地蔵菩薩の右下と左下に十王像が彫られている。治田地蔵十王磨崖仏である。 地蔵立像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ姿で、衣紋の線は大まかで、顔も品位が感じられず鎌倉期の磨崖仏に比べると劣る。しかし、川岸の岩の魅力と高さ4mという大きさがそれを補い、一見の価値のある磨崖仏である。像の左右の十王は左が閻魔王、右が太山王である。 近くに吊り橋があり、歩いて対岸に渡ることができ、近くの岩に残りの十王が彫られていることか確認できる。下流に高山ダムがあるため雨期には下方が水没してしまう。 |
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令和6年8月22日 古園石仏1(臼杵石仏) |
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臼杵石仏(8) 大日如来(修復前) |
山王山石仏から山腹に沿ってしばらく下ると、日吉神社の参道に出る、その参道を横切り、右手にすすむと、臼杵石仏の白眉といえる古園石仏がある。 「古園十三仏」と呼ばれるように、像高3m近い金剛界大日如来を中心にして左右に各六体の如来・菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちるなど大きな破損がある。(現在は修復され、仏頭は元に戻された。) 臼杵石仏のシンボル的存在である大日如来の頭部は、彩色が残り、新月形の長い眉、ややつり上がった眼、引き締まった口など、端正で威厳に満ちた表情で、豊かな頬から顎にかけての肉取りとともに、見るわれわれを圧倒する。宝冠を欠損するが一部を残した宝髪と冠紐の鮮やかな色が全体を引き締めている。 |
臼杵石仏(9) 大日如来(修復後) |
修復された大日如来は、頭部が下に置かれていた時と比べると、下から見上げるせいか、貞観仏を思わせる厳しさはやや薄まり、藤原仏らしい優雅を見せていてる。 |
令和6年8月20日撮影 近くの田園地帯にて | |
鷺・セグロセキレイ・イタチ | |
この日もチドリ・シギを撮影しようと近くの田園地帯に野鳥撮影に出かけました。この日は干上がっていた休耕田の多くに水か入っていて。チドリ・シギを期待したのですが、この日はケリもみられませんでした。鷺はコサギ・アオサギ・チュウダイサギ・チュウサギといろいろな鷺がいました。この日は休耕田とともに田んぼの畔を中心に回りました。田んぼの畔はチュウジシギが目的でしたが、まだ早いのか全く見られません。畔で写したのはセグロセキレイとイタチでした。 | |
休耕田でよく見かけるのはコサギです。コサギは足指が黄色です。 | |
チュウダイサギかなと思ってレンズで覗いてみると口角は目の下でした。チュウサギです。 | |
河原には数羽のチュウダイサギが、アオサギと一緒にいました、 | |
田んぼの畔で赤茶色のものが動いているのを見つけました。ヒクイナと思ってカメラを向けたのですか、イタチでした。 | |
田んぼの畔にはセグロセキレイもいました。 |
令和6年8月20日 山王山石仏(臼杵石仏) |
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令和6年8月20日 山王山石仏(臼杵石仏) |
臼杵石仏(7) 山王山石仏 |
堂が迫石仏の向かいの山が山王山である。遊歩道は堂が迫石仏からカーブして山王山の山裾を通る。この山裾に通称「隠れ地蔵」と呼ばれる山王山石仏がある。地蔵ではなく一光三尊形式の三体如来像である。 中尊は像高約270㎝で、釈迦如来と伝えられている。(印相は施無畏与願印と思われるので釈迦如来であろう。)丸顔で額は狭く、頸が短く、目鼻口が小さい童顔で、ホキの阿弥陀三尊や堂が迫の第2龕の如来座像の厳しい顔とは対照的である。 脇侍は向かって右が薬師、左が阿弥陀と称されているが、中尊と同じような印相で区別はつけがたい。薬師像は破損が激しかったが修復された。脇侍の2尊もおだやかな親しみのもてる顔である。 この三尊については、ホキの阿弥陀三尊のような鑿跡の冴えはなく、形式化されたところが見られるので12世紀末頃の造立というのが通説であったが、中尊(釈迦如来)の童顔でやや突き出た唇、重量感のある体躯で一木彫像的古様さがかいまみられるので11世紀後半から12世紀前半の造立という説もでている。 |
薬師如来・釈迦如来 |
釈迦如来 |
薬師如来 |
阿弥陀如来 |
令和6年8月19日 伊賀の石仏(7) |
伊賀の石仏(7) 中村薬師堂磨崖仏 |
三重県伊賀市島ヶ原 中村 「鎌倉後期」 |
阿弥陀三尊・薬師如来坐像 |
阿弥陀三尊 |
薬師如来坐像 |
JR関西線「島ヶ原」駅から東踏切を北へこえ、しばらく行くと、道の左手に大きな石に六地蔵を彫りつけた石仏がある。その石仏の前を右手に下りたところに薬師堂がある。薬師堂の扉の内すぐに岩面があり、像高50cmの薬師如来座像と、像高73cmの阿弥陀三尊が半肉彫りされている。 堂でおおわれているため、保存状態は良く、光背と衲衣が朱と黒で彩色されている。鎌倉時代の石仏にしては力強さに欠けるが、やわらかい素朴な表現の磨崖仏である。 この中村薬師堂の北には東大寺の二月堂の修二会(お水取り)とよく似た修正会が行われる正月堂(観菩提寺)がある。 |
伊賀の石仏(8) 花の木三尊磨崖仏 |
三重県伊賀市大内岩根 「徳治元(1306)年 鎌倉後期」 |
地蔵菩薩・阿弥陀如来・釈迦如来 |
釈迦如来 |
阿弥陀如来・釈迦如来 |
阿弥陀如来 |
地蔵菩薩 |
上野市大内の花の木小学校(現在は成和西小学校)の校門を入ってすぐ、校庭の右側に廃道があり、その廃道沿いに巨大な岩塊が露出している。その南面に幅220㎝、高さ148㎝の長方形を彫りくぼめ、像高約1.2mの三体の立像を厚肉彫りする。 向かって右から、釈迦・阿弥陀・地蔵で、釈迦は施無畏・与願印、阿弥陀は来迎相、地蔵は錫杖・宝珠を持つ。各尊の間には蓮花瓶を浮き彫りに配している。地蔵の上部に「徳治第一年九月日 願主沙弥六阿弥」の刻銘があるという。(摩耗していてるため、見た目ではわからない。)各尊とも、写実的で力強い秀作である。 |
令和6年8月18日 堂が迫石仏2(臼杵石仏) |
臼杵石仏(5) 堂が迫石仏第2龕 |
第2龕は堂が迫石仏の中心となる龕で、像高も一番高く、等身大より大きい(釈迦如来座像は2m、他の如来は173~178㎝)。制作年代も堂が迫石仏ではもっとも古く、ホキの阿弥陀三尊、古園石仏につぐ。重厚感のある体躯と引き締まった威厳に満ちた顔は貞観仏を彷彿させる。よく見ると、ホキの阿弥陀三尊のような鑿跡の冴えはなく、衣紋は平行状に刻まれていて形式化が目立ち、やや鈍重な印象である。 |
薬師如来・阿弥陀如来・釈迦如来 |
釈迦如来 |
阿弥陀如来 |
薬師如来 |
臼杵石仏(6) 堂が迫石仏第1龕 |
一番奥の第1龕も第2龕と同様に阿弥陀・釈迦・薬師の3如来を中心とした石仏群である。破損の甚だしい石仏群であったが修復が進み昔の面影をとり戻した。像高は第2龕よりやや小さく、153~171㎝で、素朴な明るい表情が特徴である。12世紀後半の制作と思われる。 |
薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来 |
阿弥陀如来 |
釈迦如来 |
薬師如来 |
令和6年8月16日撮影 近くの田園地帯にて | |
チュウダイサギ・ケリ | |
この日はようやく最高気温が35度以下になったので、チドリ・シギを撮影しようと近くの田園地帯に野鳥撮影に出かけました。しかし、この田園地帯にたくさんある水の張った休耕田は連日続いた猛暑日によってに干上がっていてチドリ・シギは見られそうにないです。そのような時に1羽のシラサギを見かけました。大きさからチュウサギと思ってカメラを向けたのですが、モニター画面を見てみると口角が目の後ろまで伸びています。ダイサギのようです。大きさと夏という季節から亜種チュウダイサギと思われます。 | |
しばらく歩いていると水路から水が引かれて水が豊かに張られている水田地帯を見つけました。そこにある休耕田は水が入っていました。クサシギなどのシギを期待したのですが、いたのはケリでした。 | |
令和6年8月16日 堂が迫石仏1(臼杵石仏) |
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臼杵石仏(3) 堂が迫石仏第4龕 |
ホキ石仏に続いて、堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る半跏椅像である。左右に五体づつの十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿で、個性的な怪異な顔が魅力的である。鎌倉時代以降の制作と考えられ。 |
地藏十王像 |
地藏半跏椅像 |
十王像 |
臼杵石仏(4) 堂が迫石仏第3龕 |
次の龕(第3龕)は金剛界大日如来を中心とした龕で、如来座像は1mに満たない小像である。第1龕や第2龕に比べる、やや硬いいが引き締まった彫りである。衣紋は形式化しているので12世紀末~13世紀の作と思われる。各如来の台座には願文や教典を入れたと思われる孔がうたれている。 |
阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来 |
大日如来 |
釈迦如来 |
阿弥陀如来 |
勢至菩薩 |
令和6年8月15日 ホキ石仏(臼杵石仏) |
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臼杵石仏(1) ホキ石仏第2龕 |
小川にかけた橋を渡り、ゆるやかな坂をあがると最初にみえてくるのがホキ石仏(ホキ石仏第2群)である。 ホキ石仏は2つの龕に分かれていて、最初の龕は(第2龕)は九品の阿弥陀像である。真ん中の一体の阿弥陀像が座像でその両側に各4体の阿弥陀立像を厚肉彫りする。第2龕の右端には20世紀末の保存修復工事で修復された不動明王立像が配置されている。 |
不動明王立像 |
臼杵石仏を初めて訪れたのは1978年である。1996年に一連の修復工事がほぼ終了し、立派な覆い堂が設けられた。ホキ石仏の不動石仏は修復前はホキ石仏(ホキ石仏第2群)の隅っこに残欠として下に置かれていた。この画像は2012年に訪れた時に撮影したものである。両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣、左手に羂索(欠損)を持った不動明王で豪快さに欠けるが、穏やかな藤原様式の像である。 |
九体阿弥陀像・観音立像 |
像高はそれぞれ1mほどで臼杵石仏群なの中では小さいほうである。中央の一尊が定印を結ぶ座像で他は立像で来迎印または施無畏、与願印と思われる。破損が著しく完全な形をとどめたものはないが、現在修復がすすみ、右側の阿弥陀立像3体や観音菩薩立像は、昔の面影を少し取り戻している。 |
臼杵石仏(2) ホキ石仏第1龕 |
中心となる第1龕に、古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する「阿弥陀三尊像」がある。2つの龕とも末法思想の流行とともに、来世に阿弥陀の浄土に生まれることを願って像像されたものである。 第1龕の阿弥陀三尊の阿弥陀如来像は像高3m近い、丈六仏で、臼杵石仏の中では最も大きい像である。丸彫りに近いほど厚肉に彫り出され、衣紋や目鼻など、冴えた鑿あとを残し、木彫仏のような鮮やかさをたたえている。丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、制作年代は11世紀~12世紀とされているが、肩から胸にかけて逞しく量感があり、厳しい表情とともに平安前期の様式も残す。脇持の観音・勢至菩薩も2mを越える巨像で苦渋を秘めた強い表情が印象的である。 最初の画像は保存修復工事前の覆堂ができる前の写真で、光が入り、陰影がついて、鑿あとの鋭さがよくわかる。 |
阿弥陀像三尊(修復前) |
観音立像 |
阿弥陀像三尊(修復後) |
令和6年8月14日 伊賀の石仏(5)(6) |
伊賀の石仏(5) おもん地蔵 |
三重県伊賀市長田 「鎌倉後期」 |
国道163号線のバス停「長田」付近から谷あいへの細道を下ったところに、おもん地蔵がある。おもん地蔵は、舟形の光背を背負った高さ160㎝ほどの右手に錫杖を、左に宝珠を持った、地蔵立像と、小さな地蔵を2体を脇侍として彫った三体地蔵である。右脇侍の地蔵は宝珠を持ち、右脇侍の地蔵は両手を胸前に上げて合唱する。<主尊の頬の張った四角の顔が、かわいらしく、印象に残る。 おもん地蔵の脇侍は掌善童子・掌悪童子としている本もあるが、左脇侍が宝珠を持つところから見て、三体とも地蔵と考えられる。 |
伊賀の石仏(6) 見とどけ地蔵石仏 |
三重県伊賀市長田三軒家 「南北朝時代」 |
伊賀上野の市街地から、国道163号線を西へ4㎞ほど行ったところに、三軒屋と呼ばれる小さな集落がある。「三軒家」のバス停のすぐ北、農家の裏の小高い所に、小さな稲荷神社があり、その神社の横に、この三体地蔵石仏がまつられている。 長田のおもん地蔵と同じように、花崗岩を舟形に彫り、大きな地蔵と脇侍の小さな地蔵を半肉彫りにしたもので、中尊の地蔵は蓮花座に立ち、右手に錫杖、左に宝珠を持つ典型的な姿の地蔵である。右の地蔵は宝珠を持ち、左の地蔵は胸の前で合掌する。おもん地蔵よりは厚肉に彫られていて、ふっくらとした暖かみの感じられる顔である。現在立派な覆堂がつくられ、大切に祀られている。 |
令和6年8月13日 自宅より | |
イソヒヨドリ | |
この日も斜め向かいの会社の寮の非常階段で若鳥が小さな声で鳴いていました。この日も我が家の庭から撮りました。 | |
非常階段の手すりにとまっていたイソヒヨドリが真上を向いて鳴いていました。 | |
突然飛び上がって、山形のスレート屋根の下に潜り込みました。どうやら屋根の下に巣があるようです。しばらくすると2羽のイソヒヨドリが屋根の下から飛び出し、少し離れた民家のほうに飛んでいきました。 | |
しばらくすると1羽が戻ってきて、会社の寮の非常階段の手すりにとまりました。最初に写した個体とは違うようです。手すりを移動しながら口を開けて鳴いていました。 | |
令和6年8月12日 臼杵石仏 TOP PAGE |
臼杵石仏 |
大分県臼杵市深田 特別史跡・国宝 |
質・量・規模ともわが国を代表する石仏、「臼杵石仏」は大分県臼杵市深田の丘陵の山裾の谷間の露出した凝灰岩に刻まれた磨崖仏群である。平安後期から鎌倉時代にかけて次々と彫られたもので、谷をめぐって「ホキ石仏(ホキ石仏第2群)」「堂が迫石仏(ホキ石仏第1群)」「山王山石仏」「古園石仏」の4カ所にわかれている。(石仏配置図参照)ほとんどが丸彫りに近い厚肉彫りで、鋭い鑿のあとを残す。現在59体の石仏が国宝指定を受けている。
その中でも特に優れているのが、上記写真のホキ石仏の阿弥陀三尊像と古園石仏の大日如来像である。阿弥陀三尊像は丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、堂々とした量感あふれる磨崖仏である。古園石仏の大日如来は、「臼杵石仏」の象徴といってよい石仏で、近年まで転落した頭部が前の石壇に置かれていた。力強く厳しい、気品のある顔が印象的である。 臼杵石仏の制作者については、真名長者小五郎(炭焼小五郎)が、敏達天皇の時代に、中国から蓮城法師を招いて造顕したという伝説が残っている。もちろん史実とは言い難いが、この伝説のように、この地方に有力豪族が住み、その保護の下、すぐれた僧侶が石仏や寺院を造営したことはまちがいないだろう。 制作年代については、様々な説があるが、ホキ石仏の阿弥陀三尊像や古園石仏群(古園十三仏)などの様式や堂が迫石仏の上の台地にある、2基の五輪塔の嘉応2年(1170)・承安2年(1172)の紀年銘などから、12世紀頃から制作が始まったと考えられている。 |
下の写真をクリックしてください。各石仏群への入口です。 |
石仏名をクリックしてください。各石仏のページにつながります。
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令和6年8月11日 元箱根石仏群(5) |
元箱根石仏群(5) 二十五菩薩石仏群(2) |
二十五菩薩石仏群の中でも、優れているのが、阿弥陀如来(16号)〔像高98㎝〕や東面の向かって右端の地蔵菩薩(1号)〔像高90㎝〕やそれに続く2号や3号の地蔵菩薩など大型の石仏である。ともに、木彫風の精巧で丁寧な彫りで、衣紋の表現も写実的で、見ごたえがある。岩に舟形を彫りくぼめてそこに厚肉彫りで彫られているため、岩の存在感、生命感が感じられ、磨崖仏としては六道地蔵よりは優れているように思える。 |
二十五菩薩配置図 |
青色の番号(号数)または矢印をクリックしてください。番号の石仏の写真、または矢印の方向から撮った写真につながります。 |
阿弥陀立像(16号) |
地蔵立像(17号)・阿弥陀立像(16号) |
地蔵立像(1号) |
地蔵立像(2号) |
地蔵立像(3号) |
供養菩薩(6号)・地蔵立像(5号) |
供養菩薩(6号) |
地蔵立像(21号) |
令和6年8月10日 伊賀の石仏(2)(3) |
伊賀の石仏(2) 寺田毘沙門堂北向三体地蔵磨崖仏 |
三重県伊賀市南寺田 「南北朝時代」 |
伊賀上野の東、上野市南寺田の集落の山裾に毘沙門寺が建っている。この寺の前の細い山道を300mほど進むと、道の右側に横長の大きな岩がある。岩に横長の長方形を彫りくぼめ、敷茄子つきの蓮華座に座し、右手で、短めの錫杖を斜めにして持つ地蔵菩薩を3体、厚肉彫りにする。整った端正な地蔵菩薩で印象的である。 北向きにあるため、陽がささず、自然光ではなかなかよい写真が撮れないが、趣のある石仏である。同時代のよく似た地蔵菩薩が寺田の集落の地蔵堂にもある。敷茄子つきの蓮華座に座し、短めの錫杖を斜めにして持つ、地蔵菩薩(正和3〔1314〕年銘)は久居市の宝樹寺にも見られる。 |
伊賀の石仏(4) 地福寺地蔵石仏 |
三重県伊賀市荒木 「室町後期」 |
北向三体地蔵磨崖仏のある上野市南寺田と服部川を挟んで南にある集落が上荒本である。その上荒本に真言宗豊山派の地福寺という寺があり、その入り口の地蔵堂にこの地蔵石仏がある。 高さ3m幅1mあまりの大きな石の角に円形の彫り窪みをつくり、岩座に半跏で座る地蔵菩薩を厚肉彫りしたもので、右手で錫杖を持ち、左でで宝珠をかかげる延命地蔵である。元は服部川の川岸にあったという。 |
令和6年8月9日 元箱根石仏群(4) |
元箱根石仏群(4) 二十五菩薩石仏群(1) |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 「永仁元(1293)年 鎌倉後期」 |
宝篋印塔から精進池に沿って遊歩道を進むと、三角状に突き出た高さ3mほどの大きな岩が見えてくる。この岩に阿弥陀如来(16号)と蓮台を捧げる供養菩薩(6号)と21体の地蔵菩薩が厚肉彫りされている。国道を挟んだ岩に彫られた3体の地蔵菩薩と合わせて26体(菩薩は25体)になり、二十五菩薩」と呼ばれている。(下記図参照) |
二十五菩薩配置図 |
青色の番号(号数)または矢印をクリックしてください。番号の石仏の写真、または矢印の方向から撮った写真につながります。 |
上段 供養菩薩6号・地蔵5号・3号・2号・1号 下段 地蔵4号 |
上段 地蔵 23号・22号・21号・20号・19号 下段 地蔵17号・阿弥陀16号 |
地蔵 23号・22号・21号・20号・19号 |
地蔵 23号・22号・21号・20号 |
令和6年8月8日 伊賀の石仏(1) |
伊賀の石仏 |
三重県の西部、伊賀地方は、古くから京都や大和、近江や伊勢を結ぶ交通の要地であり、、奈良時代には伊賀国分寺・国分尼寺が建立された。平安後期から鎌倉時代は、平家の拠点として、また東大寺の荘園として、大和や京都と深いつながりがあり、東大寺中興の祖、重源によって立てられた新大仏寺に代表されるように仏教文化の栄えた地である。 戦国時代以降は、筒井氏・藤堂氏の城下町、伊賀上野を中心として、俳聖芭蕉などの文化人を生み出した歴史と伝統のいきづく地でもあった。 このような、伊賀地方には、当然多くの石仏があり、伊賀市寺田の「中ノ瀬磨崖仏」や「花の木三尊磨崖仏」(伊賀市花の木)などが知られている。ともに鎌倉期の秀作である。 伊賀地方には大和と同じように地蔵石仏も多くあり、上野市寺田には鎌倉末期~南北朝時代の作の三体地蔵磨崖仏と地蔵石仏が、上野市寺内には童顔のオモン地蔵と呼ばれる三体地蔵がある。 名張の東南の津市美杉町飯垣内は、平家の落武者が住み着いたと伝えられる地で、平家六代墓(日神墓地)なるものが伝わっている。平家六代墓には地蔵・阿弥陀・釈迦・五輪塔などの石仏石塔が十数基あり、中心となっている阿弥陀石仏は三重県でも最も優れた石仏の一つで、引きしまった美しい面相が印象的である。(美杉町は伊賀ではなく伊勢であるが、飯垣内は名張に接していて、名張から入った方が近いので「伊賀の石仏Ⅱ」のページに入れた。) |
伊賀の石仏Ⅰ | ||||||||
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「伊賀の石仏1」は旧上野市の北部と旧島ヶ原村の石仏を紹介する。この地域に伊賀地方を代表する磨崖仏が集まっている。その中でも像高2.4mの巨像の中之瀬磨崖仏や釈迦・阿弥陀・地蔵の三尊を写実的で力強く厚肉彫りした花の木三尊磨崖仏は鎌倉時代の秀作である。南北朝時代の作であるが北向三体地蔵磨崖仏も整った整った端正な三体地蔵の厚肉彫り像である。他に石仏ではおもん地蔵は地蔵立像と小さな地蔵を2体を脇侍として彫った三体地蔵という珍しい形式の鎌倉時代の地蔵石仏である。見とどけ地蔵石仏もおなじ形式の三体地蔵である。他に鎌倉時代の中村薬師堂磨崖仏、室町時代の地福寺地蔵石仏・地福寺地蔵石仏・治田地蔵十王磨崖を紹介する。 |
伊賀の石仏(1) 中之瀬磨崖仏 |
三重県伊賀市寺田中之瀬 「鎌倉時代」 |
阿弥陀三尊 |
阿弥陀如来 |
観音菩薩 |
不動明王 |
伊賀上野から東へ、木津川の支流、服部川に沿って伊賀街道(国道163号線)が津に通じている。その川沿いの道の北側のそそり立つ岩壁に中之瀬阿弥陀三尊磨崖仏が彫られている。本尊は像高2.5mの巨像で来迎印の阿弥陀如来立像を薄く半肉彫りしたもので、鎌倉時代のおおらかで雄壮な磨崖仏である。 放射光を刻んだ頭光背など、柳生のあたい地蔵と呼ばれる阿弥陀如来立像磨崖仏に表現は似るが、あたい地蔵に較べると、口元が大きく、素朴で力強い面相である。 脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は、線刻像で、後世の追刻である。他に、不鮮明であるが、阿弥陀三尊の左右に線刻の不動明王と地蔵菩薩立像が彫られている。 |
令和6年8月7日 元箱根石仏群(2)(3) |
元箱根石仏群(2) 火焚地蔵 |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 六道地蔵 「応長元(1311)年 鎌倉後期」 |
精進池沿いの遊歩道に戻ると、遊歩道と国道の間の三角形の自然石に、地蔵菩薩が半肉彫りされているのが目に入る。像高50㎝ほどで右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、通称「火焚地蔵」で「応長元年(1311)」の年紀銘がある。向かって右には小さな2体の地蔵が追刻されている。 先祖の霊が精進池の対岸の山を越えて駒ヶ岳に赴くと信じられていて、現在でも、身内に不幸があったとき、四十九日以内に六道地蔵に参り、この地蔵の前で送り火を焚く信仰がある。「火焚地蔵」はそのためについた名前である。 |
元箱根石仏群(3) 宝篋印塔 |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 「文永4年(1296)年 鎌倉後期」 |
精進池沿いの遊歩道をしばらく進むと、高さ265cmの大きな宝篋印塔が見えてくる。通称、「多田満仲の墓」と呼ばれ、元箱根石仏群でもっとも古い年紀銘、「文永四年(1296)」が基壇に刻まれている。故川勝政太郎博士によるとこの宝篋印塔は関西形式と関東形式の2つの様式がみられ、関西形式から関東形式に移行する最初の塔であるという。塔身の一面にはみごとな厚肉彫りの釈迦如来座像が彫られている。 |
令和6年8月6日 柳生街道の石仏(14)(15) | |||
柳生街道の石仏(14) 柳生の六地蔵 | |||
芳徳寺六地蔵石仏 | |||
奈良県奈良市柳生下町445 「江戸時代」 | |||
六地蔵磨崖仏 | |||
奈良県奈良市柳生町494 「明宝10(1501)年 室町時代」 | |||
柳生の里は柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎宗厳に始まり宗矩・十兵衛三厳とつづく柳生家の本拠地として栄えた、剣豪の里である。現在も家老屋敷や宗矩が父、石舟斎の菩提を弔って建立した芳徳寺などが残っている。その芳徳寺には、石舟斎をはじめ柳生一族の墓がある。その墓の入口には笠を載せた一石六地蔵がある。 ほうそう地蔵への道筋の崖には六地蔵の磨崖仏がある。明応十(1501)年の銘がある。像高30㎝ほどの地蔵を6体、半肉彫りしたものであるが、風化していて、詳しい像容はわからない。 |
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柳生街道の石仏(15) あたや地蔵 | |||
奈良市柳生下町 「鎌倉後期」 | |||
地蔵磨崖仏 「室町時代」 | |||
柳生から北(笠置方面)に1㎞ほど行った、川の東の大きな岩壁にあたや地蔵がある。あたや地蔵と名前がついているが阿弥陀磨崖仏である。高さ2mほどの方形の枠組みを彫り、放射光を刻んだ頭光背を背負った、像高約150㎝の来迎印阿弥陀如来を薄く半肉彫りする。保存状態は良く、西日を受けた姿は美しい。左下には像高70㎝ほどの追刻と思われる地蔵菩薩がある。 あたや地蔵から県道を少し北に行くと、弥勒大磨崖仏や、虚空蔵石磨崖仏で知られた笠置山への東海道自然歩道が通じている。 |
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令和6年8月5日 元箱根石仏群(1) |
元箱根石仏群 |
箱根山中には多くの石仏があるが、特に知られているのが、芦の湯から元箱根に通じる国道1号線沿いの、精進池の周辺にある石仏群である。 芦の湯から、国道1号線の最高地点を過ぎて、左手に五輪塔3基が見えてくる。(3基の五輪塔は曽我五郎・十郎兄弟と十郎の恋人、虎御前の墓と伝えられていて、虎御前の五輪塔に永仁3(1295)の刻年がある。)ここから、約300mの間に国道をはさんで多くの石仏・石塔がある。これが、元箱根石仏群である。 精進池周辺は厳しい気候と火山性の荒涼とした景観で、地獄の地として、また賽の河原として、昔から地獄信仰の霊場となっていた。その地に、地蔵講結縁の衆が救済や極楽浄土を願つて、鎌倉時代後期に石塔や地蔵磨崖仏がつきつぎとつくられていったのがこの元箱根石仏群である。 現在、元箱根石仏群周辺は史跡公園として整備され、六道地蔵の地蔵堂も復元された。駐車場の近くには、立体映像や迫力あるサウンドを駆使し、絵やジオラマで地獄や地蔵の救済を再現する展示施設である僧坊風の木造建築物石仏・石塔群保存整備記念館(ガイダンス棟)もたてられた。 |
元箱根石仏群(1) 六道地蔵 |
神奈川県足柄下郡箱根町芦之湯 「正安2(1300)年 鎌倉後期」 |
ガイダンス棟から精進池のまわりの遊歩道におり、国道下のトンネルをくぐり、10mほど上った山裾に、六道地蔵(六地蔵)と呼ばれる元箱根石仏群、最大の地蔵磨崖仏がある。高さ3m余りの蓮華座上に結跏趺座する巨像で、左手に宝珠、候補の右手には鉄で作られた錫杖を持つ(右手と錫杖は地蔵堂とともに鎌倉時代風に作り替えられた)。向かって左の岩面に「奉造立六地蔵本地仏」・「正安二(1300)年八月八日」などの文字が刻まれている。 厚肉彫りというより丸彫りに近い磨崖仏で、引き締まった端正な表情、薄ものの質感を巧みにとらえた衣紋の襞、胸の華やかな瓔珞など、写実的な表現で木彫仏を思わせる。熊野磨崖仏のような岩の存在感、生命感があまり感じられず、巨像の割に迫力を欠くように思える。 |
令和6年8月4日 柳生街道の石仏(13) | ||||
柳生街道の石仏(13) ほうそう地蔵 | ||||
奈良市柳生町 「鎌倉後期」 | ||||
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令和6年8月3日 大分市の磨崖仏(6) | |||
大分市の磨崖仏(6) 太田磨崖仏 | |||
大分市太田鶴迫 「宝暦10~13年(1760~1763) 江戸時代」 | |||
大分市太田の鶴迫という集落の裏に太田磨崖仏はある。凝灰岩の崖に間口3.8m、高さ77㎝、奥行き1.25mの龕を彫り、中央に像高113㎝の地蔵菩薩半跏像とその左右に各3体の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので、木造の覆堂で囲まれている。中尊の半跏像は左手に宝珠を持ち、左手首は欠落している。向かって左の3体の真ん中の像は両手に鐃を持つ。朱や緑・青・白などで彩色されていて、光背も描かれている。刻銘から江戸時代中期の宝暦年間に造られたことがわかる。 | |||
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令和6年8月1日撮影 自宅より | |
イソヒヨドリ | |
猛暑日が続き野鳥撮影に出かけていません。家の庭や周辺ににいたスズメやムクドリ・キジバト・シジュウカラもこの猛暑でまったく見られません。その中で唯一時々姿を見せるのはイソヒヨドリです。この日も斜め向かいの会社の寮の非常階段やテレビアンテナで若鳥が小さな声で鳴いていました。我が家の庭から撮りました。 | |