国東・豊前の磨崖仏
  
 
   
   
 鬼が一晩で造ったという、大小不揃いの石が積まれた急な階段を、息を切らして登ぼり切り、そそり立つ崖に、熊野磨崖仏を見た時の感動は今も忘れられない。有終の彼方を見つめるような厳しい凄みを感じさせる目つきの大日如来がまるで岩そのもののであるかのように、迫ってくるのである。ここでは、岩は仏をあらわすための素材ではない。岩そのもののが仏であり、岩に対する信仰がそのまま仏に対する信仰なのである。

 奈良の寺院の天平彫刻や鎌倉彫刻をを見慣れていた私は、「臼杵磨崖仏や大谷寺磨崖仏などか石仏の傑作である。」と思っていた。そして、日本の石仏は、木彫仏や銅像、塑像、乾漆像に比べれば造形美としては一段劣ったものであると認識していた。しかし、この熊野磨崖仏を見たとき、私のそのような認識はどこかに吹き飛んでしまった。

 天平彫刻や飛鳥彫刻のフォルムの素晴らしさと深い精神性は比類ないものであろう。しかし、熊野磨崖仏に代表される、岩(石)の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついた、磨崖仏・石仏の造形美も、見直す必要があるのではないだろうか。

 私が石仏(特に磨崖仏)に興味を持ち、全国の石仏まわり、写真を撮るようになったのは、45年ほど前に、この熊野磨崖仏を見て以降である。その意味で、この「国東半島と豊前の磨崖仏」のページは私の石仏遍歴の原点である。
国東の石仏T  国東の石仏U  豊前の磨崖仏など



   
国東半島の石仏T
 
 
 国東半島を中心とした大分県北部の磨崖仏は、大分県中部(大分・大野川流域)や大分県南部(臼杵地区)とは、異なった作風で、また、違った魅力がある。大分県中・南部の磨崖仏は、臼杵石仏や元町石仏・菅尾石仏に代表されるように、丸彫りに近い厚肉彫りの磨崖仏が多い。そして、それらは石窟形式か、覆屋を差し掛けて、風雨を防ぐ意図のもとに作られている。

 それに対して、熊野磨崖仏や楢本磨崖仏に代表される北部の磨崖仏は薄肉彫りや、半肉彫りの磨崖仏が多い。そして、それらは天然の岩肌に露出している。自然を生かし、自然と一体となった美しさ、それが、県北部の磨崖仏の魅力である。
 磨崖仏の作者については、県中部の「日羅」や県南部の「蓮城法師」などと同じく、伝説的な作者として「仁聞(にんもん)菩薩」があげられる。六郷満山といわれる国東の寺々も仁聞菩薩を開祖としている。六郷満山の諸寺院の縁起によると、仁聞菩薩は六郷満山の諸寺院を養老2年(718)に開いたことになっている。 仁聞菩薩を実在の人物とする説もあるが、現在は実在の人物ではなく、宇佐八幡神(比売大神)そのものを人格化したものであるという説が有力である。

 宇佐八幡信仰の研究家中野幡能氏は、「仁聞」はもとは「人聞」であるとして、『「人聞」は、八幡の祭神の応神天皇の八幡菩薩に対して、その前身に対する法名で、これを神母菩薩として、平安時代に起こったもので、ヒメ神も、さらにヒメ神を祭祀する巫僧、豊国法師に流れをひく巫僧、つまりこの法統を次ぐ人々を含めて、<にんもん>と称するようになったもので、その初めは、神母と称する母子神信仰に由来する』 (「古代国東文化の謎」)と主張されている。

 ここでは「国東半島の石仏T」として「熊野磨崖仏」や「元宮磨崖仏」など平成の大合併で吸収合併された旧真玉町と旧香々地町を除く豊後高田市の磨崖仏を紹介する。


伝仁聞菩薩
(六所神社磨崖仏)




国東の磨崖仏(1) 熊野磨崖仏
大分県豊後高田市平野 「平安時代後期」
 
大日如来
 熊野磨崖仏大日如来像はわが国の第一級の巨像で、顔は大きく、鮮明な半肉彫りである。腹部以下は刻み出されていない。(崩れてなくなったという説もある。)大日如来は通常の大日如来に見られない螺髪である。有終の彼方を見つめるような厳しい目つきで、凄みを感じさせる磨崖仏である。岩と一体となった表現は臼杵磨崖仏とはまた、違った意味で日本を代表する磨崖仏といえる。
 大日如来の頭上に、両界種子曼陀羅が刻まれていて、この曼陀羅と不動明王で、熊野山・金峯寺・大峰山を表し、熊野三山信仰を具体的に彫像で表現したものである。
 大日如来像は像高約約7mで像高8mの不動明王像とともに熊野磨崖仏として国の史跡及び重要文化財に指定されている。
 
不動明王
 大小不揃いの石が積まれた急な階段を登り切った所でまず目に入るのがこの不動明王像である。高さ8m、厚肉彫りの磨崖仏としては我が国最大のもので、思わず息をのむほど大きい。円く頭髪を結び、編んだ髪を左肩に垂らし、両頬がふくれ、球形に目が飛び出した顔で、右手に剣を構えた姿はおおらかで悠然たる姿の磨崖仏である。



国東の磨崖仏(2) 元宮磨崖仏
大分県豊後高田市真中字宮田  「鎌倉時代後期」
持国天・欠損像(セイタカ童子)・不動明王・矜羯羅童子・多聞天
多聞天
不動明王・矜羯羅童子
地蔵菩薩・持国天
 田染郷の総社であった八幡神社の北側の凝灰岩層の岩壁に6体の立像を半肉彫りする。向かって左から地蔵菩薩(追刻?)・持国天・欠損像(セイタカ童子)・不動明王・矜羯羅童子・多聞天である。いずれも穏やかな表情で、鎌倉末期から室町初期の作と思われる。

 両脇に配した持国天・多聞天の二天像は本尊の不動明王とほぼ同じ大きさに彫られていて、写実力のあふれた技法で脇侍とは思われない。




国東の磨崖仏(3) 大門坊磨崖仏
大分県豊後高田市田染真中674 「鎌倉後期〜南北朝時代」
多聞天
邪鬼
大日如来座像・薬師如来座像
如来形立像
 大門坊といわれる一堂宇の向かって左横の凝灰岩の岸壁に彫られた磨崖仏。不動明王立像・如来形立像・薬師如来座像・大日如来座像・多聞天立像などを半肉彫りする。堂の陰になっていて陽当たりが悪く苔がはえて、風化が激しい。ただ、天邪鬼を踏む多聞天はよく残っている。天邪鬼は丸い目をむき出し、いかにもとぼけた表情で印象に残る。



国東の磨崖仏(4) 城山薬師堂四面石仏
豊後高田市田染真木字城山2111番地 「室町時代」
<正面> 尊名不詳仏・薬師如来立像・不空羂索観音立像・阿弥陀如来坐像
<背面> 薬師如来立像・阿弥陀如来坐像・阿弥陀如来坐像
<背面> 阿弥陀如来坐像
<向かって左面> 阿弥陀如来坐像
 真木大堂の南の丘の藪の中にある。現在木造の小堂に覆われている。磨崖仏は天然の崖に彫ったものが一般的であるが、この石仏は巨大な岩塊の四方に仏像を半肉彫りする。

 これは、おそらく京都今宮神社四方仏石のような四方四仏信仰によるものと思われる。普通、四方仏は、薬師(東方)・釈迦(南方)・阿弥陀(西方)・弥勒(北方)で表現するが、この四方仏の場合はそのような配列にこだわらずつくられている。8体ほどみられる如来のうち6体は阿弥陀如来、2体は薬師如来と思われる。また、不空羂索観音と思われる像もある。大分県指定有形文化財。



国東の磨崖仏(5) 福寿寺薬師堂磨崖仏
豊後高田市田染平野陽平  「室町時代」
文殊石仏?・薬師如来座像・有髪の像
如来像2体・国東塔
薬師如来座像
地蔵菩薩座像
国東塔
 豊後高田市田染真木から山を越えて山香町立石向かう道の峠の手前にある小さな集落が陽平である。この村の背後地に福寿寺という無住の寺がある。その寺の薬師堂という礼堂を兼ねた覆堂に大岩に刻まれた磨崖仏がある。岩の正面(東面)に方1m余りの龕を彫って中に両手で薬壺を持った薬師如来を半肉彫りする。横には髪をなびかせた比丘尼像と思われる像が彫られている<案内板は尊名不詳(役行者?)としている>。この龕の向かって右下には舟形の龕に地蔵菩薩座像が半肉彫りされている。ともに風化が進んでいて顔立ち等ははっきりしない。

 北面には像高90pの国東塔が薄肉彫りされている。相輪も塔身もくっきりと浮かび出た秀作である。刻銘より永享の癸丑の年(1433)の作であることがわかり、県の有形文化財に指定されている。岩の北東面には小さな方形の龕があり、如来と思われる2体の座像か薄肉彫りされている。南面にも2体の立像が刻まれている。 



国東の磨崖仏(6) 青宇田(あうだ)磨崖仏
大分県豊後高田市美和字青宇田  「室町時代」
  青宇田地区にはに阿弥陀来迎図などの様々な画像が線刻された画像石(県有形文化財)と呼ばれる80枚ほど石板残っている。この画像石の収蔵庫の向かって左の崖の突き出た凝灰岩層の巨岩に小龕が刻まれ、中に上品上生印の阿弥陀如来を半肉彫りされている。

 小龕の左右に種子で観音(サ)と勢至(サク)が刻まれ三尊形式になっている。近畿地方などでは本尊を彫刻し、脇持を種子で表すのはよく見かけるが、九州では珍しい。



国東の磨崖仏(7) 天念寺の磨崖仏
大分県豊後高田市長岩屋3102 「室町時代」・「江戸時代」
 
川中不動磨崖仏
制多迦童子
 鬼会で有名な天念寺の前の岩長屋川の巨大な岩石の壁面に凸形に彫りくぼめて、浮き彫した不動三尊である。あたかも川の中にあるように見え、絶好の被写体であるが、私が行った3回とも午後のため、逆光でよい写真が撮れなかった。不動像は立像でやや稚拙で素朴な表現である。首をすくめた悪童面した制多迦童子といかめしい表情の不動明王が印象的である。
 
行者磨崖仏
 天念寺の身濯神社の横の岩に、頭巾をかぶり、左手に錫杖を持って座する役行者像を半肉彫りする。役行者の磨崖仏は奈良県の生駒市によく見かけられるが、九州では珍しい。他に、弘法大師像と思われる磨崖仏などがある。



国東の磨崖仏(8) 福真磨崖仏
大分県豊後高田市黒土 「南北朝時代」」
五智如来・六地蔵
金剛界大日如来
六観音
聖観音
不動明王
多聞天
 県道から田んぼのあぜ道を通り、小川に差し渡した一枚板の橋を渡り、小さな鳥居をくぐった、四王権現社の参道脇の石造の覆堂内に、高さ160cm、幅450cmの枠を岸壁に区画し、その中に19体の像を半肉彫りする。

 中央に像高52pの金剛界大日如来像と像高40pほどの金剛界四仏像を刻み、左に六地蔵座像、右に六観音像を刻む。左端には多聞天像、右端には不動明王像が彫られ、さらに向かって右の外壁には種子の胎蔵界曼陀羅又は法華曼陀羅が刻まれているということであるが、摩耗してわからない。六観音の右端に剣を構え羂索を持った不動立像(像高89p)が他の像よりやや大きく刻まれている。左端の多聞天像は像高80cmの立像で頭部は厚肉彫りである。「福真磨崖仏 付堂ノ迫磨崖仏」として県の有形文化財に指定されている。



国東の石仏U  豊前の磨崖仏など