Photo Gallery「石仏と野鳥」新版  2024年7月 
 

 
6月 8月



令和6年7月31日 焼堂の石仏(4)(5)
焼堂の石仏(4)   親鸞や蓮如に関する説話
 この石仏群で特にユニークで魅力的なものは親鸞や蓮如に関する説話、「大蛇済度」と「嫁おどし肉付きの面」の石像である。「大蛇済度」は夫の浮気に嫉妬した妻が、二人をかみ殺し、大蛇となって里人に災いをもたらた。 この地を通りかかった親鸞上人がこの大蛇を済度、大蛇は菩薩となって往生したという話である。「嫁おどし肉付きの面」は意地の悪い姑が鬼女の面をかぶって嫁を脅すと、その面が顔に食いついて外れなくなるというもので、吉崎御坊などに伝わる説話である。
 
大蛇済度
 船型の自然石を削って、人の何倍もある大蛇と、それを念仏で調伏させる親鸞聖人を半肉彫りで彫りだした石像である。他の石像のように彫り窪みをつくって、半肉彫りしたものではないため、厚肉彫りに近く、より立体的で迫力のある像になっている。
 頭をあげて、今にも襲いかかろうとしている大蛇に対して、親鸞聖人が、落ち着いて「南無阿弥陀仏」と唱えて、大蛇と化した女性を済度する、劇的な場面を見事に表した像である。
 親鸞の大蛇済度の話は二十四輩第5番の弘徳寺(茨城県八千代町)を始めとして、茨城県下妻市の光明寺、栃木県の蓮華寺などの浄土真宗の寺院などに伝わっている。弘徳寺には寺宝として大蛇の頭骨が、光明寺には大蛇が女の姿になって紫雲に乗って去って行ったときの蓮華の花弁「黒蓮華(いきれんげ)」がある。福井県には蓮如の大蛇済度の話も残されている。

 大蛇に姿が変わってしまい、人を食い殺してきた女が、聖人の力によって往生していく様は、浄土真宗の信者を中心に悪人正機・女人往生功徳として広がり現代まで伝わってきたものである。
 
嫁おどし肉付きの面
 不定形の石材に、船型の彫り窪みをつくり、中央に大きな竹を彫り出し、向かって右に、般若の面を被って竹藪で嫁を脅かそうとする姑を、左には数珠を持って念仏を唱える嫁を半肉彫りした石像である。鬼の面は恐ろしく、嫁の顔はあどけなく好対照の表現となっている。
 嫁脅し肉付きの面の説話は蓮如聖人に関わる話として、富山県の吉崎御坊などに残っている。吉崎御坊の後身の願慶寺(真宗大谷派)と吉崎寺(真宗本願寺派)の両寺院に寺宝として肉付きの面と嫁脅し肉付きの面の説話を描いた掛け軸などがあり、住職の講話などで嫁脅し肉付きの面の話を聞くことができる。

 毎夜吉崎へ蓮如の説法を聞きに行く嫁をよく思わない姑が、ある時、般若の面を被って寺から戻る嫁を脅したのであるが、その面が顔に付いてしまい取れなくなってしまう。己の邪心を悔いた姑は、吉崎に赴いて蓮如の前で懺悔、そして改心を確かめた蓮如が南無阿弥陀仏を唱えると面が取れたという。
 嫁脅し肉付きの面の説話は、大蛇済度の説話と同じように、浄土真宗の教えのありがたさを広めるための布教活動や説法等で使われた。



焼堂の石仏(5)   庵礼二十四輩第二十三番
 二十四輩巡拝の石仏は、江戸後期から昭和にかけて、寺院の境内や裏山等に造立された。その中でも牟礼町と庵治町二町にまたがる「庵礼二十四輩」は、焼堂の石仏群とともに興味深い二十四輩巡拝の石仏である。第三番の「親鸞聖人と水龍」や第四番の苦行姿の「五劫思惟阿弥陀」、二十三番の「幽霊石像」などユニークな石仏がある。特に二十三番は幽霊を静める親鸞聖人を扱った珍しい石像で、一見の価値はある。(焼堂の石仏ではないが同じ高松市の同じ二十四輩巡礼と親鸞にかかわる説話の石仏なので「焼堂の石仏(5)」としてここに載せた。)
 
村田刑部の妻の幽霊と親鸞聖人
 大きな自然石の基壇のの上に、墓石と幽霊、庵の中で坐してお経をあげる親鸞聖人を半肉彫りで彫りだした八角形石像が置かれている。墓石には村田刑部妻と彫られ、庵の横には常陸国と大きく刻まれている。裏面には「弥陀たのむ こころをおこせ 皆人の かわるすがたを みるにつけても」と親鸞聖人の歌が刻まれている。
村田刑部の妻の幽霊
 庵礼二十四輩ではこの石像は二十四輩23番とされるが、村田刑部の妻の幽霊の説話は二十四輩3番の無量寿寺に関わる次のような説話である。

 地頭の村田刑部少輔平高時の妻が、難産のため、十九歳で死亡した。高時や親戚一同が、在所の無量寺境内に葬ったが、、残された子供が心残りであるかのように、毎夜幽霊となって現れるようになった。住職が禅の教義に基づき、供養しても一向に効き目がなく、ついに住職も逃げ出し、無住寺になってしまった。

 高時や村人はは成仏できずにいる妻を不憫に思い、親鸞聖人が鹿島神宮に参詣のため、当地を通られることを知り、聖人に済度を願う。訴えを聞き入れた聖人は、村人達に、多くの小石を集めさせ、自らその小石に、一石一字ずつ浄土三部経二万六千六百十二字を書写し、幽霊出現の墓へ埋めて、念仏を称えた。すると恐ろしい幽霊は菩薩の姿に変じ、無事往生を遂げたという。「弥陀たのむ こころをおこせ 皆人の かわるすがたを みるにつけても」という親鸞聖人の歌はこのときのものと伝えられている。

 親鸞聖人はこの寺に3年逗留し布教につとめ、その後、同行していた弟子の順信に寺を譲り、これまでの禅院を浄土真宗寺院とし、無量寺に寿を加え、「無量寿寺」としたという。
親鸞聖人



令和6年7月30日 焼堂の石仏(2)(3)
焼堂の石仏(2)   法然、親鸞などの石像
 焼堂の石仏の魅力は、法然、親鸞などの石像と法然・親鸞などに関わる逸話や仏教説話を刻んだ石像群にある。これらの石像は二十四輩巡拝の石仏のある小山の麓に安置されている。法然と親鸞以外に善導大師(中国、唐の僧て浄土教の大成者)や親鸞の妻の玉日姫の像がある。一部を除き、不定形の石材の表面に花頭窓型や四角形の彫り窪みをつくり、半肉彫りであらわした像である。
 
善導大師像
 自然石の表面を平らにし花頭窓風の船型の彫り窪みをつくり、曲録に座る善導大師を半肉彫した像である。
 善導大師は中国・唐代の浄土教の大成者。法然上人は善導大師の説く称名念仏の教えをもとに、浄土宗を開いた。浄土宗では宗祖法然とならぶ高祖としている。浄土真宗でも、七高僧の第五祖とする。
 丸顔で素朴な表情の像である。後には曲録(椅子)らしきものが彫られているので、坐している像と思えるが、衣紋等の表現から曲録の前で直立している姿に見える。
 
法然上人
 自然石の表面を平らにし花頭窓風の彫り窪みをつくり、その中に三段になった高い礼盤座に両手で数珠を持って座る法然聖人を半肉彫りした像である。
 法然の肖像画を参考にして彫られたと思われ、穏やかで優しい顔をした像で、法然頭と言われる頂がやや窪んだ頭になっている。
 
親鸞聖人
 自然石の上半分に花頭窓風にした四角形の彫り窪みをつくり、両手を離して数珠を持って座る親鸞聖人を半肉彫りした像である。石材の下の部分の丸みを生かして、礼盤座は丸い形になっている。
 肖像画を参考にして彫られたと思われ、肩幅の狭いなで肩で、てるてる坊主のような姿に見える。顔をよく見ると、親鸞の肖像画の多くと同じように眉尻を上げていて、しっかりとした眼差しをしている。
 
玉日姫
 玉日姫は関白九条兼実の娘で、親鸞は師匠法然の勧めによって玉日姫と結婚したと、真宗高田派や佛光寺派では伝えられている。
 親鸞の内室といえば、恵信尼一人を指すことが多い。大正時代西本願寺の蔵から恵信尼が末娘覚信尼に宛てた書簡が発見されて以降は、本願寺では玉日姫の存在は否定されてきた。
 2012年春、京都の西岸寺の玉日姫の墓所を発掘調査したところ、骨壷と骨片が発見され、玉日姫説が重視され始めている。玉日姫と恵信尼が同一人物という説もある。
 自然石の表面を平らにして上部に方形の彫り窪みをつくり、方形の窪みいっぱいに、両手で数珠を持って立つ玉日姫像を浮き彫りにした像である。
 親鸞や法然の像と比べると薄肉彫りで立体感はないが、気品のある顔と華麗な衣装と豊かな髪の押し絵のような表現がマッチして、一途な信仰心が感じられる可憐な玉日姫像である。



焼堂の石仏(3)   法然・親鸞に関わる逸話
 焼堂の石仏の魅力の一つは法然・親鸞などに関わる逸話である。法然・親鸞に関わる逸話として知られているのが、後鳥羽上皇によって法然らが流罪の刑を受けることになる承元の法難にかかわる法然上人の弟子である住蓮・安楽と松虫姫・鈴虫姫の逸話である。その松虫姫・鈴虫姫と住蓮・安楽を表した像と土佐に流される法然と越後へ流される親鸞の別れの場面の像が焼堂の石仏の石像群の中にある。
 
住蓮・安楽と鈴虫・松虫像
   自然石の表面を平らにして、花頭窓風の彫り窪みをつくり、上下に分けて、上に住蓮・安楽の二人の僧、下に向かい合って立つ落飾した鈴虫・松虫の2人の女性を半肉彫りする。専修念仏の停止され、法然の門弟4人の死罪、法然と親鸞ら中心的な門弟7人が流罪に処された「承元の法難」のきっかけとなった伝わる事件に関わったのが、住蓮・安楽と鈴虫・松虫である。

 法然上人の説法に魅了された後鳥羽上皇の女官姉妹、松虫と鈴虫が、後鳥羽上皇の熊野参詣の留守中に、御所を忍び出て、「鹿ヶ谷草庵」で法然上人の弟子である住蓮・安楽に剃髪得度を願い、住蓮は松虫を、安楽は鈴虫を剃髪する。

 松虫と鈴虫が出家し尼僧となったことを知った後鳥羽上皇は激怒し、法然上人は讃岐へ流刑、弟子である親鸞聖人は越後国へ流刑。そして安楽は六條河原において、住蓮は近江国馬渕にて処刑される。鈴虫と松虫は承元の法難後、安芸国生口島光明三昧院に逃れ、安楽・住蓮の菩提を弔ったという。
住蓮像
   住蓮・安楽は美男で、美声の持ち主で、哀調を帯びた「往生礼讃」は、女心をゆさぶり、女性の信者が日毎に増えていったという。この石像の住蓮・安楽の2名の像は、その伝説にふさわしい瓜実顔の美男子に表されている。
 法然が弟子の住蓮・安楽と結んだ念仏道場「鹿ヶ谷草庵」の後身が京都左京区鹿ヶ谷にある安楽寺である。現在、安楽寺には、住蓮・安楽上の墓とともに松虫・鈴虫の供養搭がある。 
 
法然上人と親鸞聖人の別れ
  方形の自然石の表面を平らにして、下部の一部と縁をを残して上部が花頭窓風になった四角形の彫り窪みをいっぱいにつくり、 法然と親鸞の別れの場面を半肉彫りする。向かって右の像は、袂を風に翻して、別れゆく親鸞で、左の杖を持って立つのは法然である。

 「承元の法難」の結果、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流されることになる。ときに法然は75歳、親鸞聖人は35歳、この後、2人は生涯相まみえることはなかったのである。
法然上人と親鸞聖人の別れ(法然上人)
  親鸞は、師、法然とのお別れに際し 「会者定離 ありとはかねて聞きしかど きのう今日とは 思はざりしを」  と詠み、法然は  「別れゆく みちははるかにへだつとも  こころは同じ 花のうてなぞ」  と、詠んだと伝えられている。 



令和6年7月29日 柳生街道の石仏(11)(12)
柳生街道の石仏(11)   上出阿弥陀磨崖仏
奈良市大柳生町上出 「鎌倉後期」
 誓多林から大柳生へ出る白砂川に沿った旧柳生街道に突き出た大岩の岩壁にこの阿弥陀磨崖仏は彫られている。誓多林から大柳生への旧柳生街道は東海道自然歩道に指定されていないため、ほとんどのハイカーは忍辱山へ向かう東海道自然歩道を通るので、この磨崖仏は人の目にふれることは少ない。

 岩肌に、高さ約110㎝、幅約60㎝、深さ15㎝の方形を彫りくぼめ、蓮華座上に像高約90㎝の来迎印の阿弥陀如来立像を半肉彫りする。頭部が大きく4~5頭身ほどであるが、豊かな包容力のある力強い顔に魅力がある。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅よりより「柳生」または「石打(月ヶ瀬)」行きバス(1日3便)「忍辱山」下車。国道369号線から東海道自然歩道に入って東北に0.4㎞ほど歩き、東海道自然歩道を南にそれて白砂川沿いの農道を南へ約1㎞。
自動車・京奈和自動車道「木津」ICより木津ミナミニュータウン(梅美台)を抜けて国道369号線で東南東へ約12.2㎞。円成寺の駐車場に止めて、上記のコースで徒歩。
・または京奈和自動車道「木津」ICより木津ミナミニュータウン(梅美台)を抜けて国道369号線と県道47号線を東南東へ約16㎞。大柳生町の夜支布山口神社の南100mの広い三差路付近に車を止めて、農道(旧柳生街道)を南西へ南1㎞。



柳生街道の石仏(12)   北出橋阿弥陀磨崖仏
奈良市阪原町中村  「文和5(1356) 南北朝時代」
 阪原北出橋近くの白砂川の川岸の大きな岩に彫られている。川の清流と溶け合った風景は素晴らしく、入江泰吉や佐藤宗太郎など多くの写真家がこの風景を撮っている。

 方形の枠の中に壺形の光背を深く彫りくぼめて、像高91㎝の来迎阿弥陀像を半肉彫りしたもので、文和五(1356)年の北朝の年号を刻む。保存状態も良く、南北朝時代を代表する磨崖仏である。品の良い整った顔であるが、上出阿弥陀磨崖仏に比べると力強さに欠ける。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅よりより「柳生」または「石打(月ヶ瀬)」行きバス(1日3便)「阪原北出」下車。南西の白砂川の川岸。
自動車・京奈和自動車道「木津」ICより木津ミナミニュータウン(梅美台)を抜けて国道369号線で東南東へ約17㎞。
・または第二阪奈道路出口より東北東へ約23㎞。



                               
令和6年7月28日 大分市の磨崖仏(5)
大分市の磨崖仏(5)   高瀬石仏
大分県大分市高瀬910-1 「平安時代後期」 国指定史跡
 
深沙大将・大威徳明王・大日如来・如意輪観音・馬頭観音
 
 高瀬石仏は、霊山の山裾が、大分川の支流、七瀬川に接する丘陵にある石窟仏である。高さ1.8m、幅4.4m、 奥行き1.5mの石窟の奥壁に像高95~139㎝の馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5像を厚肉彫りする。赤や青の彩色が鮮やかに残り、馬頭観音や大威徳明王の火炎光背や大日如来の光背の唐草文様などは印象的である。

 中尊は丸彫り近い厚肉彫りで、宝冠をいだいた、法界定印の退蔵界大日如来である。他の4体は半肉彫りで、如意輪観音像の動的な姿態や大威徳明王が乗る牛の体勢など立体的な絵画表現を巧みに行なった秀作である。

 高瀬石仏で最も知られているのが、左端の深沙大将である。赤い頭髪を逆立て、胸に9個の髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。腹部には童女の顔が描かれている。深沙大将は葛城山の護法神で毘沙門天の化身とされ、馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の配列は葛城山系の修験道との関連が考えられる。

 これらの諸像は神秘的であるが、表現は穏和で柔らかみがあり、平安時代後期の作と考えられる。国の史跡に指定されている。
 
大日如来
 
深沙大将
 
大威徳明王
 
如意輪観音・馬頭観音
 
如意輪観音
 
馬頭観音
 
アクセス
・JR大分駅府内中央口(北口)⑤のりば「富士見ヶ丘」「野津原」「ふじが丘」「わさだタウン(三愛)」「田尻ニュータウン 」行き乗車、「三愛メディカルセンター」下車南へ徒歩15分。
自動車・九州横断自動車道「大分光吉」料金所より南西へ約4㎞。



   
令和6年7月27日 焼堂の石仏(1)
焼堂の石仏

親鸞の説話と二十四輩の石仏
 
二十四輩第一番・報恩寺 村田刑部の妻の幽霊を静める親鸞聖人 親鸞上人の妻、玉日姫 嫁おどし肉付きの面
 香川県の南部、徳島県との県境付近、塩江温泉で知られる高松市塩江町の焼堂地区に二十四輩霊場を勧請した石仏群がある。県道沿いの小山の麓から頂上にかけての山道に二十四輩霊場石仏を安置している。

 焼堂の二十四輩霊場は昭和7年に開かれたものであり、旧塩江町が設置した「二十四輩由来」と題する案内板には二十四輩の説明とともに「後に二十四の草庵(道場)を巡拝する風が起こり、二十四輩と言われるようになりました。しかし、徳風を慕うために関東まで行くには困難なので、遠い地にあっても参詣できるように建立したものです。この二十四輩さんは、昭和二年にこの地で開眼されました。…」と記している。

 焼堂の石仏の魅力は、法然、親鸞などの石像と法然・親鸞などに関わる逸話や仏教説話を刻んだ石像群にある。これらの石像は二十四輩巡拝の石仏のある小山の麓に安置されている。

 二十四輩石仏は他にも見られ高松市の牟礼町と庵治町2町にまたがる「庵礼二十四輩」が知られていて、ここでは庵礼二十四輩23番の幽霊を静める親鸞聖人を扱った珍しい石像を紹介する。
 



焼堂の石仏(1)   二十四拝の石仏
 二十四拝とは関東で親鸞上人の教えを受け、念仏を布教した報恩寺を建立した性信 など二四人の直弟子、またその遺跡寺院をいう。上人の孫の覚如上人が親鸞上人の正統の人二十四人を選んで関東地方での教義の広宣弘布につとめたもので、のちに二四人の直弟子を開基とする寺院巡拝の風潮がおこり二十四輩といわれるようになった。

  江戸中期以降「西国観音巡礼」や「四国八十八箇所遍路」の本尊を石仏で表したミニ霊場と同じように、二十四拝の寺院の本尊阿弥陀如来を石仏で表したミニ霊場が設けられた。全国的な分布状況はわからないが、香川県のこの焼堂の二十四拝霊場と「庵礼二十四輩」がよく知られている。

 小山の麓から頂上にかけての山道に第一番・報恩寺から第24番・西光寺までを表す阿弥陀石仏を安置している。石仏は船型光背を背負った半肉彫りの立像で蓮華座の下に奉納者名を刻む。小山には二十四輩の各阿弥陀石仏以外に釈迦石仏や五劫思惟阿弥陀如来、聖徳太子像、善光寺阿弥陀三尊などの石仏が見られる。
 
第一番・報恩寺
 二十四輩の筆頭は性信(しょうしん)で、常陸国の出身。法然に師事して浄土教を学び、のちに親鸞に帰依した。関東で布教につとめ,下総(しもうさ)横曾根(よこぞね)の報恩寺などを建立した。従って二十四輩寺院の第一番は報恩寺である。

 石仏は船型の石材に厚肉彫りした、蓮華座に立つ放射光光背を負った阿弥陀立像でこけしのような簡略化した表現の石仏である。可愛らしい面相が印象的である。向かって左に「報恩寺」、右に「第一番 武蔵国」と刻む。性信の流れを組む報恩寺は茨城県常総市と東京上野にあり、「二十四輩会」は東京の報恩寺を第一番としている。
 
第二番・専修寺
 二十四輩の第2番は真仏(しんぶつ)で、武士の出身といわれ、関東教化中の親鸞に入門。親鸞の跡をついで下野高田専修寺の住職となる。  石仏は船型の石材に厚肉彫りした、蓮華座に立つ放射光光背を負った阿弥陀立像で、第一番は報恩寺に似たこけしのような簡略化した表現の石仏である。向かって左に「専修寺」、右に「第二番 下野国」と刻む。
 
釈迦如来
 第一番報恩寺の手前に安置されている石仏で、自然石の表面を平らにして花頭窓風の船型の彫り窪みをつくり、蓮華座に立ち左手で胸前に宝珠のようなものを持った半肉彫像である。向かって右に釈迦如来と刻まれている。しかし、頭髪は肉髻・螺髪の如来姿ではなく、角髪のような髪型で、太子像のように見える。
 
聖徳太子
 船型の石材に聖徳太子立像を半肉彫りしたもので、柄香炉を持った十六歳像(孝養太子)である。
 
五劫思惟阿弥陀像
 五劫思惟阿弥陀は阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間(計り知れない長い時間)ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をしている様子を表したもので、一般的には頭部螺髪が異様に大きく伸びた阿弥陀如来像で表す。
 この阿弥陀像は苦行釈迦像と同じように目が落ち込み、がりがりに痩せ、右手を曲げて手を頬に当てて思索にふける姿で、思惟・修行する様子を表した珍しい像である。これと同じ五劫思惟阿弥陀像は、庵礼二十四輩にも見られる。
 
善光寺阿弥陀三尊
 自然石の表面を平らにし花頭窓風の船型の彫り窪みをつくり、善光寺式阿弥陀三尊を半肉彫した像である。
   インド・中国・朝鮮・日本と伝わったという長野の善光寺の本尊は秘仏で誰も見たものはいない。その本尊を模したという阿弥陀如来立像を善光寺式阿弥だと呼ぶ。両脇持とともに同一の大きな光背を背にした一光三尊形式の像で、中尊の阿弥陀の印相は右手をあげて施無畏印とし、左手は垂れて薬指と小指を曲げ、他の指を伸ばした印となっている。両脇持は山型の宝冠を着け、両手を胸元で重ね合わしている
 浄土真宗高田派及び一部門徒は善光寺式阿弥陀を本尊とする。



令和6年7月26日 柳生街道の石仏(9)(10)
柳生街道の石仏(9)  円成寺の石仏
奈良県奈良市忍辱山町1273-1 
 
阿弥陀座像 「天文19(1550)年 室町後期」
 
地蔵立像 「永禄元(1558)年 室町後期」
 
地蔵座像 「室町後期」
 忍辱山には運慶の若き頃の作である大日如来座像(国宝)で知られた円成寺がある。円成寺は奈良時代の創建と伝えられる古寺で、定朝様式の阿弥陀如来や来迎二十五菩薩の壁画が残る阿弥陀堂・史跡にしてされた平安時代の庭園などみどころの多い寺である。

 石仏は室町時代が中心で古いのはない。本堂の西側に三体の石仏が並んでいる。向かって右側から阿弥陀如来、地蔵菩薩、地蔵菩薩である。3体とも室町時代の石仏で鎌倉時代の石仏と較べると、衣紋等は抽象的で、様式化が進んでいる。ともに典型的な室町時代の石仏で鎌倉時代の石仏と較べると、衣紋等は抽象的で、様式化が進んでいる。

 右端の阿弥陀如来は高さ123cm、幅60cmの船形光背を背負って蓮華座に座す半肉彫りの定印阿弥陀像で、像脇に「天文十九(1550)年二月十五日重栄」の刻銘がある。衣紋等は図案化されているが、顔は張りがあり、魅力的である。

 真ん中の永禄元(1558)年の地蔵菩薩は船形光背を背負った、蓮華座に立つ錫杖、蓮華持ちの像高70㎝の半肉彫り像で、典型的な室町時代の様式を示す。向かって左に端の地蔵は像高86㎝の錫杖・宝珠持ちの座像で頭部は、丸彫りに近い掘り出しである。この像も室町後期の作である。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅よりより「柳生」または「石打(月ヶ瀬)」行きバス(1日3便)「忍辱山」下車すぐ。
自動車・京奈和自動車道「木津」ICより木津ミナミニュータウン(梅美台)を抜けて国道369号線で東南東へ約12.2㎞。
・または第2阪奈道路出口より東北東へ約18㎞。



柳生街道の石仏(10)  忍辱山墓地の石仏
奈良県奈良市忍辱山町 「室町後期」
 
七体阿弥陀石仏 「元亀二(1571)年 室町後期」
 
九体阿弥陀石仏 「元禄元(1688)年 江戸時代」
 
地蔵立像 「天文六(537)年 室町後期」
 円成寺と国道をはさんだ南の忍辱山墓地にも室町時代の石仏が多くある。特に目を引くのは七体阿弥陀石仏である。他に九体阿弥陀石仏、五輪塔(元享元(1321)年・重文)などがある。

 七体阿弥陀石仏は高さ128cm、幅66cmの船型板碑の表面に7体の定印阿弥陀座像を半肉彫りする。上部に阿弥陀三尊の種子を刻み、中央部に室町末期の「元亀二(1571)年」の年号がある。一番上の阿弥陀像を除く六体の阿弥陀像の横に「スケ二郎」「マタ六」などと像立者or供養者の名前を刻む。

 九体阿弥陀石仏は高さ97cm、幅67cmの頂上を山形にした板碑の表面に九体の定印阿弥陀座像を半肉彫りしたもので、江戸初期の「元禄元(1688)年」の刻銘がある。墓地入り口付近には「天文六(537)年」の刻銘のある室町後期の地蔵立像がある。高さ134cmの船型光背を背負った錫杖、蓮華持ちの像高70㎝の半肉彫り像で、円成寺の三体の石仏の中央の像とよく似た穏やかな顔の石仏である。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅よりより「柳生」または「石打(月ヶ瀬)」行きバス(1日3便)「中池」下車、(1日3便)南東へ0.4。㎞・
自動車・京奈和自動車道「木津」ICより木津ミナミニュータウン(梅美台)を抜けて国道369号線で東南東へ約12㎞。
・または第2阪奈道路出口より東北東へ約18㎞。



令和6年7月25日 大分市の磨崖仏(3)(4)
大分市の磨崖仏(3)   曲石仏
大分県大分市上野丘東5 「平安時代後期」 県指定史跡
 
阿弥陀三尊
 
釈迦石仏
 
多聞天
 
持国天
 大分川の右岸に標高50mほどの丘陵があり、丘陵上に森岡小学校がたっている。その丘陵の東南の一角に南に開いた2つの石窟がある。

 向かって左の石窟は、高さ2.2m、幅4.9m、奥行3mで、中央壁に阿弥陀三尊像を厚肉彫りする。中尊像は像高109cmで、二重の蓮華上に座る定印の阿弥陀如来像である。光背は舟形で、伽藍石仏や上岡十三重塔四方仏(佐伯市上岡)・王子九重塔四方仏(野津町王子)と同じように羽毛を重ねたような形式である。このような光背の石仏としては最も古い、平安末期の作という。

 向かって右の石窟は、間口3m、奥行7m、高さ6mの大きな石窟で、中に像高3mに及ぶ丸彫りの座像の石仏が安置されている。頭・胸・腰・両膝部の合計5つの石材を組み合わせて作ったもので、釈迦如来と伝えられている。木造彫刻の寄せ木の技法を石仏制作に生かしたもので、臼杵石仏や元町石仏と同じように木仏師が制作に関わった可能性が考えられる。鎌倉時代の作である。(むろまちし)石窟の入口の壁には門神として、向かい合うように高さ約150mの多聞天と持国天の二天を半肉彫りする。石窟の内部には小龕が作られ、幾つかの石仏が置かれている。
アクセス
・JR大分駅前 府内中央口(北口)④③のりばから「敷戸団地」方面・「寒田ふじが丘」「大南団地」「臼杵駅」行きなどのバス乗車、「光吉入口」下車。 北東へ徒歩約1.6㎞で曲石仏入り口。
 (「光吉入口」バス停より国道10号線を南南東へ200m、焼き肉店の手前を右折し北東へ350m、左折して橋を渡り400m、「曲石仏」の案内に従って右折し600mで曲石仏入り口)
自動車・九州横断自動車道「大分」IC料金所より南東へ約6.3㎞。(国道10号線の「府内大橋」を渡った「光吉入口」バス停からは上記参照。)



大分市の磨崖仏(4)   伽藍石仏
大分県大分市南太平寺 「鎌倉末期~室町時代」
 
阿弥陀座像(右の石窟龕)
 
菩薩像(右の石窟龕)
 
阿弥陀座像(中央の石窟龕)
 上野丘陵の南端、市立美術館の南の斜面に通称「伽藍」様と呼ばれる小社がある。その小社前の広場の前の崖に小石窟が3つ並んでいて、阿弥陀如来座像などか半肉彫りされている。これが大分市指定史跡の伽藍石仏(南太平寺磨崖仏)である。鎌倉時代末期から室町時代の作という。

 向かって右の窟龕は、内部は1㎡ほどの広さで、蓮華座に乗る端正な像高約57㎝の阿弥陀如来座像が半肉彫りされている。顔面が摩滅しているが惜しまれる。光背は舟形であるが、如来及び円光との間を弧線で繋ぎ、あたかも鳥の羽を重ねたようになった珍しい形式である。入口の左に菩薩像の頭部と胸部の一部が残っている(案内板には多聞天立像となっていた)。

 中央の窟龕の奥壁にも、右窟と同じ形式の光背を持つ、像高約54㎝の阿弥陀如来座像が半肉彫りされている。顔は右窟の像と比べるとのびびやかさに欠ける。顔も丸顔である。鳥の羽を重ねたような光背は朱色と墨で彩られている。左端の窟龕は摩滅して現在、何も残っていない。
アクセス
・JR 久大線「古国府」駅下車西へ徒歩700m。JR大分駅前 上野の森口のりばから「大分市美術館」行乗車「大分市美術館」下車。南へ 約0.4㎞で伽藍石仏。
 (「光吉入口」バス停より国道10号線を南南東へ200m、焼き肉店の手前を右折し北東へ350m、左折して橋を渡り400m、「曲石仏」の案内に従って右折し600mで曲石仏入り口)
自動車・九州横断自動車道「大分」IC料金所より大分市美術館前を通って東へ約4㎞。伽藍石仏周辺の道は狭いので大型車は大分市美術館の駐車場に止めて徒歩。



令和6年7月24日 柳生街道の石仏(7)(8)
柳生街道の石仏(7)   新池上手の阿弥陀磨崖仏
奈良県奈良市白毫寺町  「室町時代」
 地獄谷新池の北の山の中にある磨崖仏で、周遊歩道沿いの山の中の道にある。大きな岩に舟形光背を彫りくぼめて、蓮華座に立つ来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。滝坂の道の磨崖仏に比べると表現は硬く、衣紋も抽象的で、室町中期の様式を示す。石仏としては劣るが苔むした岩肌に刻まれたこの像は印象的である。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を3.1㎞。首切り地蔵付近から地獄谷新池の周遊歩道通って0.5㎞。
自動車・草山ドライブウェイ高円山コース終点に車をとめて、少し戻って柳生街道を西へ、少し進んだ所の新池の周遊歩道への山道沿い。または、県営高畑駐車場より徒歩で旧柳生街道を3.2㎞、首切り地蔵付近から地獄谷新池の周遊歩道通って0.5㎞。



柳生街道の石仏(8)  芳山二尊仏
奈良県奈良市高畑町芳山    「奈良時代」
 
南面(釈迦如来?)
 
西面(阿弥陀如来?)
 仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。  林の中の急斜面を登った芳山の峰の上に、この芳山二尊石仏は立っている。高さ184㎝、幅152㎝、奥行き約1mk自然石風の花崗岩の南面と西面に、説法印の如来立像を半肉彫りしている。両像とも、広い肩幅、がっしりとした腰や、薄い絹衣をまとったような刻みの衣紋など唐招提寺や大安寺の天平後期の木彫仏と共通する表現となっている。

 両像とも形姿はほぼ同一であるが、受ける印象は少し違う。西面像は貞観仏に通じる量感と逞しさが感じられるのに対して、南面像は天平仏の深い精神性を感じさせる顔が魅力的である。印相が同じであるので、尊命は決めにくいが、南面像を釈迦如来、西面像を阿弥陀如来として、このページでは掲載する。

 石仏写真家佐藤宗太郎氏は芳山二尊石仏が立石として石が生きている点を高く評価され、「石に対する固有信仰を基礎とした仏像造型の様々な精神性を一個の石像に見事に凝結せしめたものとして、やはり日本の石仏の一つの出発点と考えられる。」(『石仏の美Ⅲ 古仏への憧れ』木耳社)と述べられている。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を3.1㎞で首切り地蔵。首切り地蔵より旧柳生街道を高円山ドライブウェーを横切り東へ2.3㎞。峠の村の神社の小さな鳥居の見えるところを左におれ、山道を1㎞。
自動車・奈良奥山ドライブウェイ高円山コースより、誓多林方面への林道(旧柳生街道)を東に約1㎞。誓多林公衆トイレ付近に車を置き、峠の神社の前より山道を徒歩1㎞。



   
令和6年7月23日 大分市の磨崖仏(1)(2)
大分市の磨崖仏
 
 
 磨崖仏の宝庫、大分県には、磨崖仏の所在地は70ヶ所以上ある。その4分の1以上は、国や県指定の史跡や重要文化財になっている。<大分県の磨崖仏の所在地は、大きく3地区に分けることができる。その中で一般に知られているのが、熊野磨崖仏を中心とした県北部の宇佐・国東半島地区と臼杵磨崖仏を中心とした県南部臼杵地区である。もう一つが、元町磨崖仏・菅尾磨崖仏に代表される県中部地区である。

 県中部地区の磨崖仏は「菅尾石仏」に代表される大野川流域地区と「元町石仏」に代表される大分市の大分川下流地区にわけることができる。大分川下流域には、国の史跡の「元町石仏」「高瀬石仏」や県の史跡「曲石窟仏」がある。これらの磨崖仏は平安時代後期の作で、大野川流域の磨崖仏と同じように奈良時代に「日羅」が制作したという伝説を持ち、「臼杵石仏」「熊野磨崖仏」「菅尾石仏」などとともに、日本を代表する磨崖仏である。



大分市の磨崖仏(1)   元町石仏
大分県大分市元町2-25 「平安時代後期」 国指定史跡
 大分市街の南東部、JR九大線近く、道路に面した通称薬師堂といわれる堂内に、元町磨崖仏がある。元町磨崖仏は三尊形の磨崖仏で、本尊は薬師如来と伝えられる像高が3mを越える如来形座像である。向かって右には多聞天立像、左には不動明王立像と矜羯羅童子とセイタカ童子が刻まれているが、共に首が欠落していて、共に昔の面影はない。

 臼杵石仏と同じく丸彫りといってよいほどの厚肉彫りである。向かって左の頬の下部が現在剥落し、両手首から先も欠失しているが、整った螺髪、伏目て締まった唇、円満相で豊かな頬、厚い胸など定朝形式の木彫仏を思わせる秀作である。若杉慧氏は「石佛のこころ」の中で「石佛の王者」と表現された。

 岩男順氏著「大分の磨崖仏」によれば、この磨崖仏は剥落した部分に鉄釘を打ち込んだ跡や右手首の付け根の鉄芯などから、地石の不足する部分を粘土や別石で仕上げた、塑造・木造・石造彫刻の技法が併用された豊後地方磨崖仏制作技術の自由さをを示す磨崖仏であるという。

 そのせいか、熊野磨崖仏や日石寺不動磨崖仏のように岩を生かし、岩と一体となった美しさに乏しく、私には「石佛の王者」という言葉がこの元町磨崖仏には不似合いなような気がする。しかし、本尊の迫力のある体躯とともに優しい眼差しは魅力的である。国指定史跡。
アクセス
・JR大分駅前 府内中央口(北口)③④番のりばから「敷戸団地」「高江NT」「古国府循環」行 約7分「薬師堂前」下車、徒歩約5分。
・JR大分駅 上野の森口(南口)より南東へ徒歩2.2㎞。またはJR久大線「古国府」駅下車、東へ950m。
自動車・九州横断自動車道「大分」IC料金所より東へ約5㎞。



大分市の磨崖仏(2)   岩屋寺石仏
大分県大分市上野丘東5 「平安時代後期」 県指定史跡
 
十一面観音
 
菩薩形像・如来形像・菩薩形像
 大分元町石仏から南西に約600mの丘陵の崖にある。に当たる。像高約180㎝の如来坐像(推定)を中央に,計17体の磨崖仏からなる。平安時代後期の作と考えられるが、風化剥落が著しく、見るも無惨な状態となっている。しかし、向かって右端の十一面観音立像は比較的よく姿を残していて、彩色が残る流麗な衣紋に往時の盛観がしのばれる。

 元町磨崖仏と同じ崖続きにあり、元町磨崖仏とともに宇佐八幡宮文書「宇佐大鏡」に記されている「岩屋寺」の遺構と言われている。
アクセス
・JR大分駅前 府内中央口(北口)④③のりばから「古国府循環」行約10分「古国府」下車 徒歩約1分
・またはJR久大線「古国府」駅下車、東へ600。
自動車・九州横断自動車道「大分」IC料金所より東へ約5㎞。



令和6年7月22日 柳生街道の石仏(6)
柳生街道の石仏(6)   春日山石窟仏
奈良市春日野町 春日奥山 「保元2(1157)年」 史跡
六地蔵(東窟)
 
六観音(東窟)
 
西窟(多聞天・阿弥陀如来・如来坐像)
 
西窟(阿弥陀如来)
 
西窟(多聞天)
 奈良奥山ドライブウェーは高円山コースと奈良奥山コースト・新若草山コースにつながっているが、一方通行で高円山コース側からは車は入れない。したがって、奈良奥山コースの出口が高円山コースの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。

 春日山石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。

 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。東窟の西壁には、頭光背を背負った厚肉彫りの像高90㎝ほどの地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。左端の一体は右手は与願印で、左手に宝珠を持つ。残りの三体は両手を胸前に上げ、何かを捧げる形であらわしている。一体一体、表情は異なるが顔は引き締まった中に穏やかさをみせている。

 東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。

 西窟は金剛界の五智如来座像が彫られていて、左端の阿弥陀如来と思われる一体と多聞天のみがほぼ完全な姿で残っている。阿弥陀如来は像高94㎝で、穏やかな満月相で、なだらかな丸みを持った肩や流麗な衣紋など典型的な藤原様式となっている。 多聞天は顔の部分は痛んでいるが、火焔光背を背負い邪鬼を踏み、右手に矛、左手に宝塔を捧げ持つ姿が鮮やかに残っている。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を3.6㎞。
自動車・草山ドライブウェイ高円山コース終点に車をとめてすぐ。または、バス停「破石町」近くの県営高畑駐車場より旧柳生街道を徒歩3.7㎞。



令和6年7月21日 柳生街道の石仏(5)
柳生街道の石仏(5)  地獄谷聖人窟
奈良市白毫寺町 地獄谷  「奈良時代~鎌倉時代」 史跡
 
如来坐像(弥勒・釈迦・盧遮那仏など諸説)
 
十一面観音
 
如来立像(薬師如来?)
 首切り地蔵の分かれ道を左に行くと、地獄谷に通じる。地獄谷の名は、昔この付近に屍をすてたところからでた地名とも、春日山中の地中に地獄があると考えられたところから生まれた地名ともいわれる。その地獄谷の山中の凝灰岩層の露出した岩場に石窟が彫られていて、壁面に数体の線刻像が刻まれ彩色されている。それが、通称聖人窟と呼ばれる、線刻の磨崖仏の傑作である。

 現在、はっきりと残っているのが3体で、奥壁の中央には、座高1mあまりの施無畏・与願印の如来像が彫られている。胸には卍が刻まれているとのことであるが、金網で保護されていて近づけないので確認できなかった。尊名は弥勒・釈迦・盧遮那仏など諸説がある。のびのびとした流麗な線で衣紋を描き、顔は東大寺大仏の蓮弁に刻まれた如来像によく似ていて、豊かな気品のある顔である。造立年代は天平から鎌倉まで諸説がある。

 如来像の向かって左側には、二重円光背を背負った施無畏・与願印の如来立像で、吉祥薬師像(無憂最勝吉祥王如来)であるという説がある。右側には同じく二重円光背を背負った十一面観音が彫られている。中尊に比べると線は伸びやかさに欠け時代は下ると思われる。東壁面には妙見菩薩が刻まれているとのことであるが金網の外からは確認できなかった。 
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を3.1㎞、首切り峠付近で右折し、奈良奥山ドライブウェイ高円山コースの地獄谷の駐車スペースを経て約1㎞。
自動車・奈良奥山ドライブウェイ高円山コース終点より地獄谷の駐車スペースから0.5㎞。または、バス停「破石町」近くの県営高畑駐車場より旧柳生街道0を経て徒歩4.1㎞。



令和6年7月19・20日 柳生街道の石仏(1)~(4)
   
柳生街道の石仏
   
夕日観音 地獄谷聖人窟 あたや地蔵
 
 奈良市高畑町から柳生まで続く旧柳生街道には、平安時代後期から室町時代の石仏・磨崖仏が多くあり、石仏に興味ある人にとっては是非とも訪れたいところである。

 高畑町は、志賀直哉をはじめとする多くの文化人が住み、愛した住宅地で、新薬師寺をはじめ、志賀直哉旧居や入江泰吉の作品を展示する奈良市立写真美術館など、観光客にとってもみどころの多い町である。バス停「破石町」から、高畑町の古い町並みを東へ進む道が柳生街道である。
 

柳生街道地図

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滝坂の道 (夕日観音)
 
 高畑の町並みを過ぎて、人家か途絶えた所から、能登川の渓流沿いの石畳の道になる。この石畳の道が滝坂の道とよばれ、杉や楓の老木が茂り、最も旧街道の面影を残す道である。また、石仏の道でもある。「夕日観音」・「朝日観音」などと呼ばれている弥勒磨崖仏や滝坂地蔵などの磨崖仏がある。
 
春日奥山 (地獄谷聖人窟)
 
 能登川の上流は地獄谷新池で、池の周りの紅葉は特に美しい。この池の手前の分かれ道に荒木又衛門が試し切りしたと伝えられる「首切り地蔵」がある。この分かれ道を右へ行き南へ20分ほど歩くと「地獄谷聖人窟」が、左へ進み、柳生街道をしばらくいくと、「春日石窟仏(穴仏)」がある。ともに、平安時代の後期を代表する石仏で国の史跡に指定されている。

 石畳の道をさらに東に進むと、高円山ドライブウェーを経て、誓多林への林道にでる。この林道も旧柳生街道で、峠には江戸時代から続いているという茶屋がある。茶屋の少し先、村の神社の小さな鳥居の見えるところを左におれ、山道を1㎞ほど行った山の尾根に「芳山二尊石仏」がある。この石仏は奈良時代末期の石仏として知られている。

滝坂の道・春日奥山地図

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忍辱山・阪原・大柳生・柳生 (ほうそう地蔵)
 
 誓多林から忍辱山までへは東海道自然歩道に指定されたハイキングコースを進む。忍辱山には運慶の若き頃の作である大日如来座像(国宝)で知られた円成寺がある。円成寺と近くの忍辱山墓地には室町時代の石仏が多くある。また、忍辱山の東の白砂川沿いの岩には鎌倉期の阿弥陀磨崖仏が彫られている。

 忍辱山から大柳生を経て阪原までは柳生街道は田畑が広がる田舎道になる。阪原の北出橋の近くの白砂川岸壁には南北朝時代の阿弥陀磨崖仏がある。旧柳生街道は阪原の南明寺からは再び峠越えの山道になる。

  峠を越えて、柳生の村に入る手前の巨岩には、「ほうそう地蔵」称される鎌倉時代の地蔵石仏が彫られている。この石仏の横には正長の土一揆の徳政碑が刻まれていて、有名である。柳生城は現在跡だけが残っていて柳生家が栄えた当時の面影はないが、沢庵和尚が開いた柳生家の菩提寺、芳徳寺や家老屋敷に江戸時代の名ごこりが残る。柳生から笠置へ向かう道の、川向こうの岸壁には「あたい地蔵」と呼ぶ阿弥陀と地蔵の磨崖仏が彫られている。

忍辱山周辺地図

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阪原町・柳生地図
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柳生街道の石仏(1)  夕日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「鎌倉時代」
 能登川の渓流沿いの石畳の道・滝坂の道を2㎞ほど歩くと、寝仏と呼ばれる転落した大日如来石仏がある。そこから北側の山手に急な道を20mほど登るとこの磨崖仏がある。夕陽に映える姿が美しいので、通称「夕陽観音」と呼ばれている。

 「夕陽観音」は、傾いた大きな三角形の花崗岩の巨岩に、二重光背を彫りくぼめ、右手を下にのばし、左手を上げた施無畏・与願印の立像(像高1.6m)を半肉彫りした磨崖仏で、観音ではなく如来形の弥勒仏である。滝坂の道の数ある磨崖仏の中では最も整った優美な石仏である。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を2.4㎞。
自動車・草山ドライブウェイ高円山コース終点より旧柳生街道を西へ徒歩2.4㎞。または、バス停「破石町」近くの県営高畑駐車場より旧柳生街道を徒歩1.2㎞。



柳生街道の石仏(2)   三体地蔵・滝坂地蔵
奈良市春日野町 滝坂の道  「南北朝時代・鎌倉時代後期」
 夕陽観音に登る道の途中に、三体地蔵磨崖仏がある。 三体とも右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。摩滅風化が激しく、岩肌の模様が目立ち、かろうじて地蔵菩薩の面影をとどめている。南北朝時代頃の作と思われる。

 三体地蔵磨崖仏の所から、夕陽観音と逆の右の方へ進み、上方の岩を見上げるとそこに、滝坂地蔵と呼ばれる等身大の地蔵磨崖仏がある。上方の突き出た岩に二重光背を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ、地蔵菩薩立像を半肉彫りしたもので、鎌倉末期の様式を示し、滝坂の道の地蔵菩薩の中では最も整った石仏である。

 滝坂の道からは見えない位置にあるためにほとんどのハイカーはこの石仏にきづかずに通り過ぎていくが、晩秋の紅葉に映えた滝坂地蔵の姿は美しい。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を2.4㎞。
自動車・草山ドライブウェイ高円山コース終点より旧柳生街道を西へ徒歩1.5㎞。または、バス停「破石町」近くの県営高畑駐車場より旧柳生街道を徒歩2.4㎞。


柳生街道の石仏(3)  朝日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「文永2(1265)年 鎌倉時代」
地蔵・弥勒・地蔵
弥勒如来
地蔵菩薩
地蔵菩薩
 夕陽観音から滝坂の道を500mほど進むと、東面した高い岩壁に、通称「朝日観音」と呼ばれる3体の磨崖仏が彫られている。夕陽観音と同じように観音ではなく中尊は約2.3mの弥勒如来立像である。左右に地蔵立像が彫られている。弥勒如来の左右の刻銘に「文永弐年乙丑十二月」の紀年があり、文永2(1265)年に造立されたことがわかる。

 夕陽観音とよく似た作風であるが、夕陽観音と比べるとやや彫りは浅く、浮き彫り風である。左の錫杖・宝珠を持つ地蔵も同じ作風を示す。右の舟形光背の地蔵は錫杖を持たず、春日本地仏の姿をしていて、後世の追刻である。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を2.9㎞。
自動車・草山ドライブウェイ高円山コース終点より旧柳生街道を西へ徒歩1㎞。または、バス停「破石町」近くの県営高畑駐車場より旧柳生街道を徒歩2.2㎞。



柳生街道の石仏(4)   首切り地蔵
奈良市春日野町 春日奥山  「鎌倉後期」
 滝坂の道を朝日観音から少しのぼると、道は3つに分かれ、柳生街道は能登川の渓流から離れ、滝坂の道は終わる。その分かれ道に「首切り地蔵」がたっている。像高約1.8mの大ぶりの地蔵菩薩で鎌倉後期の作風を示す。

 首のところで折れていて、荒木又衛門が試し切りをしたと語り伝えられていて、辻の地蔵として昔から旅人などの信仰を集めていた。
アクセス
・JR「奈良」駅または近鉄「奈良」駅より市内循環バス「破石町」下車、旧柳生街道を3.2㎞。
自動車・草山ドライブウェイ高円山コース終点より旧柳生街道を西へ徒歩0.4㎞。または、バス停「破石町」近くの県営高畑駐車場より旧柳生街道を徒歩徒歩3.2㎞。



  
令和6年7月18日 吉備の中世石仏・石塔(3)(4)
吉備の中世石仏・石塔(3) 楢津阿弥陀石仏
岡山市北区楢津3043 「室町初期」
 岡山市楢津の若宮八幡宮参道脇に宝篋印塔とともに阿弥陀石仏が祀られている。分厚い舟形光背を負った厚肉彫りの定印の阿弥陀如来座像である。衣文の襞が摩耗のため見られず裸のように見える。やや硬さが見られるが優雅な顔をした阿弥陀仏で鎌倉時代の名残か残る室町初期の造立と思われる。

 この石仏は道路の下の田んぼから掘り出されたもので、明治時代の廃仏毀釈のため、粗末にされた八幡宮関係の石仏ではないかと言われている。
アクセス ・岡山駅バスターミナル6番より中鉄バス「吉備高原都市」線または「佐山団地線・リサーチパーク」線乗車、「平津」または「平津橋」下車。「平津」バス停より、東北東へ550m。「平津橋」バス停からは北東へ700m。

自動車 山陽自動車道「岡山」ICより南へ3.8㎞。




  
吉備の中世石仏・石塔(4) 保月三尊板碑・六面石幢・宝塔
岡山県高梁市有漢町上有漢 
 岡山県には国の重要文化財に指定された石仏はみられないが、宝塔などの石塔は何体か見られる。その内、2つが高梁市有漢町上有漢にある。保月三尊板碑と保月六面石幢である。ともに鎌倉後期、大和の伊派の仏師、伊行恒(井野行恒)の作である。伊行恒は和歌山県地蔵峰寺地蔵石仏(重文)や奈良市南田原のきりつけ地蔵(阿弥陀磨崖仏)などの作者として知られている。
保月三尊板碑 「嘉元3年(1305) 鎌倉後期」
 

釈迦
 

阿弥陀
 

地蔵
 

保月六面石幢 「嘉元4年(1306) 鎌倉後期」
 

二面(観音) 一面(弥陀・薬師・釈迦・地蔵・弥勒・不動・普賢)
 

二面(観音)
 

三面(勢至)
 

五面(虚空像)・四面(弥陀)
 

六面(不動)
 

一面(薬師・釈迦・地蔵・弥勒)
 

一面(不動・普賢)
 

保月宝塔 「嘉元3年(1305) 鎌倉後期」
 保月三尊板碑は高さ約315㎝の花崗岩製の板碑で身部上方に、三尊像を三段にあらわす。三尊はそれぞれ二重円光の彫り窪めの中に蓮座に坐す、釈迦・阿弥陀・地蔵を薄肉彫りしたもので、行恒の作らしい力強い板碑である。「嘉元三年(1305)」「大工井野行恒」などの刻銘を刻む。

 三尊板碑から20mほど離れた保月山高雲寺跡に宝塔とともに六面石幢が立っている。

 六面石幢は花崗岩製で、高さ263㎝、頂上に小五輪塔の水輪以上がのせられているが、笠と六角柱の幢身部分は造立当時のものである。幢身の各部の上部に、二重円光の彫り窪めの中に仏菩薩など(弥陀・観音・勢至・弥陀・虚空像・不動)の像容を薄肉彫する。第一面の弥陀の下には、釈迦・弥勒・普賢・薬師・地蔵・不動を、他の面の彫像下には種子を、そのまた下に銘や偈を刻まれている。各彫像は小さいが、迫力があり、重要文化財にふさわしい石幢である。第6面下方に「嘉元四年(1306)十月廿四日、願主沙弥西信結儀西阿、大工井野行恒敬白」と刻む。

 並んで立つ宝塔も行恒の作で、基礎・笠・相輪が当初のもので、当初の塔身部分は失われ、別の石材を入れて二重塔のようになっている。基礎部分に「大工井野行恒」「嘉元三年」などの刻銘があり、これも行恒の作である。
アクセス ・JR伯備線「備中高梁」駅下車、「高梁バスセンター」発「金倉」行き備北バス乗車。「垣」下車。東南東へ1.2km。

自動車 岡山自動車道「有漢」ICより、東へ3.1km。




                                          
令和6年7月17日 隣町にて
コシアカツバメ
 隣町の山に行ったのですが、ほとんどシャッターを切ることができませんでした。そこでコシアカツバメの集団営巣地によって。コシアカツバメを撮影しました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



                                          
令和6年7月16日 少し遠くの神社の杜にて
アオバズク
 そろそろ神社のアオバズクに雛が生まれている頃と思っていたのですが、猛暑日と雨の日が続き行くことができせんでした。今日も梅雨空だったのですが、雨の止み間に出かけました。行ってみると雛2羽を含めて5羽のチョウゲンボウがいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



令和6年7月15日 吉備の中世の石仏・石塔

吉備の石仏3

中世の石仏と石塔

総願寺跡宝塔阿弥陀座像

保月三尊板碑

楢津阿弥陀石仏

 岡山県には中世の石仏は近畿地方などと比べると少ないが、宝塔や板碑・層塔・石幢などは少なからずある。それらの中には総願寺跡(王子権現社)宝塔の阿弥陀如来のように優美な仏像が彫られたものがある。このページは宝塔・板碑・石幢に彫られた仏像を中心に構成した。



  
吉備の中世石仏・石塔(1) 山崎六地蔵・不動磨崖仏
岡山県総社市下原字山崎 「応永5(1398)年 室町時代」
 

六地蔵
 

不動明王・六地蔵
 

不動明王
 総社市下原の高梁川岸近くに六地蔵と不動の磨崖仏がある。露出した花崗岩の断崖を、幅約3.6m、高さ3mに削り取り磨き、これを3区に分け、1区に2体つづの地蔵を舟形の中に半肉彫りしたもので、岡山県の重要文化財に指定されている。

 各像の高さは40㎝ほどで、六体とも左手に宝珠を持ち、右手に錫杖を持つ延命地蔵で、頭部が大きく愛らしい表情が印象に残る。下に単弁の蓮座を線彫りする。六地蔵は、六道に輪廻転生する衆生を救済する地蔵の姿を表したもので、印相・持ち物は六体異なるのが本来の姿であるが、時代が下るに従って六体とも同じ像形のものも作られるようになった。

 「恭借十万信男信女力労為法界衆生利益故」 「應永五戈寅八月 日 北斗代 大願主道清 髙宮」 の銘文があり、室町初期の応永5(1398)年に大願主道清が十万の男女信徒の合力を得て法界衆生の為に造立したのがわかる。

 六地蔵の左端に地蔵とほほ同じ大きさの不動明王座像が半肉彫りされている。この不動も六地蔵とおなじような穏やかな表情であるが、彫りは伸びやかさに欠ける。制作年代は六地蔵より下ると思われる。

 大地と繋がった岩の持つ美しさ・厳しさと人々の信仰心が結びついた造形美、自然を生かし、自然と一体となった美しさ、それが磨崖仏の大きな魅力である。しかし、残念なことに、現在この磨崖仏の裏山はなくなり、岩だけが孤立してしまっている。(高梁川の改修工事などに大量の土石をほりとられた。)
アクセス ・JR伯備線「総社」駅下車。南南東へ約2.7㎞。

自動車 岡山自動車道「岡山総社」ICより西南西へ9.0㎞。




  
吉備の中世石仏・石塔(2) 総願寺跡宝塔
岡山県倉敷市児島下の町5丁目7-14 「建仁3年(1203) 鎌倉初期」
 

多宝・釈迦如来(南面)
 

不動明王(北面)
 

阿弥陀如来(東面)
 

弥勒如来(西面)
 倉敷市児島下之町の民家の間に小さな社(王子権現社)があり、社の東側に鎌倉時代初期「建仁3年(1203)」に造立された宝塔(高さ216㎝)がある。自然石を基盤にし、四方大面取りにした長い塔身に仏像が彫られている。

 南面(正面)に多宝・釈迦の二仏、西面に弥勒如来(釈迦如来説もあり)座像、東面に阿弥陀如来座像、北面に不動明王立像が薄肉彫りしたもので、塔身四隅の面取の所に各1行、合わせて4行の刻銘がある。(「総願寺塔□一切衆生現世安穏後生善所」「建仁3年(1203)亥癸二月十日酉己律師□□敬白」の2行と、諸行無常と一光一花の偈文)

 火災のため花崗岩の塔身は破損しているが、東面だけは無事である。美しい天蓋の下、蓮座に座す定印の阿弥陀如は優雅で、吉備地方を代表する阿弥陀石像といえる。弥勒仏も豊麗で力強く、阿弥陀仏とともに鎌倉初期の特色をよく伝えている。岡山県の重要文化財に指定されている。
アクセス ・JR瀬戸大橋線「上の町」駅下車。南南東へ約1.3㎞。

自動車 瀬戸中央自動車道「水島」ICより南へ6.6㎞。




                                
令和6年7月12日撮影 地元の山の上の公園への道にて
カワラヒワ
 地元の山の上の公園への道端の草むらにカワラヒワが群がっていました。カメラを向けるとすぐ飛び去ってしまいます。何とか残ったカワラヒワを撮影しました。撮影したのは幼鳥でした。幼鳥の群れのようです。
 
 
 
 
カワラヒワの成鳥が近くの木にとまっていました。
 
 
 



                                    
令和6年7月13日 近くの田園地帯にて
チョウゲンボウ
 田園地帯のチョウゲンボウです。電柱の足場釘にとまっているのを見つけました。次から次へと電柱を飛び移り、最後に墓地の地蔵堂の屋根にとまり、川を越えてどこかへ飛んで行ってしまいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



令和6年7月12日 文英様石仏(12)(13)
文英様石仏(12) 西軽部浄土寺石仏
岡山県赤磐市西軽部1378 「室町時代後期」
 赤磐市の旧赤坂町の西軽部にある浄土寺は奈良時代に孝謙天皇の勅命を受けて報恩大師が建立したと伝わる古刹で、「軽部下」バス停付近より800mほど急勾配の山道を登ったところにある。

 その浄土寺の本堂の横にこの文英様石仏は立つ。高さ62cm、幅39cmの自然石いっぱいに、輪光を背負い棒のような錫杖を斜めに右手で持った延命地蔵座像を浮き彫りにする。遍照寺1号石仏・常楽寺延命地蔵の様式の流れを組む石仏である。



文英様石仏(13)尾谷中八幡宮参道石仏群
岡山県赤磐市尾谷 「室町時代後期」
 赤磐市の旧山陽町は高松城跡のある高松平野についで文英様石仏が多くある地域で約150体の文英様石仏のうち41体がある。尾谷地区にはそのうち11体がある。山陽町の文英様石仏はほとんどが常楽寺の18体の石仏と同じく合掌印の地蔵である。また常楽寺の石仏と同じく放射光を背負った定印の地蔵もみられる。

 尾谷中八幡宮参道石仏群は中八幡宮へと続く山道の土の崖の上に並べられている。山陽新聞社サンブック『吉備の文英様石仏』では8体となっていたが行ってみると6体になっていた。すべて像高45~25cmほどの合掌印の地蔵で、2体と4体に分かれて並べられている。並んだ2体と4体はそれぞれよく似た顔である。



                            
令和6年7月10日 自宅より
イソヒヨドリ
 自宅周辺では毎年、イソヒヨドリが子育てしいます。今年は特に子育てがうまくいったのか毎日のように3羽ほどの若鳥が自宅や近所の庭や屋根で見かけます。自宅の斜め前の会社の寮のアンテナや非常階段は毎年、イソヒヨドリをよく見かけ、毎年のように撮影しています。この日は1羽の若鳥が非常階段の手すりにとまって囀っていました。自宅の庭から撮影しました。
 
 
 
 
 
 
 
 



                            
令和6年7月10日 近くの田園地帯にて
コチドリ
 まだ梅雨が明けてないというのに6日間猛暑日が続き、バードウオッチングに行かず家で過ごしました。今日久しぶりに野鳥撮影しようと近くの田園地帯に行きました。水の張った休耕田に行ってみると6日間の間に水がひいてあまり水が残っていません。そこに3羽のコチドリがいました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
1羽は幼鳥でした。
 



令和6年7月9日 文英様石仏(11)
文英様石仏(11) 常楽寺の文英様石仏
岡山県岡山市東区草ケ部 「室町時代後期」
 

合掌印の地蔵座像
 

輪光を背負った合掌印の地蔵座像
 

十一面観音
 

放射光を背負った地蔵座像
 

延命地蔵 
 築地山常楽寺は奈良時代、報恩大師が開いたと言われる報恩大師開基・備前48寺の一つで、盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇を焼失し、その後再建された。明治16年再び大部分を焼失し、現在は山門と近年改築された本堂がある。築地という地名は山中に弘法大師が築いたという築地があることから地名がついたと言われる。実際、常楽寺の裏山、大廻山・小廻山の山頂近くには土塁(築地)が谷部には石塁が残っていて、古代の山城の跡だという。

 その裏山から戦後の開墾によって発見された文英様石仏が18体、常楽寺の旧客殿下の石垣下に祀られている。すべて、高さ80cm~30cmの小石仏で、十一面観音像、1体を除いて他は地蔵石仏と思われる。高松平野によく見かける錫杖と宝珠を持つ延命地蔵は見あたらず、合掌印が多い。また、放射光の頭光を背負い、法界定印の比丘形像(地蔵?)も3体見られる。同じ文英様式でも、顔の形が、まん丸・角張った丸・長円・瓜実顔など様々あり、表情も少しずつ違い、それぞれ個性的である。

 放射光光背を負う法界定印の比丘形像の文英様石仏は山陽町の千光寺にも、2体見られ、その内の1体に永禄10年(1567)の紀年があることから、放射光光背を負う法界定印の比丘形像は文英様石仏の末期の作と思われる。

 常楽寺にはこれらの戦後の開墾によって出土した18体の石仏以外にもう一体、文永様石仏がある。18体の石仏の少し離れた小さな祠の隣に立つ像高106cmの延命地蔵である。元来、この位置に建立された唯一の文永様石仏である。北区門前の江口家墓地2号石仏によく似ている。


 
 
令和6年7月7・8日 文英様石仏(6)~(10)
文英様石仏(6) 江口家墓地の文英様石仏
岡山市北区門前
 
江口家墓地1号石仏(延命地蔵)  「天文4(1535)年 室町時代後期」
 

江口家墓地2号石仏(延命地蔵)  「室町時代後期」
 
江口家墓地3号石仏(地蔵菩薩・1号石仏の裏面)  「室町時代後期」
 国道429号線脇にある小さな墓地(江口家墓地)に3(2)体の文英様石仏がある。江口家墓地1号石仏(高さ83cm)は丁寧に仕上げられた薄肉彫りの秀作で、遍照寺1号石仏によく似た表現の延命地蔵石仏である。「天文四年(1535)願主」「八月二十四日」の記銘がある。

 1号石仏からやや離れて立つ江口家墓地2号石仏(高さ107cm)も延命地蔵石仏で、やや歪な楕円形の顔と大きな鼻、目と同じ高さに彫られた、ヘッドホーンのような耳に特徴がある。3号石仏は1号石仏の裏面に刻まれた稚拙な表現の線刻の石仏で、後になって別人によって彫られたもので、文英様石仏の末期の作と思われ。



 
文英様石仏(7) 報恩寺の文英様石仏
岡山市北区門前166
 
報恩寺1号石仏  「室町時代後期」
 
報恩寺2号石仏  「室町時代後期」
 

報恩寺3号石仏  「室町時代後期」
 

報恩寺4号石仏  「室町時代後期」
 JR吉備線「足守」駅近くの岡山市門前には9体の文英様石仏がある。その内4体は、報恩寺の墓地に集められている。報恩寺Ⅰ号石仏(高さ83cm)は地蔵や観音が多い文英様石仏の中では珍しい像で仏像の名称がわからないまま撮影したが、神仏習合で生まれた客人大明神のような神像と思われる。

 報恩寺2号石仏(高さ114cm)は延命地蔵座像で、顔は瓜実顔で様式的には遍照寺1号石仏のながれを組む石仏であるが、顔以外は線彫りに近く、稚拙な表現で、遍照寺1号石仏よりやや下ったころの作と思われる。4号石仏も地蔵座像で稚拙でおおざっぱな表現である。

 4号石仏(高さ68cm)は四角形の板状の石材に周囲を彫りくぼめ浮き彫りにした十一面観音の頭部像で、「開山雲 天文三年(1534)甲午3月」の刻銘がある。一見すると稚拙で抽象的な表現の石仏であるが、石という素材が生きていて、個人的には気に入っている石仏である。



文英様石仏(8) 田上寺跡石仏
岡山市北区足守594-2 「室町時代後期」
 岡山市足守は岡山市の北西のはずれにある、豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)の兄・木下家定が足守藩を作り、栄えた陣屋町である。武家屋敷とともに白壁・土塀の古い町並みが残る。

 その足守の町の西の山沿いの旧田上寺跡の参道入り口にこの文英様石仏が丸彫りの地蔵石仏と共に祀られている。高さ50㎝ほどの小形の薄肉彫りの延命地蔵石仏である。首をやや傾けた穏やかな顔が愛らしい。



文英様石仏(9) 久米薬師堂石仏
岡山県総社市久米1213 「室町時代後期」
 

久米薬師堂1号石仏  「室町時代後期」
 

久米薬師堂2号石仏  「室町時代後期」
 総社市の砂川公園の東、総社市久米の御崎神社の隣にある薬師堂境内に2体の文英様石仏がある。共に薄肉彫りの二重円光を背負った延命地蔵で、平板な表現で顔以外は線彫りに近く、線も伸びやかさに欠ける。

 左側の地蔵(久米薬師堂2号石仏、高さ90㎝)の方が出来はよい。「妙□禅尼」の銘文を刻む。石の色茶色かがった黄色のためか、顔は猿のように見えた。右側の地蔵(久米薬師堂1号石仏、高さ90㎝)は細長い石材に彫られていて、顔も細長く、胴体部分は摩滅している。



  
文英様石仏(10) 腰投げ地蔵 
岡山市北区加茂
 

1号石仏  「室町時代後期」
 

2号石仏  「永禄12(1569)年 室町時代後期」
 岡山市津寺にある加茂小学校の南に広がる水田の畦道にある2体の文英様石仏で、腰痛に霊験があるため通称「腰投げ地蔵」と呼ばれている。腹痛に苦しむものは、願いを込めて石地蔵をかたわらの溝へ投げ込み病気全快の後は元の位置に戻し篤く信心を続けることを約束する習わしがあった。腰痛に悩む多くの人々の願いを聞き届けたことだろう。しかし、現在は草に覆われていて忘れられた存在になっている。左の写真は石仏を覆っていた草をむしり取って撮ったものである。

 2体とも薄肉彫りの延命地蔵で、に高さ40cmほどの小石仏である。共に真ん中の大きな団子鼻が特徴の丸顔で、優しそうな目をしている。向かって右の石仏(2号石仏)に「七月」「永禄拾二(1569)年」「吉日」の刻銘がある。左の石仏(1号石仏)も様式的に見て同じ頃の作と考えられる。


 
令和6年7月4~6日 文英様石仏(1)~(5)
吉備の石仏2
文英様石仏
 秀吉の水攻めで知られる高松城のある岡山市高松付近を中心とした一帯には、薄肉彫りと線彫りを組み合わせた素朴で独特な表現の石仏が百四十体あまりある。三角形の団子鼻と目尻の下がった三日月形の眼、小さなおちょぼ口を配した独特の面相が印象的である。現在これらの石仏は文英様石仏と呼ばれ、年銘資料から天文2年(1533)から天正10年(1582)に至る約50年の間に造立されたものであることがわかる。

 文英様石仏と呼ばれるのは、これらの様式の石仏の先駆となった四体の石仏に「文英」と人名が刻まれいるためである。その四体とは、岡山市中島の関野家裏1号石仏と関野家の文英座元石仏、岡山市大崎の大崎廃寺跡地蔵石仏および持宝寺十一面観音石仏である。

 これら石仏には、「文英施」「天文三年五月」(関野家裏1号石仏)、「念佛講文英筆」「天文四年乙未五月□日」(大崎廃寺跡地蔵石仏)、「天文十四年三月吉日」「福成寺文英誌」(持宝寺十一面観音石仏)、「英座元」(文英座元石仏)の銘文がある。これらの銘文から、文英は、福成寺(高松地区の平山にその廃寺跡がある)に所属する僧侶で、念仏講を主催する、天文三年(1534)から天文十六年(1547)にかけて、これらの石仏を彫った、もしくはこれらの石仏の下絵や下図を書いたと考えられる。(『謎の石仏 文英の石仏』のページ参照)

 天文四年(1535)の紀年銘の持つの江口家墓地1号石仏(岡山市門前)、天文三年(1534)の紀年銘の持つ報恩寺4号石仏(岡山市門前)、銘はないがほぼ同じ頃の制作と考えられる遍照寺1号石仏などの石仏も、文英銘の石仏と同じ薄肉彫りと線彫りを組み合わせた独特な表現で、文英や文英と関係する人々が係わったと考えられる。

 同じような表現の石仏(文英様石仏)は、高松平野(岡山市)を中心に総社・足守地区(総社市・岡山市)、山陽盆地(山陽町・赤坂町)、旧上道郡地区(岡山市)に148体見つかっている。それらは、天文年間(1532~1554)から天正10年(1582)にかけての戦国動乱の真っ最中の約50年間の造立で、延命地蔵を中心に十一面観音・客人(まれびと)大明神・法華題目・厳島弁財天などの雑多な神仏が彫られている。「為逆修」「預修□□」「為妙善」「念仏講」「庚申衆」などの銘文から、追善供養・個的供養のため、文英に代表される半僧半俗的性格を持つ僧の指導の下、吉備の民衆によって造立されたものと考えられる。

 仏像の基本図像や規範に縛られることなく、自由に表現した素朴で力強い文英様石仏は、戦国時代の民衆の息吹が感じられる全国に類例の見ない魅力的な石仏群である。

※石仏の名前は山陽新聞社サンブック『吉備の文英様石仏』に基づく。

 

参照 『岡山の石仏』 岡山文庫 巌津政右衛門 昭和53年 日本文教出版
『吉備の文英様石仏』 根本修
黒瀬稔雄
平成5年 山陽新聞社



文英様石仏(1) 高松城跡の文英様石仏
岡山県岡山市北区高松558-2
 秀吉の水攻めで知られる天正10年の「高松の役」を境にして、以降、文英様石仏の造立は見られなくなる。それは、高松の役以降、備中高松の地を領した、宇喜多家の重臣、花房正成(熱烈な法華信者であった)が徹底した宗教統制をはかった結果だと考えられる。

 花房氏の具体的施策については一切不明であるが、高松城跡や高松城周辺の14~15体の文英様石仏が明治以降、高松城の本丸跡の水田や二の丸・三の丸周辺の地中から掘り出されこと、その中には顔面を砕かれたものやまっぷたつに割られた見るも無惨なものも見られること、昭和50年の高松城発掘調査で、本丸の捨石遺構から五輪塔や石仏が発見されたこと、などから窺い知ることができる。

  つまり、当時の人々の精神的なよりどころとして、日常生活に密着した信仰の対象であったこれらの石仏を、新たな支配者であった花房氏が、高松城の拡張工事に捨石として容赦なく投げ込むことにより、花房氏の信奉する法華信仰を、新たな精神的な拠り所として、強要したものと考えられる。
 
高松城跡1号石仏 「室町時代後期」
 
高松城跡2号石仏 「天文16(1547)年 室町時代後期」
 
客人(まろうど)大明神 「天文2(1534)年 室町時代後期」
 高松城1号石仏・2号石仏は昭和50年の高松城発掘調査で発見されたもので、現在1号石仏(像高54cm)は高松城址公園資料館に展示され、2号石仏(高さ105cm)は高松城址公園前の食堂の駐車場に置かれている。1号石仏は連弁などの様式から文英様石仏の中では最も古いものの一体である。2号石仏(像高104cm)は天文十六(1547)年の年号と共に「守庚申衆」と記されている。

 高松城址公園に祀られている客人大明神(像高82cm)は明治末に本丸跡から出土した石神で「客人大明神」「天文二癸巳」(1534)の記銘があり、文英様石仏最古の紀年を持つ。



   
文英様石仏(2) 高松中島関野家裏石仏
岡山県岡山市北区高松63
 
中島関野家裏1号石仏  「天文3(1534)年 室町時代後期」
 
中島関野家裏2号石仏  「永禄5(1562)年 室町時代後期」
 
中島関野家裏4号石仏  「室町時代後期」
 高松中島の路傍にある文英石仏は、高松城周辺から出土したもので、1号石仏(像高130cm)は細長い角材に地蔵菩薩と思われる像を薄肉彫りする。石仏の下部に『文英施 天文三年五月』の刻銘がある。胴体部分はほとんど彫られていず、顔だけが石から浮き出たような、一見、不気味な感じの石仏である。この石仏は中央の大きな鼻が目立つ。このように、面相のみ刻むタイプの文英様石仏も何体か見られる。

 この石仏の下には、文英様式の地蔵石仏が3体置かれていて、その中の1体(2号石仏)は上半身のみ残り、顔だけでなく胴体部も薄肉彫りである。永禄五(1562)年十月の記銘がある。近くの北区門前の報恩寺2号石仏や江口家墓地1号石仏・2号石仏と同じ瓜実顔の延命地蔵である。もう1体(3号石仏)は蓮華座に座す小仏像を線刻し、南無妙法蓮華経or妙法蓮華経と題目を刻んだ石仏であるが光線の関係かうまく撮影できなかった。残る1体(『吉備の文英様石仏』では掲載がなかったが4号石仏とした)は板状の石材に薄肉彫りされた地蔵石仏の破片で頭部が残っている。



文英様石仏(3) 持宝院の文英様石仏
岡山県岡山市北区立田835 
 
持宝1号石仏(十一面観音)  「天文14(1545)年 室町時代後期」
 
持宝2号石仏(地蔵菩薩)  「室町時代後期」
 持宝院にある十一面観音石仏(1号石仏)には両側に『天文十四年乙巳三月吉日』と『福成寺 文英誌』の刻銘がある。花崗岩の石材に薄肉彫りと線刻で十一面観音をあらわしたもので、顔の部分は光背部を彫りくぼめて、薄肉彫りする。顔は胴体部と比べて大きく、中央の大きな鼻に特徴がある。剣菱形の蓮弁は薄肉彫りであるが、肩や手部は平坦部に線彫りしている。

 持宝院には他に延命地蔵を薄肉彫りした文永様石仏(2号石仏)があるが、向かって右上を大きく損傷している。「益妙」と供養者の刻銘がある。高松城跡とその周辺にはこの石仏以外に中島家裏の2号石仏・4号石仏や文英座元石仏などのように明治末に出土した著しく破損したものが多くあり、花房氏の激しい宗教統制を物語っている。



文英様石仏(4) 大崎廃寺跡地蔵石仏
岡山県岡山市北区大崎 「天文4(1535)年」
 文英様石仏の代表作といえるのが大崎廃寺跡にある延命地蔵石仏(高さ123cm)である。頭部は薄肉彫り、胴体部や剣菱形の蓮弁は線彫りという、典型的な文英様石仏の表現で、まん丸の顔に大きな三角形の団子鼻、三日月形の大きな目が印象的な、文英様石仏を代表する作である。『念佛講文英筆 天文四年乙未五月日』の記銘がある。水田の畦の横に祀られていて、回りは水田で、秋には黄金に実った稲穂の中に佇む。



 
文英様石仏(5) 遍照寺の文英様石仏
岡山県岡山市北区大崎761 
 
遍照寺1号石仏(延命地蔵)  「室町時代後期」
 
遍照寺2号石仏(地蔵菩薩?)  「室町時代後期」
 
遍照寺4号石仏(地蔵菩薩?)  「室町時代後期」
 大崎地区には大崎廃寺跡地蔵石仏以外にもう1体、文英様石仏の代表作がある。大崎廃寺跡の東にある遍照寺の墓地にある遍照寺1号石仏(高さ106cm)である。大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ円光光背を負う延命地蔵座像の薄肉彫りである。しかし、全体的な印象は大崎廃寺跡地蔵石仏と異なる。大崎廃寺跡地蔵石仏は無骨な農夫のような素朴さが魅力的であるのに対して、遍照寺1号石仏は、尼僧を思わせる上品な美しさが魅力である。鼻は大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ団子鼻であるが、顔の形は瓜実顔で、目はまっすぐな小さな目で、おちょぼ口である。胴体部や蓮弁も線彫りというより浮き彫りに近く、非常に丁寧に彫られた美作である。

 遍照寺墓地には他に2体の文英様石仏がある。1号石仏の隣に安置されている石仏は5体の合掌する比丘形像(地蔵?)を薄肉彫りする。もうⅠ体は比丘形座像の薄肉彫りである。(『吉備の文英様石仏』ではなかったが2号石仏と3号石仏とした)



                            
令和6年7月3日 隣町にて
コシアカツバメ
 コシアカツバメの営巣地へ行きました。この日は多くのコシアカツバメが飛び回り、10羽ほどコシアカツバメが電線にとまりました。
 
 
飛んでいる虫を捕まえ、咥えた2羽のコシアカツバメが電線にとまっていました。
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 



6月 8月