天部諸尊像石仏Y
 
大黒天・鮭立磨崖仏と竹成五百羅漢の天部像
  
  
 
 大黒天は梵名元来はマハーカーラで、密教では大自在天または毘盧遮那仏の化身とさる。形像は三面六臂の忿怒相の像、金嚢(袋)を持った半跏像、大きな袋を肩から背負った立像などがあり、中国・日本では食物の神として寺などの厨房にまつられた。日本の民間信仰では大国主命と合一し、頭巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつ福の神となった。奈良県高取町の香高山五百羅漢の大黒天像のように石像大黒天の多くは俵に乗ったこの姿の像である。信州の安曇野では道祖神と共に子待(甲子待)講の本尊として多くの大黒天像が造立された。また、鹿児島県や宮崎県では田の神として大黒天像が造立されている。

 福島県金山町の鮭立磨崖仏は半肉彫りされた江戸時代の磨崖仏で、稚拙な像形であるが石仏としては珍しい天部像が彫られている。像高20〜14pの小像ながら風神・雷神・鬼子母神・荼枳尼天・牛頭天王・飯縄権現など他ではあまり見られない像が多い。竹成大日堂五百羅漢には十二天像をはじめとして四天王・金剛力士・三宝荒神・四夜叉・蔵王権現など多くの天部像がある。ここでは鮭立磨崖仏と竹成大日堂五百羅漢の天部像の中から各項目にない天部像を紹介する。
天部諸尊像石仏 Index
T 梵天・帝釈天・十二天 U 金剛力士 V 四天王
W 毘沙門天(多聞天) X 深沙大将・弁才天・摩利支天 Y 大黒天・鮭立磨崖仏・竹成五百羅漢
Z 十二神将・十六善神・蔵王権現 [ 閻魔・十王 \ 青面金剛



天部諸尊像石仏Y (1)   香高山五百羅漢大黒天
奈良県高市郡高取町壷阪香高山 「江戸時代初期」
 壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、数百体の羅漢が同じように彫られている。その羅漢群の上の岩に十一面観音座像とともに、大黒天像が彫られている。頭巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつ七福神などでおなじみの姿である。



天部諸尊像石仏Y (2)   鮭立磨崖仏大黒天
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、3つに分かれた右側には青面金剛・水神・地天など像高50〜60pの5体の像が彫られている。中央の諸像よりは摩滅が進んでいる。大黒天はこの5体の中央の像で宝珠型の龕の中に彫られていて、2俵の米俵に乗る袋を背負い、打ち出の小槌をもつおなじみの姿である。摩滅がひどく被っていると思われる頭巾や目鼻立ちはわからない。



天部諸尊像石仏Y (3)   竹成五百羅漢大黒天
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 北面で目立つのは丸彫りの七福神である。大黒天はその中でも大型の像で、米俵の上に乗り、巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつこれぞ「福の神」といえる典型的な大黒天像である。



天部諸尊像石仏Y (4)   安曇野の大黒天
 安曇野では道祖神と一緒に大黒天像・恵比寿像・庚申塔・二十三夜塔などが祀られている。江戸時代になると庶民信仰が広がり、各地で講がつくられた。法華講や報恩講・伊勢講・大峰講・富士講など寺社とつながった講以外に、民俗信仰を基盤にした村落内において営まれる講か広がっていく。そのような講の中に人々が一定の日に特定の場所に集まり夜を過ごす、日待講・月待講・庚申講・子待講などがある。

 飲食を共にし、精進供養をして夜もすがら過ごすもので、その信仰の対象としてつくられたのが、日待塔・二十三夜塔などの月待塔・庚申塔・子待(甲子待)塔である。それらは文字塔として造立されたもの以外に、各信仰の礼拝本尊の像が像立された。二十三夜講の本尊の勢至菩薩・庚申講の青面金剛などである。大黒天は子待(甲子待)講の本尊で、安曇野の大黒天像の大部分は子待(甲子待)塔として造立されたもので、多くは江戸時代後期の作である。本郷上手村の大黒天のように恵比寿神と対になって子待(甲子待)塔として併立しいるものも安曇野には何体か見られる。
 
神田町の大黒天
長野県安曇野市穂高2508-1 「明治25(1892)年」
 JR穂高駅や穂高神社・安曇野市役所穂高支所などの西、国道147号線と平行して南北に続く旧道(県道309号線)沿いの町が神田町である。町村合併によって神田町という名は正式町名から消え、簡易郵便局の名前などに残るぐらいである。その簡易郵便局の筋向かいに、大黒天が道祖神と共に柵をめぐらした屋形に祀られている。

 隣の道祖神と同じく、円形の石材に石臼のように丸い彫りくぼみをつくり、2俵の米俵の上に立つ、右手に小槌を持ち、左手で大きな袋を肩に担いだ大黒天を半肉彫りにしたもので、訪れた時は青・黄・緑・金色・黒・白の6色で見事に彩色されていた。明治25(1892)年刻銘がある。ストリートビューで見てみると彩色はなく、最近は彩色が行われていないようである。
 
本郷上手村の大黒天
長野県安曇野市穂高6868−3  「慶応4(1868)年」
 本郷中村の道祖神の西北西0.3mの道路沿いの農地の一角に、基台をコンクリートでかためて祭壇をつくり、ブロックで囲った中に、道祖神、恵比寿像並んでまつられている。3基とも円形もしくはおにぎりの形の自然石に円形を穿ち、各像を半肉彫りしたもので3基とも青・赤・黒・白を中心に色が塗られている。彩色されていることと背景に北アルプスの山々が見えるのでよく撮影スポットとなっている3基でもある(撮影後、後ろに住宅が建ったため、アルプスは半分隠れてしまった)。

 大黒天は2俵の米俵の上に立つ、右手に小槌を持ち左手で大きな袋を肩に担いだ典型的な像で、最初に訪れた時は頭巾は黒、小槌は黄色、袋は白、衣装は青に着色されていた。翌年に訪れた時は袋は稲穂のように黄色で着色されていた。神田町の大黒天に比べると雑な彩色であった。
 
孤島中木戸の大黒天
長野県安曇野市穂高北穂高810-3  「元治元(1864)年」
 早春賦の碑のある穂高川の北、県道穂高明科線沿いの集落が孤島である。その孤島集落の火の見櫓の近くの鉄筋の柱の覆屋に文政4年の道祖神と並んで大黒天像が祀られている。円形の形の自然石に円形を穿ち、2俵の米俵の上にのって小槌を持ち大きな袋を肩に担いだ大黒天を半肉彫りしたもので、神田町や本郷上手村の像に比べると彫りは鋭く整った像である。元治元(1864)年、江戸時代末期の作である。



天部諸尊像石仏Y (5)   田の神としての大黒天
 大黒天は音韻や容姿の類似から大国主命と重ねて受け入れられるとともに、農村では豊作の神として信仰を深めていく、そのため田の神信仰は西日本では大黒天と結びついていった。鹿児島県や宮崎県に多くある田の神像の中にも、影響を受け田の神像と大黒天を融合させた像が生まれる。
 
東吉村の田の神
宮崎県小林市野尻町東麓大王東吉村  「天保13(1842)年」
 東吉村の田の神は東麓東吉村の村の道路脇の祠に祀られている。農民型で大黒天を混合したものである。像高86pの座像で、おおきな頭巾のようなものをかぶり丸顔で、耳は福耳で大きく、まさしく顔は大黒天である。両肩にメシゲ2本を持ち、両手を輪組みして宝珠を持っている。「天保十三(1842)年十二月」の記銘を持つ。像として田の神と大黒天が融合されたのはこの田の神が最も古いと思われる。
 
楠元下の田の神
鹿児島県薩摩川内市楠元町  「万延元年(1860)」
 薩摩川内市の楠元下の田の神は帽子状のものをかぶり、小槌とメシゲを持って俵の上に立つ田の神で、小槌を持つことや俵の上にのることなど大黒天の影響が見られる。
 
中村神社の田の神
鹿児島県薩摩川内市中村町飯母  「不明」
 中村神社の田の神は俵の上に乗りシキをかぶり小槌とメシゲをかかげるようにもった大黒天との混合型の田の神である。
 
重久の田の神
鹿児島県霧島市国分重久1758-3  「不明」
 霧島市国分の重久の田の神は、大黒頭巾をかぶり、米俵の上に乗った像で一見すると典型的な大黒天像である。しかし、よく見ると右手に持つのは打ち出の小槌ではなくメシゲ(しゃもじ)で担いでるのは袋ではなく稲穂である。
 
小川路の田の神
鹿児島県薩摩川内市城上町上塚  「不明」
 薩摩川内市城上町上塚の交差点近くには周辺にあった田の神が多数集められている。そのうちの一つの小川路の田の神は小槌を持ち袋を担いだ大黒天像そのものを田の神としたものである。
 
上東町の田の神
宮崎県都城市上東町15  「昭和期」
 都城の市街地、都城総合運動公園の南の上東町の児童公園内に、馬頭観音とともに大黒天と農民型の融合型の田の神がまつられている。大黒頭巾をかぶり、ふくよかな耳で、口を開けて笑う姿は確かに大黒天である。しかし、打ち出の小槌と大きな金嚢(袋)のかわりに、メシゲを持ち、稲穂を背負っている。台座の側面に「學竹留吉彫刻」と制作者、背面に像立年を刻むが、年の所が欠けている。彫刻という言葉から近現代の作であることがわかる。
 
浜の段の田の神
都城市山田町山田浜之段  「昭和37(1962)年」
 浜之段の墓地に大黒天風の田の神像がある。平べったい大黒頭巾をかぶり右手に大きなメシゲを持ち、左手で稲穂を金袋のように背負う。都城の上東町の田の神とよく似た表現の像で、昭和37年の刻銘がある。



天部諸尊像石仏Y (4)   竹成五百羅漢大黒天
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、数百体の羅漢が同じように彫られている。その羅漢群の上の岩に十一面観音座像とともに、大黒天像が彫られている。頭巾をかぶり、袋を背負い、打ち出の小槌をもつ七福神などでおなじみの姿である。



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天部諸尊像石仏Y (3)   鮭立磨崖仏の天部像
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、中央部には左面と正面に40体ほど像が刻まれている。正面の中央には不動明王と八大童子が彫られている。不動明王の向かって右の龕は飯豊山神社を祀る祠になっている。向かって左には龍頭観音・牛頭天王・梵天・釈迦三尊などが並んでいる。

 左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。左面の右端は摩滅が進んだ文殊菩薩?と飯綱権現が上下に並んでいる。

  鮭立磨崖仏は稚拙な像形であるが石仏としては珍しい天部像が彫られている。像高20〜14pの小像ながら風神・雷神・鬼子母神・荼枳尼天・牛頭天王・飯縄権現など他ではあまり見られない像が多い。
 
鬼子母神
 鬼子母神(きしもじん)は梵名ハーリーティーで訶梨帝母(かりていも)ともいう。もとは幼児を奪い食う悪鬼女であったが、釈迦に自分の子を奪われ教導されて、子女を庇護する善神となった。その像容は、諸児を抱き従える天女形が通形であるが、鮭立磨崖仏の像は片手で子供を抱え込んだ鬼神形である。
 
風神・雷神
風神
雷神
 風神・雷神は三十三間堂の千手観音の眷属の木像の風神・雷神像や俵屋宗達の風神雷神図屏風がよく知られている。風神は風袋を背負った鬼で雷神は小太鼓を取り付けた輪にしてバチで太鼓をたたく鬼である。

 鮭立磨崖仏の風神・雷神像は九頭竜権現の向かって右に上下に並んで彫られていて、上は風神で像高37p、雲上の大きな風袋を両手で背負った褌姿の裸体の鬼の姿で、迫力がある。下の雷神は像高33p、これも雲上の裸体の鬼で、丸い輪を背負いバチを振りかざしている。輪は小太鼓を取り付けていると思われるが、摩滅したのか初めから彫っていないのか、輪は円光のように見える。
 
荼枳尼天(だきにてん)
 荼枳尼天(だきにてん)はインドにおいてダーキニと呼ばれた人の心肝を食べる夜叉鬼で、真言密教では、 荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に配せられ閻魔天の眷属となっている。後世の日本では稲荷信仰と習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表される。鮭立磨崖仏の像は右手に剣を持ち狐にまたがる姿である。
 
飯綱権現
 飯縄権現は秋葉権現とも言う、秋葉山三尺坊の祭神である。形像は鮭立磨崖仏の像のように烏天狗の顔で、右手に剣、左手に索(綱)を握り、背に双翼を張、火焔光背を、狐の背に乗る像が通形である。
 
牛頭天王
 牛頭天王は京都の祇園社(八坂神社)の祭神で、もとはインドの祇園精舎の守護神とされる。鮭立磨崖仏の像のように牛頭を頭に付けるのが通形である。



天部諸尊像石仏Y (3)   竹成五百羅漢の天部像
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 竹成五百羅漢は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞(照空上人)が喜捨を求めて完成したもので、発願は嘉永5(1852)年で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。羅漢以外に玄奘三蔵像、稚児文殊・稚児普賢、苦行釈迦や出山釈迦・誕生釈迦、三猿、天狗などの様々な像が見られる。すでに掲載した金剛力士・十二天・四天王とこれからページを代えて掲載する閻魔十王・蔵王権現以外をここでは紹介する。
 
四夜叉(四句文刹鬼)
生滅滅巳…黒色
諸行無常…青色
是生滅法…赤色
寂滅為楽…肉色
 南面と西面は羅漢像が中心で羅漢以外目立った像がないが、南面の頂上付近には、単独像としては非常に珍しい四夜叉(薬叉)像がある。四夜叉は青面金剛の従者で、『仏像図彙』(江戸時代の仏像図版集)では四句文刹鬼(しくもんせっき)として、右手に三叉戟をとる赤色、左手に三叉戟をとる青色、右手に刀を立てて持つ黒色、右手に刀・左手に三羽の小鳥をとる肉色の四夜叉を描いている。若き釈迦が修行中、羅刹に身をかえた帝釈天、あるいは、眷属の四鬼から教えを受けたとされる「四句文の刹鬼」である。

 「諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょうめっぽう) 生滅々已(しょうめつめつい) 寂滅為楽(じゃくめついらく)」の4句文は大般涅槃経(涅槃経)の4句の偈で「一切の存在は、無常にして、常に止まることなく川の流れのごとく変化するものである。この娑婆世界は、そういう原理に基づいて成り立っている。」との意味である。

 この四夜叉(四句文刹鬼)はほぼ『仏像図彙』通りの様相であるが、『仏像図彙』の絵に比べる石材という制約があるためか、迫力に欠ける。しかし、石の硬さをうまく生かした愛嬌のある四頭身の像で、この石仏群では最も印象的な石仏である。
 
三宝荒神
 三宝荒神は、三面六臂の憤怒相の荒神で、仏法僧の三宝を守護する荒神である。近世になって民衆の間では竈の神、台所の神として信仰され広がっていった。
 
七福神
七福神(毘沙門天・恵比寿・大黒天)
七福神(恵比寿・大黒天)
七福神(布袋)
七福神(弁財天)
 北に面した所に七福神、役の行者、苦行の釈迦、中腹に天照大神、猿田彦など変化に富んだ石像の数々がある。中でも七福神は丸彫りの大型の像で北面では目立った存在である。



X深沙大将・弁才天など    Z十二神将・蔵王権現など