天部諸尊像石仏W
毘沙門天(多聞天)
  
  
 
 毘沙門天は四天王の一つ、多聞天の別称である。四天王中の最強神として単独に信仰され、特に毘沙門天と呼ばれている。ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ、財宝福徳を司る神とされていた、また、北方を守護神とされ、仏教に取り入れられ、護法神として福徳神として信仰されることになる。日本では七福神の一員として恵比寿・大黒天などともに福の神とされている。その像容は、右手に宝棒、左手に宝塔を捧げる武装忿怒形の二臂像で、岩座か二邪鬼の上に立つのが通形である。石仏としての造立は平安時代後期から見られるが単独としての造立は少なく、四天王や二天の一員もしくは不動明王と組み合わせた多聞天としての造立である。

 毘沙門天(多聞天)の単独としての造立として古いのが普光寺多聞天磨崖仏とともに達者な線で線刻した京都府木津川市加茂町の森八幡宮毘沙門天石仏である。毘沙門天は上杉謙信の「毘」の旗指物でわかるように軍神としての信仰も広がり、戦国時代から近世になると多くの毘沙門天の石仏が造られるようになる。岡山県では大岩に彫られた戦国末期から江戸時代にかけての毘沙門天磨崖仏が5体ある。
天部諸尊像石仏 Index
T 梵天・帝釈天・十二天 U 金剛力士 V 四天王
W 毘沙門天(多聞天) X 深沙大将・弁才天・摩利支天 Y 大黒天・鮭立磨崖仏・竹成五百羅漢
Z 十二神将・十六善神・蔵王権現 [ 閻魔・十王 \ 青面金剛



天部諸尊像石仏W (1)   菅尾磨崖仏多聞天
大分県豊後大野市三重町浅瀬401 「平安後期」
 菅尾磨崖仏多聞天像も平安時代の作で、半肉彫りで岩と一体となって岩の持つ美しさ・厳しさを感じられる像で、木彫仏を思わせる厚肉彫りの菅尾石仏の他の像とまた、違った魅力がある。

 菅尾石仏は小高い山の中腹に覆堂があり、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と多聞天(これだけ半肉彫り)の五体の磨崖仏が刻まれている。千手観音から十一面観音までの四像は丸彫りに近い厚肉彫りで、臼杵石仏とならぶ木彫的な藤原調の石仏として知られている。この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、四像は熊野権現の本地仏である。



天部諸尊像石仏W (2)   普光寺磨崖仏多聞天
大分県豊後大野市朝地町上尾塚1225 「鎌倉時代」
  不動明王像の、向かって右手に、石窟が2カ所あり、その一カ所に護摩堂がはめ込まれるように建てられ、その右窟壁面に高さ3mの多聞天の半肉彫りの磨崖仏がある。不動明王像より古い様式をしめす力強い表現の磨崖仏である。



   
天部諸尊像石仏W (3)   森八幡宮毘沙門天石仏
京都府木津川市加茂町森 陀羅尼田1 「正中3(1326)年 鎌倉時代」
 毘沙門天の単独としての造立として古いのが普光寺多聞天磨崖仏とともに京都府木津川市加茂町の森八幡宮毘沙門天石仏である。森八幡宮は岩船寺の4qほど北の山間の村、加茂町森にある 古社であ。その神社の境内の二つの大石の正面に頭部をアーチ形にしたほりこみを作り、不動明王と毘沙門天の立像を達者な線で線刻する。不動像は直立でやや右方を向く。右手に剣、左手に索をとり、全身から火焔が立つ姿は勇壮である。

 毘沙門天は体をやや左に曲げ、眼を大きく見開いて口髭のはやした顔を斜め左に向けている。右手を高く上げて戟を持ち、左手で宝塔を捧げる。伸びやかな線刻で武神にふさわしい雄々しく力強い像である。

 毘沙門天像の左肩に「武内之本地」、不動像の左肩に「松童之本地」とある。不動像には「正中三年虎丙二二月十八日」という造立銘文がある。武内・松童は八幡宮の摂社。現在、岩面が剥落するおそれがあるため、雨露に直接触れないように覆屋根がもうけられている。



天部諸尊像石仏W (4)   大門坊磨崖仏多聞天
大分県豊後高田市田染真中674 「鎌倉後期〜南北朝時代」
 大大門坊といわれる一堂宇の向かって左横の凝灰岩の岸壁に彫られた磨崖仏。薬師如来座像・大日如来座像・如来形立像・多聞天立像などを半肉彫りする。堂の陰になっていて陽当たりが悪く苔がはえて、風化が激しい。ただ、天邪鬼を踏む多聞天はよく残っている。天邪鬼は丸い目をむき出し、いかにもとぼけた表情で印象に残る。


天部諸尊像石仏W (5)   福真磨崖仏多聞天
大分県豊後高田市黒土 「南北朝時代」」
 県道から田んぼのあぜ道を通り、小川に差し渡した一枚板の橋を渡り、小さな鳥居をくぐった、四王権現社の参道脇の石造の覆堂内に、高さ160cm、幅450cmの枠を岸壁に区画し、その中に19体の像を半肉彫りする。

 中央に金剛界大日如来像と金剛界四仏像を刻み、左に六地蔵座像、右に六観音像を刻む。右端には多聞天像、左端には不動明王像が彫られ、さらに向かって右の外壁には種子の胎蔵界曼陀羅又は法華曼陀羅が刻まれているということであるが、摩耗してわからない。多聞天像は像高80cmの立像で頭部は厚肉彫りである。



天部諸尊像石仏W (6)   峰寺毘沙門天磨崖仏
〒630-2201 奈良県山辺郡山添村峰寺257 「南北朝時代」
 峰寺集落内にまつられる六所神社の社殿の左奥の斜面の岩肌に、 高さ70cm 舟形光背を彫りくぼめ、 岩座に立つ像高40cmの多聞天立像を半肉彫りする。

 右手は腰にあて、左手は外側に高く上げ、宝塔を持つ。六所神社の本地仏として造立されたものと思われる。



天部諸尊像石仏W (7)   八幡神社毘沙門天石棺仏
兵庫県加東市下滝野1275-8 兵庫県立播磨中央公園 「室町時代」
 播磨中央公園の南の八幡神社の裏手の山頂の岩陰にある。小さな石棺底石に、毘沙門天像をやや厚く薄肉彫りする。播磨の石棺仏の中では毘沙門天像はこの一体だけである。四頭身で子どものような、かわいらしい毘沙門天でる。しかし、右足を前に踏み出した下半身は力強い。 



天部諸尊像石仏W (8)   楢本磨崖仏磨崖仏毘沙門天
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
 山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の不動明王で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・毘沙門天・仁王などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。

 毘沙門天像は上段の左端の吽形像の右隣にあり、像高85p、右手を顔の横まであげて、戟を持ち、左手で宝塔を捧げ、左足を一歩踏み出した力強い姿である。赤い彩色か鮮明に残る。



天部諸尊像石仏W (9)   石槌山毘沙門天磨崖仏
岡山県倉敷市真備町尾崎石田、石槌山 「室町時代後期」
 井原鉄道の備中呉妹駅の北方1kmに戦国時代の山城(砦)跡でもある標高165mの鳥が嶽(呉妹富士)がある。その鳥が嶽と峰続きの東500mの石槌山(129m)の岩壁にこの毘沙門天磨崖仏がある。高さ390p,横370p,奥行290pの巨岩の南面に、像高180pの邪鬼を踏まえた毘沙門天立像を薄肉彫りする。 甲冑をつけ左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。日差山・庚申山の像と比べるとより立体的な表現で、甲冑も精緻に彫り込んでいて、ベンガラによる色彩も残り、力強い堂々とした作品である。備前の毘沙門天磨崖仏の中では白眉の作といえる。

 室町時代後期の作とすれば、戦国時代、鳥が嶽を砦とした毛利氏が武運の守護として、勝軍祈願して作られたものと考えられる。毘沙門天は護法身としての性格と、その武装した姿により、王城鎮護や城郭や町の守護神としての信仰もあったようで、この像もそのような意味合いでも造立されたのかもしれない。

 真備町石田の集落の東の端に石槌山への登山口があり、案内板が立っている。登山口から10分足らずで毘沙門天磨崖仏の前に着く。毘沙門天の前は視界が開け、小田川と呉妹の集落を見下ろせる。



天部諸尊像石仏W (10)   香高山五百羅漢毘沙門天
奈良県高市郡高取町壷阪香高山 「江戸時代初期」
五社明神(弁財天・神像?・雨宝童子・神像?・毘沙門天)
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。五百羅漢岩から上へ登るに連れて、 地蔵・十王像、五社明神、弘法大師蔵、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。そして、頂上には釈迦如来が彫られていて、香高山全山が仏の世界を描いた一種の曼陀羅のようになっている。

 この毘沙門天像は五社明神の1体として彫られたもので像高20pほどの小さな磨崖仏で、力強さをないが、かわいらしく印象に残る毘沙門天像である。



天部諸尊像石仏W (11)   庚申山毘沙門天磨崖仏
岡山県岡山市北区新庄上 「江戸時代」
 岡山市新庄上の庚申山(74.2m)は、高松水攻めの際毛利方の吉川元春が本陣を構えた丘陵である。麓から真っ直ぐに300段ほどの急な階段が帝釈天を祀る帝釈堂(庚申堂)までつづく。その帝釈堂のある山上には花崗岩の巨岩がむらがり、その一つに毘沙門天を刻んだ磨崖仏がある。

 大きな花崗岩の岩の突き出た部分を平らにし、邪鬼を踏まえた等身大の毘沙門天像を薄肉彫りしたもので、右手で鬼の片足を抱え、左手で宝塔を捧げる。兜のシコロ部分が大きく金太郎人形の髪型のように見える。誇張した姿態の表現や顔つきなど、五月人形を思わせる毘沙門天像である。

 帝釈天は須弥山の頂上(喜見城)にすみ、四天王以下、三十三将を従え、天軍を指揮する仏法守護の主神である。高さ70mほどの小さな丘であるが毘沙門天を刻むこの岩をはじめ、巨岩がむらがる庚申山は仏法守護神の中心、帝釈天を祀るにふさわしい地であるといえる。



天部諸尊像石仏W (12)   日差山毘沙門天磨崖仏
岡山県倉敷市山地2018 「江戸時代」
 倉敷市山地の日差山は高松城水攻めの時、毛利方の小早川隆景が本陣を置いた172mの山で、天平勝宝6年(754)に報恩大師が開いたと伝えられる日差寺がある。この山にも花崗岩の巨岩がたくさんあり、その一つの花崗岩の大露頭に報恩大師杖描きと伝えられる薄肉彫りの毘沙門天磨崖仏がある。

 庚申山の毘沙門天と同じように、兜のシコロ部分が大きい、邪鬼を踏まえ、右手で鬼の片足を抱え、左手で宝塔を捧げる高さ167mの立像で、おそらく、庚申山毘沙門天磨崖仏は、この像をモデルにしたものと思われる。

 彫刻としてのできはこの像の方がよいと思われるが、残念なことに、昭和46年に火災にあい、宝塔などが剥がれていて、庚申山像に比べる痛みがひどい。像は伝説のように奈良時代のものではなく、様式から見て近世の作と思われる。しかし、毘沙門天像が彫られていなくても、古代からおそらくこの大岩は磐座として信仰の対象になっていたものであろう。



天部諸尊像石仏W (13)   福山八畳岩毘沙門天磨崖仏
岡山県総社市西郡 「江戸時代」
 倉敷の北、山手村(現在総社市)西郡の福山(302m)には中世の城跡がある。鎌倉時代に築城されたもので、足利尊氏が後醍醐天皇を裏切り、新田義貞に破れ、西に下ったあと、尊氏が九州で軍を整え反撃するきっかけとなった戦いが行われたのがこの福山城である。(新田義貞側の先鋒として大井田氏経がこの福山城へ進出し陣を布き、尊氏側の足利直義の30万騎の軍と3日間防戦し、破れた。この戦いは湊川合戦のわずか1週間前で福山合戦は尊氏側の戦局に大きく影響した。)

 この福山と峰続きの幸山(150m)にも中世の城跡がある。その福山城から幸山城へ下る道の途中に、八畳大岩(八畳岩)と呼ばれる花崗岩の巨岩がある。その岩の北面に2つの磨崖仏が彫られている。一つは大岩に舟形の光背を彫り窪め十一面観音座像を半肉彫りしたもので、光背上部に2番の記銘がある。西国三十三カ所観音の第2番、紀三井寺の十一面観音である。福山の中腹の猿田彦神社からこの八畳岩まで西国三十三カ所観音石仏が並んでいて、その一つとして彫られたものと考えられる。

 その右側に等身大の毘沙門天磨崖仏がある。観音磨崖仏と同じように、大岩に舟形の光背を彫り窪め、その中に岩座に立つ毘沙門天を半肉彫りしたもので、左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。石鎚山毘沙門天磨崖仏に比べると迫力に欠けるが端正な毘沙門像である。北向きのため、光が当たらず、苔むし摩滅しているため顔の表情がわからないのが残念である。この像もおそらく近世の作と思われる。

 八畳大岩にはロープを使って登ることができ、そこからの眺めはすばらしい。この八畳大岩も古代から磐座として信仰の対象になっていたものと考えられる。



天部諸尊像石仏W (14)   鷲峰山毘沙門天磨崖仏
岡山県小田郡矢掛町東三成、鷲峰山 「安永6(1777)年 江戸時代」
 鷲峰山(じゅぶうざん)は矢掛町と真備町の町境にある390mの山である。この山も信仰の山で中腹に棒澤寺(跡)がある。真言宗御室派の古刹で、盛時には8坊を擁する備中南部の大寺院であったが、昭和32年大火で、堂宇を焼失してしまい、現在焼け残り荒れ果てた倒壊寸前の堂・山門・庫裏があるのみである。(国指定重要文化財の画像3点は災害から逃れ、現在は岡山県立博物館に寄託されている。)

 現在、棒澤寺には町指定の重要文化財となっている石門と宝篋印塔が残っている。ともに中世の立派な石造品である。宝篋印塔はお堂の裏の一段高いところにはあり、そこから鷲峰山へ続く登山道がある。その登山道を10分足らず登ったところに毘沙門天磨崖仏への案内板が立っていて、そこを左へ少し入ったところに大きな岩が重なった岩場がある。その岩場の奥、南向きの岩壁に鷲峰山毘沙門天磨崖仏がある。

 約4m四方の巨岩の岩壁に光背として舟形の彫りくぼみをつくり、そこに岩座に立つ毘沙門天を半肉彫りしたもので、左手に宝塔、右手に宝棒を持つ。輪宝火焔付光の頭光や甲冑の装飾など細かいところまで精緻に彫り込んでいて、吉備の毘沙門天磨崖仏では最も写実的な作品である。石鎚山毘沙門天磨崖仏と並ぶ傑作で、矢掛町の重要文化財に指定されている。

 像の右に銘文があり、安永6(1777)年8月に浅野又三郎によって奉納されたものであることがわかる。また、像の右下には片山新助という石工名も刻まれている。



天部諸尊像石仏W (15)   大窪寺毘沙門天石仏
香川県さぬき市多和兼割96  「近代」
 四国八十八カ所霊場の結願の霊場「大窪寺」(香川県さぬき市)の阿弥陀堂前の広場の右側の銀杏の木の下には高さ120mほどの基壇に像高40p〜70pの丸彫りの近作の様々な石仏が安置されている。最上段の金剛界大日如来と弘法大師像を中心に如来・菩薩・明王・天部諸像や神像を曼陀羅風に安置したもので、馬頭明王や稲荷明神など特異な像があり興味深い。近代の作であるが、詳細に彫られていて、引き締まった写実的な顔で、ブロンズ像のような雰囲気の石仏群である。



V四天王    X深沙大将・弁才天・摩利支天