天部諸尊像石仏U
金剛力士
 
  
 
 金剛力士は梵名ヴァジュラダラで「金剛杵(ヴァジラ)を手にする者」を意味する。一般に仁王という名で親しまれ、開口の阿形像と、口を結んだ吽形像の2体を一対として、寺院の表門などに寺院の守護神として安置する。その像容は、筋肉の隆々とした上半身を裸出し、片手に金剛杵を持った忿怒形が通形である。

 金剛力士は梵名ヴァジュラダラで「金剛杵(ヴァジラ)を手にする者」を意味する。一般に仁王という名で親しまれ、開口の阿形像と、口を結んだ吽形像の2体を一対として、寺院の表門などに寺院の守護神として安置する。その像容は、筋肉の隆々とした上半身を裸出し、片手に金剛杵を持った忿怒形が通形である。

 石造では臼杵磨崖仏古園石仏の金剛力士像が最も古い作例で、平安後期の作である。(この像は追刻像とされ国宝から外されていたが、2017年に他の古園石仏と同じ時期に製作されたものとして、国宝に追加指定された。)独立した金剛力士像では大分県の国東市国東町の岩戸寺にある文明10年(1478)の丸彫りのの金剛力士像が最も古い記銘を持つ。同じく国東市国東町の旧千燈寺跡にある金剛力士像も古く、鎌倉時代作の説もある像である。この像は高さ180pの板状の石材に金剛力士を厚肉彫りしたものである。

 大分県・鹿児島県・宮崎県など九州の寺社の入り口には室町末期・江戸時代の石造の金剛力士像が多くある。特に国東半島は特に多い。その中でも、旧千灯寺跡や岩戸寺の金剛力士像は、石の持つ美しさ・厳しさを感じることができる迫力のある石像である。また、文殊仙寺や両子寺等の金剛力士像は木彫の金剛力士像と変わらない整った秀作である。しかし、それ以外の国東半島をはじめとした九州各地の石造金剛力士像像は憤怒相の顔や胴体部分の表現が難しいのか稚拙な作が多い。稚拙な表現の金剛力士像でも石の持つ魅力か、石造の金剛力士像を求めて回る愛好家も多い。応暦寺金剛力士像吽形や霊仙寺金剛力士像阿形は稚拙ながらカリカチュアライズされた魅力ある像である。

 磨崖仏では楢本磨崖仏の金剛力士像は稚拙であるが岩に彫られた磨崖仏として魅力がある。特に阿形像は霊仙寺金剛力士像と同じように迫力のある金剛力士像である。

 宮崎県にも魅力ある金剛力士像が多くある。最勝寺跡金剛力士像(串間延寿院作)や霧島寺跡金剛力士像(串間円立院作)・内山禅寺金剛力士像(平賀快然作)などの金剛力士像である。これらは江戸時代に宮崎で活躍した串間延寿院・串間円立院・平賀快然という3人の僧の作で、デフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれ、それぞれ個性的で印象的な金剛力士像である。ここでは、他に延寿院の作の像として生目大村金剛力士像・風田金剛力士像、円立院の作の像として護東寺跡金剛力士像・朝倉観音金剛力士像、快然の作として日向国分寺金剛力士像・松崎観音堂金剛力士像を取り上げた。

 鹿児島県にも江戸時代の多くの金剛力士像がある。しかし、整った迫力ある金剛力士像はみられない。ただ、清泉寺跡金剛力士像は、岩に彫った磨崖像で迫力がある。
天部諸尊像石仏 Index
T 梵天・帝釈天・十二天 U 金剛力士 V 四天王
W 毘沙門天(多聞天) X 深沙大将・弁才天・摩利支天 Y 大黒天・鮭立磨崖仏・竹成五百羅漢
Z 十二神将・十六善神・蔵王権現 [ 閻魔・十王 \ 青面金剛



天部諸尊像石仏U (1)   臼杵磨崖仏古園石仏金剛力士像
大分県臼杵市深田 「平安後期」
 古園石仏は「古園十三仏」と呼ばれるように、像高3m近い金剛界大日如来を中心にして左右に各六体の如来・菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちていた、現在は修復され、仏頭は元に戻された。

 十三仏の向かって右側には金剛力士像の半肉彫りがある(阿形は欠損)。厚肉彫りではないためか追刻と考えられ、1955年、国宝に指定された時はこの像は重要文化財のままであった。しかし、2017年に他の古園石仏と同じ時期に製作されたものとして、国宝に追加指定された。



天部諸尊像石仏U (2)   臼杵石仏満月寺金剛力士像
大分県臼杵市深田木原 「鎌倉後期〜室町時代」
阿形
吽形
 臼杵磨崖仏古園石仏・ホキ石仏の北東、シバザクラやコスモスが植えられた臼杵石仏公園をはさんである満月寺にある金剛力士像である。現在の満月寺は近年建てられたものであるが、その寺の建物の前に、仁王像が残っている。石像の仁王像は国東半島でよく見かけられるが、この像も国東半島の金剛力士像と同じように室町以降の作と思われたが、発掘調査で鎌倉時代の建物の跡が見つかっていて、その時の建立とすると鎌倉時代の可能性もある。

 風化が激しく、顔の表情ははっきりしないが、ウルトラマンに似た愛嬌あふれる仁王で観光客に人気がある。鼻を削って飲むと疫病に効くという云われがあり鼻は削られて無くなっている。



天部諸尊像石仏U (3)   岩戸寺金剛力士像
大分県国東市国東町岩戸寺1222 「文明10年(1478)室町時代」
阿形
吽形
 独立した金剛力士像では大分県の国東市国東町の岩戸寺にある金剛力士像が最も古い文明10年(1478)の記銘を持つ。

 阿形は像高140p、吽形135pで安山岩の丸彫りであるが、頭部や後頭部になびかせた天衣、金剛杵を振り上げた手(阿形左手)や掌を見せて上げた手(吽形右手)は丸彫りでなく光背からの厚肉彫りである。石の持つ力強よさを生かした豪快な金剛力士像である。阿形・吽形とも光背やなびかせた天衣が大きく欠けていて、一見すると岩を担いでいるように見え、より迫力が増しているように見える。



天部諸尊像石仏U (4)   旧千燈寺跡金剛力士像
大分県国東市国見町千燈1334 「室町時代」
阿形
吽形
  旧千燈寺跡にある金剛力士像も古く、鎌倉時代作の説もある。高さ180pの板状の石材に金剛力士を厚肉彫りしたものである。

 国東半島の寺院にはほとんど例外なく金剛力士像(仁王)が立っている。その大部分は江戸時代の作で類型的な力のない丸彫りである。これは珍しく板状の石に厚肉の浮き彫りで磨崖仏に一脈通じる表現である。動感ある姿態で彫技も優れている。



天部諸尊像石仏U (5)    楢本磨崖仏金剛力士像
大分県宇佐市安心院町楢本 「室町時代」
阿形
吽形
   山中の杉林の中の安山岩層に数十体に及ぶ多くの磨崖仏が上下二段に、薄肉彫りされている。まず、目にはいるのは上段の像高200pの不動明王座像で、顔は大きく誇張された表現になっていて、やや荒っぽい。その他、上段には薬師三尊・釈迦三尊・多聞天などの像が彫られている。

 下段は、1m前後の薄肉彫り像や半肉彫りの像が数多く彫られている。十王・地蔵・阿弥陀三尊・不動・多聞天・十二神将などである。阿弥陀如来座像と比丘形座像を刻んだ磨崖宝塔もある。

 上段の不動明王横に「応永35年(1428)」の銘があるので室町時代の作であることがわかるが、作風から見て、すべて同じ時期につくられたとは考えにくい。下段の諸像の方が整っていて、気品がある。これらの像は、上段の大作よりやや古い時期の作ではないだろうか。

  金剛力士像は、上段の向かって右端に阿形、左端に吽形が薄肉彫りで彫られている。吽形は像高195p、阿形230pで楢本磨崖仏の中では最も大型で、赤く彩色され、デフォルメされた大げさな表現である。



天部諸尊像石仏U (6)   文殊仙寺金剛力士像
大分県国東市国東町大恩寺2432 「慶安元年(1648年) 江戸時代」
阿形
吽形
 国東市国見町にある富来港から文殊仙寺までの約10kmの間を 「開運ロードとみくじ(富来路)」と呼び、町おこし、観光に一役かっている。その開運ロードの終点となっている文殊仙寺の駐車場からうっそうと茂った木々に覆われた長い石段の参道を登ると文殊仙寺の山門が見えてくる。

 その参道の途中にこの2体の金剛力士像が石段の左右に立っている。総高は阿形1.82m・吽形1.8mで長身で力強く、美しい体格の石造金剛力士像で、県の有形文化財に指定されている。銘はないが寺の記録に慶安元年(1648年)建造とある。肋骨を数珠玉であらわしているのは面白い表現である。



天部諸尊像石仏U (7)   両子寺金剛力士像
大分県国東市安岐町両子1502 「1814(文化11)年 江戸時代」
阿形
吽形
 両子寺の山門に続く石段の両脇に国東半島最大級(阿形総高245cm、吽形230cm)の石造の金剛力士像が立っている。銘はなく、寺の伝えによると、文化11(1814)年の江戸時代後期の作である。

 阿形像は左手で金剛杵を肩上に構え、右手を腰の位置で拳にする。吽形像は右手を肩下掌を前に開き、左手は腰の位置で拳にする。胸骨や盛り上がった筋肉の表現は力強い。多くの江戸時代の国東半島の金剛力士像が誇張された表現やアンバランスな体躯の像が多いが、この金剛力士は見事な均整美を保ち満身の力をたくわえていて、文殊仙寺金剛力士像とともに江戸時代の国東半島を代表する仁王像である。



天部諸尊像石仏U (8)   応暦寺金剛力士像
大分県豊後高田市夷1016 「江戸時代」
阿形
吽形
 国東半島の金剛力士像の多くは丸彫りであるが、数は少ないが板状の石材に半肉彫りで表現した金剛力士像も見られる。その代表といえるのが天部諸尊石仏U(4)として紹介した旧千燈寺跡金剛力士像である。江戸時代の金剛力士の半肉彫り像としては応暦寺観音堂前や霊仙寺山門・玉泉寺・日枝神社などの像がある。これらの像は旧千燈寺と違って手足のバランスや全体的な表現方法が稚拙である。また顔は剽軽(ひょうきん)な表情で、筋骨隆々といった金剛力士の力強さを欠く像が多い。

 その中でも応暦寺半肉彫り像は稚拙でアンバランスな体躯表現ながら、板石という石材をうまく生かして不規則な光背状の石から浮き上がるように表現していて、渋みのある個性的な相貌と相まって魅力ある像となっている。阿形・吽形とも右手に金剛杵を捧げるが、阿形は独鈷杵、吽形は三鈷杵である。阿形と吽形の背面の銘文にはこの地で藤原氏の子孫をなのる土屋氏の名が刻まれいて、土屋氏の系図から江戸中期の作とわかる。この像を高く評価する石仏研究家もいて、石仏写真集によく取り上げられている。



天部諸尊像石仏U (9)   霊仙寺金剛力士像
大分県豊後高田市夷1016 「江戸時代」
阿形
阿形
 霊仙寺の山門の壁に付くように立っている金剛力士像も応暦寺半肉彫り像と作風が似た像で同人か同系列の石工の作と思われる。阿形は像高180p、吽形は像高165pである。阿形像が特に魅力的で相貌は応暦寺より迫力がある。

 境内の大きな地蔵立像の横にも一対の金剛力士像がある、こちらは整った丸彫り像である。銘文があり造立年が、安政元(1854)年で石工が板井国良・板井国政であることがわかる。半肉彫り像と共に市の有形文化財となっている。



 
天部諸尊像石仏U (10)   串間延寿院の金剛力士像
 串間延寿院の金剛力士像は、両子寺の金剛力士像のような均整のとれた整った金剛力士像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。天衣は両肩から後頭部になびかせるのではなく、肩にかけるよう表現している。

 串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をした、大越家(おいつけ)の僧位を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に入寂した。延寿院は大仏師を名乗り、仏師として造仏活動もすすめた。現在、石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。
生目大村金剛力士
宮崎県宮崎市大字生目  「明和6年(1769) 江戸時代」
阿形
吽形
生目大村の仁王像は子どもの円立院の金剛力士像とよく似た作風で、保存状態がよい秀作である。彫りも鋭く力強い。
最勝寺跡金剛力士像 
宮崎市源藤町源藤917-5  「宝暦6年(1756) 江戸時代」
阿形
吽形
 最勝寺跡の金剛力士像(宝暦6年<1756>)は、体躯の表現など、ややアンバランスで整った作とは言い難いが、誇張した表現の憤怒相の顔や腕は力強い。特に阿形の横顔は迫力がある。
風田金剛力士像 
宮崎県日南市大字風田3594-3  「江戸時代」
阿形
吽形
 風田の金剛力士像は像高1mほどの小像で砂岩製のため傷みが激しいが、体躯や衣紋などの表現など写実的で巧みである。紀年銘はないが「大越家延寿院」の刻銘が残る。文殊仙寺の金剛力士像のように肋骨を数珠玉であらわしている。



     
天部諸尊像石仏U (11)   串間円立院の金剛力士像
 寛政元年(1748)、古城(宮崎市)に生まれた串間円立院は、護東寺の第六世住職で大峰入峰修行や熊野三山奥駆け修行を3回した修験僧である。護東寺の第五世住職であった父、串間延寿院と同じく仏像彫刻に優れ、天保5年(1834)、85歳で亡くなるまで、多数の仏像をつくった。現在、362体の仏像が確認されているという。
霧島寺跡金剛力士
宮崎市大塚町六ツ合686  「寛政13年(1801) 江戸時代」
阿形
吽形
 霧島寺跡金剛力士<寛政13年(1801)>は宮崎市跡江の大淀川の堤防下に、六十六部廻国供養塔などの石造物とともに祀られている。堤防と椿の林を背景にして霧島山に向いて立っていてる赤く塗られた2体の金剛力士の姿は印象的である。つり上がったどんぐり眼、太い眉、V字型の額の3本の皺など顔の表現は父の延寿院作の生目大村の仁王像とよく似ている。
五百祀神社金剛力士像 
宮崎県日南市大字楠原  「天明4年(1784) 江戸時代」
阿形
吽形
五百祀神社仁王は長身の金剛力士像で、伊東家累代の墓地入口に対面するように祀られている。
護東寺跡金剛力士像 
宮崎市古城町  「江戸時代」
阿形
吽形
護東寺跡の金剛力士像は胸のあばら骨まで表していて他の金剛力士像と較べるとより力強い体躯の表現である。
朝倉観音金剛力士像 
宮崎県宮崎市金崎914番地  「江戸時代」
阿形
吽形
 朝倉観音金剛力士は他の円立院の金剛力士像と比べと小振りであるが、彫りが深く力強い金剛力士像である。円立院の刻銘のある霧島寺跡金剛力士や宝泉寺金剛力士よりも、延寿院作と思われる最勝寺跡や生目大村の金剛力士像によく似た表現である。
日之御碕観音寺金剛力士像 
宮崎県宮崎市大字折生迫7125  「江戸時代」
阿形
吽形
 朝倉観音金剛力士は他の円立院の金剛力士像と比べと小振りであるが、彫りが深く力強い金剛力士像である。円立院の刻銘のある霧島寺跡金剛力士や宝泉寺金剛力士よりも、延寿院作と思われる最勝寺跡や生目大村の金剛力士像によく似た表現である。



   
天部諸尊像石仏U (12)   平賀快然の金剛力士像
 平賀快然は18世紀に宮崎で活躍した仏師で、禅宗僧でもあった。彼が残した石仏や木彫仏の記銘などから、清武郷熊野村今江(宮崎市熊野)の出身で元禄16年(1703)から宝暦7年(1757)にわたって彫作活動したことが分かっている。現在、快然の作として木彫仏5体、金剛力士石仏5対、地蔵石仏8体が確認されいる。
松崎観音堂金剛力士像 
宮崎県宮崎市田吉4929   「元禄16年(1703) 江戸時代」
阿形
吽形
 平賀快然のもっとも古い作が、松崎観音堂の金剛力士像で元禄16年(1703)、快然が松崎寺を中興開山した大年禅師と快然の師匠紹尊のために奉納したものである。丸顔で豪放な感じのする金剛力士像である。阿形、吽形とも顔の一部が破損している。
黒坂観音堂金剛力士像 
宮崎市清武町木原6333 「江戸時代」
阿形
吽形
 快然の仏像でもっとも知られているのが黒坂観音堂の金剛力士像である。現在の黒坂観音堂の東南500mにあった勢多寺から移されたと伝えられている。現在、黒坂観音堂の境内には勢多寺から移された県指定文化財の五輪塔をはじめとして多数の石塔が安置されている。吽形の背部に「平賀快然祐舎作」などの刻銘がある。松崎観音堂の金剛力士像とは違い楕円形の顔で鉢巻きをしているが、憤怒相の迫力は他の像と変わらない。体躯の表現はもっとも丁寧に彫り込んでいて、快然の金剛力士像の集大成といえる。この像については「近世日向の仏師」の著者前田博仁氏は近くにある宝暦3(1753)年の地蔵菩薩像から宝暦年間の(1751〜1763)の作と推測されている。
日向国分寺金剛力士
宮崎県西都市大字三宅3187   「享保13年(1728) 江戸時代」
阿形
吽形
日向国分寺の金剛力士像は丸顔で大きな眼と太い眉毛、食いしばった口など誇張した表現に特徴がある。
伊満福寺金剛力士
宮崎市古城町6695番地   「元禄16年(1703) 江戸時代」
阿形
吽形
伊満福寺の仁王像(元禄16年<1703>)も丸顔で力強い表現である、阿形像は食いしばるようにして口を開けている。
内山禅寺金剛力士像 
宮崎市清武町船引1592   「延享2年(1745) 江戸時代」
阿形
吽形
 内山禅寺仁王像も鉢巻きをした金剛力士像で、延享2年(1745)の作である。延寿院・円立院の金剛力士像のような細かい皺まで彫り込むのではなく、おおまかであるが大胆な力強い彫りである。しかし、体躯の表現は未完成のように見えるほど雑である。



天部諸尊像石仏U (13)   清泉寺跡磨崖仏金剛力士像
鹿児島市下福元町草野   「江戸時代」
阿形
吽形
 鹿児島県にも江戸時代の多くの金剛力士像がある。しかし、整った迫力ある金剛力士像はみられない。ただ、清泉寺跡金剛力士像は、岩に彫った磨崖像で迫力がある。台地の岩壁がL型になっている両面を利用して半肉彫りされたものある。阿形は東を向き右手で金剛杵を持つ。吽形は北を向き右手で金剛杵を持つ。

 高さは共に2メートルを越え体躯はやや貧弱であるが手足や顔は力強い。両像の間には、[貞享元年申子四月一五日岩長八兵衛、中村長右衛門」の刻銘があり、江戸時代初期の「貞享元(1684)年」の作であることがわかる。岩長八兵衛、中村長右衛門は石工名と思われる。


T梵天・帝釈天・十二天    V四天王