天部諸尊像石仏X
深沙大将・弁才天・摩利支天
  
  
 
  深沙大将は玄奘三蔵が天竺に赴いた時に、流沙で現れてその苦難を救ったという護法神で、多聞天の化身という。像形は、奇怪な相貌をした、半裸の鬼形で、首に髑髏の瓔珞をかけ、腹部に童子の顔を出し、膝頭に像の顔を表した袴をつけている。 石仏としてはきわめて希である。大分市の高瀬石仏の彩色が残る半肉彫り像が有名である。赤い頭髪を逆立て、胸に7個の髑髏の首飾りをし、腹部には童子の顔が描かれ、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。深沙大将は「大般若経」の守護神として玄奘三蔵として玄奘とともに十六善神図中に描かれることが多い。石仏では広島県三原市の白滝山(竜泉寺)の磨崖仏に十六善神像があり、その中に深沙大将の浮き彫りがある。

 弁才天(サラヴァティー)は古代インド神話の三大女神の一つで梵天の妃ともされる。サラヴァティー川を神格化したもので、本来は土地豊穣をもたらす河神であるが、弁才(智慧)の女神ヴァーチと結合して同一視され、言葉、学問、音楽などの神とされた。仏教に取り入れられてからは学問・音楽・智慧の神として信仰され、鎌倉時代以降は福徳神の性格が強まり、七福神の一員にくわえられる。その像容は天女形で、「金光明最勝王経」に説く弓・箭(や)・剣・斧・羂索などを持つ八臂像や琵琶などを持つ二臂像などがある。中世以降、日本の在来の作神、宇賀神(うがのかみ)と結びつき翁面蛇体の宇賀神をいただく姿の宇賀弁才天がうまれる。石仏では福島県の岩谷観音弁財天や守屋貞治の作の深叢寺弁才天像などがある。
 
杵築神社深沙大将
  摩利支天は陽炎を神格化したインドの女神マリシが仏教に取り入れられ、護身の神となったもので、江戸時代には蓄財の・福徳の神として信仰された。像容は鉄扇を持った二臂の天女像、もしくは猪に乗る憤怒相の三面六臂像などがある。石仏のほとんどは三面六臂像で、長野県の霊諍山や修那羅などに見られる。
天部諸尊像石仏 Index
T 梵天・帝釈天・十二天 U 金剛力士 V 四天王
W 毘沙門天(多聞天) X 深沙大将・弁才天・摩利支天 Y 大黒天・鮭立磨崖仏・竹成五百羅漢
Z 十二神将・十六善神・蔵王権現 [ 閻魔・十王 \ 青面金剛



天部諸尊像石仏X (1)   高瀬石仏深沙大将
大分県大分市高瀬910-1 「平安時代後期」
 高瀬石仏は、霊山の山裾が、大分川の支流、七瀬川に接する丘陵にある石窟仏である。高さ1.8m、幅4.4m、 奥行き1.5mの石窟の奥壁に像高95〜139pの馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の5像を厚肉彫りする。赤や青の彩色が鮮やかに残り、馬頭観音や大威徳明王の火炎光背や大日如来の光背の唐草文様などは印象的である。

 中尊は丸彫り近い厚肉彫りで、宝冠をいだいた、法界定印の退蔵界大日如来である。他の4体は半肉彫りで、如意輪観音像の動的な姿態や大威徳明王が乗る牛の体勢など立体的な絵画表現を巧みに行なった秀作である。

 高瀬石仏で最も知られているのが、左端の深沙大将である。赤い頭髪を逆立て、胸に9個の髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握る異様な姿は、興味が尽きない。腹部には童女の顔が描かれている。深沙大将は葛城山の護法神で毘沙門天の化身とされ、馬頭観音、如意輪観音、大日如来、大威徳明王、深沙大将の配列は葛城山系の修験道との関連が考えられる。

 これらの諸像は神秘的であるが、表現は穏和で柔らかみがあり、平安時代後期の作と考えられる。国の史跡に指定されている。



天部諸尊像石仏X (2)   竜泉寺十六善神磨崖仏深沙大将
広島県三原市小泉町 「室町時代」
深沙大将・童子・玄奘三蔵・勇猛心地善神・吠室羅摩拏善神(多聞天)
深沙大将・童子
 深沙大将は「大般若経」の守護神として玄奘三蔵として玄奘とともに十六善神図中に描かれることが多い。石仏では広島県三原市の白滝山(竜泉寺)の磨崖仏に十六善神像があり、その中に深沙大将の浮き彫りがある。高瀬石仏像と同じく髑髏の首飾りをし、左手に身体に巻き付けた蛇の頭を握り、腹部には童子の顔が薄肉彫りで表している。



天部諸尊像石仏X (3)   鮭立磨崖仏深沙大将
福島県金山町山入字石田山2692 「江戸時代」
鬼子母神・湯殿権現・深沙大将・九頭竜権現・風神・雷神
 鮭立集落の南西の山麓の小高いところに凝灰岩の洞窟があり、その壁面に像高14pから60pに至る大小様々な刻像が、交互に40〜50体びっしりと、不動明王を中心に密教系の諸仏・天部や垂迹神像が半肉彫りされている。深沙大将(じんじゃだいしょう)や牛頭天王(ごずてんのお)・荼枳尼天(だきにてん)・飯綱権現(いづなごんげん)など石仏としては数少ない像もある。また、一洞窟に、これほど多種多様の像が刻まれているのも珍しい。飯綱権現像や愛染明王像などには彩色の跡が残っていて、もとは、美しく彩色されていたと思われる。

 この磨崖仏は天明の飢饉や天保の飢饉の惨状を見て、現在の岩淵家の祖先である修験者の法印宥尊とその子の法印賢誉が五穀豊穣と病魔退散を祈って彫ったと伝えられている。

 浅く細長い洞窟で3つほどに分かれていて、左面には28体の像が彫られている。左端には45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、左から鬼子母神・箱根権現(or湯殿権現)・深沙大将・九頭竜権現でこの磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。

 像高45pの深沙大将像は大きな蛇を両手で抱えるように持っている。風化が進み、髑髏の首飾りはどうにか確認できるが、腹部の童子の顔は赤い彩色は残るが確認できない。



天部諸尊像石仏X (4)   香高山五百羅漢弁財天
奈良県高市郡高取町壷阪香高山 「江戸時代初期」
五社明神(弁財天・神像?・雨宝童子・神像?・毘沙門天)
 西国三十三所観音の6番札所、壺阪寺(南法華寺)は、お里・沢市の物語で知られる『壺阪霊験記』の舞台でもある。その壺阪寺の奥の院といわれるのが、この香高山五百羅漢である。壺阪寺より高取城跡へ行く道を1qほどすすむと、五百羅漢の道標が立っている。その道標から山道を少し行くと、数百体の羅漢を薄肉彫りした岩があらわれる。像高約50pほどの像が所狭しと並んでいる。そこから数メートルほど上ったところにも、十一面観音や大黒天とともに数百体の羅漢が同じように彫られていて、壮観である。五百羅漢岩から上へ登るに連れて、 地蔵・十王像、五社明神、弘法大師蔵、阿弥陀来迎二十五菩薩と磨崖仏が次々と現れてくる。そして、頂上には釈迦如来が彫られていて、香高山全山が仏の世界を描いた一種の曼陀羅のようになっている。

 この弁財天像は五社明神の1体として彫られたもので像高20pほどの小さな磨崖仏である。弓・箭(や)・剣・斧・羂索などを持つ八臂像の天女形で丸顔のかわいらしい像である。



天部諸尊像石仏X (5)   岩谷観音磨崖仏弁財天
福島県福島市岩谷7-2 「江戸時代」
  福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 福島市の岩谷観音磨崖仏弁才天は厚肉彫りの八臂座像で胸前の二臂は宝珠と剣を持つ、残りの六臂は薄肉彫りで表している。頭の上には鳥居と蛇体をのせていて、宇賀弁才天であることがわかる。



天部諸尊像石仏X (6)   深叢寺弁財天
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 江戸時代」
  高遠の石工、守屋貞治の弁財天は本堂南側の庭の池のふちに安置されている。八臂像で、弓・矢・剣・宝珠などを持つ。小さな像であるが、貞治仏らしい端正な顔だちが印象的である。貞治が晩年に彫造した石仏を記録した『石仏菩薩細工』には「辨財天 諏訪中新田村深草寺」との記あり(336躯の石仏中67番目)。


天部諸尊像石仏X (7)   鮭立磨崖仏弁財天
長野県諏訪郡原村中新田13512  「文政2(1819)年 江戸時代」
 鮭立磨崖仏の左面のには深沙大将など28体の像が彫られている。左端には深沙大・鬼子母神など45p〜53pの比較的大きな像が並んでいて、鮭立磨崖仏で最もよくで紹介されている部分である。その右には、風神と雷神が並び、その右は4段に分かれて、荼枳尼天・淡島様・愛染明王・聖観音・渡唐天神・弁財天など諸像が所狭しと彫られている。

 弁財天は像高22pの蓮台に立つ小像で宝冠をかぶり、両手を胸前にして、深沙大将と同じように蛇を持つ。深沙大将の蛇は大将の首に巻き付いているが、こちらは両手の中でとぐろを巻いている。風化がすすみ翁面まで確認できないが翁面蛇体の宇賀神をいただく宇賀弁才天である。


天部諸尊像石仏X (8)   竹成五百羅漢弁財天
三重県三重郡菰野町竹成2070 「江戸時代後期」
 竹成五百羅漢は高さ約7mの四角錐の築山をつくり、頂上に金剛界大日如来と四方仏を置き、その周りに如来・菩薩・羅漢をはじめとした500体ほどの石像を安置したもので、七福神や天狗、猿田彦などもあり、大小様々な石仏・石神が林立する様は壮観で、見応えがある。江戸末期、当地竹成出身の真言僧神瑞(照空上人)が喜捨を求めて完成したもので、発願は嘉永5(1852)年で、桑名の石工、藤原長兵衛一門によって慶応2(1866)年に完成した。羅漢以外に玄奘三蔵像、十二天像、稚児文殊・稚児普賢、四夜叉像、三宝荒神、七福神像などの様々な像が見られる。

 竹成五百羅漢弁財天は七福神として造立された二臂の弁才天像で、最も弁財天としてよく知られている琵琶を持つ姿である。ただ、撥を持って琵琶を弾くのではなく、左手で琵琶の竿を持ち、右手で宝珠を持つ。



天部諸尊像石仏X (9)   大窪寺弁財天石仏
香川県さぬき市多和兼割96  「近代」
 四国八十八カ所霊場の結願の霊場「大窪寺」(香川県さぬき市)の阿弥陀堂前の広場の右側の銀杏の木の下には高さ120mほどの基壇に像高40p〜70pの丸彫りの近作の様々な石仏が安置されている。最上段の金剛界大日如来と弘法大師像を中心に如来・菩薩・明王・天部諸像や神像を曼陀羅風に安置したもので、馬頭明王や稲荷明神など特異な像があり興味深い。近代の作であるが、詳細に彫られていて、引き締まった写実的な顔で、ブロンズ像のような雰囲気の石仏群である。

 弁財天像は七福神などで知られている琵琶を弾く姿で片膝を立た半跏座像である。丸顔の穏やかな美人像である。



天部諸尊像石仏X (10)   霊諍山の摩利支天
長野県千曲市八幡大雲寺裏山  「明治時代」
 摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では修那羅の摩利支天石仏や茅野市の権現の森や松本市和田の摩利支天石仏などが知られている。霊諍山を開いた北川原権兵衛は御嶽信仰に基づく神道の御岳教の中座(霊媒)であり、摩利支天が祀られて当然といえる。

  この摩利支天像は修那羅の像と同じく船型にした石材に猪に乗る憤怒相の三面六臂の摩利支天を浮き彫りにしたねのである。左の二つの手で弓と軍配、右の二つの手で矢と刀を持ち、残った左右の手で長鉾を構えている。修那羅の像に比べると迫力に欠けるが、修那羅像に比べると風化が少なく、陽が当たると鮮やかに三面の忿怒相や猪の姿が浮き上がり写真写りは抜群である。
 霊諍山にはもう一体、摩利支天像がある。こちらは線彫り像である。船型の石材に、板彫り状に猪に乗る摩利支天と火焔を板状に浮き出し、面相や着衣・持物・猪の顔や牙を線彫りで表したもので、勇壮な姿である。浮き彫りの摩利支天像と同じく、三面六臂で弓矢・軍配・剣・長鉾を持つている。顔は、ボウボウと髭を生やし、摩利支天1より数段すごみがあり迫力満点である。赤く彩色した跡が残る。



天部諸尊像石仏X (11)   修那羅の摩利支天
長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田11572 修那羅山安宮神社「明治時代」
 上を丸くした板状の石材に浮き彫りで表した像で、猪に乗る憤怒相の三面六臂像で、弓矢や軍配などを持つ。摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では霊諍山の摩利支天石仏や茅野市の惣持院や権現の森の摩利支天石仏が知られている。

 この像や蔵王権現・勝軍地蔵や後で紹介する~農など同じ場所に置かれていて、酒屋や薬屋を営んでいた金井一族が明治時代に建立したものと思われる。おそらく「仏像図彙」などの仏像図譜などを参照して造立されたのではないだろうか。



天部諸尊像石仏W (12)   竜王山の摩利支天(摩利支尊天)
広島県尾道市潮見町   「明治時代〜昭和時代」
 竜王山には珍しい尊容の石仏も多くある。摩利四尊天と刻銘のある石仏は摩利支天(摩利支尊天)と考えられるが、三面六臂の猪にのる通常の摩利支天像とは違い、一面で手を智拳印のような印(智拳印とは左右の手が逆)を組む二臂の像となっている。



W毘沙門天(多聞天)    Y十二神将・大黒天など