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鵜殿窟磨崖仏 佐賀県唐津市相知町相知和田 |
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大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に不動明王像など多くの像を半肉彫りする。石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。 鵜殿窟は、大同元年(806)、唐から帰った空海(弘法大師)によって阿弥陀・薬師・観音の三像が大洞窟にに刻まれたことに始まると伝えられている。天長年間には鵜殿山平等寺が建立され真言密教の寺院として栄え、その後、天文の戦火にあい、衰滅していったという。 石窟の中心には十一面観音と不動明王、持国天・多聞天を彫る。その中でも、持国天と十一面観音は保存状態も良く、赤や茶、肌色の彩色が遺る。(十一面観音の彩色は後の補作か?)全体的に土俗的な怪奇さが漂う彫刻で、何となく、チベット仏教の仏像に印象が似ている。 十一面観音や不動明王、持国天がある石窟の向かって左には如来座像を彫った小龕か続き、その左に不動三尊を彫る。そのうち、セイタカ童子は、エジプト絵画のように肩は正面を向き顔は横顔になっていて、手には蛇を握り、オリエント風で、印象的な彫刻である。 鵜殿窟の諸像は豊後の石仏のような写実性を欠き、姿態・手足はアンバランスで、彫刻の技術自体は低いと思われる。しかし、下手ではあるが、宗教的な情熱が感じられる石仏群である。制作年代は、鎌倉時代末期から室町期と思われる。 |
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立石観音磨崖仏 佐賀県唐津市相知町相知緑町 |
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相知町の中心部から南、平山川の支流に面した、砂岩の断崖の下面の、自然の半洞窟(高さ3m、幅20m、奥行き5m程)のような岩に薬師・阿弥陀・十一面観音の体を薄肉彫りで刻む。 左端の薬師如来が一番大きく、像高約2mである。薬師如来は丸みを帯びた大きな顔の部分だけ薄肉彫りにして、体は線彫りで簡単に処理しているため、岩の中に仏像がとけ込んでしまったような印象を受ける。阿弥陀如来は体の部分も半肉彫りで、顔もやや細長く、作者や造立年代が違うように思える。 近くの鵜殿窟磨崖仏と同じように地方色濃厚な石仏である。鵜殿窟磨崖仏に較べると土俗的な怪奇さは少ないが、共通した印象を受ける。平安末期の作と伝えられているが、鎌倉中期以降の制作と思われる。 |
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法安寺は、朝鮮出兵(文禄の役)の時、あらぬ嫌疑を受け、豊臣秀吉により改易された、平安末期から肥前松浦地方で活躍した豪族、波多一族の追善供養のため、小野妙安が大正12年に開いた寺院である。昭和27年(1952)、小野妙安は開山30年に当り、信者とはかり、釈迦涅槃の像をはじめ不動明王・弘法大師等諸仏像百数十体を大石壁に浮彫りして、四国八十八ケ所霊場を建立したという。(法安寺HP参照) 本堂の対面の岩山に四国八十八ケ所霊場磨崖仏が彫られている。山頂まで細い参道に沿って四国八十八ケ所霊場の本尊を始め多数の2mを超える大きな磨崖仏が刻まれている。不動明王・弘法大師・阿弥陀・薬師・大日如来など様々な仏像が見られる。 本堂から四国八十八ケ所霊場の参道へ向かうととまず目に入るのが、見事に彩色された大きな波切不動である。右手に持つ剣を頭の上に振りかざし、左手で太い羂索を肩に担ぐように持った不動像で、燃えさかる火焔の前に立つ青い体躯の不動明王で迫力がある。剣を頭の上に振りかざした不動は全国的に見ると珍しいが、唐津市の漁港や田川市の英彦山天宮宮などに見られる(全て昭和期の作)。その波切不動の右手上に全長10mの巨大な釈迦涅槃像が彫られている。第9番札所法輪寺の本尊で、昭和27年2月12日に建立されたものである。 次に目を引くのが大きな一枚岩に彫った蛇体不動(倶利伽羅剣)・毘沙門天などの5体の像である。その付近から登山道になり、四国八十八ケ所霊場の本尊や弘法大師像など多数の磨崖仏が彫られている。ほとんどが2mを超える量感豊かな厚肉彫りで、15番国分寺薬師如来像・30番善楽寺阿弥陀如来像は貞観彫刻を思わせる整った力強い像である。32番禅師峰寺十一面観音・70番本山寺馬頭観音や山の中腹にある高野大明神とその隣の弘法大師像は土俗的な怪奇さを持った独特な表現になっている。時代は違うが鵜殿窟磨崖仏と共通する雰囲気を持った磨崖仏である。 |