謎の石仏 |
飛鳥時代に始まる日本の仏教彫刻史は、「奈良・平安・鎌倉を経て、室町でほとんど終息し、江戸時代は取り上げる作例を持たない。」というのが、戦前までの通説であり、通念であった。 美術史家や研究者の間では、円空仏や木喰仏は、日本の仏教彫刻史における異端派として、『江戸時代に咲いたあだ花』
的な存在として、評価されていて、円空仏や木喰仏の造形美は、日本の仏教彫刻の伝統とは無縁であり、あくまでも、円空仏や木喰仏は、円空や木喰という「ひじり」の個性と信仰の表出であるというとらえ方が一般的である。 それが、このページのテーマである、岡山市高松付近に多く見られる「文英の石仏」であり、兵庫県加西市の「北条五百羅漢石仏」である。そして、木喰の作という説もある鳥取県倉吉市の「伯耆国分寺石仏」である。 大陸から伝わった仏教は山や川や木や石などの自然そのものを神として崇める日本古来の信仰と結びつき日本の民衆の中に広がっていった。そのような仏教を広げたのは全国を放浪し、山岳修行や木食行(五穀断)などをした半僧半俗の「ひじり」であった。円空・木喰こそ、そのような「ひじり」であった。 熊野磨崖仏をはじめとした国東や豊後の磨崖仏も山岳修行に励む山伏たちと深い関係がある。また、このページのテーマである「文英の石仏」・「北条五百羅漢石仏」・「伯耆国分寺石仏」にしても、専門の石工ではなく、円空や木喰のような半僧半俗の「ひじり」によって刻まれた可能性が考えられる。 |