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串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をした、大越家(おいつけ)の僧位を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に入寂した。延寿院は大仏師を名乗り、仏師として造仏活動もすすめた。現在、石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。 延寿院は鵜戸神宮の不動明王磨崖仏(明和元年<1764>)・閻魔大王磨崖仏(明和2年<1765>)の作者として「鵜戸神宮の磨崖仏」で紹介しているが、閻魔大王の鋭い目つきで睨みつける表情や不動明王の左に腰をひねり憤怒の形相で立つ姿の表現は巧みで力強く、技量はこのページ取り上げた3人の仏師では一つ抜きんでている。 最勝寺跡の仁王像(宝暦6年<1756>)は、体躯の表現など、ややアンバランスで整った作とは言い難いが、誇張した表現の憤怒相の顔や腕は力強い。特に阿形の横顔は迫力がある。また、生目大村の仁王像は子どもの円立院の仁王像とよく似た作風で、保存状態がよい秀作である。彫りも鋭く力強い。 赤い彩色が残る八坂神社の庚申塔(青面金剛像)宝暦4年(1754)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似ていて、いままで見た青面金剛像の中では最も優れた像である。顔の眉付近から上が破壊されているのが惜しい。伊満福寺奥の院の庚申塔(青面金剛像)は宝暦5年(1755)の作で八坂神社の庚申塔の翌年に彫られたものである。 最勝寺跡や生目大村の仁王像、八坂神社と伊満福寺奥の院の庚申塔は作者名の刻銘がないが、鵜戸神宮の磨崖仏や子どもの円立院と似た作風であることや最勝寺跡仁王像の刻銘に延寿院の父親と思われる頼宥法印の名あることから延寿院作と思われる。 |
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