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平賀快然は18世紀に宮崎で活躍した仏師で、禅宗僧でもあった。彼が残した石仏や木彫仏の記銘などから、清武郷熊野村今江(宮崎市熊野)の出身で元禄16年(1703)から宝暦7年(1757)にわたって彫作活動したことが分かっている。現在、快然の作として木彫仏5体、仁王石仏5対、地蔵石仏8体が確認されいる。 もっとも古い作が、松崎観音堂の仁王像で元禄16年(1703)、快然が松崎寺を中興開山した大年禅師と快然の師匠紹尊のために奉納したものである。丸顔で豪放な感じのする仁王像である。阿形、吽形とも顔の一部が破損している。串間円立院の石仏で知られる伊満福寺の仁王像(元禄16年<1703>)も丸顔で力強い表現である、阿形像は食いしばるようにして口を開けている。 快然の仏像でもっとも知られているのが黒坂観音堂の仁王像である。現在の黒坂観音堂の東南500mにあった勢多寺から移されたと伝えられている。現在、黒坂観音堂の境内には勢多寺から移された県指定文化財の五輪塔をはじめとして多数の石塔が安置されている。吽形の背部に「平賀快然祐舎作」などの刻銘がある。松崎観音堂の仁王像とは違い楕円形の顔で鉢巻きをしているが、憤怒相の迫力は他の像と変わらない。体躯の表現はもっとも丁寧に彫り込んでいて、快然の仁王像の集大成といえる。この像については「近世日向の仏師」の著者前田博仁氏は近くにある宝暦3(1753)年の地蔵菩薩像から宝暦年間の(1751〜1763)の作と推測されている。 内山禅寺仁王像も鉢巻きをした仁王像で、延享2年(1745)の作である。延寿院・円立院の仁王像のような細かい皺まで彫り込むのではなく、おおまかであるが大胆な力強い彫りである。しかし、体躯の表現は未完成のように見えるほど雑である。日向国分寺の仁王像は丸顔で大きな眼と太い眉毛、食いしばった口など誇張した表現に特徴がある。 前田博仁氏はこれらの作風の違いを、快然は木彫を得意とした仏師で、これらの石仏の粗彫りを石屋や石工たちにさせて制作したためであると推測されている。 下木原の地蔵石仏は小さなお堂に祀られている。一石裏表に2つの像を彫った珍しい石仏である。正面は丸彫りの地蔵菩薩座像で左手に宝珠を持っている。背中から台座にかけての裏面には半肉彫りの地蔵菩薩立像が刻まれている。「寛保三(1743)癸亥年六月十五日建立 作者平賀□□・・・」の刻銘がある。 |
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