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寛政元年(1748)、古城(宮崎市)に生まれた、串間円立院は、護東寺の第六世住職で大峰入峰修行や熊野三山奥駆け修行を3回した修験僧である。護東寺の第五世住職であった父、串間延寿院と同じく仏像彫刻に優れ、天保5年(1834)、85歳で亡くなるまで、多数の仏像をつくった。現在、362体の仏像が確認されているという。(前田博仁著「近世日向の仏師たち」) 仁王像では、国富町の八幡神社や宮崎市の霧島寺跡・多宝禅寺・宝泉寺、日南市の五百祀神社などの仁王像が彼の作で円立院または円龍院の記銘がある。また、宮崎市の日之御碕観音や円南寺の仁王も記銘がないが作風から円立院の作と思われる。 霧島寺跡仁王<寛政13年(1801)>は宮崎市跡江の大淀川の堤防下に、六十六部廻国供養塔などの石造物とともに祀られている。堤防と椿の林を背景にして霧島山に向いて立っていてる赤く塗られた2体の仁王の姿は印象的である。つり上がったどんぐり眼、太い眉、V字型の額の3本の皺など顔の表現は父の延寿院作の生目大村の仁王像とよく似ている。 多宝禅寺仁王<寛政12年(1800)>・宝泉寺仁王<寛政元年(1789)・八幡神社仁王<寛政元年(1789)や日之御碕観音仁王・円南寺仁王も霧島寺跡仁王によく似た表現で赤い彩色が残る。父の延寿院の最勝寺跡仁王に較べると豪快さにかけるが、人生の辛苦を背負ったような渋い憤怒相で、作者の人間味が感じられる。護東寺跡の仁王像は胸のあばら骨まで表していて他の仁王像と較べるとより力強い体躯の表現である。 五百祀神社仁王は長身の仁王像で、伊東家累代の墓地入口に対面するように祀られている。朝倉観音仁王は他の円立院の仁王像と比べと小振りであるが、彫りが深く力強い仁王像である。円立院の刻銘のある霧島寺跡仁王や宝泉寺仁王よりも、延寿院作と思われる最勝寺跡や生目大村の仁王像によく似た表現である。 護東寺跡や伊満福寺の阿弥陀石仏・地蔵石仏、護東寺跡の弘法大師像は円立院の刻銘を確認しなくても一見して円立院と分かる石仏である。整った清浄な顔ではないが、人々の苦しみや業を知り尽くした人間味溢れる顔である。伊満福寺の門前の霧島社にある青面金剛像<寛政元年(1789)>は八坂神社の延寿院作の青面金剛像によく似ていて、やや硬い表現となっているが力強い作である。 太田観音堂神像は観音堂の前に仁王のように立つ阿吽の像である。阿形の像は豊石窓命、吽形は櫛石窓命である。 |
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