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ほうそう地蔵 奈良市柳生町 鎌倉後期 |
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阪原町の南出より柳生までの旧柳生街道は急な山道である。その山道の峠を越えて、しばらく進むと、大きな花崗岩の南面に彫られたこのほうそう地蔵がある。(柳生からは柳生陣屋跡より旧柳生街道を1qほど南へ行ったところになる。) 岩肌に高さ140p、幅約80pの方形の枠組みを彫りくぼめ、蓮華座に立つ錫杖を持つ通常型の地蔵を半肉彫りする。以前は面部が剥落していて、疱瘡にかかったように見えたため、ほうそう地蔵といわれていた。(私が高校生の時、初めて見たときは顔が剥落していた。) 昭和44年、すぐ下の土中より顔が見つかり修復された。顔は穏やかな童顔で印象深い。元応元(1319)年の銘がある。 その左側に正長の土一揆の資料として中学社会科や高校日本史の教科書に載っている有名な徳政銘文がある。「正長元年ヨリ サキ者(は)カンヘ(神戸)四カン カウ(郷)ニヲ井メ(負いめ)アル ヘカラス」とあり、「正長元年以前の借金は神戸(かんべ)の四ケ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)では帳消しにする。」という意味である。 |
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柳生の六地蔵 奈良市柳生町 |
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柳生の里は柳生新陰流の開祖、柳生石舟斎宗厳に始まり宗矩・十兵衛三厳とつづく柳生家の本拠地として栄えた、剣豪の里である。現在も家老屋敷や宗矩が父、石舟斎の菩提を弔って建立した芳徳寺などが残っている。その芳徳寺には、石舟斎をはじめ柳生一族の墓がある。その墓の入口には笠を載せた一石六地蔵がある。 ほうそう地蔵への道筋の崖には六地蔵の磨崖仏がある。明応十(1501)年の銘がある。像高30pほどの地蔵を6体、半肉彫りしたものであるが、風化していて、詳しい像容はわからない。 |
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あたや地蔵(阿弥陀磨崖仏) 奈良市柳生下町 鎌倉後期 |
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柳生から北(笠置方面)に1qほど行った、川の東の大きな岩壁にあたや地蔵がある。高さ2mほどの方形の枠組みを彫り、放射光を刻んだ頭光背を背負った、像高約150pの来迎印阿弥陀如来を薄く半肉彫りする。保存状態は良く、西日を受けた姿は美しい。左下には像高70pほどの追刻と思われる地蔵菩薩がある。 あたい地蔵から県道を少し北に行くと、弥勒大磨崖仏や、虚空蔵磨崖仏で知られた笠置山への東海道自然歩道が通じている。 |