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地獄谷聖人窟〔史跡〕 奈良市白毫寺町 地獄谷 天平時代〜鎌倉時代 |
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首切り地蔵の分かれ道を左に行くと、地獄谷に通じる。地獄谷の名は、昔この付近に屍をすてたところからでた地名とも、春日山中の地中に地獄があると考えられたところから生まれた地名ともいわれる。 その地獄谷の山中の凝灰岩層の露出した岩場に石窟が彫られていて、壁面に数体の線刻像が刻まれ彩色されている。それが、通称聖人窟と呼ばれる、線刻の磨崖仏の傑作である。 現在、はっきりと残っているのが3体で、奥壁の中央には、座高1mあまりの施無畏・与願印の如来像が彫られている。胸には卍が刻まれているとのことであるが、金網で保護されていて近づけないので確認できなかった。尊名は弥勒・釈迦・盧遮那仏など諸説がある。のびのびとした流麗な線で衣紋を描き、顔は東大寺大仏の蓮弁に刻まれた如来像によく似ていて、豊かな気品のある顔である。造立年代は天平から鎌倉まで諸説がある。 如来像の向かって左側には、二重円光背を背負った施無畏・与願印の如来立像(吉祥薬師像という説がある。)が、右側には同じく二重円光背を背負った十一面観音が彫られている。中尊に比べると線は伸びやかさに欠け時代は下ると思われる。東壁面には妙見菩薩が刻まれているとのことであるが金網の外からは確認できなかった。 |
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奈良市白毫寺町 春日奥山 室町時代 |
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地獄谷新池の北の山の中にある磨崖仏で、周遊歩道沿いにある。大きな岩に舟形光背を彫りくぼめて、蓮華座に立つ来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。滝坂の道の磨崖仏に比べると表現は硬く、衣紋も抽象的で、室町中期の様式を示す。石仏としては劣るが苔むした岩肌に刻まれたこの像は印象的である。 |
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春日石窟仏(穴仏)〔史跡〕 奈良市春日野町 春日奥山 平安後期 |
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奈良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。 東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。 西窟は金剛界の五智如来座像が彫られていて、左端の阿弥陀如来と思われる一体と多聞天のみがほぼ完全な姿で残っている。阿弥陀如来は像高94pで、穏やかな満月相で、なだらかな丸みを持った肩や流麗な衣紋など典型的な藤原様式となっている。 多聞天は顔の部分は痛んでいるが、火焔光背を背負い邪鬼を踏み、右手に矛、左手に宝塔を捧げ持つ姿が鮮やかに残っている。 |
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奈良市誓多林町芳山 天平後期 |
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仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。 林の中の急斜面を登った芳山の峰の上に、この芳山二尊石仏は立っている。高さ184p、幅152p、奥行き約1mk自然石風の花崗岩の南面と西面に、説法印の如来立像を半肉彫りしている。両像とも、広い肩幅、がっしりとした腰や、薄い絹衣をまとったような刻みの衣紋など唐招提寺や大安寺の天平後期の木彫仏と共通する表現となっている。 |