笏谷石の造形



 福井県の朝倉氏の居城跡、一乗谷には、多数の石仏が残されている。一乗谷の石仏のほとんどは朝倉氏がさかえた16世紀の石仏である。日本全体で見ると16世紀は、造形的に見ると石仏の衰退期で、小型化・様式化・簡略化がすすみ、迫力のある魅力的な石仏はみられなくなる。
しかし、この一乗谷の石仏は、細部を省略せず、細密に彫り出した、古様な表現であり、室町時代後期の石仏の中では異彩を放つ石仏群である。

 では、なぜそのような石仏がつくられたのだろうか。それは、京にあこがれつづけた戦国大名朝倉氏の存在が大きい。当時、一乗谷は北陸の小京都として栄え、現在も南陽寺跡庭園や諏訪館跡庭園などにその面影を見ることができる。そのような文化的背景の下、朝倉氏の庇護により、南陽寺(この寺で将軍義昭を招いて観桜の宴が張られたという)などの臨済宗の寺院や、念仏聖、真盛上人が創めた天台宗真盛派の寺院、その他、浄土宗・日蓮宗・曹洞宗などの寺院が、次々とつくられた。多くの石仏が残る西山光照寺や盛源寺は天台宗真盛派の寺院で、一乗谷の石造物造立の重要な担い手が、城主の朝倉貞景が帰依した特異な浄土教である天台宗真盛派であることは疑いがないであろう。

 もう一つ、これらの石仏がつくられた背景としてあげられるのは、笏谷石(しゃくだにいし)という金鋸で切れるほど軟らかい石材と古墳時代より続く越前の石の加工技術である。笏谷石は福井市街地の南に広がる足羽山(あすわやま)の丘陵地帯に産出する輝緑凝灰岩で、きめ細かい粘気のある石で、採石の中心となる地名から笏谷石とよばれる。一乗谷の石造物のほとんどがこの笏谷石で、木彫と同じように加工できる笏谷石という石材が、細部を省略せず、細密に彫り出す、古様な表現を可能にした。

  朝倉氏の治世下、石仏・石塔の需要が急増するとともに、笏谷石の採石と加工の技術が向上する。16世紀には、一乗谷はいうまでもなく、越前一円から北陸・近畿地方にも製品が移出された。その中でも傑作といえるのが、真盛上人によって再興された天台宗真盛派の総本山西教寺(滋賀県大津市坂本本町)の二十五菩薩阿弥陀来迎石仏である。

 このページは、一乗谷の盛源寺、西山光照寺跡の石仏と西教寺二十五菩薩阿弥陀来迎石仏を中心として、笏谷石の石仏の造形美を追求したものである。平安時代や鎌倉時代の石仏と比べると迫力に欠けるが、戦国時代、死者の供養として造立された、精緻な表現のこれらの石仏には当時の人々の切ない祈りが込められている。

 


参照文献

水上勉・一色次郎・鈴木秀男     「越前一乗谷石佛」          鹿島出版会
河原  純 「一乗谷遺跡(日本の美術214)」                   至文堂
京田良志  「一乗谷の石仏と越前石文化」 ( 『日本の石仏 北陸篇』)   図書刊行会