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清泉寺跡磨崖仏 鹿児島市下福元町草野 |
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鹿児島市の南部(旧谷山市)の海岸近くの小さな谷の崖にこれらの磨崖仏は彫られている。この谷付近以外は住宅地になっていて、ここだけは別世界のようである。1998年、最初に訪れたときは荒れ果てて草がぼうぼうと生えていて探すのに苦労した。 谷は3つほどに分かれていて一番手前の小さな谷の崖に鎌倉時代の作と思われる阿弥陀如来座像がある。風化がすすみ目鼻などは残っていないが、おおらかな力強さを感じる磨崖仏である。 左の谷はコンクリートで固められ、水路といった感じであるが、その谷の左の崖に仁王(金剛力士)像が2体彫られている。国東半島の石像仁王と表現がよく似ていて、おそらく江戸時代の作であろう。2010年8月に訪れたときには、対岸の谷山大観音の横に仁王像へ行く参道が作られ、間近に拝観することができた。 清泉寺跡磨崖仏で一番、目立つのは真ん中の谷の大きな崖に半肉彫りされている江戸時代の作の2体の武装忿怒立像磨崖仏である。像高は2mほどであるが蔓草に覆われた岩の崖から今にも飛び出すような迫力がある。彫りは、平安・鎌倉期の磨崖仏のような鋭さに欠けるが、岩自体の魅力がそれを補っていて、江戸期の磨崖仏の最高傑作といえる。 |
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茂頭観音磨崖仏 鹿児島市五ヶ別府町茂頭 |
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茂頭(もつ)観音は人里離れた山の中にあり、鹿児島市内の同じ観音磨崖仏でも梅ヶ渕観音と比べると訪れる人も少なく、あまり知られていない。しかし、磨崖仏としての出来映えは勝るとも劣らない。 茂頭観音は茂頭の鹿児島本線の踏み切り手前を左折して茂頭公民館へ行く踏み切りも渡らず、山間の農道を約1Kmほど東へいった山の中にある。鹿児島市のホームページを参考に訪れたが、ホームページの地図の茂頭観音の位置が少しずれていて探すのに苦労した。 高さ約1.2m、横幅2mの大きな岩の全面を彫り窪めて、聖観音座像を半肉彫りで刻んだ磨崖仏である。頭に弥陀の化仏を置いた宝冠をかぶり、左手に開敷の蓮華を持ち、右手は膝の上で与願印を結ぶ。ふくよかで美しい顔が素晴らしい。岩の美しさを活かした量感豊かな表現で、自然の岩の持つ厳しさとともに自然の岩の持つ温かさを感じさせる磨崖仏である。 参道入口の鳥居の横の案内板に、「伊集院の曹洞宗雪窓院住職の伊東稔法和尚の子の佑義が、1729(享保14)年、ここに寺をたて、その時からここを寺山と呼ぶようになり、この観音像も、その時につくられたものではないかといわれている」という旨が書かれていた。地元の人は寺山観音とよんで、大切に供養しているようで、訪れたときには美しい花が供えられていた。 |
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梅ヶ渕観音磨崖仏 鹿児島市伊敷町6550−5 |
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梅ヶ渕観音ぱ、商売繁盛、厄除け、結婚、受験などさまざまなご利益があるということで多くの人が参拝する観音磨崖仏である。2010年の1月3日に訪れたが初詣の車で道が渋滞していて、駐車場に車を入れることができず、拝観することができなかった。2010年の8月ようやく、やさしい柔和な観音様を拝むことができた。 高さ4m以上もあろうと思われる大岩の上部に楕円形の彫り窪みをつくり、宝冠をかぶり、両手を腹の前で定印に組み、結跏趺坐する菩薩像を厚肉彫りで刻んだ磨崖仏である。大きく垂れ下がった衣は薄肉彫りで表現していて、垂れ下がった衣の部分を含むと高さ2m近い大作である。 定印を結び岩の上に坐し、衣を垂らした表現の観音像としては白衣観音があるが(『仏像図彙』参照)、この像は頭から布をかぶっていないので、白衣観音とは断言できないが、仏画を参考に江戸時代以降に彫られた像であると考えられる。鹿児島市の甲突川に架かっていた五つの石橋を作った肥後の石工、岩永三五郎が彫ったという説があるという(梅ヶ渕観音の参拝者の祈願をするために建立された梅ヶ渕観音院のホームページ参照)。 五ヶ別府町の茂頭観音とともに、鹿児島市を代表する観音磨崖仏である。茂頭観音に比べると量感や力強さにやや欠けるが、繊細で端正な表現の観音像である。岩の上に坐す観音を厚肉彫りと薄肉彫りを使い分けることにより見事に表していて、茂頭観音とまた違った岩の持つ良さを活かした造形となっている。 |
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清水磨崖仏 鹿児島県川辺郡川辺町清水桜元 |
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万之瀬川の右岸の岩崖に約400mにわたって、線刻や浮き彫りで多数の種子、宝篋印塔・五輪塔・板碑などの磨崖塔・磨崖碑が連続して彫られている様は圧巻である。多くは鎌倉中期から室町時代の作である。阿弥陀如来や十一面観音などの仏像もあるがこれは明治時代の追刻である。 特にすばらしいのは永仁4年(1296) 銘の宝篋印塔群である。線彫りであるが端正な作風で、地方色を感じさせない秀作である。 線彫りの五輪塔は、同じく永仁4年(1296)に彫られたもので幅 4.3m、高さ10.3mで日本一の大きさである。 |