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加西市から加古川市・高砂市・姫路市にかけて、古墳の石棺を石材として石仏を彫った、いわゆる「石棺仏」が多数ある。種子を彫ったものも含めれば百基前後になる。 石棺材を利用した石仏は奈良県の天理市柳本付近をはじめ大阪・滋賀など近畿地方に十数基みられるが、これほど集中した地域はなく、「石棺仏」は、播磨地方(特に市川と加古川にはさまれたの東播磨)の石仏の地方的特色となっている。 特に、多数あるのは加古川市と加西市である。「日本の石仏(山陰・山陽篇)」(図書刊行会)によると、加古川市に35基、加西市に28基あるという。 その内、加西市の石棺仏は鎌倉後期から南北朝時代にかけてのものが多く。阿弥陀如来座像が中心である。 加古川市の石棺仏は室町時代のものが多く、阿弥陀とともに地蔵石仏も見られ。像自体は小ぶりで、「八つ仏」(加古川市平荘一本松)と呼ばれる石棺仏のように多尊石仏が半数以上ある。 大和の石棺仏はほとんどが石材いっぱいに仏像が厚肉彫りで彫られ、前知識がなければ石棺仏とはわからない。(長岳寺弥勒石棺仏参照) それに対して、これらの石棺仏は左の写真でもわかるように、ほとんどが、家型石棺や長持ち型石棺の蓋の形をそのまま残して彫られていて、一見して石棺材だとわかる。山伏峠の石棺仏のように、縄掛け突起をそのまま残したものまである。そこに、播磨の石棺仏の魅力がある。 この時代の石仏は、自己や知人・親族の冥福を祈り、現世の利益を得るためにつくられたものであるが、石棺仏は、それだけでなく、おそらく、新田開発等で古墳が崩されたり、洪水などで出てきた石棺を供養し、古代の死者の霊を鎮める意味もあったのではないだろうか。 石棺という古墳時代の石の世界を生かした、これらの石仏は、普通の石仏とはまた違った不思議な美しさに充ちている。どうぞ、「石棺仏の造形美」をお楽しみください。 |
参照文献 | 宮下忠吉 「石棺仏」
木耳社 |