令和5年8月30日 近くの水田地帯にて |
チュウジシギ・クサシギ・ケリ |
ククサシギのいる田んぼの草が茂った畔にチュウジシギがいました。 |
別の田んぼの畔には草に隠れるように2羽のジシギがいました。 |
ククサシギもいつもの畔にいたのですか、遠かったです。 |
水の張った休耕田にケリがいました。これも遠かったです。 |
令和5年8月29日 京都の石仏(27)(28) | ||
京都の石仏(27) 慈芳院薬師石仏 | ||
京都府京都市東山区東山区慈芳院庵町 「鎌倉時代」 | ||
東山五条を少し南に下り西に入った町の中に慈芳院はある。慈芳院は、方広寺大仏殿建立に尽力した山中山城守長俊が慶長三(1598)年に妻の慈芳院の菩提を弔うため建立したという。 薬師石仏は本堂前の西側に覆堂を設けて安置されている。、高さ1.8m、舟形光背を背にして、蓮華座に坐した厚肉彫りの薬師如来像である。もと寺の付近にあったものを移したもの。右手は胸の前に上げた施無畏印で、左手は膝上において、薬指を折り、薬壺を持つ。 京都の他の石仏同じく花崗岩製で顔の風化がやや見られるが、端正な優しい顔の面影が残る。納衣の衣紋表現も的確で写実的で、京都の薬師石仏を代表する石仏である。鎌倉中期の作。 |
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京都の石仏(28) 京都国立博物館の石仏 | ||
京都府京都市東山区茶屋町527 | ||
京都国立博物館の中庭には鎌倉時代の十三重層搭2基をはじめとして多くの石像物が展示されている。安楽寿院の三尊石仏や革堂の大日如来石仏などが代表するものである。 | ||
大日如来石仏 「平安後期~鎌倉時代」 | ||
大日如来石仏は革堂(こうどう)として知られる行願寺(京都市中京区)にあったものといわれていて、特別展示館の前の南側の十三重層搭のあるエリアに西面して置かれている。舟形の自然石風の光背を背負い、蓮華座に坐しだ法界定印を結ぶ、胎蔵界の大日如来を厚肉彫りしたものである。ひきしまった穏やかな面貌で、平安時代後期の作と説明書きがある。(清水俊明氏は鎌倉後期としている。) | ||
地蔵石仏 「鎌倉時代」 | ||
西の庭には二重蓮華座に坐し、二重円光背を背負った丸彫りに近い厚肉彫りの地蔵石仏が展示している。右手は錫杖を持ち、左手は膝の上に置き宝珠を持つ。奈良県の十輪院や七廻峠の地蔵石仏のような迫力はないが繊細な表現の石仏である。鎌倉後期の作。 | ||
安楽寿院の阿弥陀三尊石仏 「平安後期」 | ||
西の庭の西端には安楽寿院の三尊石仏が展示されている。平安時代の作である。詳しくは安楽寿院の三尊石仏を参照。 | ||
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令和5年8月28日 宮崎の田の神(58)~(60) |
宮崎の田の神 (58) 西大出水(にしおいでみず)の田の神 |
宮崎県小林市南西方字大出水 「年代不明」 |
西大出水の田の神は大出水の集落の北のはずれにコンクリートの祠の中に祀られている。旅僧姿をした像高56㎝の田の神座像で、笠のような物をかぶっている。両手は軽く膝の上へのせ、何も持たない。鼻は後世の補作であるが素朴で穏やかな顔が印象に残る。胴体は朱塗りで、顔には白粉を塗ったあとがある。 |
宮崎の田の神 (59) 上芹川(かみせいこう)の田の神 |
宮崎県小林市南西方字巣の浦 「年代不明」 |
上芹川の田の神は芹川の南東のはずれの三叉路のコンクリートブロックの祠の中に祀られている。頭巾のようなシキをかぶり、右手でメシゲをかざし、左手は膝の上に置く。目鼻立ちは風化してわからない。胸の部分に「南無阿弥陀仏」と彫ってあり、神でありながらも仏を思わせる姿である。像高69㎝。 |
宮崎の田の神 (60) 人参場((にんじんば)の田の神 |
宮崎県小林市南西方字鬼塚 「昭和3・4年頃」 |
県道53号線沿いにある西小林保育園と保育園を経営する願正寺があり、そこから直線距離で東へ250mの水田地帯の農道の側に人参場の田の神が鎮座している。ベレー帽のような頭巾(シキ?)をかぶった素朴な表現の農民風の田の神像で、手は欠損している。像高70㎝である。奉納者として「藤崎道ノ助」の名前があり、首には接いだ跡がある。昭和3・4年頃の建立という。 |
令和5年8月27日 近くの水田にて |
クサシギ・ケリ |
クサシギを毎年撮影してる田んぼの畦で撮影しました。今日は近くてクサシギを撮影できました。ケリもいました。 |
令和5年8月26日 京都の石仏(24)~(26) | ||
京都の石仏(24) 安養寺阿弥陀石仏 | ||
京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624 「鎌倉時代」 | ||
しだれ桜や藤の花などの花が四季を彩る円山公園の東の山腹に慈円山安養寺がある。安養寺はもとは最澄の開基と伝えられる天台宗の別院で、室町時代に国阿上人によって時宗の寺として再興されて栄えた寺である。明治時代になって火災にあって衰退し、現在は阿弥陀如来をまつる本堂書院が残るのみである。 その本堂の前、参道の左にこの阿弥陀石仏が南面して安置されている。高さ1.5mの舟形光背を背負い、蓮華座に坐す、定印を結んで結跏趺坐する像高90㎝の阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。他の京都の多くの石仏と同じく花崗岩製である。他の石仏は軟質の花崗岩のため、摩滅風化がすすんでいるのが多いが、この像は風化がほとんどなく、ひたい際を深く刻んだ端正な顔や、写実的な衣紋表現など鎌倉期の石仏の様式がよくわかる秀作である。 |
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京都の石仏(25) 清水寺の阿弥陀石仏 | ||
京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624 「鎌倉時代」 | ||
観光客や修学旅行の学生でにぎわう清水寺の本堂奥に、奥の院ががある。ここから西へ下って清水の舞台を見ながら門前へ戻るのが一般の参観ルートになっている。この奥の院からは山腹を南に抜ける道もあり、200mほど行くと子安搭とよばれる小さな三重の搭がある。br> その子安搭への参道脇に数体の石仏がある。一番大きい僧侶姿の石仏は近年の作で、他は室町期の作と思われる。その中でも自然石風の光背を背負った像高80㎝の阿弥陀石仏が優れている。蓮華座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、伝統的な様式を伝える穏やかな表情の像である。 |
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京都の石仏(26) 六波羅蜜寺の阿弥陀石仏 | ||
京都府京都市東山区大和大路上ル東 「鎌倉時代」 | ||
六波羅蜜寺は民間における浄土教の先駆者、空也上人が天暦5年(951)に建てた寺である。西国第17番の札所で、空也上人像をはじめ藤原時代から鎌倉時代の仏像多く伝わり、巡礼者や観光客でにぎわっている。 本堂の南側にこの阿弥陀石仏が安置されいる。京都の石仏は光背を背負った厚肉彫りの像が多いが、この阿弥陀石仏は丸彫りである。高さ約2mの蓮華座上に結跏趺坐する定印の阿弥陀如来像である。穏やかな端正な顔で、螺髪を丁寧に刻む。納衣の衣紋は浅い彫りの簡略なつくりであるが、それが木彫仏にない石の存在感を活かした造形美となっている。 |
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令和5年8月25日 近くの水田と地元の山にて |
クサシギ・コサメビタキ |
昨年はタマシギ・チュウジジシギ・トウネン・タカブシギ・アオアシシギなどを撮影した水田地帯ですが、今年はコチドリ・イカルチドリを撮影したぐらいで、さみしい水田地帯です。クサシギも毎年撮影してる田んぼの畦で見かけているのですが、なかなか撮影できません。今日、ようやく一枚撮影できました。 |
早々に近くの水田地帯をあきらめて地元の山に行きました。何回かコサメビタキを撮影しているネムノキでコサメビタキを見つけました。 |
令和5年8月24日 宮崎の田の神(53)(55)(57) |
宮崎の田の神 (53) 夷守(ひなもり)の田の神 |
宮崎県小林市細野字中夷守 「平成15年(2003)」 |
県道104号線の霧島岑神社の参道入口から北に進み、一つ目の三叉路を右に曲がった突きあたりの右側に夷守の田の神は鎮座している。像高77㎝の農民型の田の神で片膝をついて座り、大きな笠(シキ?)を被り、ついた膝の上で左手で腕を持ち、右でメシゲを持つ。御影石で彫られた像で一見して新しい像であることがわかる。横に建つ記念碑で平成10年~平成13年にかけての圃場整備事業の完成を記念して地域の発展と豊作を願い造立したものであることがわかる。宮崎の農民型の田の神は明治以降に彫られたものが多く、この田の神のように平成になって造立されたものも見られる。 |
宮崎の田の神 (55) 中孝の子(なかこうのこ)の田の神 | |
宮崎県小林市南西方字堂田 「享保7年(1722)」 | |
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宮崎の田の神 (57) 東大出水(ひがしおいでみず)の田の神 |
宮崎県小林市南西方字芹川山 「享保10年(1725)」 |
宮崎県の田の神の中には頭部が壊れたのか意図的に壊されたか頭部が付け替えられてのがよく見られる。中孝の子の田の神のように僧型の胴体の上に神官の頭部を載せたものや縄瀬三和の田の神のように五輪塔の一部を載せたもの、歌舞伎の隈取り風に顔が描かれた卵形の石が乗せた縄瀬横谷の田の神など様々である。その中でも特にユニークなのは東大出水の田の神である。神官型の田の神に仁王像の頭を後に継いだもので、帽子のような笠?(冠)をかぶる。田の神像では珍しい厳めしい顔の像である。 東大出水の田の神は南西方の芹川山地区の田畑の畦に祀られていて、よく見かける神官安座型ではなく宮崎の田の神を代表する「新田場の田の神」や「谷川の田の神」と同じ神官腰掛け型の田の神である。像高80㎝でその三分の一が頭部で不自然に体躯に比べると大きく一見して後で継いだことがわかる。背面に「享保十乙巳天 寄進進大御支配 十月吉日」の刻銘がある。 |
令和5年8月23日 京都の石仏(21)~(23) | ||
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このページは東山エリアの丸太町通より南の地域の石仏を紹介する。京都博物館の地蔵石仏・阿弥陀三尊石仏を除いてすべて鎌倉時代の如来石仏である。光背には十一個の月輪が彫られた叡山型の聞名寺阿弥陀石仏や慈芳院薬師石仏・安養寺阿弥陀石仏・安養寺前阿弥陀石仏など花崗岩製の丸彫りに近い厚肉彫りの石仏など重厚さを残したバランスのとれた石仏である。軟質の花崗岩白川石に彫られているため風化か進んでいて面相はわからないものが多いが端正な優しい顔の面影が残る。 |
京都の石仏(21) 聞名寺阿弥陀石仏 | ||
京都府京都市左京区東大路仁王門上る北門前町485 「鎌倉後期」 | ||
東山二条から東山仁王門にかけての北門前町には多くの寺が集まっている。その多くは浄土宗や日蓮宗の寺である。その中に時宗の寺院の聞名寺がある。光孝天皇ゆかりの寺で、一遍上人が再興して時宗道場とし、宝永5年(1708)の大火により、京極大炊御門からこの地に移された。 その聞名寺の本堂裏の墓地に鎌倉時代後期の阿弥陀石仏がある。墓地の入り口付近に多くの無縁仏が並べられていてその中央に、この阿弥陀石仏が祀られている。像高156㎝で、蓮華座の上に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、二重輪光背を背負う。光背には十一個の月輪があり、阿弥陀の種字「キーリク」を陽刻する。この様式は石像寺の阿弥陀石仏と同じで、鎌倉末期に石像寺像を手本にして造立されたものと思われる。 昔火災にあったようで、首が折れ、差し込むように頭部がはめこまれている。頭部は風化が少なく、穏やかな顔である。しかし、石像寺像のようなはりや緊張感は見られない。 |
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京都の石仏(22) 安養寺前の阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区粟田口山下町 「鎌倉時代」 | ||
「蹴上」(けあげ)という地名は、源義経が奥州藤原氏のおもむくおり、この地で馬にのる平家の侍9人がすれ違いざま、義経一行に溜まり水をかけた(馬が溜まり水を蹴り上げた)のがきっかけで乱闘になり平家方が悉く斬られたという伝説から起こっている。そのとき、殺された9人の武士の菩提をとむらって9体の石仏が彫られたという。 地下鉄東西線の「蹴上」駅を出て、南へ進むとすぐに「青竜山安養寺」の石標が立っていて、急な石段を上るとそこが、琵琶湖疎水の第3トンネルの出口で、昔の船溜場である。ここから南禅寺船溜までの間、船はインクライン(傾斜鉄道)に載せられていた。その船溜場の西に(安養寺の参道となっている橋の手前を左折)大日堂と呼ばれるお堂があり、そこに「義経大日」と呼ばれる阿弥陀石仏が祀られている。「義経大日」の縁起は、先に述べ伝説に由来する。 花崗岩製で高さ1.6mの舟形光背を背負い、蓮華座に結跏趺坐する像高90㎝の定印阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、鎌倉中期から後期の造立と考えられる。京都の花崗岩製の石仏は風化か進んでいて面相はわからないものが多いがこの石仏は保存状態よく、穏やかで引きしまった面相や衣紋がよく残っている。 |
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京都の石仏(23) 日ノ岡大日堂の薬師石仏 | ||
京都市山科区日ノ岡夷谷町 「鎌倉時代」 | ||
地下鉄東西線「蹴上」駅の南150mの府道143(旧国道1号)線脇にも、「大日堂」がある。大日堂内には多くの小石仏が集められ、中央に一際立派な石仏が坐している。高さ1.3mの舟形向背を背負い、蓮華座に結跏趺坐する像高90㎝の厚肉彫りの如来像である。右手は胸前にあげる施無畏印で、左手は、膝前におろし、中指と薬指を折り曲げた印になっている。この印は平安前期以前の薬師如来に見られる印で薬壺を持たない薬師如来像と考えられる。この像も、安養寺前の阿弥陀如来と同じころの作と思われる。 現在、京都ではこのように大日如来として信仰されている大日如来以外の如来石仏が多く見られる。この「京都の石仏」のページで紹介している「岩倉三面石仏」「北白川阿弥陀石仏」「行者の森釈迦石仏」「安養寺前阿弥陀石仏」「安養寺阿弥陀石仏」の各石仏も「大日さん」として信仰されている。 |
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令和5年8月22日 近くの水田地帯にて |
コチドリ・イカルチドリ |
水が少し減った休耕田にはコチドリがいました。 |
コチドリのいた休耕田の隣の休耕田にはイカルチドリの若鳥が2羽いました。 |
令和5年8月21日 京都の石仏(19)(20) | ||
京都の石仏(19) 行者の森如来石仏 | ||
京都市左京区銀閣寺町12 「鎌倉時代」 | ||
銀閣寺の門前を左折して、八神社手前で右折し東に行くと行者の森にでる。ここは、「大文字送り火」で知られた大文字への登山口に当たる。 行者の森には、不動や役行者、地蔵など多くの石仏が安置されている。その中でもひときわ目を引くの向かって右端に大日如来として祀られているこの石仏である。 高さ105㎝、幅75㎝、高さ58㎝の舟形の花崗岩に、右手は胸前で施無畏印、左手は膝上において与願印を結ぶ如来像を厚肉彫りしたもので、印相から釈迦如来もしくは弥勒如来と思われる。軟質の花崗岩白川石に彫られているため風化か進んでいて面相はわからない。しかし、厚肉彫りの体躯や円満相の顔など豊かな迫力のある石仏である。鎌倉時代中期を降らない造立と考えられる。 |
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京都の石仏(20) 霊鑑寺弥勒石仏 | ||
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12 「鎌倉時代」 | ||
送り火で有名な大文字山(如意ヶ岳)の麓一帯は鹿ヶ谷と呼ばれ、法然院・安楽寺・霊鑑寺と古寺が連なっている、静閑な風情のある地である。三つの寺は、すべて非公開寺院で、春と秋の特別拝観の時のみ公開される。 弥勒石仏のある霊鑑寺は南禅寺派の門跡寺院で、江戸初期に後水尾天皇が皇女を開基をして創建し、代々、皇女が住職をつとめた名刹で、谷御所、鹿ケ谷比丘尼御所とも呼ばれる。 弥勒石仏は山門を入った前庭の片隅にある。高さ95㎝・幅63㎝・厚さ45㎝の花崗岩製で、光背は自然石おもかげを残す舟形光背で、蓮華座に坐す像高52㎝の如来を厚肉彫りする。右手は、胸前に挙げて施無畏印。左手は膝前に手のひらをに伏せて置くようにみえるが摩滅して判然としない。 小さな石仏であるが調和のとれた重量感のある石仏である。 この石仏も叡山系の石仏で、光背に五個の梵字を陽刻している。大日如来の法身真言をあらわしている。 |
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令和5年8月20日 宮崎の田の神(49)~(51) | |
小林市の田の神2 | |
霧島連山の麓の小林市の南部から西部の細野地区・南西方地区の田の神を紹介する。細野地区・南西方地区にも享保年間の田の神が目立つ。「南島田の田の神」(享保7年)・「中孝の子の田の神」(享保7年)・「桧坂の田の神」(享保10年)・「東大出水の田の神」(享保10年)などの神官型・僧型の田の神がそれである。 中でも「南島田の田の神」・「中孝の子の田の神」は「仲間の田の神」と同じ石工、毛利七右衛門の作である。残念なことにこれらの田の神は風化や痛みがひどく完全な姿ではなく、「中孝の子の田の神」・「東大出水の田の神」は別の頭部がつけられている。 またこの地域は農民型・僧型の田の神も多くあり、素朴でユニークな「人参場の田の神」「西大出水の田の神」「夷守の田の神」などがある。これらの農民型の田の神の中には明治以降の造立も見られる。 |
宮崎の田の神 (49) 桧坂の田の神 |
宮崎県小林市細野字中島 「享保10年(1725)」 |
細野小学校の北400mの四差路を右折してすぐの道路脇に瓦葺きの立派な祠があり、その中に桧坂の田の神は祀られている(撮影した時は現在ある場所から東80mの場所に祠と田の神はあった。)。像高81㎝の神官型座像の田の神で、両手は輪組をする。装束は赤と白、顔は白、頭と笏は黒に化粧されている。笏は胴体部に彫りつけている。「享保乙己」の刻銘があり、享保十年(1725)の造立。現在の安置されている住所からH31年に新しく発刊された「小林市の田の神さぁ」では「水落(みずおとし)の田の神」となっている。 |
宮崎の田の神 (50) 南島田の田の神 |
宮崎県小林市細野字島田前 「享保7年(1722)」 |
南島田の田の神は島田前のガソリンスタンドの南隣の林の中、ブロックで作られた祠に祀られている。(現在はガソリンスタンドはなくなっている。)江戸時代の神官型座像の田の神で両手を膝の上ではなく、胸元で輪組みする。装束は赤と黒、面長の顔と手は白で化粧(彩色)されている。訪れた時は雑な化粧で口の周りに黒い絵の具の跡が残っていた。ブロックの壁で見られなかったが、像の背に「享保七壬寅天」の紀年、「御神普守護所」の造立趣旨、「彫者毛利七右衛門」の石工名の刻銘があるという。 |
宮崎の田の神 (51) 湾津の田の神 |
宮崎県小林市細野字湾津 |
湾津の田の神は撮影した時は、市の上水道浄水場の前、県道に面しておかれていた(現在は東に130m程離れた用水路沿いに移設されている。)。 像高77㎝の神官型座像の田の神で両手は膝の上で輪組をしていると思われるが、コンクリートで補修しているため確認できない。頭部は体に比べると大きいが、これもコンクリートでの補修である。顔だけが白く塗られている。 |
令和5年8月18日 近くの水田地帯にて |
チュウダイサギ・コチドリ・ケリ・イカルチドリ |
あまり大きくなかったのでチュウサギと思ってカメラを向けると、口角は目の後ろまで伸びていて、ダイサギのようです。足は全体に黒く、亜種チュウダイサギと思われます。 |
水が引きかけた休耕田にはコチドリの若鳥がいました。 |
コチドリを撮影した後、チュウジシギ・セッカを求めて、コチドリを撮影した田んぼから2㎞ほど離れた水田地帯に行きました。セッカは声は聞こえたのですが、見ることはできませんでした。3年前まで毎年ここで撮影していたチュウジシギは今年も見られません。結局撮影したのはケリでした。あたりまえのように見かけたケリも今年はあまり見ていません。 |
コチドリらしき鳴き声が聞こえたのでカメラを向けてみるとイカルチドリの幼鳥です |
令和5年8月17日 宮崎の田の神(46)~(48) |
宮崎の田の神 (46) 柏木の田の神 |
宮崎県小林市堤字柏木の上 「年代不明」 |
柏木の田の神は小林市の南、高原町との境、「下堤」バス停の南西、集落の西の端の小さな祠に祀られている。 神官型座像の田の神で両手は輪組をする。装束と頭は赤と黒で、手と顔は白で化粧されている。顔は切れ長の目に眉、上品な口で、穏やかな気品のある田の神像である。江戸時代の作と思われるが刻銘もなく由来などは不明である。訪れ時は夕日があたり輝いていた。 |
宮崎の田の神 (47) 大久保の田の神 |
宮崎県小林市北西方字大久保 「年代不明」 |
JR西小林駅から北へ150m、住宅街を抜けた右側の瓦葺きの覆堂に祀られている。像高80cmの神官型座像の田の神で両手を上下に合わせて、笏を持たせるようにしている。衣装全体をベンガラで赤く彩色している。手と首に白い彩色が残るが顔の白い彩色はほとんど残っていない。冠や烏帽子を被っているようには見えず、別の頭部が付けられているかのように見える。 |
宮崎の田の神 (48) 橋谷の田の神 |
宮崎県小林市北西方字橋谷 「年代不明」 |
国道221号線、三本松バス停近くの交差点を南西850mへしばらく行くと道路沿い橋のガードレール先に「耕地供全の碑」とともに並んでいる。像高75cmの神官型座像の田の神で右手に丸い団子状のものを持つ。左手は軽く握っていて、指の間にものを差し込むように穴があいている。以前は笏を持っていたという。烏帽子を被った頭部は瓜実顔でがっしりした体格と対照的である。顔は摩滅が進んでいて、鼻は補修されている。 |
令和5年8月16日 京都の石仏(16)~(18) | ||
京都の石仏(16) 北白川阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区北白川西町 「鎌倉時代」 | ||
百万遍から銀閣寺に向かう今出川通りは通りをはさんで京都大学の建物が一帯をしめている。通りの南側、京大の建物がおわり、40mほど通りを銀閣寺方面に向かった、通りの南側の旧道沿いに、立派な覆堂が建っていて、そこに大きな2体の阿弥陀石仏がまつられている。 右側の石仏は、高さ約150cm、幅95cm、厚さ62cmの花崗岩製の二重輪光式の光背を背負った像高120㎝の厚肉彫りの定印阿弥陀如来座像で、光背には十三個の月輪があり、梵字を陽刻する。香炉ヶ岡弥勒石仏と同じく、比叡山系の流れをうけた古い一例である。満月相の顔は豊かで、張りのある堂々たる肉付きの体躯とともに、実におおらかな感じをうける。衣紋のひだも写実的で、平安後期から鎌倉前期の様式をつたえる、京都を代表する石仏のひとつである。 左側の石仏も阿弥陀如来座像で、像高は110㎝で、右の像より摩滅がすすんでいる。光背部分は自然石のままで、右の像と作風が異なり、やや迫力に欠けるが鎌倉時代の秀作である。 |
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京都の石仏(17) 太閤の石仏 | ||
京都府京都市左京区北白川西町76-1 「鎌倉時代」 | ||
北白川の阿弥陀石仏の北東、今出川通りを100mほど東へすすんだ、通りの北側の覆い堂に大きな石仏がまつられている。通称「太閤の石仏」とよばれる石仏である。像高は2mほどて、火災にあつたと思われ、表面はひどく摩滅し、光背部分が大破していて、顔は後世の補作である。如来像と思われるが尊名は判断できない。 「太閤の石仏」とよばれるのは、太閤秀吉が気に入り、聚楽第に持ち帰ったが、夜になると石仏が「北白川の里に帰りたいと」不気味なうめき声を上げるので、元へ返したという伝説からきている。現在でも厚く信仰されているようで、線香や花が供えてあった。江戸時代の「拾遺都名所図会」にも載せられている。 |
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京都の石仏(18) 白沙村荘の石仏 | ||
京都府京都市左京区浄土寺石橋町37 | ||
竹林の石仏 「江戸時代」 | ||
羅漢 「江戸時代」 | ||
阿弥陀石仏 「鎌倉後期」 | ||
薬師石仏 「鎌倉~南北朝時代」 | ||
地蔵磨崖仏 | ||
銀閣寺の西、300mにある白沙村荘は、大正から昭和にかけて活躍した京都画壇の重鎮、橋本関雪画伯の旧邸宅である。現在、橋本関雪記念館として公開されている。白沙村荘は画室を中心に茶室や数寄屋造りの建物と、四季折々の自然に溢れた庭園が総面積4千坪の敷地内に配置されている。 その庭園の至る所に、平安時代から鎌倉・室町・江戸時代にわたる石仏・層塔・宝塔・石幢など石造美術品が置かれている。それらは、京都だけでなく大和や国東、関東など各地の様式を見せている。 石仏では邸内の一隅の竹林の中に配置されている、羅漢群がもっともよく知られている。シャガの花に囲まれて竹林に佇む羅漢の姿は趣がある。竹林には羅漢像の他、鎌倉後期と思われる高さ1mほどの阿弥陀座像がある。化仏が陽刻された舟形光背の厚肉彫りの定印の阿弥陀如来座像で迫力はないか端正な石仏である。 南側の広い庭に像高60㎝ほどの小さな如来石仏がある。右手は胸前にあてた施無畏印、左手は膝の上に置き、摩滅がすすんでいるのでわかりにくいが、薬壺を持っているように見えるので薬師如来と思われる。 鎌倉時代から南北朝時代の作。庭園には岩山や岸壁はないが、磨崖仏もみられる。その一つが地蔵磨崖仏で小さな岩に船形光背状の彫りくぼみをつくり丸顔の小さな地蔵立像を半肉彫りしたものであ。おそらく庭園に岩に彫ったものではなく、岩ごと運んできたものと考えられる。実際、庭内裏口にある多尊磨崖仏は奈良市の月ケ瀬の桃香野の千体仏の一部をかきとって運んできたものである。 |
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令和5年8月15日 宮崎の田の神(44)(45) |
宮崎の田の神 (44) 下の平(したのひら)の田の神 |
宮崎県小林市水流迫(つるざこ)字下の平 「昭和8年(1933年)」 |
下水流迫自治公民館の広場にある覆堂自然石の馬頭観音と一緒に鎮座している田の神である。 像高56㎝の神官型座像の田の神で、赤と黒で白で化粧されている。三角や四角の角張った表現で、両手は輪組をする。昭和8年に水流迫地区の開田を記念して建立さた。隣接する小林市野尻町三ケ野には水流平(つるのでら)の田の神や佐土瀬の田の神など、同じような表現の神官型座像の昭和初期に作られた田の神がある。これらの像はメシゲを両手で持っていて、下の平の田の神も笏ではなくメシゲを持たしていたのかもしれない。 |
宮崎の田の神 (45) 松元の上の田の神 |
宮崎県小林市堤字松元の上 「弘化3年(1846)」 |
宮崎県の農民型の田の神の多くは明治以降の作で、動きの少ない棒立ち、もしくは正面を向いた膝をかがめた姿の像がほとんどである。しかし、数少ない宮崎県の江戸時代の農民型の田の神の中にはいかにも田の神舞を踊っているとわかる動きのある像が何体かある。その中でももっとも動きがあるユニークな像がこの松元の上の田の神である。 シキをかぶり、右手にメシゲをかざし、左手に枡を抱いて、野良着を着て、両足を丸出しにして、右足をやや踏み出し、地べたにつきそうなほど、低い姿勢でかがみ田の神舞を踊る田の神像である。弘化3年(1846)7月の記銘がある。 |
令和5年8月14日 京都の石仏(13)~(15) | ||
京都の石仏(13) 石像寺阿弥陀石仏 | ||
京都市上京区花車町503 「元仁元年(1224) 鎌倉時代」 | ||
石像寺は「釘抜き地蔵」と呼ばれ、現在も参拝者が絶えない、庶民の寺が千本通りに面した小さい門を入った家並みの中にある。 「釘抜き地蔵」の由来は、両手の痛みで苦しんだ商人が石像寺の地蔵に平癒を祈願し日参したところ、満願の日に夢に地蔵尊があらわれ、「前世に人をうらみ、人形の両手に八寸の釘を打って呪ったむくいである。釘を抜き取って救ってあげる。」と言い、目覚めた商人の手に釘が握られていたことによる。諸々の痛みを抜き取るとして信仰を集め、現在も釘と釘抜きを描いた絵馬が奉納されている。 その地蔵尊をまつる本堂の裏に石像寺阿弥陀三尊石仏がある。国の重要文化財で鎌倉中期の元仁元年(1224)の年号を持つ京都の石仏を代表する石仏の一つである。 中尊の阿弥陀如来は弥陀の梵字「キーリク」が11個、小円形に刻まれた、二重円光の光背を背負い、二重の蓮華座上に結跏趺坐する。穏やかな整った顔やよどみのない衣紋はみごとである。 脇侍の観音・勢至菩薩は別石で安置されていて、同じく小円相に観音の「サ」・勢至の「サク」の梵字の刻んだ二重円光の光背を背おっている。この阿弥陀三尊も多くの人が供える香華が絶えず、線香・蝋燭の煙で白い花崗岩の膚が茶色になっている。 |
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京都の石仏(14) 善導寺釈迦三尊石仏 | ||
京都市中京区東生洲町533-3 「弘安元年(1278) 鎌倉時代」 | ||
文殊菩薩・釈迦如来・弥勒如来 | ||
文殊菩薩 | ||
弥勒如来 | 京阪三条」駅、または地下鉄「京都市役所前」より、木屋町通りに出て、木屋町通りを北に上り、二条どおりに突き当たったところに、小さな竜宮門が見えてくる、その門をくぐると、終南山と号する浄土宗の寺、善導寺の本堂前に出る。 その本堂の前庭に国の重要美術品に指定されているこの釈迦三尊石仏がある。高さ90㎝、幅60㎝、厚さ20㎝ほどの自然石(砂岩系?)に立像の三尊を半肉彫りする。中尊の釈迦如来は、像高68㎝で、施無畏与願印の立像で、衣紋はひだを平行的に細い陰刻線であらわす、インド風の流水文式の像で、三国伝来という清涼寺釈迦像の姿を模したものである。 右の脇侍の如来像も中尊とおなじ流水文式の衣紋である。左手は下げて甲をみせているところから弥勒如来とみられる。左の脇侍は五髻(ごけい)の文殊菩薩で、右手に宝剣、左手に梵篋を持つ。弥勒如来の脇に「弘安元年(1278)」造立の銘が刻まれている。京都では珍しい半肉彫りであるが立体感があり、絵画的な趣もある京都を代表する石仏である。 |
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京都の石仏(15) 知恩寺の石仏 | ||
京都府京都市左京区田中門前町103-15 | ||
阿弥陀石仏 「鎌倉時代」 | ||
五劫思惟阿弥陀石仏 「江戸時代」 | ||
今出川通り東大路東入るにある百万遍智恩寺は浄土宗総本山の智恩院につぐ浄土宗の大本山として大伽藍を誇っている。法然が念佛の教えを説いた「賀茂の河原屋」が前身となって、法然上人の弟子源智がこの地に法然上人の御影堂を建立し恩を知るお寺「知恩寺」としたのがはじまりである。鎌倉末期、京都中に疫病がはやった時に、当寺の善阿上人が、百万回の念仏を唱えると忽ちやんだことにより、百万遍の寺号を賜わった。 境内の奧、北隅に広い墓地があり、多くの石仏がある。その墓地の東よりに、一体の大きな石仏がある。高さ170㎝、幅140㎝の定印の阿弥陀座像である。花崗岩の石材を光背形につくり、如来像を厚肉りしたものである。肩の張りや豊かな胸元、引き締まった腰など体部の肉付けはすばらしく、堂々とした迫力を持つ鎌倉様式の石仏である。残念なことに、首より上は後補で、見事な体躯に比べて貧相な頭部になっている。 鎌倉時代の阿弥陀石仏以外にこの墓地の特出すべき石仏として、五劫思惟の阿弥陀如来石仏があげられる。阿弥陀仏が衆生救済の四十八願をたて、五劫もの長い間考え続けたことを表したもので、頭部螺髪が異様に大きく伸びた姿でつくられている。1体は墓地の中央部に、2体は上記の阿弥陀如来の近くにある。 |
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令和5年8月13日 京都の石仏(10)~(12) | ||
京都の石仏(10) 松ヶ崎二体石仏 | ||
京都市左京区松ヶ崎小脇町 「鎌倉時代・南北朝時代」 | ||
釈迦如来・弥勒如来? | ||
弥勒如来? | ||
釈迦如来 | ||
地下鉄「松ヶ崎」駅から北山通りを東へ650m、または、叡電「修学院離宮」駅から北山通りを西へ550m、大型家電販売店の角を南へ少し行った民家の前に、大きな石仏が2体ある。 右の石仏は、高さ130㎝、幅90㎝、厚さ30㎝の舟形の花崗岩に弥勒または釈迦と思われる如来座像を厚肉彫りしたもので、鎌倉時代の作風をしめす。右手は胸前にあてた施無畏印、左手は膝前に置いている。摩滅がすすんでいるため指先など細部はわからない。弥勒如来もしくは釈迦如来と思われる。 左の石仏は高さ190㎝、幅100㎝、厚さ52㎝の長方形に近い舟形の板状の花崗岩に施無畏与願印の如来立像を厚肉彫りする。釈迦如来と思われる。右の石仏に比べると彫りは硬く伸びやかさに欠ける。時代は南北朝から室町時代の作と思われる。 ともに白川石と呼ばれている軟質の花崗岩でつくられているため、岩倉の三面石仏のように摩滅風化がすすんでいる。 |
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京都の石仏(11) 大徳寺地蔵宝塔石仏 | ||
京都市北区紫野大徳寺町53 「鎌倉後期」 | ||
地蔵菩薩 | ||
多宝塔 | ||
臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺は鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師が開創し、応仁の乱後、一休和尚が復興した大寺院である。勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に七堂伽藍が並び、境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ねている。 勅使門のすぐ西に、平康頼の墓という塚がある。その塚の上に地蔵宝塔石仏がある。高さ137㎝の舟形光背の形の花崗岩の石材の裏表に地蔵菩薩を厚肉彫りに、多宝塔を半肉彫りにしたもので、地蔵菩薩は像高97㎝の立像で右手を下げて与願印を示し、左手は胸の上で宝珠をささげる、この像も大沢池地蔵石仏と同じ古式の様式で鎌倉後期の作と思われる。 宝塔は塔身部に多宝・釈迦の二仏を並座させている。それは、釈迦が法華教を説いた時に、地中から宝塔が出現し、宝塔内の多宝如来が釈迦をたたえ、宝塔内に招き、釈迦が、多宝如来とともに坐し、説法した説話に基づくものである。宝塔をあらわした二面石仏は他にも嵯峨清涼寺もみられる。 |
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京都の石仏(12) 上善寺の石仏 | ||
京都府京都市北区上善寺門前町482 「鎌倉後期」 | ||
地蔵菩薩 | ||
十三仏碑 | ||
北区鞍馬口通寺町東入ルにある上善寺は、千松山遍照院と号する浄土宗の寺院である。貞観5年(863)円仁が天台密教の道場として創建したと伝える。文明年間(1469~1487)に天台真盛宗として再興、現在の寺号を定める。文禄3年(1594)、秀吉の命によって、千本今出川から現在地に移り、江戸時代は浄土宗の大寺として栄え現在に至っている。 山門を入って右側に風化した大きな石仏が西面して坐している。高さ160㎝ほどの光背形の石に、智拳印を示す金剛界大日如来である。現在、小さな覆堂がたてられ、花か供えられ、信仰の深さがうかがえる。何重にも前掛けが掛けられていたため、撮影はできなかった。鎌倉前期の作と思われる。 大日石仏から少し右手に入った地蔵堂の横手に、多くの石仏が集められている。その中でも聖観音石仏と地蔵石仏は鎌倉後期の様式をしめす。地蔵石仏はで、高さ125㎝、幅75㎝の舟形光背に、右手をさげて与願印、左手に宝珠を持つ古式の地蔵を厚肉彫りしたものである。錫杖を持たないこのような地蔵石仏は京都の古い地蔵石仏によくみかけられる。 また、江戸期の石仏であるが、京都では珍しい十三仏碑もある。ただ、奈良や大阪でみられる通常の十三仏と像の配列とは違っていて、一番上は虚空蔵菩薩であるはすが阿弥陀になっている。 |
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令和5年8月12日 自宅にて |
イソヒヨドリ |
玄関を出ると目の前の塀の上にイソヒヨドリがいました。 |
令和5年8月11日 宮崎の田の神(41)~(43) |
宮崎の田の神 (41) 仲間の田の神 |
宮崎県小林市東方3451 「享保7年(1722)」 |
国道265線から「陰陽石」に入る道の入口の覆堂にこの田の神がある。向かい合った唐獅子が浮き彫りにされた台座の上に、大きな大黒帽をかぶり袖の長い僧衣を着て、立つ田の神像を丸彫りする。 手は新田場の田の神と同じように指の間にものを差し込むように穴があいていて、右手には御幣をかざし、左手に竹製のメシゲのような杓子を持っている。衣服と帽子と台座は濃い紅に塗られていて、白塗りにの顔は黒い墨で目鼻が描かれている。顔の彫りは墨で描かれた目鼻口が目立ちわからないが、体躯、台座の彫りはすばらしい。 背面には「享保七壬寅 三月吉日」の紀年銘、「毛利七右衛門」の石工名などの刻銘がある。ペンキによる化粧直しが多い中、この田の神は現在もベンガラを使用した化粧直しが行われている。宮崎県の仏像型・僧型の田の神の代表といえる田の神像である。 |
宮崎の田の神 (42) 陰陽石と田の神 |
宮崎県小林市東方6081 |
浜瀬川岸に、高さ17.5mの自然現象で出来た男根の形をした岩と、周囲5.5メートルの女陰の形をした岩があり、「陰陽石」と称されている。 その陰陽石を正面に見る下手の川岸に覆屋を設けて、田の神石像を100基ほど展示している。ほとんどか高さ30㎝前後の農民型の田の神である。(その中で気にいった田の神の写真を2点、載せた。)また、他に性を表現した石像も数点、展示している。 性に関するものを集めた有料の展示室もあり、現在は性を売り物にした観光地といった感があるが、もともと陰陽石も田の神や道祖神と同じく生産、豊穣の神として信仰されたもので、農民の素朴な信仰から生まれたものである。(農民型の田の神の中には後ろから見ると男性のシンボルに見えるものが多い。) |
宮崎の田の神 (43) 大丸(おおまる)の田の神 |
宮崎県小林市東方字黒土田 |
東方郵便局の南の田園地帯の農道の交差点に祀られている。像高76㎝で、片膝をついて座り、右手にメシゲ、左手に碗を同じ高さで持つ。笠のような物をかぶり、裁付袴をはき、蓑のを肩にかけた農民姿の田の神である。おちょぼ口で団子鼻、垂れぎみの切れ長の目と独特の顔をしている。 建立年は不明。風化や摩滅が見られず、近代の作のように見える。田の神の隣には大丸地区の開田碑(昭和36年2月17日に大丸土地改良区により建立)が立っているが田の神についての記述はない。田の神像には開田記念として作られることが多いので、大丸地区の開田が始まった弘化年間(1844年~1847年)の建立かもしれない。 |
令和5年8月10日 宮崎の田の神(39)(40) |
小林市の田の神1 |
宮崎県の田の神は、鹿児島のようなメシゲを持つ農民型も見られるが、神官が正装して神前に座る姿で表した神官型や、僧衣を着た仏僧型が多いのが特色である。その神官型と仏僧型の最も古い作例が小林市にある。それが「新田場の田の神」(神官型)と「仲間の田の神」(仏僧型)である。ともに享保年間の記銘があり、彫りも優れ、宮崎を代表作する田の神像である。小林市は神官型が多いが農民型の田の神もある。その中でも田の神舞を舞う「松元の上の田の神」はユニークで動きのある像で見応えがある。この度、「小林市の田の神」をリニューアルするに当たって田の神像の名前を「小林市の田の神さぁ」(H19 小林市教育委員会刊)に合わせた。数体の田の神を追加したため「小林市の田の神」を「小林市の田の神1」と「小林市の田の神2」に分けて掲載することにした。また「野尻町の田の神」を「小林市の田の神3」とした。「小林市の田の神1」は上記にあげた田の神像をはじめとした旧小林市の真方地区・東方地区・堤地区・北西方などの旧小林市の北部から東部の田の神を取り上げることにした。 |
宮崎の田の神 (39) 新田場(しんでんば)の田の神 |
宮崎県小林市真方字新田場 「享保5年(1720)」 |
田の神像はシキを被りメシゲを持ったものだけでなく、笏を持った衣冠束帯や直衣・狩衣の神官(神像)姿の田の神もある。これらの田の神は制作年代も古く、江戸時代中期にさかのぼる。神官型は宮崎から始まったと言われていて、その代表といえるのが「享保5年(1720)」の刻銘がある小林市の新田場の田の神である。 木造の覆堂に、牡丹の花が彫られた見事な台座の上に、椅子のようなものに腰かけた衣冠束帯の神官姿の丸彫りの田の神が祀られている。右手は軽く握っていて、指の間にものを差し込むように穴があいている。左も同じような形だと思われるが、手首から先は欠けてしまっている。 田の神の魅力のは農民型に代表される素朴さにあると私は思っていたが。上品で優美な像なこの田の神を見たとき、私のそのような認識を改めざるえなかった。1月初旬に訪れたときには、白塗りの顔とともに、衣服はピンクに台座は水色とピンクにあざやかに彩色されていた。 |
宮崎の田の神 (40) 二原(にわら)の田の神 |
宮崎県小林市真方字北二原 「大正8年(1919)」 |
東方二原(にわら)の二原土地改良区事務所の北に小さな祠の中に祀られている。仏僧型の田の神でベレー帽のような丸い頭巾をかぶり、左手で稲穂の束を持ち、右手を受け手にした田の神である。着物と稲穂は朱色に顔と手足、胸元は白に彩色する。稲穂を持つところや丸い頭巾などは都城市の上東町や山田町浜之段などの大黒天混合の田の神と共通する。しかし、顔は写実的な庶民の顔である。なで肩で穏やか表情が印象的である。 基壇に「二原開田」と、背面に「大正八年四月六日 二原開田 記念祝賀会當日建立 永友繁蔵」と刻まれている。田の神像にはこのように開田記念としてつくられたものがよく見かけられる。(高原町の鷹巣原や並木の田の神など) |
令和5年8月9日 京都の石仏(7)~(9) | ||
京都の石仏(7) 禅華院の石仏 | ||
京都市左京区修学院烏丸町 「鎌倉後期」 | ||
雲母坂の石仏・阿弥陀・地蔵 | ||
阿弥陀如来 | ||
地蔵菩薩 | ||
雲母坂の石仏(阿弥陀・弥勒如来) | ||
雲母坂の石仏(弥勒如来) | ||
「修学院」駅より、音羽川にそって東へ800mほどすすみ、後安堂橋を渡り、修学院総門に向かって50mほどいくと、左手に石垣と特色ある鐘楼門が見えてくる。臨済宗大徳寺派の一院「禅華院」である。 風雅な鐘楼門を入った右側に、多くの石仏が並んでいる。その中でも一際大きな石仏が、定印の阿弥陀如来像とその右に並ぶ地蔵菩薩像である。阿弥陀如来は総高175㎝の花崗岩製で、二重光背に像高145㎝の定印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。地蔵菩薩も二重光背で、右に短い柄の錫杖を持ち、左に宝珠を持つ地蔵菩薩座像を厚肉彫りしたもので、阿弥陀如来よりやや小さく、総高165㎝、像高は128㎝である。 一見した時、風貌が鎌倉期の石仏のような優雅さに欠く素朴な表現のため、室町期の作と思えた。しかし、よく見ると、やや形式的になっているが衣紋も写実的な表現で、肉付きもよく、鎌倉後期の作と思われる。 阿弥陀如来像の隣に雲母(きらら)坂にあった小さな風化した石仏が2体雲母坂の石仏(阿弥陀・弥勒如来)あり、弥勒如来の背後には平安時代の大治2年(1125)年の刻銘がある。他に、禅華院には鎌倉後期から室町時代と思われる石仏が多くある。 |
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京都の石仏(8) 藪里釈迦堂石仏 | ||
京都府京都市左京区一乗寺釈迦堂町10 「奈良時代」 | ||
左京区の白川通りの「一乗寺下り松町」バス停から曼珠院道を東へ180mほど行った三叉路にある松が一乗寺下り松である。ここで宮本武蔵と吉岡一門が決闘したという。この下り松より50mほど進み、左に折れる細道に入ると「藪里釈迦堂」の建物がある。この釈迦堂の軒つづきに地蔵堂が設けられ、堂内に「夜泣き地蔵」と呼ばれる大きな石仏か立っている。 この石仏も芳山二尊仏と同じく仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。高さ2mほどの船形光背に像高1.5mの如来立像を厚肉彫りで表現した像である。その像容は堂々としている様に見えるが、白・黄・黒・赤と絵の具でどっぷりと塗られていて、本来の姿はわからず、石仏の古さは、しのぶことができない。 京都では地蔵盆で毎年、町内の人々によってこのように石仏を化粧する習わしはよく見かける。衣紋表現や手足などの表現を見ることができれば、天平彫刻の面影を見ることができるのであろうが、般若心経が書かれた大きな前掛けが奉納されていて、見ることができなかった。仏師で石仏研究家の清水俊明氏は著書の「京都の石仏」で、この石仏を「左手の印相か降魔印(蝕地印)で、弥勒仏の可能性もあるが、釈迦堂町と言う地名から釈迦如来像と考えたい。」としている。 |
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京都の石仏(9) 一乗寺北墓弥勒石仏 | ||
京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町 「鎌倉時代」 | ||
遠州好みの優れた庭園や書院・障壁画を伝える洛北の名刹、「曼珠院門跡」の門前を右に折れ、武田薬品の薬草園の裏から東に進んで小川にかかる石橋を渡ると広大な共同墓地、一乗寺北墓にでる。 石仏は墓地の入口、比叡の峰を背にして西を向いて安置されている。花崗岩製で、高さ175㎝、幅120㎝、厚さ70㎝の石材を舟形につくり、蓮華座に坐す座高95㎝の如来を厚肉彫りする。右手は胸前に挙げた施無畏印で、左手は膝前に手のひらを上にして親指を捻じている。 |
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令和5年8月7日 近くの水田地帯にて |
チョウゲンボウ・コチドリ幼鳥・ケリ・ツバメ |
水田地帯の外れの畑の近くの大きくなった雑木にチョウゲンボウの若鳥が4羽いました。 |
コチドリの幼鳥が水が少なくなった小さな休耕田にいました。 |
毎年よく見かけるケリですが、今年はあまり見られません久しぶりに見ました。 |
多くのツバメが水の張った休耕田を飛びまわっていました。時々、電線にとまって休みます。 |
令和5年8月6日 宮崎の田の神(35)~(38) |
宮崎の田の神 (35) 花堂の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町藺牟田高松 |
藺牟田地区には5体の田の神像がある(「高原町の文化財」)。すべて神官型の田の神である。その内、2体は彩色され、現在も信仰を集めている。 花堂の田の神は台座に着座する像高107㎝の大型の神官型の田の神で、狩衣姿で立烏帽子(冠の巾子?)をかぶる。両手は組まずに拳をつくり、そこにそれぞれ差し込み口がある。制作年は不詳であるが、両手は組まずに拳をつくっていることや狩衣の写実的な表現などから江戸時代中期の田の神像と思われる。顔は摩滅していてもとの彫りはわからない。 |
宮崎の田の神 (36) 祓川の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町藺牟田越平 |
祓川(祓川は神武天皇がお祓いをする際に使用した場所といわれる。)の田の神も古い様式を残す田の神像で、小林の新田場の田の神や高崎町谷川の田の神と同じように腰掛け型で両手は組まず拳を作っている。しかし、これらの田の神と比べると装束の表現は硬く、写実性に欠ける。毎年、化粧直しがされ田の神講が開かれている。像高78㎝。 |
宮崎の田の神 (37) 出口の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町西麓村中 |
「高原町二本松」から県道29号線を野尻町方面へ0.6㎞いった所を右折し、0.6㎞進むと左手に小さな森がある。その森の前にこの田の神がある。 農民型の立像で像高73㎝、シキをかぶり、腰にワラヅト(山に帰る田の神に持たせるためのご馳走を藁のゴザで包んだもの)をつけ、両手で鍬を持つ。ワラズトを背負い、鍬を持つ像は鹿児島県の大隅地方でよくみかけるが、宮崎県では珍しい。 |
宮崎の田の神 (38) 梅ヶ久保の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町西麓梅ヶ久保 |
高原町から野尻町へ向かう、県道29号線が越(後川内越)方面へ行く道と分かれる三叉路を過ぎてすぐ斜め左の細い道を入ると梅ヶ久保の集落である。その小さな集落を通り過ぎ突き当たった所を右折して農道を下ると岩瀬川にそった水田地帯になる。その水田地帯の真ん中に梅ヶ久保の田の神がある。 農民型の田の神で、シキを阿弥陀にかぶり、右手にメシゲ、左手に杵を持ち右足を一歩踏み出した立像である。農民型の田の神の多くは田の神舞を踊る姿を表していると思われるが、ほとんどは棒立ちの姿でこのように動きのある田の神は珍しい。田の中で力強く一歩踏み出すこの田の神の姿は印象的で心に残る。 |
令和5年8月5日 京都の石仏(4)~(6) | ||
京都の石仏(4) 岩倉実相院阿弥陀石仏 | ||
京都府京都市左京区岩倉上蔵町121 「鎌倉後期?」 | ||
「岩倉実相院」バス停をおりると、正面に大きく立派な四脚門が見える。岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれた岩倉実相院である。元は天台宗寺門派の門跡寺院で、創立は鎌倉初期で、もとは紫野にあり、応仁の乱をきっかけにこの地に移されたという。義周(ぎしゅう)法親王が門跡となられたとき、京都御所から大宮御所の一部が下賜され、 それらが、現在の客殿と四脚門で、内裏の雅が残る趣のある寺院である。 客殿の縁に座って眺める庭は美しく、紅葉の名所として知られている。黒光りする床に映す紅葉見物が楽しめ、一味変わった紅葉の風情が味わえる。 砂砂利を敷いた庭園の中央の奧、樹木の下に一体の阿弥陀石仏が置かれている。庭に下りられないため、300mmの望遠レンズで撮った。花崗岩製で、舟形の石に、蓮華座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りする。像高は50㎝ほどで、近づいて見ていないので正確なところはわからないが、鎌倉後期から南北朝の頃の作と思われる。石仏は庭に見事にとけ込み、違和感がない。 しかし、庶民の信仰の対象である石仏が、花や線香を供え、拝まれることもなく庭の一部になっているのは残念な気もする。 |
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京都の石仏(5) 岩倉三面石仏 | ||
京都市左京区岩倉上蔵町 「鎌倉時代」 | ||
阿弥陀如来 | ||
地蔵菩薩 | ||
十一面観音菩薩 | ||
岩倉実相院の前の小さな公園を北におれて、少し入ったところに石座(いわくら)神社がある。その神社の鳥居よこに、瓦葺きの覆堂があり、大きな石仏が安置されている。 高さ約1.9m、幅約1.7mの花崗岩の正面に、舟形の光背形を彫りくぼめ、座高約1.5mの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、顔は風化摩滅すすんでいるが、おおらかな堂々とした石仏である。向かって右に、十一面観音、左には地蔵菩薩が半肉彫りされていて、三面石仏になっている。このような一石に三尊、あるいは四尊あらわした石仏が他に2体あり、岩倉地区の石仏の特色になっている。 阿弥陀と地蔵の組み合わせは大和や南山城でよくみられる。地蔵菩薩は、末法の無仏の世界にあって衆生を救済し、後生に極楽浄土へ導く菩薩として、阿弥陀如来とともに信仰されたためである。岩倉三面仏は、そこに、根本の聖観音の力を拡大した、衆生救済の功徳の大きい十一面観音を組み合わせたものである。このような組み合わせは南山城の籔の中磨崖仏にもみられる。 |
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京都の石仏(6) 岩倉の目なし地蔵 | ||
京都府京都市左京区岩倉上蔵町121 「鎌倉時代」 | ||
岩倉実相院前から、50mほどバス道を戻ったところ、岩倉川にかかる目なし橋のたもとに、「目なし地蔵」とよばれる石仏が覆堂に祀られている。 高さ、約1.2mの花崗岩正面に、像高約1mの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、「岩倉三面仏」と同じように、光背部分の左右にる如来座像(弥勒仏?)と地蔵立像を半肉彫りする。 全体に風化摩滅がすすみ、判然とせず、目鼻がないように見えるところから、目なし地蔵とよばれている。京都の石仏は軟質の花崗岩を使用している場合が多く、目鼻がないように見える石仏がよく見られる。 |
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令和5年8月4日 宮崎の田の神(33)(34) |
宮崎の田の神 (33) 並木の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町西麓並木 「嘉永3年(1850)」 |
JR吉都線「高原」駅、南西1.1㎞の水路脇にこの田の神は祀られている。台座の上に安座する像高100㎝の田の神で、シキを阿弥陀にかぶり右手にメシゲ、左手に枡を持つ。銘はなく制作年は不明であるが、かたわらの水神碑銘には「嘉永三年戌七月廿一日」とある。 嘉永3年(1850)に完成した下川原開田を記念し、その工事の奉行であった平島平太左衛門に似せて作らせたという伝承がある。そのため、平島田の神ともいう。味わい深い顔をした田の神である。農民型というより僧型といえる田の神像である。 |
宮崎の田の神 (34) 小塚の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町藺牟田小塚下 |
JR吉都線「高原」駅、約2.6㎞、高原町小塚の集落の西の端にある納骨堂前の小さな児童公園に置かれている。宮崎県の農民型の田の神としては大型で高さは1m近くある。現在、赤と白とで鮮やかに彩色されている。 シキをかぶり、右手にメシゲを持つ。左手は椀ではなく桝を持ち、安座する。着色された太い眉とどんぐり眼の目とおちょぼ口の容貌が印象的である。服装は野良着ではなく狩衣で神官型と農民型を融合させた田の神像である。 |
令和5年8月3日 宮崎の田の神(31)(32) |
高原町の田の神 |
小林市と接する西諸県郡の高原町の田の神像も江戸時代の神官型の田の神が中心である。その中には享保年間の田の神も見られる。その中で特に優れた田の神は高原町井手上の田の神で、80㎝を越える大型の腰掛け型の田の神石像である。鮮やかに彩色された花堂の田の神は安座型の大型像で像高は1mを超える。 農民型の田の神も見られる。鍬を持つ像(出口の田の神)やメシゲと枡を持つ像(小塚と並木の田の神)、杵もしくはスリコギを持つ像(梅が枝の田の神)などバラエティーに富んでいる。 |
宮崎の田の神 (31) 井手上の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町広原井手上 「享保9年(1724)」 |
JR吉都線「広原」駅、西400m、広原小学校の裏手にある王子神社の参道に井手上の田の神はある。新田場の田の神と同じく束帯姿(強装束)の神官像で腰掛け姿の像で、手は両手を前で合わせ孔を作っている。祀る時にそこに笏を持たせるためであると思われる。衣紋等の表現は新田場の田の神や谷川の田の神と比べると直線的で写実性に欠けるが、石の硬さが直線的な表現で生かされ、端正な顔と共に気品のある田の神像となっている。 北向きの参道の木陰にあるため日が当たらず苔むしている。顔の左面の表面が崩れているのが惜しい。「享保九甲辰閏四月八日 寄進者、森雲平」の記銘がある。 |
宮崎の田の神 (32) 鷹巣原の田の神 |
宮崎県西諸県郡高原町広原鷹巣中尾 「大正12年(1923)」 |
JR吉都線「広原」駅の南西に広がる鷹巣原とよばれる開墾地にこの田の神がある。野良着を着た農民型の田の神で、椅子に着座する。大きなシキを笠のようにかぶり、右手にメシゲ、左手に袋のようなものを持つ。荒涼とした開墾地に坐す木訥な農夫のようなこの田の神像の背後には霧島連山がそびえ、絶好の写真ポイントになっている。 台座の銘により、明治32年(1899)2月の鷹巣原の開墾成功を記念して、大正12年(1923)10月10日に地主たちが共同で立てたことがわかる。台座には新田求という石工の名の記銘もみられる。 |
令和5年8月2日 宮崎の田の神(29)(30) |
宮崎の田の神 (29) 上小石の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町樺山 |
谷地区の堂領池の西側の土手に水神碑とともに立っている。右手にメシゲを立てて持ち、左手に椀を持つ農民型の田の神である。椀は、真上から見た姿を真正面に彫りつけていて、見た目にはボールを持ったように見える。このような椀の表現の田の神は都城でよく見られるが、乙房神社の田の神など他の田の神と違ってシキが笠状になっている。 造立時期についててはについては後ろに写っているのが水神碑に明治8年の刻銘があることからこの田の神の作成時期も その頃ではないかと推定できる。 |
宮崎の田の神 (30) 長原の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町長田長原 「大正6年(1917)」 |
三股町長田の椎八重公園の南西500m付近の田んぼの畦道に祀られている田の神である。夏になれば草で隠れしまいそうな高さ35cmの小さな田の神像である。 シキをかぶり、右手にメシゲを、左手に椀を持つ、農民型座像の田の神である。左肩辺りに「大正六年 森田貞則 建設」の刻銘がある。ふっくらとした穏やかな顔の田の神で親しみが持てる。背後の田んぼは訪れたときにはキャベツ畑になっていた。 |
令和5年8月1日 京都の石仏(2)(3) | ||
京都の石仏(2) 戸寺町阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区大原戸寺町553 「鎌倉時代」 | ||
敦賀街道は京都市街より八瀬・大原の里をへて日本海へ向かう。八瀬と大原の境にあたるのが花尻橋である。橋の南に志ば漬で知られた土井志ば漬本舗の本店と工場があり、観光客でにぎわっている。その花尻橋を北に渡ると、すぐ右手に江文神社の御旅所があり、鳥居の左横に小堂に、戸寺町阿弥陀石仏がある。 石仏は高さ105㎝、幅57㎝、厚さ40㎝の灰黄色の花崗岩に蓮華座に坐す定印の像高69㎝の阿弥陀如来を厚肉彫りする。無地の二重円光式の光背や、木彫風の衣紋の表現など大原阿弥陀石仏と共通するところが多く、この石仏も香炉ヶ岡弥勒石仏につながる叡山系の石仏と考えられる。大原阿弥陀石仏のような雄大さはないが清楚な美しい石仏である。 |
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京都の石仏(3) 恵光寺石仏群 | ||
京都府京都市左京区静市市原町1142 「鎌倉時代」 | ||
阿弥陀・釈迦(弥勒)・阿弥陀・阿弥陀 | ||
釈迦如来(弥勒如来) | ||
阿弥陀如来 | ||
阿弥陀如来 | ||
菩薩像?・阿弥陀如来?・阿弥陀如来 | ||
叡電「市原」駅より鞍馬街道を南へ200mほど行くと、道の西側に慈雲山恵光寺がある。 参道を登った右手の丘の下に6体の石仏が並べられている。中央の石仏が最も大きく優れた作風である。総高152㎝の花崗岩をつかい、舟形光背に像高120㎝の如来座像を厚肉彫りしたもので、右手は胸近くにあげた施無畏印、左手は膝上においた与願印を結ぶ。印相から釈迦如来もしくは弥勒如来と考えられる。おだやかな顔やひきしまった体躯など鎌倉中期の様式をしめす。 中央の石仏の左右はともに像高80㎝ほどの定印の阿弥陀如来で、中央の石仏と同じく舟形光背の厚肉彫りである。これらも鎌倉後期の作と考えられるが、中央の石仏とくらべると表情は硬い。他の3体は阿弥陀像2体と菩薩像で造立年代は下る。 |
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