Photo Gallery「石仏と野鳥」新版   2023年9月 
 

 
8月 10月



令和5年9月30日撮影 地元の山の上の公園にて
コサメビタキ
この日もコサメビタキを撮影しました。



令和5年9月29日 近くの川にて
ノビタキ
 数年前まで秋になるとノビタキをこの川の河川敷をよく見かけたものですが、散策道などが整備され草原も少なくなって、最近はあまり見られなくなりました。それでもたまにノビタキを見られることがあり、山の公園の帰りに河川敷に寄ってみました。すると1羽ですがノビタキがいました。



令和5年9月29日撮影 地元の山の上の公園にて
コサメビタキ
近くの川でノビタキを撮影する前に、山の上の公園に行きました。この日もコサメビタキがいました。



令和5年9月27日撮影 地元の山の上の公園にて
エゾビタキ
 去年の秋はサメビタキの当たり年のようであちこちでよく見かけました。しかし、今年の秋はエゾビタキは数日前、この桜園でちらっと見ただけであまり見ていません。この日、ようやくエゾビタキを撮影できました。



令和5年9月25日撮影 地元の山の上の公園にて
コサメビタキ・ヤマガラ
 前日に撮影した赤色型のツツドリやサメビタキ?を期待して公園の桜園に来たのですが、ともに見られませんでした。撮影できたのはのはコサメビタキとヤマガラでした。



令和5年9月24日撮影 自宅の裏にて
イソヒヨドリ
 自宅周辺では2羽のイソヒヨドリがよく見かけます。今日は自宅の裏のブロック塀の上に1羽とまっていました。数メートル先にいました。必死に食べ物を探していてカメラに気づきません。



令和5年9月24日 地元の山の上の公園にて
ツツドリ(赤色型)・キビタキ♀・コサメビタキなど
 公園の桜園にカラス大の鳥がいました。「ツツドリかな」と思ってカメラを向けてみると、頭部は暗青灰色でなく茶褐色でした。
 腹部の横紋があるのでカッコウ科の鳥であることは間違いなさそうです。赤色型のツツドリと思われます。この公園で何回かツツドリを見ているのですが、赤色型も見たことがあります。
 ツツドリかいた桜園に2羽茶色い小鳥がいました。コサメビタキと思ってカメラを向けるとキビタキの雌でした。
この日もメジロの群れの中にコサメビタキが混ざっていました。
 メジロの群れの中に混じっていた小鳥です。コサメビタキと思って撮影したのですが、後で見直して見るとコサメビタキにしてはアイリングが白というより汚白色で頭からの上面は黒っぽい。サメビタキと思えるのですが、体下面が枝で隠れていて何とも言えません。下の写真もピンボケ気味で判断出ません。



       
令和5年9月23日 宮崎の田の神(76)(77)
宮崎の田の神 (76)  南昌明寺の田の神
宮崎県えびの市昌明寺
 南昌明寺の日枝神社の鳥居の隣に木造銅板葺の立派な祠があり。その中にこの田の神は祀られている。狩衣を着た神官型の田の神である。顔面は白く塗られ、福笑いの顔のような丸い目と太い眉毛が描かれている。頬はピンクに、衣類は赤・青・黄・白に塗られている。頭部も白く塗られているため坊主頭にみえる。
               
アクセス
・JR吉都線「京町温泉」駅下車、北へ2.2㎞。タクシー乗り場なし、駅前の観光交流センターで手配もしくは北へ350mの「京町待合所」バス停にタクシー営業所。
自動車・宮崎道「えびの」ICより西北西へ約5.2㎞。



       
宮崎の田の神 (77) 南岡松の田の神
宮崎県えびの市岡松
南岡松の田の神1 「年代不明」
 京町温泉の街の西、川内川に架かる岡松橋の西詰にコンクリートの台座の上に祀られている。元は岡松神社の境内にあったもので、「おっとい田の神」にあって帰ってきた田の神であるという。

 シキを被り、右手にメシゲ、左手にキネを持った典型的な農民型の田の神である。背中は俵やワラヅトではなく背石になっている。顔面や衣類に彩色の跡が残るが、現在は色は塗られていない。年老いた農婦のような味のある顔が印象に残る。現在は、この田の神の周辺や南岡松の集落までの道の脇には新しく作られた田の神が並べられ「田の神通り」となっている。
 
南岡松の田の神2 「昭和30年(1955)」
南松岡の集落の東端の共同墓地の前の民家の入口に、色鮮やかな青色に塗られた着衣を着た田の神がある。吉田温泉の田の神と同じくシキを被り腰をかがめて田の神舞を踊る姿を表したものである。吉田温泉の田の神と同じく両手は破損していて持ち物はわからないが右手にはメシゲ、左手にキネを持っていたとのこと。ドングリ眼のとぼけた顔が印象的である。台座に「昭和三十年八月二十八日」造立年と発起者・賛同者の刻銘がある。
               
アクセス
・JR吉都線「京町温泉」駅下車、西へ950mで南岡松の田の神1。南岡松の田の神1から西へ850mで南岡松の田の神2。
自動車・宮崎道「えびの」ICより西へ約6.3㎞で南岡松の田の神1。南岡松の田の神1から西へ850mで南岡松の田の神2。



令和5年9月22日 京都の石仏(34)(35)
京都の石仏(34) 広沢池の千手観音石仏 
京都府京都市右京区嵯峨釣殿町28  「寛永18(1641) 江戸初期」
  観月の名所と知られていた広沢池は嵯峨野らしい風情を今も残し、観光客も少なくのどかな景観を見せている。その池中の観音島に江戸時代の千手観音石仏が静かに立っている。

 明治以降音羽山から移されたもので像高160㎝の丸彫りの頭上に十一面千手観音で、背面の銘から、蓮花寺五智如来石仏と同じく寛永18(1641)に樋口平太夫が願主となって坦称上人によって造立されたことがわかる。

 この石仏と同じ背面銘の石仏が平等寺・本圀寺で2体ずつ見つかっていて、蓮花寺五智如来石仏とともにこれらの5体の石仏が音羽山にあったことがうかがえる。
アクセス ・三条京阪、四条河原町より市バス59系統「山越中町」行き乗車、「広沢池・佛大広沢校前」下車、北へ100m。京都駅からは地下鉄烏丸線「今出川」で下車し、「 河原町今出川」で市バス59系統「山越中町」行き乗車。

・京都駅前より市バス26号系統「山越中町」 行きにて「山越」下車、西へ約900m。



京都の石仏(35) 蓮華寺の五智如来石仏 
京都府京都市右京区嵯峨釣殿町28  「寛永18(1641) 江戸初期」
五智如来
大日・宝生・薬師如来
薬師如来
宝生如来
大日如来
阿弥陀如来
釈迦如来
 真言宗御室派大本山の仁和寺の駐車場の隣に真言宗御室派別格本山五智山蓮華寺があり、境内には五智如来石仏をはじめ、多くの石仏が並んでいる。

蓮華寺は平安時代後期に創建され寺院で、その後、鳴滝音戸山に移され荒廃し、江戸時代初期、江戸の材木商樋口平太夫家次(入道して常信と名を改める)により、再興された寺院である。常信は蓮華寺復興に当たり、木喰僧・坦称上人に五智不動尊像の修理と五智如来石仏の彫刻を依頼。五智如来石仏は音戸山山頂に安置された。蓮華寺はその後、火災により焼亡、昭和9年、御室の地に移され現在に至っている。五智如来石仏は昭和33年(1958)に音戸山から運び、ここに安置された。

 五智如来石仏は座高1.2mの半丈六仏で、胎蔵界大日如来を中心に右より薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦と伝えられている。無光背の一石丸彫り像で、反花座八角基壇の上の蓮華の上に座している。風化も少なく、当初のノミの跡までうかがえる。
アクセス ・JR山陰線「花園」駅下車、北へ1.5㎞。

・京都駅前より市バス26系統、四条河原町・三条京阪より市バス11or59系統で「山越中町」 行きにて「御室仁和寺」下車。北東約300m。



令和5年9月20日撮影 地元の山の上の公園にて
コサメビタキ
 数カ所でコサメビタキを見ました。その内の1羽は桜などの木の上の方を飛び移っているエナガとメジロの混群の中に混じっていました。見上げるようにして撮りました。
桜園の入口付近にいたコサメビタキです。
桜の枝にとまったコサメビタキです。



令和5年9月19日 地元の山の上の公園にて
キビタキ♀・コサメビタキ
 9月になってこの公園ではヒタキ類はコサメビタキしか見られませんでしたが、今日ようやく雌ですがキビタキを見ることができました。2カ所にいました。
この日もコサメビタキが姿を見せました。



令和5年9月18日 宮崎の田の神(74)
えびの市の田の神1
 えびの市は宮崎県の西端に位置し、鹿児島県と熊本県に接する山間の町である。えびの高原や京町温泉などで知られる観光地の町でもある。このえびの市には100基を越える田の神石像があり、「田の神サアの里」としても知られ、「田の神さあ、おどり大会」「田の神さあの里、産業文化祭」など田の神サアと銘打ったイベントも実施されている。

 特に、えびの高原に向かう末永地区の赤と白の化粧をした田の神の絵は、えびの市の象徴として、えびの市のホームページや高速道路でえびの市を表す標識として使われている。

 えびの市の田の神は都城市や小林市、高原町などに比べると、農民型が多いのが特徴で、加久藤エリアの「末永地区の田の神」をはじめや飯野エリアの「東原田八幡の田の神」、真幸(まさき)エリアの「吉田温泉の田の神」・「下浦の田の神」など個性豊かなユニークな田の神像が多くある。神官型田の神では小林市の「新田場の田の神」や都城市高崎町の「谷川の田の神」とともに、宮崎県代表する「中内竪梅木の田の神」がある。この「えびの市の田の神1」のページは「吉田温泉の田の神」・「下浦の田の神」・「中内竪梅木の田の神」のあるえびの市の真幸(まさき)エリア(旧真幸町)の田の神を紹介する。



宮崎の田の神 (74) 吉田温泉の田の神
宮崎県えびの市昌明寺 「年代不明」
 吉田温泉は京町温泉の北、えびの高原を一望する静かな丘陵地に湧くひなびた温泉である。その温泉の北の棚田の前、木造の祠にこの田の神が祀られている。  顔面と体はは肌色に塗られ、ハの字の眉と丸い目と小さな鼻、赤いおちょぼ口と頬紅が描かれた顔とヘソを出したユーモラスな姿は、いたずら盛りの子どものようで、可愛らしく、えびの市の田の神の中でもよく知られた田の神である。

 両手が欠損しているため、持ち物はわからないが、メシゲなどを持つていたと思われ、シキをかぶった農民型の像で、大正時代におっとって(盗んで)持ってきた田の神である。



宮崎の田の神 (75) 中内竪梅木の田の神
宮崎県えびの市中内竪梅木  「享保10年(1725)」
 私が最初に撮影した田の神像は「中内竪(なかうちだて)梅木の田の神」でした。この時あまり田の神像に興味はなかったのだが、山に囲まれた田園の中にどっしりと座った重厚感のある田の神像のある風景に魅力を感じて撮影した。その意味では私の田の神像遍歴の最初といえる田の神像である。

 内竪梅木の田の神はえびの市の京町温泉の北西、中内竪の水田の中を通る国道447号線の道端に祀られている。「享保十年(1725)」の刻銘があり、小林市の「新田場の田の神」・都城市高崎町の「谷川の田の神」とともに、宮崎県を代表する神官(神像)型の田の神である。円形の台に腰掛けた束帯姿の田の神で、着衣の線は単純であるが厚みとふくらみがあり、引き締まった顔で、石の美しさや力強さを生かした重厚な彫りの像である。「西田の田の神」など薩摩の田の神像に興味を持ったあとも、この像は何回も撮影した。



令和5年9月17日 地元の山の上の公園にて
イソヒヨドリ♀・コサメビタキ
イソヒヨドリの雌が公園の倉庫の屋根にいました。
コサメビタキが桜の木にとまって無大きな口を開けていました。舌も見えます。



令和5年9月16日 京都の石仏(32)(33)
京都の石仏(32) 清涼寺弥勒宝塔石仏
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町   「鎌倉時代」
弥勒如来
多宝塔
 清涼寺弥勒宝塔石仏は山門を入った右手にある石仏で高さ2mこえる大きな船型の花崗岩に、上に天蓋を陽刻して、その下に蓮華座に坐す如来像を半肉彫りしたもので、別石の反花座の上に乗っている。右手を胸前にあげて施無畏印、左手は膝前におろして触地印と思われる印相である。裏側に宝塔とその中にいる釈迦・多宝の2体の如来が彫られているので、弥勒仏と考えられる。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅より北北西へ徒歩1㎞、またタクシー

・「京都駅前」から市バス28系統 嵐山・大覚寺行き乗車、または京都バスまたは71系統・81系統「大覚寺」行き73系統「清滝」行き乗車、「嵯峨釈迦堂前」下車




京都の石仏(33) 嵯峨の油掛地蔵
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺油掛町30   「延慶3年(1310)」
 嵯峨観空寺町の山間から大覚寺通って南へ流れ、桂川に合流する有栖川のほとりの辻堂に、嵯峨の油掛地蔵と呼ばれる有名な石仏がある。食用油を笏に汲み、石仏に振りかけて祈願するという奇習で昔から知られた石仏である。地蔵といわれているが実際は定印の阿弥陀座像である。

 高さ170㎝、幅84㎝の花崗岩の上部の隅を切り、像と蓮華座の周辺を彫り窪めて像高90㎝の阿弥陀像を半肉彫りしたものである。昭和51年、油が削り落とされ延慶3(1310)年の刻銘が発見された。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口より東へ徒歩0.6㎞



令和5年9月15日 地元の山にて
ヤマガラ・コサメビタキ
 桜園で見かけたヤマガラです。緑色と赤茶色の虫のようなものを捕まえて食べていました。嘴で食べている写真も何枚か撮ったのですが、指で押さえている場面しかピントが合いませんでした。
 9月になって夏鳥はコサメビタキしか見ていません。エゾビタキ・キビタキ・オオルリなどを期待しているのですが。今日も見たのはコサメビタキでした。



令和5年9月14日 近くの水田地帯にて
セッカ・セグロセキレイ
 今日もタシギはカメラを向ける前に飛び立ってしまい撮影できませんでしたか、もう一つのねらいであったセッカを撮影できました。
電線にハクセキレイらしき鳥がいました。カメラを向けてみるとセグロセキレイでした。



令和5年9月13日 近くの水田地帯にて
コチドリ幼鳥・ツバメ・ケリ・ヒバリ
水がなくなった休耕田に雨が降り、所々に水たまりができています。その休耕田にコチドリ幼鳥が数羽いました。
 休耕田やその周りの水田をツバメが飛びまわっていたのですが、飛んでいる場面は撮れませんでした。撮れたのは電線にとまったツバメだけでした。
 川を隔てた休耕田にタシギを撮りに行きました。タシギは稲がきれいにそろって生えず、まばらに稲が生えた田んぼにいました。3カ所の田んぼに6羽のタシギがいたのですが、稲に隠れていて遠くから写せず、すべて飛び立ってしまいました。結局この水田地帯で撮影ではたのはケリとヒバリだけでした。



令和5年9月12日 宮崎の田の神(71)~(73)
宮崎の田の神 (71) 東吉村の田の神
宮崎県小林市野尻町東麓字吉村  「天保13(1842)年」
 東吉村の田の神は東麓東吉村の村の道路脇の祠に祀られている。農民型で大黒天を混合したものである。像高86㎝の座像で、おおきな頭巾のようなものをかぶり丸顔で、耳は福耳で大きく、まさしく顔は大黒天である。両肩にメシゲ2本を持ち、両手を輪組みして宝珠を持っている。「天保十三(1842)年十二月」の記銘を持つ。像として田の神と大黒天が融合されたのはこの田の神が最も古いと思われる。



宮崎の田の神 (72) 東新町の田の神
宮崎県小林市野尻町紙屋字石切 「年代不明」
 紙屋小学校の裏の農道脇の小さな祠に祀られている東新町の田の神は農民型の田の神で、大脇の田の神とよく似ている。像高48㎝で大脇の田の神に比べれば小ぶりであるが、大脇の像と同じように野良で働く農夫といった風情である。

 シキをかぶり、右手にメシゲを下げて持ち(大脇の像はかかげている)、左手に大脇の像と同じくスリコギを持つ。着物の上半と足首は茶色(朱色?)に彩色が残る。



宮崎の田の神 (73) 西上ノ原(にしうえのはる)の田の神
宮崎県小林市野尻町紙屋字上ノ原 「天保8年(1837)」
 木造で波板で囲んだ大きな倉庫のような祠に西上ノ原の田の神は馬頭観音などとともに祀られている。像高80㎝の神官型座像の田の神で、右肩に天保8年(1837)と刻まれている。直衣姿で両手を輪組みする。装束の表現は写実的で袖口は丸みをおび装束の質感をうまく表している。顔は面長で烏帽子(巾子?)をつけている。

 野尻町の神官型田の神は角張った装束表現に特徴があるが、この像だけは異質である。しかし、隣の宮崎市高岡町にはよく見られる様式で、浦之名田平や柚木崎、面早流の田の神と相似する。



令和5年9月11日 京都の石仏(31)
京都の石仏(31) 大沢の池石仏群
京都市右京区嵯峨大沢町    「鎌倉時代」
阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来・薬師如来
弥勒菩薩・阿弥陀如来・阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来
薬師如来
釈迦如来
大日如来
阿弥陀如来
阿弥陀如来
弥勒菩薩
地蔵菩薩
 大沢池石仏群は大覚寺の東、日本最古の人工の林泉で庭湖とも呼ばれる大沢池のほとりの護摩堂の北の庭にある石仏群で、胎蔵界大日・薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒などの鎌倉時代の古仏が並んでいて京都を代表する石仏である。この石仏群の中心となるのは、大きな木の左にある薬師とその左に並ぶ釈迦・胎蔵界大日・阿弥陀・阿弥陀の各如来と少し離れた場所にある弥勒菩薩で、2つ目の阿弥陀を除く5体が胎蔵界五仏として作られたもの考えられる。これらの石仏は光背を刻出せず、大きな岩を背負っていて、おおらかな様式で迫力がある。

 大日如来の横の半円形の岩を背負った阿弥陀座像は上品上生の定印で顔は満月相で、平安後期の古い様式を残す。その左の阿弥陀はやや長細い三角の岩を背負った定印の座像である。向かって左側にある一体は蓮華を左に持った菩薩座像で弥勒菩薩と考えられる。 地蔵石仏はこれらの如来像の右に立っていて、同じ頃の作である。如来像と違って二重光背を背負っていて、右手は下げて与願印を結び、左手で宝珠を持つ古式像である。他の如来像と同じく、長年風雨にさらされ表面は風化して、細かい表情はわからないが、それがより石の持つ魅力を生かしていて、おおらかで力強い地蔵石仏である。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口より北へ徒歩1.2㎞、またタクシー。

・「京都駅前」から市バス28系統 嵐山・大覚寺行き乗車「大覚寺」下車。



令和5年9月10日 地元の山のにて
コサメビタキ
メジロの群れに1羽のコサメビタキが混ざっていました。



令和5年9月9日 近くの水田地帯にて
アオサギ・クサシギ
 チュウジシギを撮影しようと2日前にジシギを見た水田地帯に行きました。この日も4羽見かけたのですが、飛び立つ場面しか見られずこの日も撮影できませんでした。畦や草地手はなく水田から飛び立っていたので水の中ではあまり過ごさないチュウジシギではなくタシギと思われますが撮影できず確認できませんでした。
 タシギらしき鳥がいたこの水田地帯で撮影したのはアオサギです。アオサギはよく見かけ撮影するつもりはなかったのですが、何かを捕食しているようなのでカメラを向けました。撮影した後、見てみると捕まえたのはタウナギでした。タウナギを捕まえたアオサギを撮影したの4回目です。アオサギは数分間、悪戦苦闘しながらタウナギを飲み込みました。
いつものクサシギです。



令和5年9月8日 近くの水田地帯にて
クサシギ
 昨日はジシギかタシギらしき鳥を4羽見かけたのですが、カメラを向けようとすると飛び去ってしまいました。今日こそと思ってジシギのいる田んぼに向かったのですが雨が降り出し帰るしかありませんでした。そこでジシギのいる田んぼに行く前に、いつも行く田んぼの畦で撮影したクサシギをアップしました。代わり映えしませんが4日ぶりの野鳥のアップです。



令和5年9月7日 宮崎の田の神(65)(67)(69)
宮崎の田の神 (65) 水流平(つるのでら)の田の神
宮崎県小林市野尻町三ヶ野山字水流平  「昭和6年(1931年)」
 国道268号沿いの「小坂」バス停付近のガソリンスタンドのある交差点を北へ0.8㎞へ行った田畑の広がる見通しの良い道路沿いに鎮座している。神官型座像の田の神で頭と装束の中央部を黒く顔と手足は白く、装束の袖の部分は赤く塗っている。両手でメシゲを持つ典型的な野尻型の田の神である。像の後ろに「水流平 昭和六年十一月二日」と書かれている。像高51㎝。



宮崎の田の神 (67) 大脇の田の神
宮崎県小林市野尻町三ケ野山字大脇 「年代不明」
 大脇の田の神は国道268号線、大脇バス停近くのT字路を入ってすぐの右側の祠に祀られている。像高44㎝の農民型の田の神で、頭にシキ、右手のメシゲ(シャモジ)を顔の高さにかかげ、左手に短い棒(すりこぎ?)を持つ。田畑で働く農民の姿そのものといった風情の田の神である。

 衣裳とシキとメシゲはベンガラ色で彩色されている。像高は65㎝で中腰で立っている。田の神舞をしている姿を表したものと考えられる。



宮崎の田の神 (69) 相牟田の田の神
宮崎県小林市野尻町三ケ野山字相牟田 「大正2年(1913)」
 相牟田(あいむた)の田の神は集落の西のはずれの湧水の池の岸に水神と一緒に祀られている。大きなメシゲを両手で持った農民型の田の神で、赤と黒と白で丁寧に化粧がほどこされている。像高65㎝。服装は僧衣で仏僧型との混合型である。



令和5年9月6日 京都の石仏(30)
京都の石仏(30) 化野念仏寺門前の二尊石仏
京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17番地    「鎌倉時代」
釈迦石仏・阿弥陀石仏
釈迦石仏
阿弥陀石仏
 化野念仏寺は、約千百年前、弘法大師がこの地を訪れ野ざらしとなった遺骸を埋葬しとむらうため、五智山如来寺を開創されたのがはじまりと伝えられている。中世になり法然上人の常念仏道場となり、現在は華西山東漸院念仏寺と称す浄土宗寺院である。

 化野(あだしの)は古来より葬送の地で、境内に奉る多くの小石仏・石塔はあだし化野(あだしの)一帯に葬られた人々のお墓で、明治中期に地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀したものである。境内に集められた石仏は室町・江戸期のものがほとんどであるが、賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた石仏の群像は壮観で見応えがある。

 石仏自体として魅力あるのは門前参道に安置された鎌倉後期の阿弥陀・釈迦の二尊石仏である。ともに、花崗岩製で舟形光背を負い、蓮華座に坐す。像高は60㎝弱で右の阿弥陀像は定印を結び、左の釈迦像は施無畏与願印である。二尊石仏は穏やかな顔の整った像容の石仏で、衣紋なども写実的で、作風は酷似していて同一作者と思われる。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口よりタクシー2.2㎞、または南口より西へ0.5mの「野々宮」バス停より京都バスの「清滝」行き乗車「鳥居本」下車。

・「阪急嵐山駅前」から京都バス 清滝行き乗車「鳥居本」下車

・「京都駅前」より京都バス72系統、「三条京阪」・「四条河原町」より京都バス62系統、「清滝」行き乗車「鳥居本」下車。72系統・62系統とも一日1~2本。



令和5年9月5日 宮崎の田の神(61)~(63)
小林市の田の神3
(野尻町)
 「小林市の田の神3」として小林市野尻町の田の神を紹介する。(西諸県郡野尻町は2010年3月23日に小林市に編入され、小林市野尻町となっている。)小林市野尻町は宮崎県の南西部に位置し、東は綾町・宮崎市、西から北にかけて旧小林市、南は高原町・都城市と隣接している。野尻郷も安土桃山時代以降、江戸時代末期まで島津領であり、多くの田の神像がある。野尻町の田の神像は宮崎県のえびの市をのぞく他の市町村と同じく、神官型の田の神像が多いが、農民型や仏僧型、地蔵型、大黒天・農民混合型などもありバラエティーに富む。

 宮崎の神官型の田の神は台座に腰掛ける「腰かけ型」と台座に安座もしくは正座する「座像型」に区別できる。また、手は左右の手を軽く握り別々にものを持たせるようにした「左右持」と両手を輪組にして笏を持たせるようにした「両手輪組」に分けることができる。「腰かけ型」・「左右持」が古く「新田場の田の神」「谷川の田の神」などがそれである。

 宮崎の神官型の多くは「両手輪組」であるが、野尻町の場合は両手を組み、石で彫った笏やメシゲ?(シャモジ型の笏)を持たせたものが多い。。特に両手でメシゲを持った神官型の田の神は野尻町独自のもので昭和期に制作されたものである。野尻型ともいえる昭和の田の神も含めて野尻町の神官型の田の神は装束が三角や四角の角張った抽象的な表現になっているのが特徴である。その最も古い例が、高都神社参道にある「大王の田の神」で、享保十八年(1733)の記銘がある。

 また、「東吉村の田の神」は大黒天と農民型の混合の田の神として鹿児島県も含めて最も古いもので天保十三年(1842)の記銘を持つ。「大脇の田の神」「東新町の田の神」は農民型の田の神の秀作である。




宮崎の田の神 (61)  八所(やところ)の田の神
宮崎県小林市野尻町三ヶ野山字八所 「年代不明」
神官型田の神
農民型田の神
 三ケ野山八所(やところ)の用水路脇に2体の田の神が並んでいる。一カ所に田の神が2体あるのは珍しく、夫婦の田の神とも言われている。向かって右の田の神は神官座像型の田の神で像高75㎝で、頭は後世の補作である。横に立つ「田の神様御鎮座記念の碑」によると「おっとられた」時に頭がなくなり、昭和23年の化粧直しの時、頭が付けられたということである。田の神そのものは江戸時代の作と思われる。

 左の田の神は像高62㎝の農民型の田の神でシキをかぶり右手にメシゲ(シャモジ)を持つ。記念の碑による右の田の神が「おっとられて」頭をなくして帰ってきた後、横に新しく作って並べられた。顔はかわいらしく化粧されている。

 右の田の神の首は軽石でつくりコンクリートでくっつけたもので稚拙で、神官の威厳が感じられないが、それだけ親しみを感じられる田の神である。夫婦のように並んでいるこの2体の田の神(右が男性、左が女性?)は、毎年、田の神祭りをおこない、化粧されるということである。



宮崎の田の神 (62) 西原の田の神と菅原神社の石神像
宮崎県小林市野尻町三ヶ野山字西原
西原(にしばる)の田の神 「年代不明」
 
菅原神社の石神像 「延享2(1745)」
 国道268号沿いにある西原バス停から佐土原方面にしばらく進むと左手側に菅原神社の参道の石段がある。その石段の左側に木の祠に西原の田の神祀られている。神官型田の神で両手を輪組みし束帯姿で台座に安座している。装束は胸の付近は丸みを帯びているが袖や肩などは三角や四角の角張った表現になっている。赤と白で見事に彩色されていて、毎年3月15日田神祭りで化粧直しされるという。像高は56㎝。野尻型ともいえる角張った装束表現であるが石で彫った笏やメシゲを持たないことや、胸の丸みを帯びた表現などから江戸時代の制作と思われる。

 菅原神社の社殿の前に仁王のように2体の石像が対座するように祀られている。「野尻町の文化財」では石造仏像と表現しているが、神官像と思われる。手元が摩滅しているため詳しいことはわからない。両像とも像高63㎝で、左の像は丸顔で力士のような神官像である。

 右の像の背中に「作者 毛利雅楽 川野楮岐作之 延享二(1745)甲丑七月廿八日 」と記銘がある。毛利雅楽の名は南西方立野の田の神にも刻まれている。鹿児島県伊佐郡菱刈町徳辺の神官型田の神にも「日州、雅楽」と記銘がある。



宮崎の田の神 (63) 野々崎の田の神
宮崎県小林市野尻町三ケ野山字佐土瀬原 「昭和20年(1945)」
 国道268号線、「野々崎」バス停の三叉路を佐土瀬方面へ60mほど進んだ竹藪の前に馬頭観音と一緒に祀られている。神官型田の神で、三角や四角の角張った表現で、石で作ったメシゲを持つ。建立者7名の名前を刻んだ立派な台座の上に座す。紀年銘がないが戦後直後昭和20年(1945)の建立であるという。佐土瀬の田の神や水流平の田の神などと同じく典型的な昭和期の野尻型田の神である。



令和5年9月4日 地元の山の上の公園にて
コサメビタキ
メジロの群れが桜の木々を飛びまわっていました。その中に1羽のコサメビタキが混ざっていました。



令和5年9月2日 近くの水田地帯にて
ヒクイナ・クサシギ・イソシギ・ハクセキレイ
3日前に撮影したジシギはいませんでしたが、田んぼの畦にはヒクイナがいました。
クサシギが水田の畦にいました。いつもいる畦です。
水が少なくなった灌漑水路にいたイソシギが水路にかかったコンクリートの板にとまりました。
クサシギの隣にハクセキレイが飛んできました。
しばらくするとハクセキレイは飛び立ちました。



令和5年9月1日 京都の石仏(29) 愛宕念仏寺の石仏
京都の石仏Ⅳ
嵯峨野 
 このページは東山エリアの丸太町通より南の地域の石仏を紹介する。京都博物館の地蔵石仏・阿弥陀三尊石仏を除いてすべて鎌倉時代の如来石仏である。光背には十一個の月輪が彫られた叡山型の聞名寺阿弥陀石仏や慈芳院薬師石仏・安養寺阿弥陀石仏・安養寺前阿弥陀石仏など花崗岩製の丸彫りに近い厚肉彫りの石仏など重厚さを残したバランスのとれた石仏である。軟質の花崗岩白川石に彫られているため風化か進んでいて面相はわからないものが多いが端正な優しい顔の面影が残る。



                                               
京都の石仏(29) 愛宕念仏寺の石仏
京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5 
 嵯峨野の念仏寺としては化野念仏寺が知られているが、もう一つ念仏寺がある。愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がそれである。8世紀中頃、稱徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建されたのがはじまりである。平安時代、醍醐天皇の命により、千観内供(伝燈大法師)が復興し、千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗の寺院となった。

 その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなっていた。1922年堂宇の保存のために現在地に移築され、嵯峨の愛宕念仏寺として 再興された。戦時中に無住寺となり、1950年の台風災害により境内・堂宇・仏像 等が多大な被害を受けたことで廃寺となっていたが、1955年に天台宗本山から住職を命じられた仏師の西村公朝氏によって現在の姿に復興された。
 
西村公朝作の仏像と石仏 「現代」
 西村公朝氏(1915-2003)は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業し、三十三間堂の十一面千手千体観音像をはじめとして、千数百体におよぶ仏像修理にたずさわり、仏像彫刻家としても活躍、“現代の円空”といわれた。元、美術院国宝修理所所長、東京芸大教授。『仏像の再発見』『やさしい仏像の見方』なとの一般向けの仏像解説書の著書でもある。

 西村公朝氏は住職に就任後、仁王門の解体復元修理をはじめ、境内全域の本格的な復興事業をすすめ、本尊の千手観音を修復するとともに、様々な仏像を制作し、境内に祀るとともに、人々に羅漢の制作を呼びかけて 境内を羅漢の石像で充満させ、現在の姿に復興された。
ふれあい観音
 
風神
 
雷神
 
釈迦石仏
 
釈迦誕生仏
 
十大弟子【迦旃延(かせんねん)】
 
十大弟子【須菩提(しゅぼだい)】
 
十大弟子【富楼那(ふるな)】
 
十大弟子【優波離(うぱり)】
 
十大弟子【目けん連(もっけんれん)】
 
 境内のふれあい観音堂には西村公朝氏の彫った目の不自由な人が触ってもよい仏像、「ふれあい観音」が安置されている。西村公朝氏は石仏も制作し、仁王門を入ってすぐの羅漢堂前には風神・雷神像が安置されている。“現代の円空”にふさわしいユニークな像である。本堂横の一段高い場所に「多宝塔」があり、大勢の羅漢達に囲まれて説法をする姿の「釈迦石仏」が安置されいる。この像も西村公朝氏の制作で、四頭身のかわいい姿の釈迦如来である。

 羅漢堂の隣に素人の参拝者が自ら彫って奉納した羅漢が多く並べられている場所があり、並べられた羅漢からすこし離れた場所に釈迦誕生仏を中心に十大弟子の石像が並んでいる。これらの像は明らかに手慣れた人が彫ったと見える石仏・石像であるが、大分の羅漢寺や三重県の竹成大日堂五百羅漢のいかにも専門の石工が彫った十大弟子とは趣が違う。「ふれあい観音」や「釈迦石仏」と同じ四頭身で、それそれ個性豊かな魅力的な顔の石仏・石像で、これらも西村公朝氏の作と思える。
 
千二百羅漢 「現代」
 西村公朝氏は昭和56年、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願して、素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』がはじめられ、10年後の平成3年に「千二百羅漢落慶法要」かなされた。

 1200体の羅漢は玄人はだしの写実的な表情の羅漢もみらけるが、いかにも素人が彫ったと見える素朴でユニークな羅漢が多く、それぞれの作者の願いや思いが溢れたものになっている。酒を酌み交わす羅漢(石像五百羅漢ではよく見かけるものであるが、この像は実に楽しそうである)・夏目漱石の本を持つ羅漢・猫を抱かえた羅漢など、興味が尽きない。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口よりタクシー2.7㎞、または南口より西へ0.5mの「野々宮」バス停より京都バスの「清滝」行き乗車「愛宕寺前」下車。

・「阪急嵐山駅前」から京都バス 清滝行き乗車「愛宕寺前」下車

・「京都駅前」より京都バス72系統、「三条京阪」・「四条河原町」より京都バス62系統、「清滝」行き乗車「愛宕寺前」下車。72系統・62系統とも一日1~2本。



8月 10月