Photo Gallery「石仏と野鳥」新版   2026年9月 
 

 
8月



令和8年9月8日  串間円立院の石仏 南宮崎駅周辺の仁王と神像1
南宮崎駅周辺の仁王と神像
 JR南宮崎駅の近くに2対の円立院の石仏がある。1対は南宮崎駅の東、直線距離で0.5㎞の住宅街にある宝泉寺仁王で、もう1対は南宮崎駅の北、直線距離で0.5㎞の太田自治公民館の隣にある太田観音堂の前に立つ神像である。仁王のように阿吽の憤怒相の神像である。他に南宮崎駅から直線距離で4㎞ほど離れているが南宮崎駅と同じ大淀川右岸にあるので多宝寺仁王像もここで紹介する。
 
宝泉寺仁王
宮崎県宮崎市恒久3丁目21-1  「寛政元年(1789)」
宝泉寺へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 宝泉寺仁王は南宮崎駅の東の宮崎市恒久の住宅街の中にある宝泉寺の山門前に安置されている。同じ寛政元年(1789)の作の本庄八幡宮仁王によく似た像であが、こちらは赤い彩色がよく残っている。父の延寿院の最勝寺跡仁王に較べると豪快さにかけるが、人生の辛苦を背負ったような渋い憤怒相で、作者の人間味が感じられる。もとは隣町の宮崎市城ケ崎の如宝寺跡にあったものが写されたという。背部の刻銘に「城ケ崎町の安寧、火災除け、五穀豊穣を若者組が祀って、古城の仏師円龍印が彫刻し、寛政元年(1789)に建立された」旨が記されている



令和8年9月7日  長崎の磨崖仏 慶巌寺磨崖三十三観音
長崎県の磨崖仏(磨崖三十三観音)
 長崎県の磨崖仏として諫早市の慶巌寺磨崖三十三観音と久山磨崖三十三観音を掲載する。江戸時代、西国三十三所観音の巡礼巡りの信仰の盛行とともに、西国札所の各寺院の本尊の観音を模した観音石仏が並べられ、簡単に三十三所観音霊場の巡礼巡りができるように、三十三所観音霊場のミニチュアとして三十三所観音が一寺院や一山につくられた。多くは単独の小石仏を並べたものであるが、磨崖仏で表現したものも見られる。特に福島県には岩谷観音磨崖仏をはじめ多くの磨崖三十三観音がある。また、三重県には大型の厚肉彫りの磨崖仏で福島市の岩谷観音磨崖仏とともに江戸時代の磨崖仏の秀作である石山観音磨崖仏がある。西日本では少なく、広島県竹原市の黒滝山磨崖仏などが知られている。

 慶巌寺磨崖三十三観音と久山磨崖三十三観音も西国三十三所観音霊場のミニチュアとして彫作された磨崖仏で、各像の横に霊場の番号が刻まれている。両磨崖三十三観音は共に舟形の彫り窪みをつくり、西国三十三所観音を半肉彫りしたものである。各霊場の本尊の観音を勧請した形になっているが、西国三十三所観音本尊で見られない白衣観音のように宝髻を頭巾で覆っている姿の観音が見られ西国三十三所観音本尊と一致しない観音が多くある。千手観音らしき像もあまり見られない。



慶巌寺(けいがんじ)磨崖三十三観音
長崎県諫早市城見町121 「明和7(1770)年 江戸時代」
 慶厳寺は江戸時代初期に創建された浄土宗の寺院で諫早城の北の本明川の川岸近くにある。慶厳寺磨崖三十三観音は寺の南の砂岩の崖の岩肌に、舟形の彫り窪みをつくり、三十三体の観音像を、半肉彫りしたもので、各像の像高は40㎝ほどで、明和7(1770)年2月、福田源太夫の母が寄進したものと記銘されている。

 各観音の右側に「西国三十三所○○番」と番号が刻まれているが確認できないものが多かった。家族との観光旅行のついでに寄ったため時間がなく各観音像と霊場番号を確認できなかったことや西国三十三所観音本尊に一致しない観音像が多いため各像の写真に尊名と霊場名を載せることが出来なかった。西国三十三所観音の本尊では合わせて半数を超える千手観音、十一面観音は確認できなかった。西国観音霊場の本尊と違っていても慶厳寺三十三観音は各観音は丁寧な彫りで、整った端正な磨崖仏である。
 
頬に右手をあてている。頭部は宝冠をかぶっているように見えるが。如意輪観音?。
半跏像。頭部は宝髻に布をかぶっているように見える。
頬に右手をあてている。頭部は十一面観音の頭上面のようにも見えるが、宝冠と思われる。
一見すると白衣観音立像に見える美しい観音である。頭部は宝髻に布をかぶり、両手を胸元で合わせて宝鉢を持つ。
この像も頭部は宝髻に布をかぶっている。このような観音像が慶巌寺磨崖三十三観音ではよく見かける。



令和8年9月6日  串間延寿院の石仏 鵜戸神宮の磨崖仏
鵜戸神宮の磨崖仏
宮崎県日南市宮浦鵜戸鵜戸山  「明和元(1764)年・明和2(1765)年 江戸時代」
 鵜戸神宮は山幸彦、海幸彦の物語で知られる山幸彦(彦火火出見尊〔ひこほほでみのみこと〕)と海神のむすめ豊玉姫命〔とよたまひめのみこと〕の子どもの「ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと」を祀る神社で、国定公園日南海岸の風光明媚な海岸にあり、参拝客・観光客が絶えない。明治以前は「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」と称した寺院でもあった。
 その鵜戸神宮駐車場の南西側の小さな山の岩肌に、不動明王磨崖仏と閻魔王磨崖仏と四天像と称される磨崖仏がある。(新駐車場の登り口に案内板がある。)「鵜戸山仁王護国寺」の第47世の別当隆岳が明和元年(1764)から同2年に仏師延寿院に彫らしたのがこれらの磨崖仏である。閻魔大王の鋭い目つきで睨みつける表情や不動明王の左に腰をひねり憤怒の形相で立つ姿の表現は巧みで力強く、技量はこのページ取り上げた3人の仏師では一つ抜きんでている。
 
不動明王立像
 不動明王は北斜面の突き出た三角形の岩に火焔光背とともに像高1.27mの不動明王立像を厚肉彫りしたものである。極彩色に塗られていたらしく、光背などに色彩が残る。力強い表現で江戸時代の磨崖仏としては出色の作である。
 
閻魔王像・四天王像
 山の南側の車道に沿った樹林下の小広場には、大型の転石が数個並んでいて、左端の石には閻魔王の厚肉彫りの倚座像が彫られている。保存状態は良く、整った木彫仏を思わせる石仏である。右手の石には四天像と称される、亡者や獄卒などを彫った像がある。



   
令和8年9月5日  串間円立院の石仏 宮崎市北部の仁王像2
朝倉観音仁王像
宮崎県宮崎市金崎914番地
朝倉観音へのアクセス
阿形
 
吽形
 朝倉観音仁王像は他の円立院の仁王像と比べと小振りであるが、彫りが深く力強い仁王像である。円立院の刻銘のある霧島寺跡仁王像や宝泉寺仁王像よりも、延寿院作と思われる生目大村の仁王像によく似た表現である。
 
本庄八幡宮仁王像
宮崎県東諸県郡国富町本庄7798  「寛政元年(1789)」
本庄八幡宮へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 本庄八幡宮の参道の左側の丘に祀られている。明治の廃仏毀釈で廃寺になった八幡宮の別当神宮寺の仁王像である。霧島寺跡仁王によく似た表現で彩色は頭部に一部残るのみである。像の背部に寛政元年(1789)に像立年や仏師が「宮崎古城大越家円立院」、導師が「円応良融」(江戸時代に神宮寺の社殿や仏堂の造営をすすめた)であることが刻まれている。



令和8年9月4日  串間円立院の石仏 宮崎市北部の仁王像1

近世日向仏師の石仏2

串間円立院の石仏



  寛政元年(1748)、古城(宮崎市)に生まれた、串間円立院は、護東寺の第六世住職で大峰入峰修行や熊野三山奥駆け修行を3回した修験僧である。護東寺の第五世住職であった父、串間延寿院と同じく仏像彫刻に優れ、天保5年(1834)、85歳で亡くなるまで、多数の仏像をつくった。現在、362体の仏像が確認されているという。(前田博仁著「近世日向の仏師たち」)
 仁王像では、国富町の本庄八幡宮や宮崎市の霧島寺跡・多宝禅寺・宝泉寺、日南市の五百祀神社などの仁王像が彼の作で円立院または円龍院の記銘がある。また、宮崎市の日之御碕観音や円南寺の仁王も記銘がないが作風から円立院の作と思われる。
 住職であった護東寺跡には仁王像をはじめ弘法大師、阿弥陀如来、菩薩立像、地蔵菩薩などの円立院作の石仏が残されている。また護東寺跡近くの伊満福寺には青面金剛像(庚申塔)・阿弥陀石仏・六地蔵などの円立院の石仏がある。



   
宮崎市北部と国富町の仁王像
 串間円立院の大型彫像の仁王像は10対が確認されている。その中で宮崎市北部にある仁王が宮崎市跡江の大淀川の堤防下の霧島寺跡仁王像と国富町と接している宮崎市金崎にある朝倉観音仁王像と国富町の本庄八幡宮仁王像を紹介する。霧島寺跡仁王像と本庄八幡宮仁王像には円立院と像立年の刻銘がのこる。朝倉観音仁王像は円立院の記銘がないが作風から円立院の作と思われる
 
霧島寺跡仁王像
宮崎市大塚町六ツ合686  「寛政13年(1801)」
霧島寺跡へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 霧島寺跡仁王は宮崎市跡江の大淀川の堤防下に、六十六部廻国供養塔などの石造物とともに祀られている。堤防と椿の林を背景にして霧島山に向いて立っていて赤く塗られた2体の仁王の姿は印象的である。つり上がったどんぐり眼、太い眉、V字型の額の3本の皺など顔の表現は父の延寿院作の生目大村の仁王像とよく似ている。像の背部に「寛政十三辛酉年三月七日(1801年)」「細工古城村円立院」と造立年と仏師名の刻銘がある。




令和8年9月3日  串間延寿院の石仏 日南の延寿院石仏
串間延寿院の石仏 日南の延寿院の石仏
 日南市には延寿院の刻銘のある石仏が鵜戸神宮の磨崖仏以外にも4体ある。その中で飫肥城跡の北0.5㎞にある長持寺跡の墓地にある地蔵石仏と風田の街の中にある仁王像を紹介する。
 
長持寺跡墓地地蔵石仏
宮崎県日南市板敷7265-18 「明和元年(1764) 江戸時代」
長持寺跡墓地へのアクセス
  ほとんど知られていないが、鵜戸神宮の磨崖仏などと遜色ない傑作が日南市の飫肥城跡近くの住宅地の外れの古い墓地にある長持寺跡墓地地蔵石仏である。2mを越える船形にした石材に枠取りした二重円光背の彫りくぼみをつくり、左手に宝珠を持ち右手に錫杖を持つようにした地蔵菩薩を厚めに半肉彫りした立像である。

 中世の地蔵のような穏やかで澄ました面相ではなく、人生の機微を味わい尽くしたような人間味を感じさせる面相である。体躯や着衣等の表現は巧みで力強く、確かな技量が窺える。「明和元年(1764)」の紀年銘や願主とともに「仏師大越家延寿院」の刻銘がある。
 
風田仁王像
宮崎県日南市大字風田3594-3
風田仁王像へのアクセス
阿形
 
吽形
 風田の仁王像は像高1mほどの小像で砂岩製のため傷みが激しいが、体躯や衣紋などの表現など写実的で巧みである。紀年銘はないが「大越家延寿院」の刻銘が残る。文殊仙寺の金剛力士像のように肋骨を数珠玉であらわしている。



令和8年9月2日  串間延寿院の石仏 青面金剛像
青面金剛像(庚申塔)
 串間延寿院は2体の青面金剛像を残している。一体は古城小学校の西350mの県道336号線沿いにある八坂神社の境内にある。もう一体は八坂神社から県道336号線を西へ1.5㎞行った県道の北の山すそにある伊満福寺奥の院の参道にある。
 
八坂神社庚申塔(青面金剛像)
宮崎県宮崎市古城町  「宝暦4年(1754) 江戸時代」
八坂神社庚申塔へのアクセス
 赤い彩色が残る宝暦4年(1754)の記銘がある八坂神社の庚申塔(青面金剛像)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似ていて、いままで見た青面金剛像の中では最も優れた像である。顔の眉付近から上が破壊されているのが惜しい。六臂には弓矢や法輪・剣・錫杖・戟などを持つのが普通であるが、法輪以外は、各手は指を丸めて真ん中を開けて、差し込んで持たせるようにしている。
 
伊満福寺奥の院庚申塔(青面金剛像)
宮崎県宮崎市古城町持田  「宝暦5年(1755) 江戸時代」
伊満福寺奥の院へのアクセス
 伊満福寺奥の院の庚申塔(青面金剛像)は宝暦5年(1755)の作で八坂神社の庚申塔の翌年に彫られたものである。この像も六臂像で円光背と船形光背を背負った厚肉彫りの力強い彫りで、六臂は法輪以外は、各手は指を丸めて真ん中を開けて、差し込んで持たせるようにしている。



令和8年9月1日  串間延寿院の石仏 仁王像

延寿院・円立院・快然の石仏

(近世日向仏師の石仏)

 

串間延寿院の石仏 串間円立院の石仏 平賀快然の石仏

 

 大分県・鹿児島県・宮崎県など九州の寺社の入り口には室町末期・江戸時代の石造の仁王像が多くある。特に国東半島には多数あり、その中でも、旧千灯寺跡や岩戸寺の仁王像は、石の持つ美しさ・厳しさを感じることができる迫力のある石像である(右のサムネイルをクリックしてください)。

 また、文殊仙寺や両子寺等の仁王像は木彫の仁王像と変わらない整った秀作である。しかし、それ以外の国東半島をはじめとした九州各地の石造仁王像は憤怒相の顔や胴体部分の表現が難しいのか稚拙な作が多い。

 私は、石造仁王像は岩戸寺や旧千灯寺跡の像をのぞいて、あまり魅力を感じなかった。 しかし、今年(2011年)の正月に見た、江戸時代に宮崎で活躍した3人の僧、串間延寿院・串間円立院・平賀快然の石造仁王像は違っていた。彼らの彫った仁王像は、デフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれ、個性的で印象的な仁王像であった。 

 串間延寿院とその子の串間円立院の仁王像は、両子寺の仁王像のような均整のとれた整った仁王像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院・円立院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。

禅宗僧で仏師の平賀快然の仁王像も、迫力があり、「松崎観音仁王像」などは石の魅力を生かした作品で、見応えがある。

 これらの仁王像を見に行くきっかけは、偶然、昨年12月に手に入れた『前田博仁著「近世日向の仏師たち」鉱脈社刊』という本である。この本で串間延寿院の仁王像(最勝寺跡)の写真を見て、旧千灯寺跡や岩戸寺の仁王像とはまた違った魅力の仁王像を知った。

 このだび、宮崎市周辺の延寿院・円立院・快然の仁王像・石仏を見てまわり、江戸時代の庶民の信仰に支えられた江戸時代の修験僧や木喰に代表される廻国僧・遊行僧の彫った仏像の魅力を改めて認識することになった。どうぞ、国東の仁王像とは違った魅力のある延寿院・円立院・快然の仁王像や石仏の造形美をお楽しみください。(廻国僧の円空仏や木喰仏やそれらにつながる石仏の魅力について考察した「謎の石仏」のページ参照)  

参照 前田博仁著「近世日向の仏師たち」鉱脈社 2009年12月16日 刊
 



近世日向仏師の石仏1

串間延寿院の石仏


 串間延寿院は宮崎市古城にあった護東寺の五世住職で、3回大峰入峰修行をした、大越家(おいつけ)の僧位を持つ修験僧である。古城で生まれ安永5年(1776)に入寂した。延寿院は大仏師を名乗り、仏師として造仏活動もすすめた。現在、石仏の刻銘や木彫仏の墨書などから宝暦4年(1754)から明和6年(1769)にかけて彫作活動したことは分かっている。

 延寿院の代表作といえるのが鵜戸神宮の不動明王磨崖仏と閻魔王像である。参拝客・観光客が絶えないや鵜戸神宮の駐車場近くにあり多くの人が目にしている磨崖仏である。生目大村仁王像と最勝寺跡仁王像もデフォルメされた憤怒相の顔が力感あふれた像である。延寿院作と思われる青面金剛像(庚申塔)も2体ある。八坂神社青面金剛像(庚申塔)と伊満福寺奥の院青面金剛像(庚申塔)であるる。八坂神社青面金剛像(庚申塔)は衣紋の表現や顔の表情など鵜戸神宮の不動明王磨崖仏によく似た秀作である。他に日南市の長持寺跡地蔵石仏と風田仁王像を紹介する。



仁王(金剛力士)像
 串間延寿院の仁王(金剛力士)像は、両子寺の仁王像のような均整のとれた整った仁王像ではないが、顔の表現が迫力があり個性的で、延寿院という山伏(修験僧)でもある仏師の人間性を感じる作品で、魅力的である。天衣は両肩から後頭部になびかせるのではなく、肩にかけるよう表現している。最勝寺跡や生目大村の仁王像は作者名の刻銘がないが、鵜戸神宮の磨崖仏や子どもの円立院と似た作風であることや最勝寺跡仁王像の刻銘に延寿院の父親と思われる頼宥法印の名あることから延寿院作と思われる。
 
生目大村仁王像
宮崎県宮崎市大字生目  「明和6年(1769) 江戸時代」
生目大村仁王へのアクセス
 
阿形
 
吽形
 生目大村の仁王像は生目神社の参道入口の東に50mの民家裏にあり、案内標識もなくあまり知られていない。子どもの円立院の仁王像とよく似た作風で、保存状態がよい秀作である。彫りも鋭く力強い。
 
最勝寺跡仁王像
宮崎市源藤町源藤917-5  「宝暦6年(1756) 江戸時代」
最勝寺跡(寺ん堂)へのアクセス
阿形
 
吽形
 最勝寺跡は通称「寺ん堂」と呼ばれていて、源藤町の国道220号線と県道27号線に挟まれた丘陵地を開発した新興住宅地の最上部にある。現在は三十三所観音石仏が祀られた小さなお堂とこの仁王像と平成14年に建てられた「寺ん堂」の由来を記銘した立派な石碑が立っている。仁王像は、体躯の表現などややアンバランスで整った作とは言い難いが、誇張した表現の憤怒相の顔や腕は力強い。特に阿形の横顔は迫力がある。吽形の背面に、「宝暦六丙子」(1756)の刻銘がある。




8月