令和5年7月31日 宮崎の田の神(26)(27)(28) |
宮崎の田の神 (26) 徳枡の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町餅原1012 「文久元年(1861)」 |
町営勝岡住宅に向かう坂道の途中には馬頭観音とともに、神官座像型の田の神が祀られている。毎年、化粧直しをしているようで、赤と青・白・黒で見事に彩色されている。城下の田の神と同じく角張った抽象的な造形であるが、胴体部分は三角ではなく四角形になっている。「文久元年 勝岡」の刻銘がある。文久元年は1861年。 |
宮崎の田の神 (27) 城下の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町蓼池1036-2 「年代不明」 |
県道12号線から蓼池方面へ抜ける道の脇にある城下の田の神も彩色施された田の神で、像高90センチほどの神官座像型の田の神である。装束が三角や四角の角張った抽象的な表現になっている。牡丹の花が彫られた台座の上に乗っているが田の神像に比べてアンバランスで今にも台座から落ちそうであった。Google Earthで確認してみると、現在はコンクリート製の台座にのっている。城下の地名は田の神の東にあった勝岡城からきていると思われる。 |
宮崎の田の神 (28) 野中の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町蓼池 |
野中の田の神は蓼池の集落の東の水田地帯の用水路脇の簡素な覆屋の中に祀られている。像高70㎝の神官腰掛型の田の神像である。両手を膝の上で輪組している。冠をとめるための紐(掛緒)が丁寧に彫られている。都城市高城町の石山迫の田の神とよく似た表現の田の神である。全体に白く彩色されていて装束の一部と掛緒と唇は赤に、腰から垂らした紐は青に塗られている。 |
令和5年7月30日 京都の石仏(1) |
京都の石仏 |
京都は奈良とともに古い石仏の宝庫である。特に鎌倉時代の作が多く、寺院の境内や墓地・町の辻堂などに祀られている。そのほとんどが、花崗岩製の独立した石仏で、磨崖仏はみられない。 奈良では線刻・薄肉・半肉・厚肉、あらゆる手法による石仏がみられ、尊名も地蔵石仏と阿弥陀石仏を中心に弥勒・不動・観音・釈迦・薬師とバラエティーに富んでいる。それに対して、京都の石仏は厚肉彫りの如来像がほとんどで、それも定印の阿弥陀座像が多い。これは、京都が藤原時代以来の浄土教信仰の中心であった、伝統によるものと思われる。 そのような京都を代表する石仏が鎌倉中期の元仁元年(1224)の年号を持つ石像寺阿弥陀三尊石仏である。 中尊の阿弥陀如来は弥陀の梵字「キーリク」が11個、小円形に刻まれた、二重円光の光背を背負い、二重の蓮華座上に結跏趺坐する。穏やかな整った顔やよどみのない衣紋はみごとである。この石像寺阿弥陀の源流にあたる石仏が比叡山の西塔の香炉ヶ岡の弥勒石仏である。石像寺阿弥陀と同じように梵字が彫られた二重円光光背で、丸彫りに近い厚肉彫りである。顔は満月相で、頭上の肉髻は高く、平安末期の作と思われる。 川勝政太郎博士はこれらの石仏を叡山系の石仏として高く評価された。北白川阿弥陀石仏や戸寺阿弥陀石仏、大原阿弥陀石仏なども叡山系の石仏で京都を代表する石仏である。 大沢の池の胎蔵五仏を中心とした石仏群も厚肉彫りの優れた石仏である。自然石を光背形に荒く作って、前面に丸彫りに近い厚肉に彫りだしたもので、顔は藤原時代の満月相が残る。慈芳院薬師石仏や安養寺前の阿弥陀石仏、岩倉三面石仏なども厚肉彫りの秀作であるが、白川石とよばれる軟質の花崗岩のため、風化摩滅がすすんでいる。 善導寺、釈迦三尊石仏は京都では珍しい半肉彫りであるが立体感があり、絵画的な趣もある秀作である。 |
京都の石仏(参考) 比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏 | ||
滋賀県大津市坂本本町比叡山西塔 「平安後期」 | ||
京都を代表する石仏「石像寺阿弥陀三尊石仏」や「北白川阿弥陀石仏」の様式の源流といえる石仏がこの香炉ヶ岡弥勒石仏である。そのため、滋賀県にあるが、あえて京都の石仏として、最初にとりあげた。 石仏は西塔釈迦堂の背後の山、香炉ヶ岡の笹原の杉木立の中にある。像高2m余りの花崗岩製。下部に別石の反花座もうけ、その上に蓮座・仏身・光背からなる本体を一石でつくられている。右手を伏せて膝の上に、左手を仰げて膝上においた珍しい印相で、弥勒如来・または釈迦如来と思われる。 丸彫りに近い厚肉彫りで、膝におろした右手と胴のあいだや首と光背とのあいだが彫り抜きになっている。満月相の顔、高い肉髻、ひきしまった体部と流麗な衣紋など藤原時代の特徴をみせる。光背は二重円光式で、左肩の一部欠けていて、6個の月輪内に梵字が陽刻されている。光背の背面には、3つの月輪が彫られ、釈迦三尊の梵字が大きく陽刻され、下には経巻を納めるための四角の彫り込みがある。 もとこの付近にあった弥勒堂跡にちなんで弥勒石仏といわれている。釈迦石仏の説もある。 |
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参照文献
『京都の石造美術』 | 川勝政太郎 | 木耳社 |
『京都の石仏』 | 佐野精一 | サンプライト出版 |
『京都の石仏』 | 清水俊明 | 創元社 |
『京の石造美術めぐり』 | 竹村俊則・加登藤信 | 京都新聞社 |
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洛北には優れた阿弥陀石仏が多くあり、京都の石仏を鑑賞する上で見逃せない場所である。特に京都の石仏では一番大きく美しい石仏である大原阿弥陀石仏や清楚で精緻な表現の戸寺阿弥陀石仏は鎌倉時代を代表する阿弥陀石仏である。 実相院や岩倉具視幽棲旧宅のある岩倉地区にも鎌倉時代の石仏が多くある。京都の石仏は軟質の花崗岩を使用している石仏が多く摩滅が進んでいて、目鼻がはっきりしない場合が多いが、この地区の石仏はそのような石仏が目立つが、石仏としての存在感は損なわれていない。 修学院・一乗寺地区には大治2年(1125)年の刻銘のある禅華院の「雲母坂の石仏」や奈良時代の藪里釈迦堂石仏など古い石仏がある。他に北区の上善寺や大徳寺にも鎌倉時代の石仏がある。 |
京都の石仏(1) 大原三千院阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区大原来迎町 「鎌倉時代」 | ||
大原三千院の境内、「あじさい苑」の奧、律川に架かる橋を渡った山裾の吹放しの覆堂に祀られている。以前は勝林院から律川にそって自由に行くことができ、「日本石造美術辞典」などでは勝林院境内から行くように紹介されている。 高さ2.25mで京都の石仏では一番大きく、美しい石仏である。光背形の花崗岩の自然石に単弁を並べた蓮座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りに彫りだしたものである。光背は二重円光式になっている。頭部の螺髪を一粒づつ刻む。長めの顔は美しく、眼は半眼に開き優しいまなざしである。やわらかい流れるような衣紋で、花崗岩の硬さを感じさせない、木彫風の傑作である。二重円光の光背には石像寺阿弥陀三尊のよう梵字は彫られていないが、香炉ヶ岡弥勒石仏のながれを組む叡山系の石仏である。 秋のやわらかな日差しの中でみた、この阿弥陀石仏は素晴らしく、慈悲にあふれた顔は忘れられない。 |
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令和5年7月29日 南山城の石仏(14)(15) |
南山城の石仏(14) 撰原峠地蔵石仏 |
京都府相楽郡和束町撰原 「文永4年(1267)」 |
J峠の道のそばに、石室風に石を組んで、その中に安置されている。右手を垂れ与願印にし、左手で胸前に宝珠を持つ古式の形相の厚肉彫の地蔵立像である。おおらかな古い趣のある石仏である。像の両側に「釈迦如来滅後二千余歳、文永二二年(1267)丁卯、僧実慶」と刻む。 |
南山城の石仏(15) 和束弥勒磨崖仏 |
京都府相楽郡和束町白栖長井 「正安二年(1300)年」 |
JR加茂駅から東北5㎞の木津川の支流の和束川の北岸の岩壁に彫られた像高230㎝の磨崖仏である。岩面に二重光背形に彫り込み、右手をあげて施無畏印、左手を下げて与願印の弥勒如来立像を厚肉彫りしたもので、対岸の府道から川を挟んで拝した姿は壮観である。向かって右のの岩壁面に「‥‥正安二年四月日 当釈迦牟尼仏滅年数後 二千二百余歳比」と刻銘がある。撮影に行った時は雲一つない晴天で周りの木々の枝葉の影がかかってよい写真が撮れなかった。 |
令和5年7月28日 自宅の庭より |
イソヒヨドリ |
庭に出てみると斜め隣の建物の非常階段の手すりにイソヒヨドリがいました。毎年この建物でヒヨドリを見ます。毎年この建物のどこかで巣作りと子育てをしていると思うのですが。25日に撮影した同じイソヒヨドリの若鳥と思われます。 |
向かいの民家の雨樋にとまりました。 |
令和5年7月26日 宮崎の田の神(24)(25) |
三股町の田の神 |
三股町の中心地は都城市の市街地が接していて市街地は一体化しているが、平成の大合併の時、北諸県郡で三股町だけ都城市と合併しなかった。三股町も都城市と同じように神官型の田の神と農民型の田の神か共に見られる。三股町の農民型の田の神として田上の田の神、長原の田の神、上小石の田の神を取り上げたが、田上の田の神以外は明治以降の造立で、三股町の田の神は神官型が中心といえる。 |
宮崎の田の神 (24) 田上の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町長田2413 「年代不明」 |
JR日豊本線「餅原」駅の南東約1.5㎞。県道47号線から10mほど西へ入った村の入口に小さなお堂があり、そこに安置されている。格子がはめ殺しなっているため、全身の写真を写すことができない。 シキをかぶり、右手にメシゲを、左手に椀を持つ、典型的な農民型立像の田の神である。シキと衣服は茶色に彩色し、顔を白塗りにする。穏やかな顔で、宮崎県の農民型の田の神の秀作の一つである。 |
宮崎の田の神 (25) 迫間の田の神 |
宮崎県北諸県郡三股町餅原74 「年代不明」 |
迫間の田の神は田上の田の神の西1㎞、JR日豊本線「餅原」駅からは南約1㎞にある餅原納骨堂の敷地内の立派な祠の中に祀られている。城下や徳枡の田の神と同じく、神官座像型の田の神で、装束が三角や四角の角張った抽象的な表現になっている。手の組み方は、珍しい、右手が上、左手が下の上下輪握りである。本来、笏を持たすための輪組と思われるが、現在は大きなメシゲを持たせている。 |
令和5年7月26日 南山城の石仏(11)(12)(13) |
南山城の石仏(11) 鹿背山の磨崖仏 |
地蔵磨崖仏 「鎌倉後期」 |
京都府木津川市鹿背山大木谷49 「鎌倉時代後期」 |
貝吹き地蔵磨崖仏 |
京都府木津川市鹿背山鹿曲田88 「南北朝時代」 |
JR木津駅の東の丘陵地帯にあるゴルフ場の北、鹿背山の南の麓に鹿背山不動がある。像高45㎝の南北朝時代の不動磨崖仏が祀られていて昔から厚い信仰を集めている。不動堂石室の奥の岩肌に彫られていて、「建武元年(1334)甲戌十一月卅一日」「大工末次」の刻銘がある。 鹿背山不動の境内から急坂を登って裏山山頂に出ると大きな岩石が突き立っていて、そこに地蔵磨崖仏が彫られている。岩いっぱいに船型の彫り窪みをつくり、そこに錫杖と宝珠を持つ像高128㎝の地蔵立像を半肉彫りしたもので、引き締まった写実的な顔の磨崖仏である。「しょんべんたれ地蔵」と呼ばれていて、お参りを続けるとこの地蔵が子供の寝小便の代わりをしてくれると言われている。 鹿背山の西麓の西念寺の近くの林道の道端にも地蔵磨崖仏がある。「回復地蔵」または「貝吹き地蔵」と呼ばれ磨崖仏で、林道の曲がり角の露出した大きな岩に船型の彫り窪めをつくり、その中に整った美しい顔の地蔵立像(像高120㎝)を半肉彫りしたもので南北朝時代の作である。 |
南山城の石仏(12) 西念寺地蔵石仏 |
京都府木津川市加茂町河原橋ノ本 「弘安4(1281)年」 |
JR加茂駅の北西、木津川の北の田園地帯はかって恭仁京が造営された地である。その田園地帯にある集落が加茂町河原である。その集落の西に西念寺がある。西念寺に接して村墓の河原墓地があり、その墓の中の地蔵堂に等身大の地蔵菩薩立像が安置されている。 二重円光背を背にした像高155㎝の地蔵菩薩立像を厚肉彫りしたもので右手に丁寧に彫られた錫杖頭の錫杖を持ち、左手で胸前に宝珠をささげる。温厚でふくよかな面相で衣紋も写実的な秀作である。弘安四年(1281)の紀年銘を持つ鎌倉中期の作である。 |
南山城の石仏(13) 森八幡宮線刻不動明王・毘沙門天石仏 |
京都府木津川市加茂町森 「正中3(1326)年 鎌倉後期」 |
不動明王石仏 |
毘沙門天石仏 |
毘沙門天の単独としての造立として古いのが普光寺多聞天磨崖仏とともに京都府木津川市加茂町の森八幡宮毘沙門天石仏である。森八幡宮は岩船寺の4㎞ほど北の山間の村、加茂町森にある古社で、境内の二つの大石の正面に頭部をアーチ形にしたほりこみを作り、不動明王と毘沙門天の立像を達者な線で線刻する。不動像は直立でやや右方を向く。右手に剣、左手に索をとり、全身から火焔が立つ姿は勇壮である。 毘沙門天は体をやや左に曲げ、眼を大きく見開いて口髭のはやした顔を斜め左に向けている。右手を高く上げて戟を持ち、左手で宝塔を捧げる。伸びやかな線刻で武神にふさわしい雄々しく力強い像である。 毘沙門天像の左肩に「武内之本地」、不動像の左肩に「松童之本地」とある。不動像には「正中三年虎丙二二月十八日」という造立銘文がある。武内・松童は八幡宮の摂社。現在、岩面が剥落するおそれがあるため、雨露に直接触れないように覆屋根がもうけられている。 |
令和5年7月25日 自宅の庭にて |
イソヒヨドリ |
連日の猛暑でここ数日、野外に出て野鳥を撮影していません。今日も野鳥の撮影をあきらめていたのですが、自宅の庭の花に水をやっているとイソヒヨドリの鳴き声が聞こえてきました。慌ててカメラを取りに家へ戻って庭に出てみるとイソヒヨドリは家の軒下にいました。イソヒヨドリ雄です。自宅の周辺ではイソヒヨドリの若鳥が雄雌1羽ずついてたまに撮影しているのですがいつも雌しか撮影していません。今日ようやく雄を撮影できました。 |
令和5年7月24日 宮崎の田の神(21)(22)(23) |
宮崎の田の神 (21) 浜之段の田の神 |
宮崎県都城市山田町山田浜之段 「昭和37(1962)年」 |
浜之段の墓地に大黒天風の田の神像がある。平べったい大黒頭巾をかぶり右手に大きなメシゲを持ち、左手で稲穂を金袋のように背負う。都城の上東町の田の神とよく似た表現の像で、昭和37年の刻銘がある。 |
宮崎の田の神 (22) 池ノ原の田の神 |
宮崎県都城市山田町中霧島 「嘉永7年(1854)」 |
山田町には神官型と農民型を融合したような独特の田の神像が何体かある。その一つが池ノ原の田の神である。瓜実顔で頭部は一見、シキを被っているように見えるが、よく見ると頭上には髷か冠の額のようなものを載せている。享保14年の田中の田の神と頭部はよく似た表現である。胴体部の表現は田中の田の神と比べると稚拙で角張った抽象的な表現になっている。背後に嘉永7年(1854)の刻銘がある。 |
宮崎の田の神 (23) 古江の田の神 |
宮崎県都城市山田町中霧島古江 |
神官農民融合型の田の神 「嘉永7年(1854)」 |
農民型(僧型)の田の神 「大正6年(1854)」 |
古江の田の神も山田町独自の神官型と農民型の融合型の田の神である。瓜実顔の顔は肌色に見事に彩色され、布製の白い羽織のようなものを着せられている。背後に池原の田の神と同じ嘉永7年(1854)の刻銘がある。 また、少し離れた場所には大正6年に建立された小さな農民型の田の神がある。大きな笠のようなシキを被り、右手でメシゲ、左手で宝珠を持つ。青山幹雄「宮崎の田の神」の記述に従って農民型としたが宝珠を持つので僧型としたほうがよいのではないだろうか。 |
令和5年7月23日 宮崎の田の神(18)(19)(20) |
宮崎の田の神 (18) 有水西久保の田の神と庚申石祠 |
宮崎県都城市高城町有水西久保 |
有水西久保の田の神 「明治28(1895)年」 |
有水西久保の庚申石祠 「慶安元年(1648)」 |
有水西久保にこの田の神と庚申碑がある。田の神は像高90の神官型田の神で、両手を輪組した安座型の田の神である。確認できなかったが宮崎県史によると「明治二十八(1895)年三月十八日」の銘文があるという。顔は摩滅して鼻は欠けている。 隣に立つ庚申碑は石祠造りで屋根は千鳥破風入母屋型で、基壇に三猿を、石祠の正面両脇に香炉を持つ童僧を肉彫りする。石祠の中にはショケラの髪をつかむ青面金剛が半肉彫りされている。非常に珍しい精巧な庚申塔である。同じような石祠造りの庚申塔は高城町石山にもみられる。旧高城町の指定の有形文化財文化財で慶安元年(1648)の造立。 |
宮崎の田の神 (19) 正近の田の神 |
宮崎県都城市山之口町富吉正近 「年代不明」 |
「弥五郎どん祭」で知られた山之口町富吉の園野神社の参道近くの農道に面した田の中に正近の田の神像がある。典型的な都城の農民型の田の神で和服で袴をはき、シキをかぶり、右手でメシゲ、左で椀を持つ。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。 シキと袴、目と眉は黒く塗り、着物は赤に着色している。同じ様式の高城町萩原や高城町穂満坊の田の神と同じく江戸時代の作と思われ。 |
宮崎の田の神 (20) 山田田中の田の神 |
宮崎県都城市山田町山田田中 |
田中の田の神 「享保14年(1729)」 |
下中の田の神 「明治28(1895)年」 |
旧山田町の田中に享保14年(1729)の刻銘を持つ田の神像がある。両手とも手首から先は欠けてしまっていて、持ち物等はわからない。神官型の田の神像と思われるが、衣装は衣冠束帯や狩衣姿ではない。肩に当世袖のようなものをつけていて鎧姿にも見える。 田中の田の神から川を隔てた南に、小さな農民風(僧職型?)の田の神、下中の田の神がコンクリートの祠に祀られている。笠状のものを被り、両手を前で合わせているが何も持たない。彩色の跡が残る。 |
令和5年7月22日 南山城の石仏(9)(10) |
南山城の石仏(9) 岩船寺の石仏 |
京都府木津川市加茂町岩船上ノ門43 |
岩船寺不動石仏龕 「応長2(1312)年 鎌倉時代」 |
地蔵石仏 「鎌倉後期」 |
岩船寺は開基は行基と伝える古寺で、本尊は阿弥陀如来像で10世紀を代表する仏像として知られている。三重塔(室町時代)は中世後期の代表作ともいわれており、重要文化財に指定されている。現在は真言律宗の寺院で紫陽花の寺としても知られている。 岩船寺には鎌倉時代から室町時代にかけての多くの石造物か残されていて、五輪塔・十三重石塔などが重要文化財となっている。不動明王を奥壁に刻んだ石室も建造物として重要文化財に指定されている。 この石室は屋形風の石造建築で奥壁と二本の柱で寄せ棟造りの屋根を支えたもので、奥壁に頭上に蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持つ不動明王立像を浅く半肉彫りされている。石室の下は霊水を溜めるようにできていて、この水が眼病に効くとしてもらいに来る人が多かったという。「応長第二(1312)初夏六日 願主盛現」の刻銘がある。 石室の左には覆堂がもうけられ地蔵石仏が安置されている。二重円光背を背にした像高78㎝の地蔵座像を厚肉彫りしたもので、里人から厄除け地蔵として信仰されている。覆堂は近年になって建てられたもので、それまでは紫陽花の花に囲まれて美しい姿を見せていた。鎌倉後期の作と思われる。 |
南山城の石仏(10) 長尾阿弥陀磨崖仏 |
豊後高田市田染平野陽平 「徳治2年(1307) 鎌倉後期」 |
加茂町西小から浄瑠璃寺へ向かうバス道(府道752号線)のカーブした所の崖上に笠を載せた長尾阿弥陀磨崖仏がある。 突き出た岩の表面を平らにして方形の彫り窪みをつくり、像高76㎝の蓮華座にのる定印阿弥陀如来座像を半肉彫りしたもので、鎌倉後期の作である。光の関係か面相ははっきりしないが、よく見ると穏やかな整った顔である。「徳治二年丁未廿九日造立之願主僧行乗」の刻銘がある。 |
令和5年7月20日 隣町の山にて |
ソウシチョウ・エナガ |
隣町の山に久しぶりに行きました。コサメビタキやキビタキの幼鳥がねらいだったのですが、見ることができませんでした。聞こえてくる鳥の鳴き声はウグイス・メジロ・ヒヨドリ・ソウシチョウなどです。その中で撮影できたのはソウシチョウです数羽のソウシチョウが暗い林の中で「ギチ ギチ ギチ」と鳴いていました。 |
やかましくソウシチョウが鳴いている同じ木にエナガが1羽いました。 |
令和5年7月19日 少し遠くの広い公園にて |
セッカ |
オギ原に囲まれた資材倉庫のフェンスにとまったセッカです。6月27日以来のセッカです。このフェンスではよくセッカやオオヨシキリを撮影しています。フェンスに乗ったキジを撮影したこともあります。 |
公園のオギの原の上を「ヒッヒッ」「チャッチャッ」と鳴きながら飛びまわっていたセッカがようやく草の上にとまってくれました。 |
オギの茎にとまったセッカです。 |
令和5年7月18日 宮崎の田の神(16)(17) |
宮崎の田の神 (16) 穂満坊の田の神 |
都城市高城町穂満坊前田 「天明2年(1782)」 |
国道10号線の「高城町穂満坊」交差点の北西、穂満坊前田の集落の外れにこの田の神像はある。現在コンクリートの台石に腰まで埋めこまれている。このようにセメントでしっかりと固定された田の神は高城町ではよく見かける。田の神像のオットイ(盗むこと)がよくおこなわれたためそれを防ぐためである。 像高45㎝でシキをかぶり、右手にメシゲを立てて持ち、左手に椀を持つ農民型の田の神である。椀は、真上から見た姿を真正面に彫りつけていて、見た目にはボールを持ったように見える。都城やその周辺でよく見かける都城型といってもよい田の神の姿である。シキとメシゲ・椀は黄色く着色され、衣裳には赤い彩色の跡が残る。旧高城町の指定の有形文化財。 |
宮崎の田の神 (17) 高城町石山の田の神 |
高城町穂満坊の北が高城町石山で石山地区には6体の田の神像がある。その内一体が農民型で他は神官型である。 |
石山片前の田の神 「年代不明」 |
宮崎県都城市高城町石山片前 |
石山片前の水路脇に水田の方に向かって座している石山片前の田の神は像高1mの腰掛型の神官像である。堂々とした姿から江戸時代の中期の作と考えられる。顔は摩滅し目と口の穴が残るだけである。また、輪組みした手の部分や袂も破損している。青山幹雄著「宮崎の田の神像」によると、石山地区と豊満地区(旧都城市)との間で田の神盗みあいがが盛んでその時傷ついたものであるとのこと。 Google Earthで確認してみると、現在は赤や白できれいに彩色されていて見違えるようになっている。 |
石山中方の田の神 「年代不明」 |
宮崎県都城市高城町石山中方 |
石山中方の菅原神社にある神官型田の神も立派なもので像高1mを越える。現在木製の祠に祀られている。束帯姿で手は輪組である。腰掛け型ではなく台座の上に安座する。束帯は赤く彩色した跡が残る。この像も石山片前の田の神と同じように顔は大きく破損摩滅している。この2つの像の顔の破損は自然に摩滅したというよりは意図的に削り取られたような印象をうける。 |
石山萩原の田の神 「年代不明」 |
宮崎県都城市高城町石山萩原 |
石山萩原の北の外れに小さな農民型の田の神像がある。この像も穂満坊の像と同じ都城型で右手にメシゲ、左手に碗を持つを持つ。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。シキと衣裳は赤く着色され、メシゲと椀と顔は白く塗られている。小さな眼とおちょぼ口がかわいい。コンクリートの台石に腰まで埋めこまれているが、台座が白く塗られているため、穂満坊の田の神に比べれば違和感はあまりない。 |
石山迫の田の神 「年代不明」 |
宮崎県都城市高城町石山迫 |
石山迫の田の神は石山迫の集落の北の上園権現という小さな神社の入口に祀られている。神官型座像の田の神で御所人形を思わせる丸顔である。両手を輪組にする。摩滅も少なく目鼻立ちはっきりしている。掛緒に着色の跡が残る。 |
令和5年7月17日 宮崎の田の神(14)(15) |
宮崎の田の神 (14) 高崎町縄瀬の田の神 |
縄瀬三和の田の神 「享保11年(1726)」 |
宮崎県都城市高崎町縄瀬三和 |
縄瀬共和の田の神 「天明五年(1785) |
宮崎県都城市高崎町縄瀬共和 |
縄瀬横谷の田の神 「文化6年(1809)」 |
宮崎県都城市高崎町縄瀬横谷 |
都城1で紹介した、岩満町巣立の田の神のある都城市岩満町の北が高崎町縄瀬である。ここには、享保11年(1726)の神官型腰掛像をはじめとして天明年間など古い神官型の田の神が多くある。 享保11年(1726)の神官型腰掛像は縄瀬三和の菅原神社の参道入口にある。高さ91㎝の束帯姿の腰掛型の田の神で、両側に振り広げた袖口など衣紋の表現も写実的で縄瀬地区を代表する田の神である。しかし、残念なことに頭部はなく、代わりに五輪塔の空輪・風輪が乗せられている。両手を膝の上で輪組みにし、笏をさすようにしている。「享保十一年午四月吉日 日州諸県郡高崎縄瀬村田之神宮」の記銘があり、この地区の中心的な田の神であったと思われる。秋の菅原神社例大祭のとき御幣が供えられる 縄瀬共和の縄瀬保育園南上にある田の神は両手輪組の安座姿の神官型田の神で、小型(高さ45㎝)の素朴な表現の像である。「天明五年(1785)乙巳九月吉日」の刻銘がある。 縄瀬横谷の田の神も頭部がない神官型の田の神で、高さ60㎝ほどの安座神官型像である。現在、歌舞伎の隈取り風に顔が描かれた卵形の石が頭部にのせられている。訪れたときには卵形の頭に麦わら帽子がかぶせられていた。「文化6年(1809)」の刻銘がある。 高崎町縄瀬地区には頭部がない田の神像がほかにも見られる。これらは意図的に取られたものではないだろうか。(廃仏毀釈で?) |
宮崎の田の神 (15) 高城町桜木の田の神 |
横手の田の神 「宝暦元年(1752)」 |
宮崎県都城市高城町桜木横手 |
桜木の田の神 「文政12(1829)」 |
宮崎県都城市高城町桜木 |
宮崎自動車道の都城インターの南東にある集落が桜木横手である。桜木横手の東の端、花之木川沿いの菅原天神の入り口に宮崎県の田の神の中で最も見事な彩色がなされている田の神がある。 神官型の田の神で高さ70㎝で両手を輪組にし安座する。衣裳は赤と黒、顔や手は白く塗られ、目と眉がくっきりと描かれている。「文政十二(1829)年五月奉建立御田神」の銘文がある。 田の神像の横に小さなコンクリートの碑があり、平成元年に宮田チカ宅から移転奉納されたことが銘記されている。長い間、室内で祀られていたため、風化や破損がなく目鼻の彫りも完全に残っていて、鮮やかな彩色・化粧とあいまって、みすみずしいほど美男の田の神である。頭髪と冠を黒くぬり、衣裳は襟元と中央部を黒で残りを赤で塗っているため羽織を着た相撲取りのように見える。 桜木の中心となる集落は都城インターの北東にある。その集落にある将軍神社の入り口にも彩色された田の神がある。高さ67㎝の両手輪組の神官型田の神で腰掛け型の田の神であるが膝から下が地中に埋められている。像の後ろに彩色したと思われる年月日が書かれていて、訪れた時は平成18年11月4日が一番最新の日付であった。 |
令和5年7月15日撮影 近くの水田地帯にて |
コチドリ |
前日に引き続いて水田地帯のコチドリです。前日撮影した休耕田から少し離れた水が引いた休耕田で撮影しました。この休耕田では去年はコチドリ以外にアオアシシギ・タカブシギ・トウネンなどを撮影しました。今年も期待しているのですが、このまま休耕田が干上がってしまったら見られないかもしれません。 |
令和5年7月15日 南山城の石仏(6)~(8) |
南山城の石仏(6) 岩船不動磨崖仏(一願不動) |
京都府木津川市加茂町岩船八丁 「弘安10年(1287) 鎌倉時代」 |
「唐臼の壺磨崖仏」から岩船寺へ向かうハイキングコースをしばらくすすむと、三差路に出るその辻を右に数メートル行くと「笑い仏」があり、左の山道を進むと岩船寺に出る。その山道を数メートル進んだところから下りた谷間の藪の中に露出した大きな岩面に薄肉彫りさた岩船不動磨崖仏がある。やや斜め向きの顔は両眼を見開き、眉をつり上げた憤怒相で、剣を右手にかまえ、索を左手に持った不動明王立像である。風化が少なく、午後になると木漏れ日があたり、憤怒相であるがどこか穏やかな顔が浮かび上がり、印象的である。 像の向かって右下方に「弘安十年丁亥 三月廿八日 於岩船寺僧□□令造立」の刻銘がある。 |
南山城の石仏(7) みろくの辻弥勒磨崖仏 |
京都府木津川市加茂町岩船三大 「文永11年(1274) 鎌倉時代」 |
「笑い仏」から細い道を東へ400mほど行くと、府道47号線に出る。この交差点がみろくの辻である。この辻の南の露出した岩肌に「みろくの辻の弥勒仏」が彫られている。 二重光背型の深い彫り窪みをつくり、その表面を平らにして磨き如来立像を線刻したものである。像はやや右下を見下ろすように斜めを向き、右手を与願印、施無印とする。宇陀市の室生区にある大野寺弥勒磨崖仏と同じ姿で、大野寺弥勒磨崖仏と同じく元弘の変(1331年)で消失した笠置寺の大弥勒仏の模刻である。像の脇に「文永十一年(1274)」の紀年や偈や願主名などと共に「大工末行」と石工名も刻まれている。「笑い仏」と同じく伊末行の作である。 |
南山城の石仏(8) 岩船寺三体地蔵磨崖仏 |
京都府木津川市加茂町岩船 「鎌倉時代後期」 |
中尊 |
左脇侍 |
右脇侍 |
「みろくの辻磨崖仏」の府道を隔てた向かいに細い山道がある。この山道を進むと岩船寺に出られる。その山道を200mほど行った右手の高い岩壁に、三体地蔵磨崖仏が彫られている。 四角形の彫り窪みをつくり、像高90㎝程の三体の地蔵を半肉彫りしたもので、三尊とも右手に短い錫杖を斜めに持ち、左手で宝珠を胸の前で持った地蔵立像で中尊は少し大きい。三体とも穏やかな顔の優れた容姿の地蔵菩薩である。 |
令和5年7月14日 近くの水田地帯にて |
コチドリ |
この水田地帯では水の張った休耕田がいくつかあるのですがここ数日あまり雨が降らず、水が少なくなった休耕田がいくつか見られるようになりました。その水が少なくなった休耕田にコチドリが2羽いました。 |
令和5年7月13日 隣町にて |
コシアカツバメ |
隣町のコシアカツバメがです。 |
令和5年7月12日 宮崎の田の神(12)(13) |
都城の田の神2 |
平成18年1月1日、都城市は、山之口町、高城町、山田町、高崎町の4町を合併し、新しい都城市となった。合併した4町にも多数の田の神像が見られる。特に高崎町には江戸時代の神官型の田の神が多い。その中で特に優れた田の神は谷川の田の神である。80㎝を越える大型の腰掛け型の田の神像で、小林市の新田場の田の神とともに宮崎の神官型の代表といえるものである。 高城町も神官型の田の神が多い。その中でも、保存状態がよく、見事な彩色がほどこされた田の神が、桜木町横手の田の神である。また、高城町には、都城の乙房神社の田の神と同じ様式の農民型の田の神や大黒天型の田の神も見られる。 山田町には農民型と神官型をあわせたような独自の田の神像が見られ、興味深い。大黒天型の浜之段の田の神とともに古江の田の神など農民神官融合型の田の神をこのページでは取り上げた。 |
宮崎の田の神 (12) 谷川の田の神 |
宮崎県都城市高崎町前田谷川 「享保9年(1724)」 |
JR吉都線「日向前田」駅、北東700m、外達神社と言う小さな神社の入口付近に道路に面した小さな堂に安置されている。 黒質の緻密な岩肌の滑らかな石像である。像高85㎝の衣冠束帯姿の腰掛け型で、新田場の田の神と同じように、右手は軽く握っていて孔をつくっている。左も同じような形だと思われるが、手首から先は欠けてしまっている。切れ長の目と筋の通った鼻(鼻先がかけているのが惜しい)、引き締まった口など端正な顔である。束帯姿の衣服の表現も、両側に振り広げた袖口など写実的で、新田場の田の神と共に、宮崎の田の神を代表する像である。像の背部に「享保九年甲辰 奉建立 助成 高崎中 三月吉日 河野長元坊」の刻銘がある。 |
宮崎の田の神 (13) 田平の田の神 |
宮崎県都城市高崎町大牟田田平 「年代不明」 |
国道221号線から北東へ80m田平の集落の入口付近の山林の中腹の、水田がよく見渡せる高い所に田平の田の神は祀られている。 柔和に笑っている顔が印象的な田の神である。腰のあたりまで届く長いシキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持った農民型の田の神である。膝よりしたの足を欠損しているためよくわからないが、膝を立てて座っている様に見える。宮崎県の農民型の田の神を代表する像の一つである。 「毎年六月の田植終了時は苗が供えられ、秋に祈念祭を行う」と高崎町史に書かれていたが、最近あまり手入れがされていないようで、元旦に訪れたにもかかわらず、御幣やしめ飾りは痛んでぼろぼろになっていて、顔にも苔ががはえ、痛ましい姿になっていた。 |
令和5年7月11日 宮崎の田の神(9)~(11) |
宮崎の田の神(9) 川東墓地の田の神 |
宮崎県都城市下川東4丁目1-1 |
川東墓地の田の神Ⅰ 「天明2年(1782)」 |
川東墓地の田の神Ⅱ 「年代不明」 |
都城市街地の北のはずれ市営川東墓地の北の端に、田の神像が8体ほど集められている。多くは破損や摩滅がひどく、稚拙な補修されているものもある。その中でほぼ完全な形に残っているのが、「天明二年」の紀年を持つ農民型の田の神と安座する神官型の田の神である。 農民型の田の神は、シキを麦藁帽子のようにかぶり、右手にメシゲ、左にスリコギ(杵?)を持つ立像である。顔の表情等は加治屋大明神の田の神とよく似ている。背面に「天明二壬寅四月 奉寄進御□」の記銘がある。1782年、江戸中期の作。スリコギ(杵?)を持つ像は都城では珍しいが、えびの市や鹿児島県ではよく見かける。 神官型の田の神は、両手で笏を持ち、安座する。小さな目の親しみやすい顔の田の神像である。谷川の田の神や新田場の田の神の田の神のような威厳はないが、いかにも庶民の神らしい田の神像である。 |
宮崎の田の神(10) 上東町の田の神 |
宮崎県都城市上東町15 「昭和期」 |
都城の市街地、都城総合運動公園の南の上東町の児童公園内に、馬頭観音とともに大黒天と農民型の融合型の田の神がまつられている。大黒頭巾をかぶり、ふくよかな耳で、口を開けて笑う姿は確かに大黒天である。しかし、打ち出の小槌と大きな金嚢(袋)のかわりに、メシゲを持ち、稲穂を背負っている。台座の側面に「學竹留吉彫刻」と制作者、背面に像立年を刻むが、年の所が欠けている。彫刻という言葉から近現代の作であることがわかる。 大黒天は音韻や容姿の類似から大国主命と重ねて受け入れられるとともに、農村では豊作の神として信仰を深めていく、そのため田の神信仰は西日本では大黒天と結びついていった。農民大黒天融合型の田の神は宮崎県では他に、野尻町や高城町・鹿児島県霧島市国分などにみられる。 農民大黒天融合型の田の神は野尻町東吉村に天保年間の像があるが、多くは明治以降の像が多い、この像も昭和期の作と思われる。 |
宮崎の田の神(11) 西生寺の田の神 |
都城市梅北町西生寺 「年代不明」 |
都城市の南部、鹿児島県との県境近い、梅北町西生寺の納骨堂前に農民型の田の神像がある。シキを被り、右足を踏み出し、中腰になって体を前に傾け、右手に椀、左手にシャモジを持ち、袖をひるがえして田の舞を踊る姿を表す秀作である。都城の農民型の田の神の多くは田の神舞を踊る姿を表していると思われるが、ほとんどは棒立ちの姿で表していて、このような動きのあるのは宮崎県では、小林市の松元上の田の神、えびの市の下浦の田の神と高原町の梅ヶ久保の田の神ぐらいて、他には見あたらない。顔は摩滅が激しく、目鼻立ちがさだかではないのが残念である。おそらく、鹿児島県から持ってこられたか、鹿児島の石工が彫ったものであろう。 |
令和5年7月10日 南山城の石仏(4)(5) |
南山城の石仏(4) 唐臼の壺阿弥陀・地蔵磨崖仏 |
京都府木津川市加茂町東小上内山 「康永2年(1343) 南北朝時代」 |
阿弥陀磨崖仏 |
地蔵磨崖仏 |
藪の中地蔵から岩船寺方面に府道を進むと、府道から分かれて「笑い仏」「岩船不動磨崖仏」などを巡って岩船寺へ行くハイキングコースがある。その道を400mほど進と「カラスの壺」と呼ぶ三差路の辻があり、そこに「唐臼(からす)の壺磨崖仏」がある 辻に面した小さな田んぼに巨岩が突き出ていて、その岩の真ん中に船型の彫りしずめをつくり、像高69㎝の阿弥陀座像を半肉彫りしたもので、左側の岩肌にも地蔵菩薩が刻まれている。両像とも衣紋や顔は誇張したく表現で共に康永二年(1343)の紀年銘を持ち南北朝時代の作である。阿弥陀像の右横には火袋を彫り込んだ線刻の灯籠が刻まれている。 |
南山城の石仏(5) さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏) |
〒京都府木津川市加茂町岩船三大 「永仁7年(1299) 鎌倉後期」 |
大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を持つ観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。 |
令和5年7月9日 宮崎の田の神(7)(8) |
宮崎の田の神(7) 乙房神社の田の神 |
宮崎県都城市乙房町馬場 文政九年(1826) |
宮崎では神官型の田の神が多いが、鹿児島のようにメシゲや椀、スリコギなどを持った田の神像も鹿児島県と接する都城市やえびの市・高原町にはかなりの数、見られる。鹿児島の田の神舞神職型やメシゲ持ち僧型の影響で造立されたものと思われるが、服装は僧衣や納衣、袴をはいた像は少なく、農夫のような姿が多い。「宮崎の田の神像」(鉱脈社)の著者、青山幹雄氏はこれらの田の神を農民型と分類されている。 宮崎の農民型田の神像を代表する一つが乙房神社の田の神である。JR吉都線「日向庄内」駅の北、乙房保育園の向かいの小さな神社(乙房神社)の社殿横に祀られている。体の四分の一を占める、丹念に彫られた縄目が目立つ、大きなシキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持つ農民型の田の神である。高さは70cm。左頬の一部がかけているのが目立つほどで、保存状態はよい。メシゲは柄が細く、メシゲと言うよりはお玉杓子か団扇のように見える。椀は真上から見た姿を真正面に彫りつけていて、見た目にはボールを持ったように見える。大きな鼻とにっこり笑った顔が魅力的である。赤い彩色跡が残る。「文政九丙応庚 戌十月廿二日」の刻銘がある。1826年、江戸時代後期の作。 |
宮崎の田の神(8) 加治屋の田の神 |
宮崎県都城市南横市町2056 「安永年間(1772~1780)」 |
南横市町加治屋の加治屋大明神の社殿横に祀られている。コンクリートの台座の上に置かれているが、下半身がコンクリートに埋められているため、持ち物等はわからない。優しそうな目とピンク色に塗られた頬紅と口紅かマッチし、正倉院の鳥毛立女屏風の天平美人を彷彿させる。下半身をコンクリートに埋没しているのが残念であるが、豊壌の神にふさわしい田の神である。 背面に記銘があるがコンクリートに埋められたため「奉」の文字しか確認できなかった。「都城市史」にはこの田の神について「安永□□」の銘文があると記されている。この田の神とよく似た表現の田の神が川東墓地にあり、その田の神には「天明二年(1782)」の紀年銘があるので、安永年間(1772~1780)に作られたものであろう。 |
令和5年7月8日 近くの水田地帯にて |
コチドリ |
この水田地帯では水の張った休耕田がいくつかあり、毎年8月から9月にかけてさまざまなチドリ・シギが見られます。ただ、7月はじめはコチドリ・ケリ・イソシギぐらいしか見られません。今年はそれらも見られなかったのですが、今日ようやくコチドリを撮影できました。 |
令和5年7月7日 南山城の石仏(1)(2) |
南山城の石仏 |
京都府の南部、木津川に沿った木津川市加茂町・相楽郡笠置町・和束町は石仏の宝庫である。特に、浄瑠璃寺・岩船寺と浄土信仰の霊地として栄えた加茂町当尾(とおのお)地区は国宝や重文の仏教美術品とともに鎌倉時代の優れた磨崖仏・石仏が多くあり、石仏の里として知られている。 また、奈良時代創建の笠置寺は本尊が巨大な弥勒磨崖仏で弥勒信仰の聖地であり修験道の行場である。この弥勒磨崖仏は元弘の変〔1331〕の兵火に焼かれて現在はその姿はとどめていないが、線刻の磨崖仏としては、傑作といわれる虚空蔵石磨崖仏など多くの石造美術品がある。 |
南山城の石仏(1) 大門仏谷磨崖仏 |
京都府木津川市加茂町南大門芋谷5 「平安後期」 |
他の当尾石仏群から一体だけ離れているため、訪れる人も少なく、「笑い仏」とくらべるとあまり知られていない。 しかし、当尾石仏中、最古最大の磨崖仏であり、堂々たる体躯や幅のある丸い厳しい顔の表情など、近畿地方を代表する磨崖仏の一つである。 二重光背形を浅く彫り、 その中をさらに彫りくぼめて、裳懸座に座る如来形を半肉彫りしている。 手の部分の一部が不明瞭で印相がわからず、 像名は阿弥陀・釈迦・弥勒など諸説がある。造立年代については奈良時代後期・鎌倉時代など諸説があるが、幅広い丸顔や豊満な仏身の表現から平安後期造立説が有力である。 |
南山城の石仏(2) 東小会所阿弥陀石仏 |
京都府木津川市加茂町東小上高庭49 「弘長2(1262)年 鎌倉時代」 |
浄瑠璃寺の東方、藪の中地蔵から北へ少し入った東小高庭の集落にある会所の前の広場にこの石仏が安置されている。長方形の石の表面に彫りしずめを作り、その中に定印の阿弥陀座像を半肉彫りにしている。 洗練された技法の「笑い仏」に較べると顔はやや硬い表現となっているが、 それだけ厳しく引き締まり、石の硬質感をうまく生かしていて、魅力的である。近くの藪の中磨崖仏と顔や衣紋の表現がよく似ており、同作者の彫刻と考えられる。首が深くくびれて切れているように見えるためか「首切り地蔵」と呼ばれている。(刑場跡にあったためという説もある。) 舟形内の像の横に「弘長2年(1262)‥‥」の銘があり、当尾の在銘石仏としてはもっとも古い。石材の上に低い突起があるのでもとは笠をのせたことがわかる。 |
南山城の石仏(3) 藪の中三尊磨崖仏 |
京都府木津川市加茂町東小上 「弘長2年(1262)」 |
東小高庭の集落の南、府道を隔てた樹林の中に「藪の中地蔵」または「やぶの地蔵」と呼ばれる磨崖仏がある。露出する二つの岩面にそれぞれ船型の彫り窪みをつくり、向かって左から阿弥陀・地蔵・十一面観音の各像を厚肉彫りしたものである。中尊の地蔵菩薩は像高153㎝で、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ引き締まったおおらかな面相の重厚感のある秀作である。 右の岩に彫られた像高111㎝の定印阿弥陀座像は東小会所阿弥陀石仏によく似た硬い表現の磨崖仏である。像高113㎝の十一面観音は右手に錫杖を持つ長谷寺型の観音像で穏やかな女性的な顔である。「弘長二年」の紀年銘や願主とともに「大工橘安繩 小工平貞末」と石工名の刻銘があり、尾の在銘石仏としては東小会所阿弥陀石仏とともにもっとも古い。 |
令和5年7月6日 宮崎の田の神(5)(6) |
宮崎の田の神(5) 上水流町・下水流町の田の神 |
上水流の田の神 「宝暦元(1752)年」 |
宮崎県都城市上水流町 |
下水流の田の神 「年代不明」 |
宮崎県都城市下水流町 |
大淀川を隔てた高木町の北が、上水流町である。志和池小学校の西が上水流町で、その集落の南の用水路脇に、神官型の田の神がある。太い眉とつり上げた目の特異な顔をした田の神像でる。背面に「宝暦元壬申十二月 田神宮」の記名があり、1752年、江戸時代中期の作であることがわかる。 上水流町の北が下水流町である。下水流町の東には水田が広がっている。その水田地帯の上水流町近くの三叉路に、農民型の田の神が下水流町耕地整理記念碑の横に祀られている。シキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持ち、ワラヅトの代わりに風呂敷のような物を背負っている。西高木の田の神と同じく袴をはく。鼻が欠け後世の補作になっているのが惜しい。 |
宮崎の田の神(6) 横市町の田の神 | ||
宮崎県都城市横市町 「天明2年(1782)」 | ||
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令和5年7月5日 宮崎の田の神(3)(4) |
宮崎の田の神(3) 丸谷町の田の神 |
宮崎県都城市丸谷町 |
丸谷大年神社の田の神 「年代不明」 |
中大五郎の田の神 「文政元(1818)年」 |
JR吉都線「万ヶ塚」駅の西一帯が都城市丸谷町である。丸谷町には「都城市史」には9体の田の神が記されている。その内3体が農民型(田の神舞型)で残りが神官型である。丸谷大年神社と中大五郎共同墓地及び下大五郎庚神神社にあり、3体とも像高50cm以下の小像である。その内、下大五郎庚申神社の田の神は顔が大きく破損されている。 丸谷大年神社の田の神と中大五郎の田の神はともにシキをかぶり、メシゲを両手で胸の前で持つ農民型(田の神舞型)の田の神である。丸谷大年神社の田の神は、直立した像にかかわらず、風になびくかのように彫られたボリュームある衣が像に動きをつけ、大きなメシゲを持って踊っている巫女のような雰囲気がある。背中に大きなワラヅトを背負う。記銘はなく制作年代はわからない。 中大五郎の田の神は共同墓地下の地蔵堂の横にある。北に面しているため、顔の表情はわかりにくいが、かがみ込んむようにメシゲを持つこの像は、アフリカ彫刻を思わせるプリミティブな表現の田の神像である。顔に彩色の跡が残る。向かって左側面に「文政元戊寅王」などの文字が刻まれていて、江戸時代後期(文政元年は西暦1818年)の作であることがわかる。 |
宮崎の田の神(4) 高木町の田の神 |
都城市高木町西高木 |
西高木の田の神Ⅰ 「嘉永4(1854)年」 |
西高木の田の神Ⅱ 「年代不明」 |
都城ICの北一帯が都城市高木町である。高木町は環濠集落で壕に沿って車がやっと1台通れる細い外周道路がある。その外周道路沿いに5体の田の神像を確認することができた。その中でも西高木の公園の片隅にある農民型の田の神が優れている。頭をかしげて、右手にメシゲ、左手に碗を持つを持つ田の神で、かぶっているシキが顔より大きい。碗は真上から見た姿を真正面に彫りつけ、見た目にはボールを持った形になっている。幕末の「嘉永四年(1854)」の記銘がある。 西高木の北東端の外周道路の側で水田を向いている2体の田の神の一体も農民型の田の神で右手にスリコギ、左手にメシゲを持つ。他の3体は安座する神官型の田の神で摩滅が進んでいる。 |
令和5年7月4日 宮崎の田の神(1)(2) |
宮崎の田の神 |
手に飯げ(めしげ)〔しゃもじ〕や椀、スリコギを持ち、甑簀(こしきす)〔シキ、餅米などを蒸すときに間に引く藁製の編み物〕を頭にかぶった、「田の神(カンorカア)様(サァorサマ)」、「田の神殿(ドン)」と呼ばれる田の神像は鹿児島を代表する石造物として、石仏関係の本や石仏写真集などにとりあげられている。 その田の神像は宮崎県の南部にも見られる。えびの市・小林市・都城市・諸県郡など県南部は旧薩摩藩領であり、鹿児島県と同じように、田畑のあぜ道や村のはずれによく見られる。また、まわり田の神として屋敷内で保管している例も多い。 田の神石像の魅力は、儀軌に則りつくられた、地蔵や観音などの石仏と違って、自由に勝手気ままに彫られていることである。 よく知られた農民型だけでなく、神官型、仏僧型、大黒天型など様々あり、農民型の持ち物にしてもメシゲ、鍬、スリコギ、椀、握り飯など様々であり、俵を背負ったものもある。 自由な表現といっても、地域的な特色は見られる。宮崎県の田の神は、鹿児島のようなメシゲを持つ農民型も見られるが、神官が正装して神前に座る姿で表した神官型や、僧衣を着た仏僧型が多いのが特色である。神官型は宮崎から始まったと言われている。 田の神は、現在も、豊作をもたらす作神として、農民の生活と結びついた神として、信仰されている。私は1月に数回、宮崎県の田の神を訪れたが、ほとんどか鮮やかに彩色され、花やお酒が供えられていた。 |
都城の田の神1 |
人口約17万人の都城市は旧薩摩藩である西諸・北諸・東諸の諸県地方の中心都市としても栄えている。都城市は鹿児島県と接し、えびの市とともに田の神像が多くあり平成の大合併以前の都城市で80体(都城市史参照)を越える。宮崎県ではえびの市とともに農民型の田の神が多い地域でもある。 えびの市の田の神は詳しく調査され、報告書やガイドブックもつくられ、全国的に知られるようになり、梅木の田の神や末永の田の神は多くのHPで取り上げられている。しかし、あまり知られていないが、農民型の田の神はえびの市よりも都城市の田の神像の方が総じて秀作が多く、見応えがある。制作年代もえびの市の田の神は末永の田の神をはじめ、明治以降の田の神が多いのに対して、江戸時代の田の神が多いのが特徴である。 乙房神社の田の神や西生寺の田の神などは、鹿児島の農民型の田の神と比べても遜色のない秀作である。神官型では岩満町巣立の田の神が保存状態もよく優れている。 田の神像の分類方法はさまざまあるが、このページは青山幹雄氏の分類に従った。 |
宮崎の田の神(1) 岩満町の田の神 |
宮崎県都城市岩満町 |
岩満町巣立の田の神 「年代不明」 |
岩満町公民館の田の神 「年代不明」 |
都城市岩満町は合併前の都城市の一番北の端で、旧高崎町(都城市高崎町)と接している。岩満町には「都城市史」には3体の田の神が記されている。3体とも神官型である。その内の一体は岩満公民館の庭にある。この田の神は風化がひどく、頭は丸坊主になっていてコンクリートで胴体とつなげられている。像高は約45㎝である。岩満町の田の神の由来などが「都城市史」に詳しくかかれていて、現在の田の神は大正時代に近くの村からオットイ(盗むこと)してきたものであるという。 「都城市史」には、岩満の田の神は、「田の神田」と山林を財産として所有していて、そこからの益金で村人たちがタノカン祭りの費用を賄ったことや、相互の融資事業をおこなったことなどが詳しく書かれている。 岩満公民館から南へすすみ木之川内川を渡ると岩満町巣立である。その岩満町巣立の北の端、木之川内川近くの民家の前に立派な神官型田の神がある。像高75㎝で旧都城市の神官型の田の神では最も優れた田の神像である。 正面から見た顔は、小林市新田場の田の神や高崎町谷川のような端正ではなく、下ぶくれでやや野暮ったい感じである。しかし、横顔は引き締まっていて、力強く迫力がある。 小林市新田場の田の神や高崎町谷川の田の神に代表される宮崎県の神官型の田の神の秀作の多くは腰掛け型であるが、この田の神は安座している。しかし、小林市新田場の田の神や高崎町谷川の田の神と同じように、両手輪組ではなく、左右の手に笏などを持たせるようにしていて、古い様式を残す。 |
宮崎の田の神(2) 関之尾町の田の神 |
宮崎県都城市関之尾町7059 |
関之尾の滝で知られる関之尾町には神官型の田の神はなく、「都城市史」には農民型(田の舞型)3体と僧型2体が記されている。ここで取り上げた田の神は僧型で関之尾の自治公民館の庭に祀られている。 舟形の石の中央に大きなメシゲを胸の前でも持つ僧衣をきた田の神を半肉彫りにしたもので、蓮華座の上に立つ。メシゲは顔よりも大きく抱えるように持っている。このような田の神は鹿児島県の日置郡によく見られるもので、宮崎県では珍しい。光背風の舟形の石材や僧衣、蓮華座など地蔵をモデルにしたものと思われる。錫杖をメシゲに替えたため、大きなメシゲなったのではないか。 鹿児島県では入佐の田の神(松元町)や笠ヶ野の田の神が同じ様式である。関之尾の田の神とこれらの田の神との違いは、メシゲを右斜めに抱えることとメシゲが非常に大きいことである。(鹿児島の田の神は左斜めに持ち、先端の楕円形部分がほほ゛顔と同じ大きさ)。 |
令和5年7月3日 福島の磨崖仏(22)~(24) |
福島の磨崖仏(22) 四十坦(しじゅうだん)の磨崖仏 |
福島県須賀川市舘ヶ岡四十坦 「宝永4(1707)年 江戸時代」 |
如意輪観音・阿弥陀如来・如意輪観音・地蔵座像・如意輪観音 |
如意輪観音・阿弥陀如来・如意輪観音 |
地蔵座像・如意輪観音 |
如意輪観音・胎蔵界大日如来 |
舘ヶ岡の集落の北に南北に細長い丘陵が続いていて、丘陵の西の部分は現在ゴルフ場になっている。舘ヶ岡集落に近い丘陵の麓に古い墓地があり、その上の細長い岩に細長い龕を穿ち、そこに横一線に並んだ像高80㎝ほどの仏像7体を半肉彫りする。(同じ岩の別の方龕にも1体彫られているが剥落している。)左端の3体は阿弥陀如来と阿弥陀の脇侍のように膝を立て半跏像の如意輪観音である。その右に地蔵座像・如意輪観音と少し離れて如意輪観音・胎蔵界大日如来が並ぶ。 風化しやすい凝灰岩の岩のため風化や摩滅が進んでいるが、如意輪観音が4体も彫られているのは珍しい。両手で宝珠を持った地蔵の脇に「宝永丁亥 十月吉日 安田□□」(宝永丁亥は宝永4年に当たる)の刻銘があると言うが確認できなかった。この磨崖仏のある墓地は舘ヶ岡の領主、須田氏の子孫の安田家のものと言われている。 |
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福島の磨崖仏(23) 羽黒山磨崖十三仏 |
福島県岩瀬郡天栄村大里羽黒山3 「元禄11(1698)年 江戸時代」 |
普賢菩薩・文殊菩薩・釈迦如来・不動明王 |
虚空像菩薩・大日如来・阿しゅく如来・阿弥陀如来・勢至菩薩・観音菩薩・薬師如来・弥勒菩薩・地蔵菩薩 |
虚空像菩薩・大日如来・阿しゅく如来・阿弥陀如来 |
不動明王 |
弥勒菩薩 |
虚空像菩薩 |
羽黒山の西麓の小さな墓地の上段に安山岩の大きな岩が露出している。その岩壁に幅250㎝、高さ70㎝の細長い龕を設けて、龕いっぱいに並立に十三仏を厚肉彫りする。向かって右から、不動・釈迦・文殊・普賢・地蔵・弥勒・薬師・観音・勢至・阿弥陀・阿しゅく・大日・虚空蔵の仏像である。元禄十一年七月「高山寺」「大方寺」の合同供養として像立された旨の刻銘がある。4頭身で如来や菩薩像は整った顔で、個性的で魅力的な磨崖仏である。 |
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福島の磨崖仏(24) 上新城阿弥陀三尊磨崖仏 |
福島県白河市大信上新城大久保 「元禄15(1702)年 江戸時代」 |
旧大信村の上新城の集落の北西の山麓にある上新城墓地の上段に彫られた善光寺式阿弥陀三尊の磨崖仏である。 露出した岩に75㎝四方、深さ35の仏龕を彫り窪め、龕内に舟形光背を浮き彫りにして、頭光を背負った施無畏与願印の阿弥陀立像(像高60㎝)と同じく頭光を背負った宝珠を持つ観音・勢至の両脇侍(共に像高55㎝) を厚肉彫りしたものである。元禄十五年(1702)の紀年銘を持つ。 同じ元禄期の作の羽黒山十三仏と比べると趣が違う。羽黒山十三仏は4頭身の地方作独特の迫力ある造形なのに対して、この像は中央の木彫仏を思わせる破綻のない端正な造形である。 |
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令和5年7月2日 隣町にて |
コシアカツバメ・ツバメ |
隣町のコシアカツバメの集団営巣地近くの電線に数羽のコシアカツバメがとまっていました。 |
ツバメもいました。 |
令和5年7月1日 福島の磨崖仏(19)~(21) | |||
福島の磨崖仏(19) 房又如意輪観音磨崖仏 | |||
福島県伊達郡川俣町小島字房又 「江戸時代」 | |||
月舘から川俣町へ向かう途中の鳴石トンネルの手前、広瀬川を渡った細い農道脇の大きな露頭石に彫られた磨崖仏である。舟形の彫り窪みをつくり、そこに二重頭光を背負った、二臂の半跏思惟の如意輪観音を半肉彫りしたものである。福島県では十九夜塔として多数の如意輪観音石仏が像立されたが、単独の如意輪観音磨崖仏は珍しい(三十三所観音磨崖仏としては多数見られる)。 | |||
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福島の磨崖仏(20) 岩上渕大日如来磨崖仏 | |||
福島県伊達郡川俣町寺前 「室町時代~江戸時代」 | |||
川俣町の市街地の北、広瀬川沿いの丘陵地の麓の通称岩上渕(がんじょうえん)と呼ばれる場所の駒形をした露頭石に彫られた磨崖仏である。上の角を丸くした四角形の彫り窪みをつくり、蓮台を含めて像高1mの智拳印を結ぶ金剛界大日如来座像を半肉彫りしたもので、像立時期については室町初期説と江戸時代説がある。仏頭の鼻から口にかけて剥落している。彫り込みの上に大日如来と刻まれている。 | |||
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福島の磨崖仏(21) 銚子の口不動磨崖仏 | |||
福島県二本松市下川崎前原 「江戸時代 明和元(1764)年」 | |||
阿武隈川飯野ダム堰堤公園から 阿武隈川沿いの道を南へ約1㎞の所、木幡川が阿武隈川に合流する「銚子の口」と呼ばれる所の道路の下の崖の花崗岩の岩に刻まれた磨崖仏である。舟形状に彫り窪みをつくり、左手に宝剣を右手に羂索を持ち頭に蓮華をのせた不動明王立像を半肉彫りする。眉毛をつり上げ両眼を見開いた憤怒相であるが表情はあまり迫力はなく、相撲取りのような風情の不動明王である。向かって右に「明和元申天」の刻銘がある。 | |||
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