京都の石仏W
嵯峨野 
 
 このページは東山エリアの丸太町通より南の地域の石仏を紹介する。京都博物館の地蔵石仏・阿弥陀三尊石仏を除いてすべて鎌倉時代の如来石仏である。光背には十一個の月輪が彫られた叡山型の聞名寺阿弥陀石仏や慈芳院薬師石仏・安養寺阿弥陀石仏・安養寺前阿弥陀石仏など花崗岩製の丸彫りに近い厚肉彫りの石仏など重厚さを残したバランスのとれた石仏である。軟質の花崗岩白川石に彫られているため風化か進んでいて面相はわからないものが多いが端正な優しい顔の面影が残る。



                                               
京都の石仏(29) 愛宕念仏寺の石仏
京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5 
 嵯峨野の念仏寺としては化野念仏寺が知られているが、もう一つ念仏寺がある。愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)がそれである。8世紀中頃、稱徳天皇により京都・東山、今の六波羅蜜寺近くに愛宕寺として創建されたのがはじまりである。平安時代、醍醐天皇の命により、千観内供(伝燈大法師)が復興し、千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺と改め、天台宗の寺院となった。

 その後は興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなっていた。1922年堂宇の保存のために現在地に移築され、嵯峨の愛宕念仏寺として 再興された。戦時中に無住寺となり、1950年の台風災害により境内・堂宇・仏像 等が多大な被害を受けたことで廃寺となっていたが、1955年に天台宗本山から住職を命じられた仏師の西村公朝氏によって現在の姿に復興された。
 
西村公朝作の仏像と石仏 「現代」
 西村公朝氏(1915-2003)は東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒業し、三十三間堂の十一面千手千体観音像をはじめとして、千数百体におよぶ仏像修理にたずさわり、仏像彫刻家としても活躍、“現代の円空”といわれた。元、美術院国宝修理所所長、東京芸大教授。『仏像の再発見』『やさしい仏像の見方』なとの一般向けの仏像解説書の著書でもある。

 西村公朝氏は住職に就任後、仁王門の解体復元修理をはじめ、境内全域の本格的な復興事業をすすめ、本尊の千手観音を修復するとともに、様々な仏像を制作し、境内に祀るとともに、人々に羅漢の制作を呼びかけて 境内を羅漢の石像で充満させ、現在の姿に復興された。
ふれあい観音
 
風神
 
雷神
 
釈迦石仏
 
釈迦誕生仏
 
十大弟子【迦旃延(かせんねん)】
 
十大弟子【須菩提(しゅぼだい)】
 
十大弟子【富楼那(ふるな)】
 
十大弟子【優波離(うぱり)】
 
十大弟子【目けん連(もっけんれん)】
 
 境内のふれあい観音堂には西村公朝氏の彫った目の不自由な人が触ってもよい仏像、「ふれあい観音」が安置されている。西村公朝氏は石仏も制作し、仁王門を入ってすぐの羅漢堂前には風神・雷神像が安置されている。“現代の円空”にふさわしいユニークな像である。本堂横の一段高い場所に「多宝塔」があり、大勢の羅漢達に囲まれて説法をする姿の「釈迦石仏」が安置されいる。この像も西村公朝氏の制作で、四頭身のかわいい姿の釈迦如来である。

 羅漢堂の隣に素人の参拝者が自ら彫って奉納した羅漢が多く並べられている場所があり、並べられた羅漢からすこし離れた場所に釈迦誕生仏を中心に十大弟子の石像が並んでいる。これらの像は明らかに手慣れた人が彫ったと見える石仏・石像であるが、大分の羅漢寺や三重県の竹成大日堂五百羅漢のいかにも専門の石工が彫った十大弟子とは趣が違う。「ふれあい観音」や「釈迦石仏」と同じ四頭身で、それそれ個性豊かな魅力的な顔の石仏・石像で、これらも西村公朝氏の作と思える。
 
千二百羅漢 「現代」
 西村公朝氏は昭和56年、寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願して、素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』がはじめられ、10年後の平成3年に「千二百羅漢落慶法要」かなされた。

 1200体の羅漢は玄人はだしの写実的な表情の羅漢もみらけるが、いかにも素人が彫ったと見える素朴でユニークな羅漢が多く、それぞれの作者の願いや思いが溢れたものになっている。酒を酌み交わす羅漢(石像五百羅漢ではよく見かけるものであるが、この像は実に楽しそうである)・夏目漱石の本を持つ羅漢・猫を抱かえた羅漢など、興味が尽きない。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口よりタクシー2.7q、または南口より西へ0.5mの「野々宮」バス停より京都バスの「清滝」行き乗車「愛宕寺前」下車。

・「阪急嵐山駅前」から京都バス 清滝行き乗車「愛宕寺前」下車

・「京都駅前」より京都バス72系統、「三条京阪」・「四条河原町」より京都バス62系統、「清滝」行き乗車「愛宕寺前」下車。72系統・62系統とも一日1〜2本。



京都の石仏(30) 化野念仏寺門前の二尊石仏
京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17番地    「鎌倉時代」
釈迦石仏・阿弥陀石仏
釈迦石仏
阿弥陀石仏
 化野念仏寺は、約千百年前、弘法大師がこの地を訪れ野ざらしとなった遺骸を埋葬しとむらうため、五智山如来寺を開創されたのがはじまりと伝えられている。中世になり法然上人の常念仏道場となり、現在は華西山東漸院念仏寺と称す浄土宗寺院である。

 化野(あだしの)は古来より葬送の地で、境内に奉る多くの小石仏・石塔はあだし化野(あだしの)一帯に葬られた人々のお墓で、明治中期に地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀したものである。境内に集められた石仏は室町・江戸期のものがほとんどであるが、賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた石仏の群像は壮観で見応えがある。

 石仏自体として魅力あるのは門前参道に安置された鎌倉後期の阿弥陀・釈迦の二尊石仏である。ともに、花崗岩製で舟形光背を負い、蓮華座に坐す。像高は60p弱で右の阿弥陀像は定印を結び、左の釈迦像は施無畏与願印である。二尊石仏は穏やかな顔の整った像容の石仏で、衣紋なども写実的で、作風は酷似していて同一作者と思われる。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口よりタクシー2.2q、または南口より西へ0.5mの「野々宮」バス停より京都バスの「清滝」行き乗車「鳥居本」下車。

・「阪急嵐山駅前」から京都バス 清滝行き乗車「鳥居本」下車

・「京都駅前」より京都バス72系統、「三条京阪」・「四条河原町」より京都バス62系統、「清滝」行き乗車「鳥居本」下車。72系統・62系統とも一日1〜2本。



京都の石仏(31) 大沢の池石仏群
京都市右京区嵯峨大沢町    「鎌倉時代」
阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来・薬師如来
弥勒菩薩・阿弥陀如来・阿弥陀如来・大日如来・釈迦如来
薬師如来
釈迦如来
大日如来
阿弥陀如来
阿弥陀如来
弥勒菩薩
地蔵菩薩
 大沢池石仏群は大覚寺の東、日本最古の人工の林泉で庭湖とも呼ばれる大沢池のほとりの護摩堂の北の庭にある石仏群で、胎蔵界大日・薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒などの鎌倉時代の古仏が並んでいて京都を代表する石仏である。この石仏群の中心となるのは、大きな木の左にある薬師とその左に並ぶ釈迦・胎蔵界大日・阿弥陀・阿弥陀の各如来と少し離れた場所にある弥勒菩薩で、2つ目の阿弥陀を除く5体が胎蔵界五仏として作られたもの考えられる。これらの石仏は光背を刻出せず、大きな岩を背負っていて、おおらかな様式で迫力がある。

 大日如来の横の半円形の岩を背負った阿弥陀座像は上品上生の定印で顔は満月相で、平安後期の古い様式を残す。その左の阿弥陀はやや長細い三角の岩を背負った定印の座像である。向かって左側にある一体は蓮華を左に持った菩薩座像で弥勒菩薩と考えられる。 地蔵石仏はこれらの如来像の右に立っていて、同じ頃の作である。如来像と違って二重光背を背負っていて、右手は下げて与願印を結び、左手で宝珠を持つ古式像である。他の如来像と同じく、長年風雨にさらされ表面は風化して、細かい表情はわからないが、それがより石の持つ魅力を生かしていて、おおらかで力強い地蔵石仏である。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口より北へ徒歩1.2q、またタクシー

・「京都駅前」から市バス28系統 嵐山・大覚寺行き乗車「大覚寺」下車



京都の石仏(32) 清涼寺弥勒宝塔石仏
京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町   「鎌倉時代」
弥勒如来
多宝塔
 清涼寺弥勒宝塔石仏は山門を入った右手にある石仏で高さ2mこえる大きな船型の花崗岩に、上に天蓋を陽刻して、その下に蓮華座に坐す如来像を半肉彫りしたもので、別石の反花座の上に乗っている。右手を胸前にあげて施無畏印、左手は膝前におろして触地印と思われる印相である。裏側に宝塔とその中にいる釈迦・多宝の2体の如来が彫られているので、弥勒仏と考えられる。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅より北北西へ徒歩1q、またタクシー

・「京都駅前」から市バス28系統 嵐山・大覚寺行き乗車、または京都バスまたは71系統・81系統「大覚寺」行き73系統「清滝」行き乗車、「嵯峨釈迦堂前」下車




京都の石仏(33) 嵯峨の油掛地蔵
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺油掛町30   「延慶3年(1310)」
 嵯峨観空寺町の山間から大覚寺通って南へ流れ、桂川に合流する有栖川のほとりの辻堂に、嵯峨の油掛地蔵と呼ばれる有名な石仏がある。食用油を笏に汲み、石仏に振りかけて祈願するという奇習で昔から知られた石仏である。地蔵といわれているが実際は定印の阿弥陀座像である。

 高さ170p、幅84pの花崗岩の上部の隅を切り、像と蓮華座の周辺を彫り窪めて像高90pの阿弥陀像を半肉彫りしたものである。昭和51年、油が削り落とされ延慶3(1310)年の刻銘が発見された。
アクセス ・JR「嵯峨嵐山」駅北口より東へ徒歩0.6q



京都の石仏(34) 広沢池の千手観音石仏 
京都府京都市右京区嵯峨釣殿町28  「寛永18(1641) 江戸初期」
  観月の名所と知られていた広沢池は嵯峨野らしい風情を今も残し、観光客も少なくのどかな景観を見せている。その池中の観音島に江戸時代の千手観音石仏が静かに立っている。

 明治以降音羽山から移されたもので像高160pの丸彫りの頭上に十一面千手観音で、背面の銘から、蓮花寺五智如来石仏と同じく寛永18(1641)に樋口平太夫が願主となって坦称上人によって造立されたことがわかる。

 この石仏と同じ背面銘の石仏が平等寺・本圀寺で2体ずつ見つかっていて、蓮花寺五智如来石仏とともにこれらの5体の石仏が音羽山にあったことがうかがえる。
アクセス ・三条京阪、四条河原町より市バス59系統「山越中町」行き乗車、「広沢池・佛大広沢校前」下車、北へ100m。京都駅からは地下鉄烏丸線「今出川」で下車し、「 河原町今出川」で市バス59系統「山越中町」行き乗車。

・京都駅前より市バス26号系統「山越中町」 行きにて「山越」下車、西へ約900m。



京都の石仏(35) 蓮華寺の五智如来石仏 
京都府京都市右京区嵯峨釣殿町28  「寛永18(1641) 江戸初期」
五智如来
大日・宝生・薬師如来
薬師如来
宝生如来
大日如来
阿弥陀如来
釈迦如来
 真言宗御室派大本山の仁和寺の駐車場の隣に真言宗御室派別格本山五智山蓮華寺があり、境内には五智如来石仏をはじめ、多くの石仏が並んでいる。

蓮華寺は平安時代後期に創建され寺院で、その後、鳴滝音戸山に移され荒廃し、江戸時代初期、江戸の材木商樋口平太夫家次(入道して常信と名を改める)により、再興された寺院である。常信は蓮華寺復興に当たり、木喰僧・坦称上人に五智不動尊像の修理と五智如来石仏の彫刻を依頼。五智如来石仏は音戸山山頂に安置された。蓮華寺はその後、火災により焼亡、昭和9年、御室の地に移され現在に至っている。五智如来石仏は昭和33年(1958)に音戸山から運び、ここに安置された。

 五智如来石仏は座高1.2mの半丈六仏で、胎蔵界大日如来を中心に右より薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦と伝えられている。無光背の一石丸彫り像で、反花座八角基壇の上の蓮華の上に座している。風化も少なく、当初のノミの跡までうかがえる。
アクセス ・JR山陰線「花園」駅下車、北へ1.5q。

・京都駅前より市バス26系統、四条河原町・三条京阪より市バス11or59系統で「山越中町」 行きにて「御室仁和寺」下車。北東約300m。


  
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