京都の石仏(21) 聞名寺阿弥陀石仏 | ||
京都府京都市左京区東大路仁王門上る北門前町485 「鎌倉後期」 | ||
東山二条から東山仁王門にかけての北門前町には多くの寺が集まっている。その多くは浄土宗や日蓮宗の寺である。その中に時宗の寺院の聞名寺がある。光孝天皇ゆかりの寺で、一遍上人が再興して時宗道場とし、宝永5年(1708)の大火により、京極大炊御門からこの地に移された。 その聞名寺の本堂裏の墓地に鎌倉時代後期の阿弥陀石仏がある。墓地の入り口付近に多くの無縁仏が並べられていてその中央に、この阿弥陀石仏が祀られている。像高156pで、蓮華座の上に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、二重輪光背を背負う。光背には十一個の月輪があり、阿弥陀の種字「キーリク」を陽刻する。この様式は石像寺の阿弥陀石仏と同じで、鎌倉末期に石像寺像を手本にして造立されたものと思われる。 昔火災にあったようで、首が折れ、差し込むように頭部がはめこまれている。頭部は風化が少なく、穏やかな顔である。しかし、石像寺像のようなはりや緊張感は見られない。 |
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京都の石仏(22) 安養寺前の阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区粟田口山下町 「鎌倉時代」 | ||
「蹴上」(けあげ)という地名は、源義経が奥州藤原氏のおもむくおり、この地で馬にのる平家の侍9人がすれ違いざま、義経一行に溜まり水をかけた(馬が溜まり水を蹴り上げた)のがきっかけで乱闘になり平家方が悉く斬られたという伝説から起こっている。そのとき、殺された9人の武士の菩提をとむらって9体の石仏が彫られたという。 地下鉄東西線の「蹴上」駅を出て、南へ進むとすぐに「青竜山安養寺」の石標が立っていて、急な石段を上るとそこが、琵琶湖疎水の第3トンネルの出口で、昔の船溜場である。ここから南禅寺船溜までの間、船はインクライン(傾斜鉄道)に載せられていた。その船溜場の西に(安養寺の参道となっている橋の手前を左折)大日堂と呼ばれるお堂があり、そこに「義経大日」と呼ばれる阿弥陀石仏が祀られている。「義経大日」の縁起は、先に述べ伝説に由来する。 花崗岩製で高さ1.6mの舟形光背を背負い、蓮華座に結跏趺坐する像高90pの定印阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、鎌倉中期から後期の造立と考えられる。京都の花崗岩製の石仏は風化か進んでいて面相はわからないものが多いがこの石仏は保存状態よく、穏やかで引きしまった面相や衣紋がよく残っている。 |
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京都の石仏(23) 日ノ岡大日堂の薬師石仏 | ||
京都市山科区日ノ岡夷谷町 「鎌倉時代」 | ||
地下鉄東西線「蹴上」駅の南150mの府道143(旧国道1号)線脇にも、「大日堂」がある。大日堂内には多くの小石仏が集められ、中央に一際立派な石仏が坐している。高さ1.3mの舟形向背を背負い、蓮華座に結跏趺坐する像高90pの厚肉彫りの如来像である。右手は胸前にあげる施無畏印で、左手は、膝前におろし、中指と薬指を折り曲げた印になっている。この印は平安前期以前の薬師如来に見られる印で薬壺を持たない薬師如来像と考えられる。この像も、安養寺前の阿弥陀如来と同じころの作と思われる。 現在、京都ではこのように大日如来として信仰されている大日如来以外の如来石仏が多く見られる。この「京都の石仏」のページで紹介している「岩倉三面石仏」「北白川阿弥陀石仏」「行者の森釈迦石仏」「安養寺前阿弥陀石仏」「安養寺阿弥陀石仏」の各石仏も「大日さん」として信仰されている。 |
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京都の石仏(24) 安養寺阿弥陀石仏 | ||
京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624 「鎌倉時代」 | ||
しだれ桜や藤の花などの花が四季を彩る円山公園の東の山腹に慈円山安養寺がある。安養寺はもとは最澄の開基と伝えられる天台宗の別院で、室町時代に国阿上人によって時宗の寺として再興されて栄えた寺である。明治時代になって火災にあって衰退し、現在は阿弥陀如来をまつる本堂書院が残るのみである。 その本堂の前、参道の左にこの阿弥陀石仏が南面して安置されている。高さ1.5mの舟形光背を背負い、蓮華座に坐す、定印を結んで結跏趺坐する像高90pの阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。他の京都の多くの石仏と同じく花崗岩製である。他の石仏は軟質の花崗岩のため、摩滅風化がすすんでいるのが多いが、この像は風化がほとんどなく、ひたい際を深く刻んだ端正な顔や、写実的な衣紋表現など鎌倉期の石仏の様式がよくわかる秀作である。 |
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京都の石仏(25) 清水寺の阿弥陀石仏 | ||
京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624 「鎌倉時代」 | ||
観光客や修学旅行の学生でにぎわう清水寺の本堂奥に、奥の院ががある。ここから西へ下って清水の舞台を見ながら門前へ戻るのが一般の参観ルートになっている。この奥の院からは山腹を南に抜ける道もあり、200mほど行くと子安搭とよばれる小さな三重の搭がある。br> その子安搭への参道脇に数体の石仏がある。一番大きい僧侶姿の石仏は近年の作で、他は室町期の作と思われる。その中でも自然石風の光背を背負った像高80pの阿弥陀石仏が優れている。蓮華座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、伝統的な様式を伝える穏やかな表情の像である。 |
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京都の石仏(26) 六波羅蜜寺の阿弥陀石仏 | ||
京都府京都市東山区大和大路上ル東 「鎌倉時代」 | ||
六波羅蜜寺は民間における浄土教の先駆者、空也上人が天暦5年(951)に建てた寺である。西国第17番の札所で、空也上人像をはじめ藤原時代から鎌倉時代の仏像多く伝わり、巡礼者や観光客でにぎわっている。 本堂の南側にこの阿弥陀石仏が安置されいる。京都の石仏は光背を背負った厚肉彫りの像が多いが、この阿弥陀石仏は丸彫りである。高さ約2mの蓮華座上に結跏趺坐する定印の阿弥陀如来像である。穏やかな端正な顔で、螺髪を丁寧に刻む。納衣の衣紋は浅い彫りの簡略なつくりであるが、それが木彫仏にない石の存在感を活かした造形美となっている。 |
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京都の石仏(27) 慈芳院薬師石仏 | ||
京都府京都市東山区東山区慈芳院庵町 「鎌倉時代」 | ||
東山五条を少し南に下り西に入った町の中に慈芳院はある。慈芳院は、方広寺大仏殿建立に尽力した山中山城守長俊が慶長三(1598)年に妻の慈芳院の菩提を弔うため建立したという。 薬師石仏は本堂前の西側に覆堂を設けて安置されている。、高さ1.8m、舟形光背を背にして、蓮華座に坐した厚肉彫りの薬師如来像である。もと寺の付近にあったものを移したもの。右手は胸の前に上げた施無畏印で、左手は膝上において、薬指を折り、薬壺を持つ。 京都の他の石仏同じく花崗岩製で顔の風化がやや見られるが、端正な優しい顔の面影が残る。納衣の衣紋表現も的確で写実的で、京都の薬師石仏を代表する石仏である。鎌倉中期の作。 |
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京都の石仏(28) 京都国立博物館の石仏 | ||
京都府京都市東山区茶屋町527 | ||
京都国立博物館の中庭には鎌倉時代の十三重層搭2基をはじめとして多くの石像物が展示されている。安楽寿院の三尊石仏や革堂の大日如来石仏などが代表するものである。 | ||
大日如来石仏 「平安後期〜鎌倉時代」 | ||
大日如来石仏は革堂(こうどう)として知られる行願寺(京都市中京区)にあったものといわれていて、特別展示館の前の南側の十三重層搭のあるエリアに西面して置かれている。舟形の自然石風の光背を背負い、蓮華座に坐しだ法界定印を結ぶ、胎蔵界の大日如来を厚肉彫りしたものである。ひきしまった穏やかな面貌で、平安時代後期の作と説明書きがある。(清水俊明氏は鎌倉後期としている。) | ||
地蔵石仏 「鎌倉時代」 | ||
西の庭には二重蓮華座に坐し、二重円光背を背負った丸彫りに近い厚肉彫りの地蔵石仏が展示している。右手は錫杖を持ち、左手は膝の上に置き宝珠を持つ。奈良県の十輪院や七廻峠の地蔵石仏のような迫力はないが繊細な表現の石仏である。鎌倉後期の作。 | ||
安楽寿院の阿弥陀三尊石仏 「平安後期」 | ||
西の庭の西端には安楽寿院の三尊石仏が展示されている。平安時代の作である。詳しくは安楽寿院の三尊石仏を参照。 | ||
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