京都の石仏(13) 石像寺阿弥陀石仏 | ||
京都市上京区花車町503 「元仁元年(1224) 鎌倉時代」 | ||
石像寺は「釘抜き地蔵」と呼ばれ、現在も参拝者が絶えない、庶民の寺が千本通りに面した小さい門を入った家並みの中にある。 「釘抜き地蔵」の由来は、両手の痛みで苦しんだ商人が石像寺の地蔵に平癒を祈願し日参したところ、満願の日に夢に地蔵尊があらわれ、「前世に人をうらみ、人形の両手に八寸の釘を打って呪ったむくいである。釘を抜き取って救ってあげる。」と言い、目覚めた商人の手に釘が握られていたことによる。諸々の痛みを抜き取るとして信仰を集め、現在も釘と釘抜きを描いた絵馬が奉納されている。 その地蔵尊をまつる本堂の裏に石像寺阿弥陀三尊石仏がある。国の重要文化財で鎌倉中期の元仁元年(1224)の年号を持つ京都の石仏を代表する石仏の一つである。 中尊の阿弥陀如来は弥陀の梵字「キーリク」が11個、小円形に刻まれた、二重円光の光背を背負い、二重の蓮華座上に結跏趺坐する。穏やかな整った顔やよどみのない衣紋はみごとである。 脇侍の観音・勢至菩薩は別石で安置されていて、同じく小円相に観音の「サ」・勢至の「サク」の梵字の刻んだ二重円光の光背を背おっている。この阿弥陀三尊も多くの人が供える香華が絶えず、線香・蝋燭の煙で白い花崗岩の膚が茶色になっている。 |
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京都の石仏(14) 善導寺釈迦三尊石仏 | ||
京都市中京区東生洲町533-3 「弘安元年(1278) 鎌倉時代」 | ||
文殊菩薩・釈迦如来・弥勒如来 | ||
文殊菩薩 | ||
弥勒如来 | 京阪三条」駅、または地下鉄「京都市役所前」より、木屋町通りに出て、木屋町通りを北に上り、二条どおりに突き当たったところに、小さな竜宮門が見えてくる、その門をくぐると、終南山と号する浄土宗の寺、善導寺の本堂前に出る。 その本堂の前庭に国の重要美術品に指定されているこの釈迦三尊石仏がある。高さ90p、幅60p、厚さ20pほどの自然石(砂岩系?)に立像の三尊を半肉彫りする。中尊の釈迦如来は、像高68pで、施無畏与願印の立像で、衣紋はひだを平行的に細い陰刻線であらわす、インド風の流水文式の像で、三国伝来という清涼寺釈迦像の姿を模したものである。 右の脇侍の如来像も中尊とおなじ流水文式の衣紋である。左手は下げて甲をみせているところから弥勒如来とみられる。左の脇侍は五髻(ごけい)の文殊菩薩で、右手に宝剣、左手に梵篋を持つ。弥勒如来の脇に「弘安元年(1278)」造立の銘が刻まれている。京都では珍しい半肉彫りであるが立体感があり、絵画的な趣もある京都を代表する石仏である。 |
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京都の石仏(15) 知恩寺の石仏 | ||
京都府京都市左京区田中門前町103-15 | ||
阿弥陀石仏 「鎌倉時代」 | ||
五劫思惟阿弥陀石仏 「江戸時代」 | ||
今出川通り東大路東入るにある百万遍智恩寺は浄土宗総本山の智恩院につぐ浄土宗の大本山として大伽藍を誇っている。法然が念佛の教えを説いた「賀茂の河原屋」が前身となって、法然上人の弟子源智がこの地に法然上人の御影堂を建立し恩を知るお寺「知恩寺」としたのがはじまりである。鎌倉末期、京都中に疫病がはやった時に、当寺の善阿上人が、百万回の念仏を唱えると忽ちやんだことにより、百万遍の寺号を賜わった。 境内の奧、北隅に広い墓地があり、多くの石仏がある。その墓地の東よりに、一体の大きな石仏がある。高さ170p、幅140pの定印の阿弥陀座像である。花崗岩の石材を光背形につくり、如来像を厚肉りしたものである。肩の張りや豊かな胸元、引き締まった腰など体部の肉付けはすばらしく、堂々とした迫力を持つ鎌倉様式の石仏である。残念なことに、首より上は後補で、見事な体躯に比べて貧相な頭部になっている。 鎌倉時代の阿弥陀石仏以外にこの墓地の特出すべき石仏として、五劫思惟の阿弥陀如来石仏があげられる。阿弥陀仏が衆生救済の四十八願をたて、五劫もの長い間考え続けたことを表したもので、頭部螺髪が異様に大きく伸びた姿でつくられている。1体は墓地の中央部に、2体は上記の阿弥陀如来の近くにある。 |
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京都の石仏(16) 北白川阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区北白川西町 「鎌倉時代」 | ||
百万遍から銀閣寺に向かう今出川通りは通りをはさんで京都大学の建物が一帯をしめている。通りの南側、京大の建物がおわり、40mほど通りを銀閣寺方面に向かった、通りの南側の旧道沿いに、立派な覆堂が建っていて、そこに大きな2体の阿弥陀石仏がまつられている。 右側の石仏は、高さ約150p、幅95p、厚さ62pの花崗岩製の二重輪光式の光背を背負った像高120pの厚肉彫りの定印阿弥陀如来座像で、光背には十三個の月輪があり、梵字を陽刻する。香炉ヶ岡弥勒石仏と同じく、比叡山系の流れをうけた古い一例である。満月相の顔は豊かで、張りのある堂々たる肉付きの体躯とともに、実におおらかな感じをうける。衣紋のひだも写実的で、平安後期から鎌倉前期の様式をつたえる、京都を代表する石仏のひとつである。 左側の石仏も阿弥陀如来座像で、像高は110pで、右の像より摩滅がすすんでいる。光背部分は自然石のままで、右の像と作風が異なり、やや迫力に欠けるが鎌倉時代の秀作である。 |
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京都の石仏(17) 太閤の石仏 | ||
京都府京都市左京区北白川西町76-1 「鎌倉時代」 | ||
北白川の阿弥陀石仏の北東、今出川通りを100mほど東へすすんだ、通りの北側の覆い堂に大きな石仏がまつられている。通称「太閤の石仏」とよばれる石仏である。像高は2mほどて、火災にあつたと思われ、表面はひどく摩滅し、光背部分が大破していて、顔は後世の補作である。如来像と思われるが尊名は判断できない。 「太閤の石仏」とよばれるのは、太閤秀吉が気に入り、聚楽第に持ち帰ったが、夜になると石仏が「北白川の里に帰りたいと」不気味なうめき声を上げるので、元へ返したという伝説からきている。現在でも厚く信仰されているようで、線香や花が供えてあった。江戸時代の「拾遺都名所図会」にも載せられている。 岩こど持ち込まれたと思われる摩崖仏もある。奈良市の |
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京都の石仏(18) 白沙村荘の石仏 | ||
京都府京都市左京区浄土寺石橋町37 | ||
竹林の石仏 「江戸時代」 | ||
羅漢 「江戸時代」 | ||
阿弥陀石仏 「鎌倉後期」 | ||
薬師石仏 「鎌倉〜南北朝時代」 | ||
地蔵磨崖仏 | ||
銀閣寺の西、300mにある白沙村荘は、大正から昭和にかけて活躍した京都画壇の重鎮、橋本関雪画伯の旧邸宅である。現在、橋本関雪記念館として公開されている。白沙村荘は画室を中心に茶室や数寄屋造りの建物と、四季折々の自然に溢れた庭園が総面積4千坪の敷地内に配置されている。 その庭園の至る所に、平安時代から鎌倉・室町・江戸時代にわたる石仏・層塔・宝塔・石幢など石造美術品が置かれている。それらは、京都だけでなく大和や国東、関東など各地の様式を見せている。 石仏では邸内の一隅の竹林の中に配置されている、羅漢群がもっともよく知られている。シャガの花に囲まれて竹林に佇む羅漢の姿は趣がある。竹林には羅漢像の他、鎌倉後期と思われる高さ1mほどの阿弥陀座像がある。化仏が陽刻された舟形光背の厚肉彫りの定印の阿弥陀如来座像で迫力はないか端正な石仏である。 南側の広い庭に像高60pほどの小さな如来石仏がある。右手は胸前にあてた施無畏印、左手は膝の上に置き、摩滅がすすんでいるのでわかりにくいが、薬壺を持っているように見えるので薬師如来と思われる。 鎌倉時代から南北朝時代の作。庭園には岩山や岩壁はないが、磨崖仏もみられる。その一つが地蔵磨崖仏で小さな岩に船形光背状の彫りくぼみをつくり丸顔の小さな地蔵立像を半肉彫りしたものであ。おそらく庭園に岩に彫ったものではなく、岩ごと運んできたものと考えられる。実際、庭内裏口にある多尊磨崖仏は奈良市の月ケ瀬の桃香野の千体仏の一部をかきとって運んできたものである。 |
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京都の石仏(19) 行者の森如来石仏 | ||
京都市左京区銀閣寺町12 「鎌倉時代」 | ||
銀閣寺の門前を左折して、八神社手前で右折し東に行くと行者の森にでる。ここは、「大文字送り火」で知られた大文字への登山口に当たる。 行者の森には、不動や役行者、地蔵など多くの石仏が安置されている。その中でもひときわ目を引くの向かって右端に大日如来として祀られているこの石仏である。 高さ105p、幅75p、高さ58pの舟形の花崗岩に、右手は胸前で施無畏印、左手は膝上において与願印を結ぶ如来像を厚肉彫りしたもので、印相から釈迦如来もしくは弥勒如来と思われる。軟質の花崗岩白川石に彫られているため風化か進んでいて面相はわからない。しかし、厚肉彫りの体躯や円満相の顔など豊かな迫力のある石仏である。鎌倉時代中期を降らない造立と考えられる。 |
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京都の石仏(20) 霊鑑寺弥勒石仏 | ||
京都府京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12 「鎌倉時代」 | ||
送り火で有名な大文字山(如意ヶ岳)の麓一帯は鹿ヶ谷と呼ばれ、法然院・安楽寺・霊鑑寺と古寺が連なっている、静閑な風情のある地である。三つの寺は、すべて非公開寺院で、春と秋の特別拝観の時のみ公開される。 弥勒石仏のある霊鑑寺は南禅寺派の門跡寺院で、江戸初期に後水尾天皇が皇女を開基をして創建し、代々、皇女が住職をつとめた名刹で、谷御所、鹿ケ谷比丘尼御所とも呼ばれる。 弥勒石仏は山門を入った前庭の片隅にある。高さ95p・幅63p・厚さ45pの花崗岩製で、光背は自然石おもかげを残す舟形光背で、蓮華座に坐す像高52pの如来を厚肉彫りする。右手は、胸前に挙げて施無畏印。左手は膝前に手のひらをに伏せて置くようにみえるが摩滅して判然としない。 小さな石仏であるが調和のとれた重量感のある石仏である。 この石仏も叡山系の石仏で、光背に五個の梵字を陽刻している。大日如来の法身真言をあらわしている。 |
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