京都の石仏(1) 大原三千院阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区大原来迎町 「鎌倉時代」 | ||
大原三千院の境内、「あじさい苑」の奧、律川に架かる橋を渡った山裾の吹放しの覆堂に祀られている。以前は勝林院から律川にそって自由に行くことができ、「日本石造美術辞典」などでは勝林院境内から行くように紹介されている。 高さ2.25mで京都の石仏では一番大きく、美しい石仏である。光背形の花崗岩の自然石に単弁を並べた蓮座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りに彫りだしたものである。光背は二重円光式になっている。頭部の螺髪を一粒づつ刻む。長めの顔は美しく、眼は半眼に開き優しいまなざしである。やわらかい流れるような衣紋で、花崗岩の硬さを感じさせない、木彫風の傑作である。二重円光の光背には石像寺阿弥陀三尊のよう梵字は彫られていないが、香炉ヶ岡弥勒石仏のながれを組む叡山系の石仏である。 秋のやわらかな日差しの中でみた、この阿弥陀石仏は素晴らしく、慈悲にあふれた顔は忘れられない。 |
||
|
京都の石仏(2) 戸寺町阿弥陀石仏 | ||
京都市左京区大原戸寺町553 「鎌倉時代」 | ||
敦賀街道は京都市街より八瀬・大原の里をへて日本海へ向かう。八瀬と大原の境にあたるのが花尻橋である。橋の南に志ば漬で知られた土井志ば漬本舗の本店と工場があり、観光客でにぎわっている。その花尻橋を北に渡ると、すぐ右手に江文神社の御旅所があり、鳥居の左横に小堂に、戸寺町阿弥陀石仏がある。 石仏は高さ105p、幅57p、厚さ40pの灰黄色の花崗岩に蓮華座に坐す定印の像高69pの阿弥陀如来を厚肉彫りする。無地の二重円光式の光背や、木彫風の衣紋の表現など大原阿弥陀石仏と共通するところが多く、この石仏も香炉ヶ岡弥勒石仏につながる叡山系の石仏と考えられる。大原阿弥陀石仏のような雄大さはないが清楚な美しい石仏である。 |
||
|
京都の石仏(3) 恵光寺石仏群 | ||
京都府京都市左京区静市市原町1142 「鎌倉時代」 | ||
阿弥陀・釈迦(弥勒)・阿弥陀・阿弥陀 | ||
釈迦如来(弥勒如来) | ||
阿弥陀如来 | ||
阿弥陀如来 | ||
菩薩像?・阿弥陀如来?・阿弥陀如来 | ||
叡電「市原」駅より鞍馬街道を南へ200mほど行くと、道の西側に慈雲山恵光寺がある。 参道を登った右手の丘の下に6体の石仏が並べられている。中央の石仏が最も大きく優れた作風である。総高152pの花崗岩をつかい、舟形光背に像高120pの如来座像を厚肉彫りしたもので、右手は胸近くにあげた施無畏印、左手は膝上においた与願印を結ぶ。印相から釈迦如来もしくは弥勒如来と考えられる。おだやかな顔やひきしまった体躯など鎌倉中期の様式をしめす。 中央の石仏の左右はともに像高80pほどの定印の阿弥陀如来で、中央の石仏と同じく舟形光背の厚肉彫りである。これらも鎌倉後期の作と考えられるが、中央の石仏とくらべると表情は硬い。他の3体は阿弥陀像2体と菩薩像で造立年代は下る。 |
||
|
京都の石仏(4) 岩倉実相院阿弥陀石仏 | ||
京都府京都市左京区岩倉上蔵町121 「鎌倉後期?」 | ||
「岩倉実相院」バス停をおりると、正面に大きく立派な四脚門が見える。岩倉門跡とか、岩倉御殿とも呼ばれた岩倉実相院である。元は天台宗寺門派の門跡寺院で、創立は鎌倉初期で、もとは紫野にあり、応仁の乱をきっかけにこの地に移されたという。義周(ぎしゅう)法親王が門跡となられたとき、京都御所から大宮御所の一部が下賜され、 それらが、現在の客殿と四脚門で、内裏の雅が残る趣のある寺院である。 客殿の縁に座って眺める庭は美しく、紅葉の名所として知られている。黒光りする床に映す紅葉見物が楽しめ、一味変わった紅葉の風情が味わえる。 砂砂利を敷いた庭園の中央の奧、樹木の下に一体の阿弥陀石仏が置かれている。庭に下りられないため、300mmの望遠レンズで撮った。花崗岩製で、舟形の石に、蓮華座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りする。像高は50pほどで、近づいて見ていないので正確なところはわからないが、鎌倉後期から南北朝の頃の作と思われる。石仏は庭に見事にとけ込み、違和感がない。 しかし、庶民の信仰の対象である石仏が、花や線香を供え、拝まれることもなく庭の一部になっているのは残念な気もする。 |
||
|
京都の石仏(5) 岩倉三面石仏 | ||
京都市左京区岩倉上蔵町 「鎌倉時代」 | ||
阿弥陀如来 | ||
地蔵菩薩 | ||
十一面観音菩薩 | ||
岩倉実相院の前の小さな公園を北におれて、少し入ったところに石座(いわくら)神社がある。その神社の鳥居よこに、瓦葺きの覆堂があり、大きな石仏が安置されている。 高さ約1.9m、幅約1.7mの花崗岩の正面に、舟形の光背形を彫りくぼめ、座高約1.5mの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、顔は風化摩滅すすんでいるが、おおらかな堂々とした石仏である。向かって右に、十一面観音、左には地蔵菩薩が半肉彫りされていて、三面石仏になっている。このような一石に三尊、あるいは四尊あらわした石仏が他に2体あり、岩倉地区の石仏の特色になっている。 阿弥陀と地蔵の組み合わせは大和や南山城でよくみられる。地蔵菩薩は、末法の無仏の世界にあって衆生を救済し、後生に極楽浄土へ導く菩薩として、阿弥陀如来とともに信仰されたためである。岩倉三面仏は、そこに、根本の聖観音の力を拡大した、衆生救済の功徳の大きい十一面観音を組み合わせたものである。このような組み合わせは南山城の籔の中磨崖仏にもみられる。 |
||
|
京都の石仏(6) 岩倉の目なし地蔵 | ||
京都府京都市左京区岩倉上蔵町121 「鎌倉時代」 | ||
岩倉実相院前から、50mほどバス道を戻ったところ、岩倉川にかかる目なし橋のたもとに、「目なし地蔵」とよばれる石仏が覆堂に祀られている。 高さ、約1.2mの花崗岩正面に、像高約1mの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、「岩倉三面仏」と同じように、光背部分の左右にる如来座像(弥勒仏?)と地蔵立像を半肉彫りする。 全体に風化摩滅がすすみ、判然とせず、目鼻がないように見えるところから、目なし地蔵とよばれている。京都の石仏は軟質の花崗岩を使用している場合が多く、目鼻がないように見える石仏がよく見られる。 |
||
|
京都の石仏(7) 禅華院の石仏 | ||
京都市左京区修学院烏丸町 「鎌倉後期」 | ||
雲母坂の石仏・阿弥陀・地蔵 | ||
阿弥陀如来 | ||
地蔵菩薩 | ||
雲母坂の石仏(阿弥陀・弥勒如来) | ||
雲母坂の石仏(弥勒如来) | ||
「修学院」駅より、音羽川にそって東へ800mほどすすみ、後安堂橋を渡り、修学院総門に向かって50mほどいくと、左手に石垣と特色ある鐘楼門が見えてくる。臨済宗大徳寺派の一院「禅華院」である。 風雅な鐘楼門を入った右側に、多くの石仏が並んでいる。その中でも一際大きな石仏が、定印の阿弥陀如来像とその右に並ぶ地蔵菩薩像である。阿弥陀如来は総高175pの花崗岩製で、二重光背に像高145pの定印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。地蔵菩薩も二重光背で、右に短い柄の錫杖を持ち、左に宝珠を持つ地蔵菩薩座像を厚肉彫りしたもので、阿弥陀如来よりやや小さく、総高165p、像高は128pである。 一見した時、風貌が鎌倉期の石仏のような優雅さに欠く素朴な表現のため、室町期の作と思えた。しかし、よく見ると、やや形式的になっているが衣紋も写実的な表現で、肉付きもよく、鎌倉後期の作と思われる。 阿弥陀如来像の隣に雲母(きらら)坂にあった小さな風化した石仏が2体雲母坂の石仏(阿弥陀・弥勒如来)あり、弥勒如来の背後には平安時代の大治2年(1125)年の刻銘がある。 雲母坂は修学院離宮や林丘寺の南の音羽川沿いを少し上ったところにある坂で比叡山へ向かう古道である。登り口は雲母寺の旧跡である。この登山道の登り口に小さな摩滅した2体の小さな石仏が雲母坂の石仏である。1体は二十輪光背を負った定印の像高53pの厚肉彫り像、もう1体が像高66pの厚肉彫りこの如来像である。船形光背を負った右手を胸前によせて施無畏印、左手は風化してわからないが下に向けている様に見えるので降魔印(蝕地印)と思われ、弥勒仏と考えられる。他に、禅華院には鎌倉後期から室町時代と思われる石仏が多くある。 |
||
|
京都の石仏(8) 藪里釈迦堂石仏 | ||
京都府京都市左京区一乗寺釈迦堂町10 「奈良時代」 | ||
左京区の白川通りの「一乗寺下り松町」バス停から曼珠院道を東へ180mほど行った三叉路にある松が一乗寺下り松である。ここで宮本武蔵と吉岡一門が決闘したという。この下り松より50mほど進み、左に折れる細道に入ると「藪里釈迦堂」の建物がある。この釈迦堂の軒つづきに地蔵堂が設けられ、堂内に「夜泣き地蔵」と呼ばれる大きな石仏か立っている。 この石仏も芳山二尊仏と同じく仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。高さ2mほどの船形光背に像高1.5mの如来立像を厚肉彫りで表現した像である。その像容は堂々としている様に見えるが、白・黄・黒・赤と絵の具でどっぷりと塗られていて、本来の姿はわからず、石仏の古さは、しのぶことができない。 京都では地蔵盆で毎年、町内の人々によってこのように石仏を化粧する習わしはよく見かける。衣紋表現や手足などの表現を見ることができれば、天平彫刻の面影を見ることができるのであろうが、般若心経が書かれた大きな前掛けが奉納されていて、見ることができなかった。仏師で石仏研究家の清水俊明氏は著書の「京都の石仏」で、この石仏を「左手の印相か降魔印(蝕地印)で、弥勒仏の可能性もあるが、釈迦堂町と言う地名から釈迦如来像と考えたい。」としている。 | ||
|
京都の石仏(9) 一乗寺北墓弥勒石仏 | ||
京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内町 「鎌倉時代」 | ||
遠州好みの優れた庭園や書院・障壁画を伝える洛北の名刹、「曼珠院門跡」の門前を右に折れ、武田薬品の薬草園の裏から東に進んで小川にかかる石橋を渡ると広大な共同墓地、一乗寺北墓にでる。 石仏は墓地の入口、比叡の峰を背にして西を向いて安置されている。花崗岩製で、高さ175p、幅120p、厚さ70pの石材を舟形につくり、蓮華座に坐す座高95pの如来を厚肉彫りする。右手は胸前に挙げた施無畏印で、左手は膝前に手のひらを上にして親指を捻じている。 |
||
|
京都の石仏(10) 松ヶ崎二体石仏 | ||
京都市左京区松ヶ崎小脇町 「鎌倉時代・南北朝時代」 | ||
釈迦如来・弥勒如来? | ||
弥勒如来? | ||
釈迦如来 | ||
地下鉄「松ヶ崎」駅から北山通りを東へ650m、または、叡電「修学院離宮」駅から北山通りを西へ550m、大型家電販売店の角を南へ少し行った民家の前に、大きな石仏が2体ある。 右の石仏は、高さ130p、幅90p、厚さ30pの舟形の花崗岩に弥勒または釈迦と思われる如来座像を厚肉彫りしたもので、鎌倉時代の作風をしめす。右手は胸前にあてた施無畏印、左手は膝前に置いている。摩滅がすすんでいるため指先など細部はわからない。弥勒如来もしくは釈迦如来と思われる。 左の石仏は高さ190p、幅100p、厚さ52pの長方形に近い舟形の板状の花崗岩に施無畏与願印の如来立像を厚肉彫りする。釈迦如来と思われる。右の石仏に比べると彫りは硬く伸びやかさに欠ける。時代は南北朝から室町時代の作と思われる。 ともに白川石と呼ばれている軟質の花崗岩でつくられているため、岩倉の三面石仏のように摩滅風化がすすんでいる。 |
||
|
京都の石仏(11) 大徳寺地蔵宝塔石仏 | ||
京都市北区紫野大徳寺町53 「鎌倉後期」 | ||
地蔵菩薩 | ||
多宝塔 | ||
臨済宗大徳寺派の大本山、大徳寺は鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師が開創し、応仁の乱後、一休和尚が復興した大寺院である。勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に七堂伽藍が並び、境内には、別院2ヶ寺、塔頭22ヶ寺が甍を連ねている。 勅使門のすぐ西に、平康頼の墓という塚がある。その塚の上に地蔵宝塔石仏がある。高さ137pの舟形光背の形の花崗岩の石材の裏表に地蔵菩薩を厚肉彫りに、多宝塔を半肉彫りにしたもので、地蔵菩薩は像高97pの立像で右手を下げて与願印を示し、左手は胸の上で宝珠をささげる、この像も大沢池地蔵石仏と同じ古式の様式で鎌倉後期の作と思われる。 宝塔は塔身部に多宝・釈迦の二仏を並座させている。それは、釈迦が法華教を説いた時に、地中から宝塔が出現し、宝塔内の多宝如来が釈迦をたたえ、宝塔内に招き、釈迦が、多宝如来とともに坐し、説法した説話に基づくものである。宝塔をあらわした二面石仏は他にも嵯峨清涼寺もみられる。 |
||
|
京都の石仏(12) 上善寺の石仏 | ||
京都府京都市北区上善寺門前町482 「鎌倉後期」 | ||
地蔵菩薩 | ||
十三仏碑 | ||
北区鞍馬口通寺町東入ルにある上善寺は、千松山遍照院と号する浄土宗の寺院である。貞観5年(863)円仁が天台密教の道場として創建したと伝える。文明年間(1469〜1487)に天台真盛宗として再興、現在の寺号を定める。文禄3年(1594)、秀吉の命によって、千本今出川から現在地に移り、江戸時代は浄土宗の大寺として栄え現在に至っている。 山門を入って右側に風化した大きな石仏が西面して坐している。高さ160pほどの光背形の石に、智拳印を示す金剛界大日如来である。現在、小さな覆堂がたてられ、花か供えられ、信仰の深さがうかがえる。何重にも前掛けが掛けられていたため、撮影はできなかった。鎌倉前期の作と思われる。 大日石仏から少し右手に入った地蔵堂の横手に、多くの石仏が集められている。その中でも聖観音石仏と地蔵石仏は鎌倉後期の様式をしめす。地蔵石仏はで、高さ125p、幅75pの舟形光背に、右手をさげて与願印、左手に宝珠を持つ古式の地蔵を厚肉彫りしたものである。錫杖を持たないこのような地蔵石仏は京都の古い地蔵石仏によくみかけられる。 また、江戸期の石仏であるが、京都では珍しい十三仏碑もある。ただ、奈良や大阪でみられる通常の十三仏と像の配列とは違っていて、一番上は虚空蔵菩薩であるはすが阿弥陀になっている。 |
||
|