山口県の石仏2 |
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大王寺の石仏 |
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大王寺は、城下町長府の北、四王司山の麓にある寺で、昭和の初め馬場覚心によって開かれた。馬場覚心は独立して一派を開き、現在、一切宗の本山となっている。ここは石仏の寺でもある、昭和初期の石仏300余体が祀られている。不動明王の石仏が多数あり、「防長の石仏」 (
『日本の石仏 山陰・山陽篇』)には一の滝にある不動明王座像が紹介されている。写真でみて気に入り、この寺を訪れたが、目的の不動明王石仏を見ることができなかった。 このページで紹介する不動明王も滝の近くにあったが、別の像で立像である。「防長の石仏」に紹介されている不動明王座像に比べるとやや迫力を欠く。 石仏としては珍しい苦行釈迦もある。写実的な表現の石仏で、何体か見た苦行釈迦石仏の中では最も優れたものであった。 |
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覚苑寺准胝観音 |
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覚苑寺は毛利長府藩三代目藩主綱元が建てた黄檗宗の寺院で、和同開珎の長門鋳銭所跡があることで知られている。その覚苑寺の裏山、准胝山にこの磨崖仏がある。准胝山へ続く道は、西国三十三ヶ所観音霊場の分霊場になっていて、覚苑寺境内奧の墓地から山頂にかけて西国三十三ヶ所観音石仏安置されている。
一番青岸渡寺如意輪観音、二番金剛宝寺(紀三井寺)十一面観音と順に観音石仏をみて10分ほど登ると、右側に2m余りの上部が三角形の大きな岩が見えてくる。その岩に准胝観音磨崖仏が彫られている。 岩の上部に岩の形に添って舟形の光背を彫り込みつくり、そこに施無畏・与願印で蓮華座に座る菩薩像が半肉彫りで刻まれている。准胝観音は石仏としては珍しく、西国三十三ヶ所観音石仏などでみられるのみである(第十一番上醍醐寺が准胝観音である)。准胝観音は儀軌では、三眼十八臂になっていて、石仏では三眼八臂が多い。このような二臂は珍しく、横の石碑に準提観世音と刻まれていなければ准胝観音とはわからない。(准胝観音は準提観音・准泥観音・准提仏母・天人丈夫観音などの異名がある) 手や腕・衣紋の表現は写実性に欠けるが、モダンで秀麗な容顔が印象的で、山口県の近代の磨崖仏としては出色の出来である(準提観世音の石碑に昭和七年四月の銘がある)。 |
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狗留孫山の石仏 |
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山口県には狗留孫山という山が2ヶ所ある。一つは市豊田町(現在下関市豊田町)にある狗留孫山(616m)で、中腹には狗留孫山修善寺(狗留孫観音)があり、信仰の山として山口県ではよく知られた山である。もう一つは、徳地町(現在山口市徳地)にあり、標高544mの山である。この徳地の狗留孫山も信仰の山である。
麓の法華寺から一丁ごとに丁石と地蔵石仏が置かれた登山道にそって50分ほど登ると、十五丁石仏と霊場入口の石柱があり、ここから狗留孫山の霊域になり、所々に岩がみられるようになる、最初の大きな岩には御詠歌が刻まれている。ご詠歌が刻まれた岩から少し行くと、右に行く分かれ道がある、まっすぐ行くと奥の院を経て山頂への道となる。右の道を数m進むと岩があり、そこに如意輪観音が彫られている。高さ70pほどの薄い半円形の彫り込みに、像高45pの如意輪観音座像を薄肉彫りする。横に一番と刻まれていて、西国三十三ヶ所の一番霊場青岸渡寺の分霊であることがわかる。磨崖仏の横にも小さな如意輪観音石仏が祀られていた。ともに迫力はないが小さなかわわいい石仏である。 ここから、登山道に沿って西国三十三ヶ所観音の磨崖仏がつづくそうであるが、8月に訪れたためか、草や笹が茂りすすめなかった。この道は奥の院付近で合流しているので、奥の院への登山道に戻り、奥の院付近から同じ道に入ろうとしたが、途中で崖崩れて道がきれていて、一番の磨崖仏以外に一体しか磨崖仏を見つけることが出来なかった(岩の上にあり、風化が激しく何番の札所か確認できなかった。像は十一面観音か千手観音のように見えた)。 登山口の法華寺付近の一番最初の丁石の横には地蔵石仏とともに総高72pの庚申塔がある。舟形光背を背負う青面金剛像で、どこかユーモラスで親しみを感じさせる石仏である。江戸時代の作である。な岩 |
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湯野観音岳の石仏 |
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湯野温泉の北にある湯野観音岳は山頂から純金の観音像が出土したことで有名な山で、もとは不動山といった。江戸時代の終わり、嘉永6年(1853)、松田好松という若者がうさぎ狩りをしていたところ、山頂付近で半分土に埋もれた純金の観音像を発見し、ふもとの楞厳寺(りょうごんじ)に奉納したので、以降、不動山は観音岳と呼ばれるようになった。(観音像は平安時代の作で山口県の指定文化財になっている。)
その時の楞厳寺の住職が山頂に黄金仏の代像として子安観音像を祀り、山全体を四国に見立て、四国八十八ヶ所の分霊場を設置したのが現在の信仰の山、湯野観音岳の始まりである。楞厳寺の西側に登山口があり、登るにつれて、四国八十八ヶ所の本尊と弘法像の2体セットの石仏が次々と現れてくる。21番太龍寺石仏まで登りがつづく、そこから一端下りになり、小さな谷川を越えると再び急な山道になり、20分ほど登ると山頂に着く。山頂手前に案内板があり、子安観音への続く分かれ道がある。子安観音は石を組み合わせた石龕に安置されていて、高さ94pの石材に右手に蓮華を持ち、左手で幼児を抱く、像高47pの子安観音像を半肉彫りしたもので、像の左右に「子安正観世音」「黄金之代像」の記銘がある。 21番太龍寺石仏に登る少し手前に、30番安楽寺・善楽寺の石仏が立っている。そこから31番竹林寺以降の霊場が続く下山路が分岐している。下山路は楞厳寺の東の墓地まで続いていて、結願の寺、第88番札所大窪寺の石仏が墓地の北の林の中に祀られている。石仏のほとんどか40〜50pの石材に彫られているが、岩に彫られた磨崖仏も4ヶ所ある。山口の霊山や寺院の裏山などには西国三十三ヶ所や四国八十八ヶ所などの札所の石仏が多くあるが観音岳四国八十八ヶ所石仏は、山口では最も優れた札所石仏である。 |
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陶ヶ岳の磨崖仏 |
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山口市の南、鋳銭司から秋穂にかけての陶ヶ岳・火の山・亀山と続く火ノ山連山は標高300mほどの低い山である。しかし、巨岩が重なる、素晴らしい眺めの山々である。北の端にある岩屋山につぐ陶ヶ岳は標高252mの山で、頂上付近は巨岩が露出していて、頂上に立てば360度の展望が広がる。その頂上の巨岩の西の下部に涅槃の釈迦の磨崖仏と十六羅漢の磨崖仏がある。
陶ヶ岳へはセミナーパークの北側の登山口から登るのが最も近い、登山者のための駐車場があり、駐車場の北の松永邸(松永周甫薬園)の庭を通って登る。雑木林の中の山道を20分ほど登ると視界が開けて広場に出る。そこが陶ヶ岳観音堂(金剛山岩屋寺)跡で石段、石碑、観音磨崖仏が残る。陶ヶ岳観音堂跡からロープをたよりに急な崖を5分ほど登ると陶ヶ岳山頂につく。磨崖仏は山頂手前の登山道を左にそれると頂上の巨岩の東側に出る。(案内板もなく撮影に行った時は入り口がわからず探すのに苦労した。)そこに狭いテラスがあり、寝釈迦像(涅槃釈迦)と十六羅漢の磨崖仏が彫られている。 寝釈迦像磨崖仏は巨岩の壁の下方に縦約50cm、横約110pの矩形の彫り込みをつくり、縦37cm、横99cmの矩形の平らな涅槃台を彫りだし、そこに右脇を下にして足を重ねて横たわる釈迦像を薄肉彫りしたもので、江戸時代初期頃のものと見られる。納衣などの線は抽象的でのびやかさに欠けるが、おだやかな顔が印象に残る。 十六羅漢は、舟形の彫り込みなどの中に薄肉彫りでそれぞれ像高45〜65pほど羅漢が彫られている。普通、羅漢の顔は太い眉毛の老人風が多いが、尼僧のような穏やかな顔の羅漢が多い。椅子に座る諾矩羅尊者などを除いて未完成の像が多い。 |
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真照院地蔵磨崖仏 |
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秋穂地区には四国88ヶ所の分霊場がある。天明3年(1783)に遍明院八世性海法印が四国霊場から御符と御砂を持ち帰って霊域を定め、以降、現在まで秋穂88ヶ所霊場として信仰を集めている。その中心霊場として栄えているのが、秋穂二島にある朝日山真照院である。
朝日山真照院は、朝日山上に在った千光院(寛平8年、896年 開創)、朝日山の東の禰宜に在った真善坊(寛平八年、896年 開創)、同じく禰宜に在った遍照寺(開創不明)が明治2年(1899)に合併してできたもので、それぞれの寺の一文字をとって真照院と名付けられたのが現在の真照院のはじめという。 本尊は千手観音で鉄筋コンクリートの本堂に祀られている。本堂は、秋穂88ヶ所の第58番札所にあたり、山内には他に第54番(大師堂)第69番(奥の院)がある。山内には西国33番の観音石仏が奉祀されいて、現在も多くの参詣者が訪れている。 地蔵磨崖仏は本堂の横にある高さ7mを越える岩の南面に彫られている。岩の一部を削平し、そこに蓮台に立ち合掌する高さ67pの地蔵菩薩を半肉彫りしたもので、両脇に「明和二年乙酉」と「七月廿一日願主浄心」の銘文を刻み、江戸時代中期の明和二年(1765)に浄心という僧が願主となり彫られたものであることがわかる。山口県の磨崖仏の多くは薄肉彫りやあまり厚くない半肉彫りであるが、この地蔵磨崖仏の頭部は厚肉彫りで立体感のある表現となっている。衣紋の表現などは形式的である。 |
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