吉備の石仏2
文英様石仏
![]() 秀吉の水攻めで知られる高松城のある岡山市高松付近を中心とした一帯には、薄肉彫りと線彫りを組み合わせた素朴で独特な表現の石仏が百四十体あまりある。三角形の団子鼻と目尻の下がった三日月形の眼、小さなおちょぼ口を配した独特の面相が印象的である。現在これらの石仏は文英様石仏と呼ばれ、年銘資料から天文2年(1533)から天正10年(1582)に至る約50年の間に造立されたものであることがわかる。 |
文英様石仏と呼ばれるのは、これらの様式の石仏の先駆となった四体の石仏に「文英」と人名が刻まれいるためである。その四体とは、岡山市中島の関野家裏1号石仏と関野家の文英座元石仏、岡山市大崎の大崎廃寺跡地蔵石仏および持宝寺十一面観音石仏である。 これら石仏には、「文英施」「天文三年五月」(関野家裏1号石仏)、「念佛講文英筆」「天文四年乙未五月□日」(大崎廃寺跡地蔵石仏)、「天文十四年三月吉日」「福成寺文英誌」(持宝寺十一面観音石仏)、「英座元」(文英座元石仏)の銘文がある。これらの銘文から、文英は、福成寺(高松地区の平山にその廃寺跡がある)に所属する僧侶で、念仏講を主催する、天文三年(1534)から天文十六年(1547)にかけて、これらの石仏を彫った、もしくはこれらの石仏の下絵や下図を書いたと考えられる。(『謎の石仏 文英の石仏』のページ参照) 天文四年(1535)の紀年銘の持つの江口家墓地1号石仏(岡山市門前)、天文三年(1534)の紀年銘の持つ報恩寺4号石仏(岡山市門前)、銘はないがほぼ同じ頃の制作と考えられる遍照寺1号石仏などの石仏も、文英銘の石仏と同じ薄肉彫りと線彫りを組み合わせた独特な表現で、文英や文英と関係する人々が係わったと考えられる。 同じような表現の石仏(文英様石仏)は、高松平野(岡山市)を中心に総社・足守地区(総社市・岡山市)、山陽盆地(赤磐市の旧山陽町・旧赤坂町)、旧上道郡地区(岡山市)に約150体見つかっている。それらは、天文年間(1532〜1554)から天正10年(1582)にかけての戦国動乱の真っ最中の約50年間の造立で、延命地蔵を中心に十一面観音・客人(まれびと)大明神・法華題目・厳島弁財天などの雑多な神仏が彫られている。「為逆修」「預修□□」「為妙善」「念仏講」「庚申衆」などの銘文から、追善供養・個的供養のため、文英に代表される半僧半俗的性格を持つ僧の指導の下、吉備の民衆によって造立されたものと考えられる。 仏像の基本図像や規範に縛られることなく、自由に表現した素朴で力強い文英様石仏は、戦国時代の民衆の息吹が感じられる全国に類例の見ない魅力的な石仏群である。
| ![]() ※石仏の名前は山陽新聞社サンブック『吉備の文英様石仏』に基づく。 | |
参照 | 『岡山の石仏』 岡山文庫 | 巌津政右衛門 | 昭和53年 | 日本文教出版 |
『吉備の文英様石仏』 | 根本修 黒瀬稔雄 |
平成5年 | 山陽新聞社 |
文英様石仏(1) 高松城跡の文英様石仏 | ||
岡山県岡山市北区高松558-2 | ||
秀吉の水攻めで知られる天正10年の「高松の役」を境にして、以降、文英様石仏の造立は見られなくなる。それは、高松の役以降、備中高松の地を領した、宇喜多家の重臣、花房正成(熱烈な法華信者であった)が徹底した宗教統制をはかった結果だと考えられる。 花房氏の具体的施策については一切不明であるが、高松城跡や高松城周辺の14〜15体の文英様石仏が明治以降、高松城の本丸跡の水田や二の丸・三の丸周辺の地中から掘り出されこと、その中には顔面を砕かれたものやまっぷたつに割られた見るも無惨なものも見られること、昭和50年の高松城発掘調査で、本丸の捨石遺構から五輪塔や石仏が発見されたこと、などから窺い知ることができる。 つまり、当時の人々の精神的なよりどころとして、日常生活に密着した信仰の対象であったこれらの石仏を、新たな支配者であった花房氏が、高松城の拡張工事に捨石として容赦なく投げ込むことにより、花房氏の信奉する法華信仰を、新たな精神的な拠り所として、強要したものと考えられる。 |
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高松城跡1号石仏 「室町時代後期」 | ![]() |
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高松城跡2号石仏 「天文16(1547)年 室町時代後期」 | ||
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客人(まろうど)大明神 「天文2(1534)年 室町時代後期」 | ||
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高松城1号石仏・2号石仏は昭和50年の高松城発掘調査で発見されたもので、現在1号石仏(像高54cm)は高松城址公園資料館に展示され、2号石仏(高さ105cm)は高松城址公園前の食堂の駐車場に置かれている。1号石仏は連弁などの様式から文英様石仏の中では最も古いものの一体である。2号石仏(像高104cm)は天文十六(1547)年の年号と共に「守庚申衆」と記されている。 高松城址公園に祀られている客人大明神(像高82cm)は明治末に本丸跡から出土した石神で「客人大明神」「天文二癸巳」(1534)の記銘があり、文英様石仏最古の紀年を持つ。 |
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文英様石仏(2) 高松中島関野家裏石仏 | ||
岡山県岡山市北区高松63 | ||
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中島関野家裏1号石仏 「天文3(1534)年 室町時代後期」 | ![]() |
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中島関野家裏2号石仏 「永禄5(1562)年 室町時代後期」 | ![]() |
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中島関野家裏4号石仏 「室町時代後期」 | ![]() |
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高松中島の路傍にある文英石仏は、高松城周辺から出土したもので、1号石仏(像高130cm)は細長い角材に地蔵菩薩と思われる像を薄肉彫りする。石仏の下部に『文英施 天文三年五月』の刻銘がある。胴体部分はほとんど彫られていず、顔だけが石から浮き出たような、一見、不気味な感じの石仏である。この石仏は中央の大きな鼻が目立つ。このように、面相のみ刻むタイプの文英様石仏も何体か見られる。 この石仏の下には、文英様式の地蔵石仏が3体置かれていて、その中の1体(2号石仏)は上半身のみ残り、顔だけでなく胴体部も薄肉彫りである。永禄五(1562)年十月の記銘がある。近くの北区門前の報恩寺2号石仏や江口家墓地1号石仏・2号石仏と同じ瓜実顔の延命地蔵である。もう1体(3号石仏)は蓮華座に座す小仏像を線刻し、南無妙法蓮華経or妙法蓮華経と題目を刻んだ石仏であるが光線の関係かうまく撮影できなかった。残る1体(『吉備の文英様石仏』では掲載がなかったが4号石仏とした)は板状の石材に薄肉彫りされた地蔵石仏の破片で頭部が残っている。 |
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文英様石仏(3) 持宝院の文英様石仏 | ||
岡山市北区立田835 | ||
持宝1号石仏(十一面観音) 「天文14(1545)年 室町時代後期」 | ||
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持宝2号石仏(地蔵菩薩) 「室町時代後期」 | ||
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持宝院にある十一面観音石仏(1号石仏)には両側に『天文十四年乙巳三月吉日』と『福成寺 文英誌』の刻銘がある。花崗岩の石材に薄肉彫りと線刻で十一面観音をあらわしたもので、顔の部分は光背部を彫りくぼめて、薄肉彫りする。顔は胴体部と比べて大きく、中央の大きな鼻に特徴がある。剣菱形の蓮弁は薄肉彫りであるが、肩や手部は平坦部に線彫りしている。 持宝院には他に延命地蔵を薄肉彫りした文永様石仏(2号石仏)があるが、向かって右上を大きく損傷している。「益妙」と供養者の刻銘がある。高松城跡とその周辺にはこの石仏以外に中島家裏の2号石仏・4号石仏や文英座元石仏などのように明治末に出土した著しく破損したものが多くあり、花房氏の激しい宗教統制を物語っている。 |
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文英様石仏(4) 大崎廃寺跡地蔵石仏 | ||
岡山市北区大崎 「天文4(1535)年」 | ||
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文英様石仏の代表作といえるのが大崎廃寺跡にある延命地蔵石仏(高さ123cm)である。頭部は薄肉彫り、胴体部や剣菱形の蓮弁は線彫りという、典型的な文英様石仏の表現で、まん丸の顔に大きな三角形の団子鼻、三日月形の大きな目が印象的な、文英様石仏を代表する作である。『念佛講文英筆 天文四年乙未五月日』の記銘がある。水田の畦の横に祀られていて、回りは水田で、秋には黄金に実った稲穂の中に佇む。 | ||
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文英様石仏(5) 遍照寺の文英様石仏 | ||
岡山市北区大崎761 | ||
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遍照寺1号石仏(延命地蔵) 「室町時代後期」 | ||
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遍照寺2号石仏(地蔵菩薩?) 「室町時代後期」 | ||
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遍照寺4号石仏(地蔵菩薩?) 「室町時代後期」 | ||
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大崎地区には大崎廃寺跡地蔵石仏以外にもう1体、文英様石仏の代表作がある。大崎廃寺跡の東にある遍照寺の墓地にある遍照寺1号石仏(高さ106cm)である。大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ円光光背を負う延命地蔵座像の薄肉彫りである。しかし、全体的な印象は大崎廃寺跡地蔵石仏と異なる。大崎廃寺跡地蔵石仏は無骨な農夫のような素朴さが魅力的であるのに対して、遍照寺1号石仏は、尼僧を思わせる上品な美しさが魅力である。鼻は大崎廃寺跡地蔵石仏と同じ団子鼻であるが、顔の形は瓜実顔で、目はまっすぐな小さな目で、おちょぼ口である。胴体部や蓮弁も線彫りというより浮き彫りに近く、非常に丁寧に彫られた美作である。 遍照寺墓地には他に2体の文英様石仏がある。1号石仏の隣に安置されている石仏は5体の合掌する比丘形像(地蔵?)を薄肉彫りする。もうT体は比丘形座像の薄肉彫りである。(『吉備の文英様石仏』ではなかったが2号石仏と3号石仏とした) |
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文英様石仏(6) 江口家墓地の文英様石仏 | ||
岡山市北区門前 | ||
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江口家墓地1号石仏(延命地蔵) 「天文4(1535)年 室町時代後期」 | ||
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江口家墓地2号石仏(延命地蔵) 「室町時代後期」 | ||
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江口家墓地3号石仏(地蔵菩薩・1号石仏の裏面) 「室町時代後期」 | ||
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国道429号線脇にある小さな墓地(江口家墓地)に3(2)体の文英様石仏がある。江口家墓地1号石仏(高さ83cm)は丁寧に仕上げられた薄肉彫りの秀作で、遍照寺1号石仏によく似た表現の延命地蔵石仏である。「天文四年(1535)願主」「八月二十四日」の記銘がある。 1号石仏からやや離れて立つ江口家墓地2号石仏(高さ107cm)も延命地蔵石仏で、やや歪な楕円形の顔と大きな鼻、目と同じ高さに彫られた、ヘッドホーンのような耳に特徴がある。3号石仏は1号石仏の裏面に刻まれた稚拙な表現の線刻の石仏で、後になって別人によって彫られたもので、文英様石仏の末期の作と思われ。 |
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文英様石仏(7) 報恩寺の文英様石仏 | ||
岡山市北区門前166 | ||
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報恩寺1号石仏 「室町時代後期」 | ||
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報恩寺2号石仏 「室町時代後期」 | ||
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報恩寺3号石仏 「室町時代後期」 | ||
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報恩寺4号石仏 「天文3(1534)年 室町時代後期」 | ||
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JR吉備線「足守」駅近くの岡山市門前には9体の文英様石仏がある。その内4体は、報恩寺の墓地に集められている。報恩寺T号石仏(高さ83cm)は地蔵や観音が多い文英様石仏の中では珍しい像で仏像の名称がわからないまま撮影したが、神仏習合で生まれた客人大明神のような神像と思われる。 報恩寺2号石仏(高さ114cm)は延命地蔵座像で、顔は瓜実顔で様式的には遍照寺1号石仏のながれを組む石仏であるが、顔以外は線彫りに近く、稚拙な表現で、遍照寺1号石仏よりやや下ったころの作と思われる。4号石仏も地蔵座像で稚拙でおおざっぱな表現である。 4号石仏(高さ68cm)は四角形の板状の石材に周囲を彫りくぼめ浮き彫りにした十一面観音の頭部像で、「開山雲 天文三年(1534)甲午3月」の刻銘がある。一見すると稚拙で抽象的な表現の石仏であるが、石という素材が生きていて、個人的には気に入っている石仏である。 |
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文英様石仏(8) 田上寺跡石仏 | ||
岡山市北区足守594-2 「室町時代後期」 | ||
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岡山市足守は岡山市の北西のはずれにある、豊臣秀吉の正室・北政所(ねね)の兄・木下家定が足守藩を作り、栄えた陣屋町である。武家屋敷とともに白壁・土塀の古い町並みが残る。 その足守の町の西の山沿いの旧田上寺跡の参道入り口にこの文英様石仏が丸彫りの地蔵石仏と共に祀られている。高さ50pほどの小形の薄肉彫りの延命地蔵石仏である。首をやや傾けた穏やかな顔が愛らしい。 |
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文英様石仏(9) 久米薬師堂石仏 | ||
岡山県総社市久米1213 「室町時代後期」 | ||
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久米薬師堂1号石仏 「室町時代後期」 | ||
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久米薬師堂2号石仏 「室町時代後期」 | ||
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総社市の砂川公園の東、総社市久米の御崎神社の隣にある薬師堂境内に2体の文英様石仏がある。共に薄肉彫りの二重円光を背負った延命地蔵で、平板な表現で顔以外は線彫りに近く、線も伸びやかさに欠ける。 左側の地蔵(久米薬師堂2号石仏、高さ90p)の方が出来はよい。「妙□禅尼」の銘文を刻む。石の色茶色かがった黄色のためか、顔は猿のように見えた。右側の地蔵(久米薬師堂1号石仏、高さ90p)は細長い石材に彫られていて、顔も細長く、胴体部分は摩滅している。 |
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文英様石仏(10) 腰投げ地蔵 | ||
岡山市北区加茂 | ||
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1号石仏 「室町時代後期」 | ||
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2号石仏 「永禄12(1569)年 室町時代後期」 | ||
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岡山市津寺にある加茂小学校の南に広がる水田の畦道にある2体の文英様石仏で、腰痛に霊験があるため通称「腰投げ地蔵」と呼ばれている。腹痛に苦しむものは、願いを込めて石地蔵をかたわらの溝へ投げ込み病気全快の後は元の位置に戻し篤く信心を続けることを約束する習わしがあった。腰痛に悩む多くの人々の願いを聞き届けたことだろう。しかし、現在は草に覆われていて忘れられた存在になっている。左の写真は石仏を覆っていた草をむしり取って撮ったものである。 2体とも薄肉彫りの延命地蔵で、に高さ40cmほどの小石仏である。共に真ん中の大きな団子鼻が特徴の丸顔で、優しそうな目をしている。向かって右の石仏(2号石仏)に「七月」「永禄拾二(1569)年」「吉日」の刻銘がある。左の石仏(1号石仏)も様式的に見て同じ頃の作と考えられる。 |
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文英様石仏(11) 常楽寺の文英様石仏 | ||
岡山県岡山市東区草ケ部 「室町時代後期」 | ||
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合掌印の地蔵座像 | ||
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輪光を背負った合掌印の地蔵座像 | ||
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十一面観音 | ![]() |
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放射光を背負った地蔵座像 | ||
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延命地蔵 | ||
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築地山常楽寺は奈良時代、報恩大師が開いたと言われる報恩大師開基・備前48寺の一つで、盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇を焼失し、その後再建された。明治16年再び大部分を焼失し、現在は山門と近年改築された本堂がある。築地という地名は山中に弘法大師が築いたという築地があることから地名がついたと言われる。実際、常楽寺の裏山、大廻山・小廻山の山頂近くには土塁(築地)が谷部には石塁が残っていて、古代の山城の跡だという。 その裏山から戦後の開墾によって発見された文英様石仏が18体、常楽寺の旧客殿下の石垣下に祀られている。すべて、高さ80cm〜30cmの小石仏で、十一面観音像、1体を除いて他は地蔵石仏と思われる。高松平野によく見かける錫杖と宝珠を持つ延命地蔵は見あたらず、合掌印が多い。また、放射光の頭光を背負い、法界定印の比丘形像(地蔵?)も3体見られる。同じ文英様式でも、顔の形が、まん丸・角張った丸・長円・瓜実顔など様々あり、表情も少しずつ違い、それぞれ個性的である。 放射光光背を負う法界定印の比丘形像の文英様石仏は山陽町の千光寺にも、2体見られ、その内の1体に永禄10年(1567)の紀年があることから、放射光光背を負う法界定印の比丘形像は文英様石仏の末期の作と思われる。 常楽寺にはこれらの戦後の開墾によって出土した18体の石仏以外にもう一体、文永様石仏がある。18体の石仏の少し離れた小さな祠の隣に立つ像高106cmの延命地蔵である。元来、この位置に建立された唯一の文永様石仏である。北区門前の江口家墓地2号石仏によく似ている。 |
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文英様石仏(12) 西軽部浄土寺石仏 | ||
岡山県赤磐市西軽部1378 「室町時代後期」 | ||
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赤磐市の旧赤坂町の西軽部にある浄土寺は奈良時代に孝謙天皇の勅命を受けて報恩大師が建立したと伝わる古刹で、「軽部下」バス停付近より800mほど急勾配の山道を登ったところにある。 その浄土寺の本堂の横にこの文英様石仏は立つ。高さ62cm、幅39cmの自然石いっぱいに、輪光を背負い棒のような錫杖を斜めに右手で持った延命地蔵座像を浮き彫りにする。遍照寺1号石仏・常楽寺延命地蔵の様式の流れを組む石仏である。 |
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文英様石仏(13)尾谷中八幡宮参道石仏群 | ||
岡山県赤磐市尾谷 「室町時代後期」 | ||
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赤磐市の旧山陽町は高松城跡のある高松平野についで文英様石仏が多くある地域で約150体の文英様石仏のうち41体がある。尾谷地区にはそのうち11体がある。山陽町の文英様石仏はほとんどが常楽寺の18体の石仏と同じく合掌印の地蔵である。また常楽寺の石仏と同じく放射光を背負った定印の地蔵もみられる。 尾谷中八幡宮参道石仏群は中八幡宮へと続く山道の土の崖の上に並べられている。山陽新聞社サンブック『吉備の文英様石仏』では8体となっていたが行ってみると6体になっていた。すべて像高45〜25cmほどの合掌印の地蔵で、2体と4体に分かれて並べられている。並んだ2体と4体はそれぞれよく似た顔である。 |
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