大和高原の石仏V |
「大和高原の石仏V」は「大野寺磨崖仏」「向淵三体地蔵」などがある国道165号線周辺の宇陀市の石仏紹介する。この地域は近鉄大阪線が国道165号線に平行して通っていて、大和高原の中では交通の便がよく、宇陀市榛原地区のように新興住宅地が広がっている場所もある。また、宇陀市の大宇陀松山地区や宇太水分神社のある宇陀市菟田野地区など古い町並みもあり、丘陵と茶畑と狭い水田が広がる素朴な山村の「大和高原の石仏T・U」とは少し違っているが、ここで紹介する石仏のある場所は路線バスが廃止されたところも多くあり、「大和高原の石仏T・U」よりアクセスに苦労する石仏が多い。 桜井市の東部の山中の瀧倉にある「西法寺地蔵石仏」・「瀧倉弥勒石仏」や宇陀市室生地区の笠間川流域の「つちんど墓地阿弥陀三尊石仏」・「滝山(下笠間)阿弥陀磨崖仏」は路線バスが廃止され、バスなどを利用して歩いて訪れるのは難しい。しかし、「西法寺地蔵石仏」や「つちんど墓地阿弥陀三尊石仏」・「滝山阿弥陀磨崖仏」は鎌倉時代の優れた石仏で自家用車やタクシーを利用して是非とも見てほしい石仏である。 「大野寺弥勒磨崖仏」は大和高原の石仏では最も知られた石仏で承元3年(1209)、後鳥羽上皇臨席のもと開眼供養された像高11mを越える巨大な磨崖仏である。近鉄「室生口大野」駅の近くにあり、しだれ桜が咲く春には多くの観光客で大野寺は賑わう。同じく観光客で賑わう室生寺には古い石仏は見られないが、金堂前の東側の大きな岩に珍しい「軍荼利明王」の磨崖仏がある。他に「室生口大野」駅の北3qには地蔵磨崖仏の秀作「向淵三体地蔵磨崖仏」がある。 宇陀市の旧榛原町の石仏では宇陀川の支流の向こう岸の岩に彫られた「濡れ地蔵磨崖仏」も鎌倉時代の地蔵磨崖仏である。他に室町時代の「大内峠十三仏」や大宇陀地区の「お茶目庚申」と称される「大願寺庚申塔」紹介する。 |
大和高原の石仏T 大和高原の石仏U |
大和高原の石仏22 西法寺地蔵石仏 | |||
奈良県桜井市瀧倉197 「鎌倉時代後期」 | |||
滝倉の村の北端にある西方寺の参道の石段の道脇に立つ。高さ1.75m、 二重光背形を厚く作り、蓮華座上の地蔵菩薩立像を厚肉彫りする。右手に丁寧に彫られた錫杖頭の錫杖を持ち、左手は高く胸前に上げて宝珠を持つ。引き締まった面相の重厚感のある秀作である。七廻峠の地蔵石仏とともに 大和高原の代表的する地蔵石仏であ る。 | |||
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大和高原の石仏23 滝倉弥勒石仏 | |||
奈良県桜井市滝倉 「鎌倉末期」 | |||
長谷寺の本地主神としてまつられてきた滝倉明神の本殿前参道を少し下がった所にある。自然石に高さ1mの二重光背を彫りくぼめ、その中に弥勒仏を半肉彫りする。 右手を下げて掌を、 左手は片前に上げて甲を見せ、ともに指を伸ばす珍しい印相である。 | |||
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大和高原の石仏24 濡れ地蔵磨崖仏 | |||
奈良県宇陀市榛原山辺三 「建長6(1254)年」 | |||
国道165号線沿いの山辺三の集落から近鉄大阪線の線路を越えた南に下った谷あいに建長6(1254)年の紀年銘の濡れ地蔵磨崖仏がある。 川の向こう岸の岩に、高さ184mの船型の彫り窪みをつくり、線刻の頭光背を負って蓮華座に立つ地蔵立像を半肉彫りしている。大きな頭の錫杖を直立して右手で持ち、左手を胸前に上げて宝珠をささげる。光背面の左右に三体ずつ、六地蔵立像が墨画で描かれていたという。また、光背の外側の左右に太山王と閻魔王が線刻されていて、地蔵十王の信仰が伺える。 濡れ地蔵と呼ばれるのは、山から滴る水で常に濡れているところから名付けられたものである。この川は宇陀川の支流にあたり、宇陀川に作られた室生ダムのため、増水時はダム湖の一部となり、増水時は濡れ地蔵は水没してしまう。 |
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大和高原の石仏25 大野寺弥勒磨崖仏 | |||
奈良県宇陀市室生大野 「承元3年(1209) 鎌倉時代初期」 | |||
高さ約30mの岩に二重光背を彫りくぼめ、像高11.5mという巨大な弥勒立像を線彫りしている。大野寺の前、宇陀川の清流をはさんだ大岸壁に刻まれた大磨崖仏は周りの風光と相まって雄大で魅力的である。 興福寺の雅縁僧正が、笠置寺の大弥勒像を模して、宋人の石工二郎 ・三郎らに彫らして、 承元3年 (1209)に完成させたのがこの弥勒磨崖仏である。 |
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大和高原の石仏26 向淵三体地蔵磨崖仏 | |||
奈良県宇陀市室生向渕 「建長6(1254)年」 | |||
集落の西はずれの畑の中に建つ堂に「穴薬師」と呼ばれるこの三体地蔵がある。凝灰岩の四隅を落とした正八角形の石材を利用して作られたもので、中央に蓮華座を設けて高さ150pの二重円光背の彫り窪みをつくり、像高130pの宝珠と錫杖を持つ地蔵立像を厚肉彫りする。その両側には同じく二重円光背の彫り窪みをつくり、中尊よりやや小さい像高90pの地蔵立像を厚肉彫りする。両脇持は共に、右手を下げて与願印を示し、右手で宝珠を持つ古式の地蔵である。 充実感のある、鎌倉中期らしい写実的な表現の地蔵石仏で、三体地蔵形式では最も古い様式である。施主名と共に建長6年(1254)の紀年銘を像の間に刻む。 |
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大和高原の石仏27 つちんど墓地阿弥陀三尊石仏 | |||
奈良県宇陀市室生小原847 「永仁6年(1298) 鎌倉後期」 | |||
つちんど墓地の奥まった所に、阿弥陀三尊を、一体ずつ、別石で彫られている。中尊の光背面に永仁6年の紀年を刻す。中尊は高さ約1.8mの細長い板状 石の表面に、二重光背形の彫りくぼみをつくり、像高1.3mの来迎印相 の阿弥陀如来を半肉彫りする。 顔は優しく温厚な表情で印象的である。一方、衣紋や全体の彫りは、硬く抑揚に欠ける表現である。しかし、その硬さが、石の美しさを引き出していて、 木彫の仏像にはない魅力を作り出している。 | |||
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大和高原の石仏28 滝山(下笠間)阿弥陀磨崖仏 | |||
奈良県宇陀市室生区下笠間 「永仁2年(1294) 鎌倉後期」 | |||
笠間川対岸の岸壁に、二重光背式の彫りくぼめを作り、その中に連座上にたつ来迎相の阿弥陀像を半肉彫りする。 頭光には、 放射光が線彫りされている。優雅でおおらかな面相の磨崖仏で、鎌倉後期の磨崖仏の秀作である。 絵画的な柔らかい表現で、 同じ時代のつちんど墓地の阿弥陀石仏とは違った魅力がある。 |
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大和高原の石仏29 室生寺軍荼利明王磨崖仏 | |||
奈良県宇陀市室生78 「享保12年(1727) 江戸時代」 | |||
金堂前の東側の大きな岩に、約1mの舟形を彫りくぼめ、 像高約80cmの軍荼利明王を半肉彫りする。10本の手を持つ異様な姿の石仏であるが、 日笠をかぶったような炎髪とユーモラスな顔がどことなく親しみをもてる。稚拙な表現であるが、 江戸時代の庶民の信仰の息吹が感じられる石仏である。向かって左に、「煩悩即菩提 生死即涅槃」と刻む。 | |||
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大和高原の石仏30 大内峠十三仏 | |||
奈良県宇陀市榛原内牧 大内峠 | |||
室生村上田口へ抜ける旧道の峠にある。高さ220p、幅220p、 奥行き180p自然石の岩に彫られている。岩の上に笠のような平たい石が載っている。地蔵像は形式化した彫りで、 鎌倉期の地蔵のような力強さに欠けるが、岩自体の魅力がそれを補ぎなっている。背後には樹木が茂り、 手前には石楠花の花が咲き、風景的にも素晴らしい。 線刻像では西面の阿弥陀三尊像の彫りがよい。 | |||
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大和高原の石仏31 大願寺庚申塔 | |||
奈良県宇陀市大宇陀拾生736 「天保14(1843)年 江戸時代」 | |||
奈良県宇陀市大宇陀の大願寺には「お茶目庚申」と呼ばれる青面金剛の庚申塔がある。境内の片隅に小さな覆堂があり、文字碑の庚申塔とともに安置されている。訪れた時には覆堂には「身代わり申」が吊され、文字碑の前には「申」と刻まれた瓦が置かれていた。 「お茶目庚申」は素朴で愛らしい青面金剛像で、四臂で左の二臂で三叉戟と羂索を持ち、右の二臂で法輪と蛇を持っている。青面金剛の顔や猿や鶏は漫画ティックな表現である。庚申塔は庶民信仰の石塔らしくこのようなユーモラスな庚申塔は全国によく見かけられる。 |
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