天理市の石仏
  
 
   
   
 天理市は1954年(昭和29年)に山辺郡の丹波市町、福住村・添上郡櫟本町・磯城郡柳本町など6つの町村が合併して発足した奈良県下で4番目の市である。名称は天理教に由来する。中心部に天理教本部・天理大学・各地方教会の詰所など天理教関連の施設が集中していることなどから、天理教の宗教都市として知られている。そのように天理教のイメージの強い都市であるが、歴史は古く日本最古の道として知られる山辺の道が通り、崇神天皇陵・景行天皇陵や多くの三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳などの古墳や、国宝の七支刀で知られる石上神宮をはじめ大和神社、長岳寺などの寺社などの文化遺産が豊富にある。

 石仏も「長岳寺弥勒石棺仏」「桃尾の滝不動三尊磨崖仏」「七廻峠地蔵石龕仏」など古く優れたものが多くある。特に柳本町の長岳寺周辺には古墳の石材を転用した「長岳寺弥勒石棺仏」・「専行院阿弥陀石棺仏」などの石棺仏や僧善教という石工の作品群など特異な石仏や「長岳寺奥の院不動石仏」「長岳寺地蔵笠塔婆」など鎌倉時代の整った石仏もあり石仏愛好家にとっては是非とも訪れたい場所である。

 石上神宮から3q離れた山中に桃尾の滝があり、滝の近くの岩肌に鎌倉時代の迫力ある線彫りの「桃尾の滝不動三尊磨崖仏」や南北朝時代の如意輪観音石仏や不動石仏がある。桃尾の滝から山道を登っていくと、奈良時代に建ったといわれる龍福寺跡があり、その道沿いにも不動や地蔵の磨崖仏がある。龍福寺は廃仏毀釈によって断絶し、その後大和桃尾山大親寺として不動堂や本堂が建てられた。境内には最近になって彫像された法華経28品に関わる石仏や四国八十八ヶ所霊場が並んでいる。

 ここでは「天理の石仏T」として長岳寺周辺の石仏を「天理市の石仏U」として桃尾の滝周辺の石仏を紹介する。また、天理市の東部の福住地区には「七廻峠地蔵石龕仏」や「下入田阿弥陀石仏」・「どろかけ地蔵」などの鎌倉〜南北朝時代の石仏があるが、これらは「大和高原の石仏U」で紹介している。
天理市の石仏T(柳本町・長岳寺の石仏)  天理市の石仏U(桃の尾の滝・龍福寺道の石仏)




   
天理市の石仏T(柳本町・長岳寺の石仏)
 
 奈良県の天理市柳本付近には長岳寺を中心として鎌倉時代から南北朝時代にかけての石仏が多くあり、石仏愛好家にとっては魅力的な所である。
 
 古墳の石材を転用した石棺仏や僧善教という石工の作品群など特異な石仏の宝庫である。

 特に、長岳寺の弥勒石棺仏は鎌倉中期の作風を示し、おおらかな雄大な表現の石仏でこの地方を代表する石仏である。また、竜王山中腹の長岳寺の奥の院には、大和地方の不動明王の傑作である鎌倉末期の不動石仏がある。

 柳本の町や長岳寺周辺には鎌倉後期の建治年間(1275〜1278)の銘が刻まれた小石仏がいくつかあり、同じ作者の作と思われる。銘がないが同じ作風の石仏とあわせると30体を越える。このうち、5体ほどが石棺仏である。面長で、細身で、技巧的な個性の強い作品群である。

 長岳寺の北東に「みろく丘」と呼ぶところがあり、そこに南北朝時代の弥勒石龕仏がある。目が細く、低い鼻で、個性的な表情の石仏で、印象に残る。「永和4年(1378)」の紀年とともに「大工僧善教」の銘があり、南北朝時代後期に善教という人が作ったことがわかる。柳本墓地の地蔵石仏など同じ作風の石仏もこの付近には多くあり、建治型石仏とともに、この地方の石仏の特色となっている。





天理市の石仏1 長岳寺地蔵笠塔婆
奈良県天理市柳本町508 「元享2(1322)年」
 山の辺の道に残る長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神社の神宮寺として創建したと伝えられる古刹である。現在でも、運慶・快慶などの慶派の仏像の先駆けと言える本尊の阿弥陀三尊像(藤原時代)など多くの文化財を有している。鎌倉時代の石造文化財も多くあり、境内の東の弥勒丘に立つ弥勒石棺仏はこの地方を代表する石仏である。

 本堂前野東隅に立つ笠塔婆は、高さ153p、幅約30pの柱状で、上面に船型の彫り窪みをつくり、像高45pの地蔵菩薩を半肉彫りしたものである。地蔵菩薩の下には2体の比丘像が薄肉彫りしている。力強さはないが端正な表現の地蔵菩薩である。「元享二(1322)年」の紀年銘がある。



天理市の石仏2 長岳寺弥勒石棺仏
奈良県天理市柳本町508 「鎌倉時代」
 長岳寺本堂から東南の丘の上に、この石仏がまつられている。高さ240p、幅180p、厚さ30cmの組合せ石棺の蓋石と思われる石材に、蓋裏の面に二重光背形を彫りくぼめ、その中に像高194p弥勒如来立像を蓮華上に半肉彫りする。像は右手を施無畏印、左手は垂れて掌を前にする与願印ではなく、のど地蔵と同じ掌を伏せる蝕地印(降魔印)である。大和の弥勒石仏によく見かける印相である。風化も少なく、美しく保存されていて、おおらかな雄大な表現の石仏である。



天理市の石仏3 専行院阿弥陀石棺仏・地蔵石棺仏
奈良県天理市柳本町1474   「鎌倉時代」
阿弥陀石棺仏
建治二年地蔵石棺仏
地蔵石棺仏
 柳本町の東に卑弥呼の時代の鏡、三角縁神獣鏡が多数出土したことで知られる黒塚古墳がある。その古墳の南に藩主であった織田一族の菩提寺、専行院(せんぎょういん)が建つ。本堂の前にこの阿弥陀石棺仏が立っている。

 高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に立つ阿弥陀来迎像を厚肉彫りする。建治年間の刻銘はないが、面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾など建治2(1276)年の光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。

 阿弥陀石棺仏の右には建治2(1276)年の地蔵石仏、また、境内の無縁仏内にも石棺材を使った地蔵石仏がある。これらも光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。




天理市の石仏4 中山観音堂阿弥陀石棺仏        
奈良県天理市中山町493  「鎌倉時代」
阿弥陀石棺仏
阿弥陀立像石仏
長岳寺の田んぼを隔てた北の小さな集落が天理市中山町で、そこには小さな観音堂がある。境内に十数基の小石仏が集めてられている。その中にこの阿弥陀石棺仏がある。

 高さ89cm、幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐す像高31cmの定印阿弥陀像を半肉彫りする。建治年間の刻銘はないが光蓮寺などの建治年間の石仏につながる石仏で鎌倉時代の作と思われる。光蓮寺や専行院の阿弥陀石棺仏に比べると彫りは浅く、穏やかな端正な顔である。

 他に建治年間の石仏によく似た小型の阿弥陀石仏もある。山形の石材の表面を平にして、その中に舟形の彫り窪みをつくり来迎院の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。他に厚肉ぼりの弥陀定印の阿弥陀座像石仏や角材の上に仏頭をのせたような石仏などもある。



天理市の石仏5 光蓮寺跡阿弥陀石棺仏・地蔵石仏
奈良県天理市柳本町830 「建治2(1276)年・貞治3(1364)  鎌倉時代・南北朝時代」
阿弥陀石棺仏
地蔵石仏
 古びた家屋が残る柳本の街の細い路地を入ったところにに光蓮寺跡があり、小さな毘沙門堂と石仏を集めた仮堂がある。仮堂の中心となっているのが、高さ113cm、幅49cm、厚さ26cmの石棺の一部を使用したと考えられる長方形石材に、舟形光背を深く彫りくぼめ、その中に来迎阿弥陀立像を厚肉彫りしたこの石仏である。鎌倉中期の建治2(1276)年の刻銘がある。面長で、細身で、技巧的な個性の強い石仏で、このような石仏は柳本の町や長岳寺周辺には30体ほどあり、そのおおくが建治年間(1275〜1278)の刻銘がある。

 阿弥陀石棺仏の前に目が細く、低い鼻で、個性的な表情の地蔵石仏が置かれている。高さ55p、下幅45pの矩形状の石材の表面に船形の彫りくぼみをつくり、錫杖と宝珠を持った地蔵立像を半肉彫りしたものである。「□冶三年‥」の刻銘があり、この後、紹介する「大工双善教」の刻銘のある「みろく岡弥勒石龕仏」と同じ様式である。他の善教様式の石仏と同じ南北朝時代の作で、貞治3(1364)の造立と考えられる。



天理市の石仏6 柳本町五智堂周辺の石仏
奈良県天理市柳本町159-3  「南北朝時代」
双仏石
地蔵石仏
阿弥陀立像石仏
阿弥陀座像石仏・仏頭石
 柳本の町の中に長岳寺の飛び地があり、五智堂と呼ばれる真ん中に太い心柱がある傘のような建物か立っている。その近くの道ばたに20体近い石仏が集められていて、その中に南北朝時代の双仏石がある。高さ53p、幅70pの花崗岩の石の正面に船形光背を二つつなげて彫りくぼめ、像高35pの阿弥陀と地蔵の立像を半肉彫りしたもので、柳本付近でよく見られる善教作の石仏に通じる作風である。天理市福住の泥かけ地蔵とともに双仏石の先駆けとなる石仏である。

 他にも善教様式の地蔵石仏もある。光蓮寺跡の地蔵石仏と同じく矩形の石材の表面に船形の彫りくぼみをつくり地蔵立像を半肉彫りしたものであるが、錫杖宝珠型ではなく、両手で宝珠を持った像である。また、鎌倉時代の建治様式の石仏もある。船形の自然石の表面いっぱいに船形の彫りくぼみをつくり来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。他に厚肉ぼりの弥陀定印の阿弥陀座像石仏や角材の上に仏頭をのせたような石仏などもある。



天理市の石仏7 みろく丘弥勒石龕仏
奈良県天理市柳本町  「永和4(1378)年 南北朝時代」
 長岳寺の北東に「みろく丘」と呼ぶところがあり、そこに南北朝時代の弥勒石龕仏がある。目が細く、低い鼻で、個性的な表情の石仏で、印象に残る。「永和4年(1378)」の紀年とともに「大工僧善教」の銘があり、南北朝時代後期に善教という人が作ったことがわかる。この弥勒仏と同じ作風の石仏もこの付近には多くあり、建治型石仏とともに、この地方の石仏の特色となっている。


   
天理市の石仏8 柳本墓地地蔵石仏
奈良県天理市柳本町583    「永徳3年(1383) 南北朝時代」
 長岳寺の南にある柳本墓地には角張った顔、細い目、低い鼻、小さな口の個性的な表情の地蔵石仏がある。墓地入口付近に東向きに立っていて、高さ143pの不整形石の正面に船型の深い彫り窪みをつくり、宝珠と錫杖を持つ地蔵を半肉彫りしたもので、他のこの時代の地蔵石仏と違った迫力があり、魅力的である。永徳三年(1383)の紀年銘がある。柳本墓地地蔵石仏は「大工僧善教」の刻銘のある永和四(1378)年の「みろく丘弥勒石龕仏」と顔の表情や衣紋表現などよく似ている。従って、柳本地蔵石仏も善教の作と考えられる。柳本町には他にも、同じ頃の紀年銘の持つ同様の作風の石仏が見られる。


   
天理市の石仏9 長岳寺奥の院道地蔵石仏・阿弥陀石仏
奈良県天理市柳本町    「貞和5(1349)年 南北朝時代」
 長岳寺奥の院は長岳寺から登山道を3.5qほど歩いた山の中にあり、鎌倉時代の優れた不動石仏がある。その奥の院へ行く登山道の道脇に、柳本墓地地蔵石仏とよく似た作風の地蔵石仏が置かれている。

 高さ1mほどの花崗岩の自然石を船型の彫り窪みをつくり、蓮華座に坐す、宝珠と錫杖を持った地蔵菩薩を半肉彫りしたもので、貞和5(1349)の紀年銘がある。柳本墓地地蔵石仏や弥勒丘弥勒石龕仏とは30年ほど隔たっているが善教作風の濃い地蔵石仏である。近くには同じ作風の阿弥陀石仏もある。



天理市の石仏10 長岳寺奥の院不動石仏
奈良県天理市柳本町  「元徳2年(1330) 鎌倉後期」
 長岳寺の東にある大和を代表する山城跡のある龍王山へ行く登山道を2qほど上ったところに、分かれ道があり、そこから数百m進むと長岳寺奥の院不動石仏がある。舟形の火焔光背を背負った像高153pの不動立像の厚肉彫り像である。引き締まった顔や衣紋・風になびく検索など写実的な表現の優れた不動石仏である。近くにこの不動の勧進碑があり、勧進者名と「元徳弐年庚午正月廿七日」の刻銘がある。


天理市の石仏U(桃の尾の滝・龍福寺道の石仏)