令和6年5月29日撮影 近くの水田地帯にて |
オオヨシキリ |
この日も水田地帯の葭原でオオヨシキリを撮影しました。 |
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令和6年5月27日撮影 近くの水田地帯にて |
チョウゲンボウ・トビ |
チョウゲンボウやトビもいたのですが、どちらも遠くて、解像度の低い今使っているカメラではぼけた画像しか撮れませんでした。 |
チョウゲンボウは遠く離れた電柱にとまっていました。何とか写そうと歩いて近づいて行ったのですが、30mほど手前で飛び立ってしまいました。 |
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川の河川敷を飛ぶトビを見つけてカメラを向けましたが、カメラを向けた時は遠くへ飛んでいきました。足で何かわかりませんが獲物を持っているようです。 |
その後高い上空を周回していました。 |
オオヨシキリ |
川沿いの一画が水害対策で遊水地になるため耕作放棄地が増えて、葭原も広がっています。その葭原のあちこちでオオヨシキリがさかんに鳴いていました。 |
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令和6年5月26日撮影 隣町の山にて |
キビタキ |
前日の25日アオゲラを撮影した付近で撮ったキビタキです。25日もキビタキはいて、カメラを向けたのですが、結局、撮ることはできませんでした。この日、ようやく撮影できました。 |
キビタキは「ピッ、ピッ」と地鳴きしながら枝から枝へ飛び移っていて、なかなかシヤッターチャンスが来ません。小さな木の幹にとまった時、ようやく撮影できました。しばらこの木に止まっていたので連写で何回かシャッターボタンを押しました。ケムシらしきものを咥えています。 |
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液晶モニターで見てみると咥えているのはケムシやイモムシではなくヤスデのようです。 |
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令和6年5月25日 隣町の山にて |
アオゲラ♀ |
尾根沿いのハイキングコースを歩いていると、コジュケイの大きな鳴き声が聞こえました。恐々、谷沿いの林を下りていくと、突然、「ケケ」と鳴きながらアオゲラが飛んできて小さな木の幹にとまりました。アオゲラは後ろ向きで止まった所は陰になっていてよい写真になりませんでした。 |
頭の赤い部分は少なく雌のようです。 |
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令和6年5月23日撮影 隣町にて |
コシアカツバメ |
隣町のコシアカツバメが毎年、集団営巣する場所に行きました。今年もまだ数は少ないですが集団営巣が始まっていました。巣が作られている所は私有の建物なので、近くの電線にとまっているコシアカツバメを撮影しました。 |
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令和6年5月22日 少し遠くの史跡公園 |
大きな池の隣の草原が広がる史跡公園の資材倉庫の周りの草原で盛んにセッカとオオヨシキリが鳴いていました。 |
セッカ |
この日もスイバの花が目立つ草原の上を「ヒッ ヒッ ヒッ」「チャ チャ チャ」と鳴きながら飛んでいます。時々、草原に降りるのですが草原の中に潜ってしまいなかなか撮影できません。ようやくスイバの花にとまってくれましたが、遠くて今使っている解像度の低い古いカメラでは鮮明な画像が撮れません。 |
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オオヨシキリ |
史跡公園の大きな資材倉庫の周りはオギが茂っていてそこで数羽のオオヨシキリがさかんに鳴いています。 |
オオヨシキリは時々、資材倉庫を囲むフェンスの上で「ギョギョギョ ギョキチ ギョキチ ギョギョ」と鳴いています。 |
フェンスのこの場所はオオヨシキリのお気に入りのようで糞がたくさん残っています |
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令和6年5月22日 少し遠くの大きなため池 |
アオサギ親子 |
コアジサシやトビがとまっていた釣り桟橋の残骸にアオサギの巣が作られています。去年も子育て中のアオサギを撮影しています。今年は4つも巣が作られていました。 |
この日は池に来た直前は4つの巣にはアオサギはいませんでした。コアジサシを探して望遠レンズで桟橋の残骸を覗いていると、1羽のアオサギが巣に戻ってきました。何もいないと思っていた巣から雛たちが顔を出しました。 |
餌をねだって4羽の雛が親鳥の周りに集まり、口移しで餌をもらっています。 |
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1羽の雛が親からもらったタウナギらしきものを飲み込もうとしています。 |
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コアジサシを撮影していると、別の巣につがいと思われるアオサギがいるのに気づいてカメラを向けました。こちらは雛はまだいないようです。 |
コアジサシ・トビ |
2週間ほど前、コアジサシを撮影したため池に行きました。この池は昔の釣り用の桟橋の残骸が残っていて、その残骸にいろいろな鳥がとまります。この日はコアジサシやトビ・カルガモがいました。 |
1羽のコアジサシが桟橋の残骸にとまっていました。 |
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トビも桟橋の残骸で休んでいました。 |
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令和6年5月21日 東北の磨崖仏(5)(6) | ||
東北の磨崖仏(5) 雄島阿弥陀磨崖仏 | ||
宮城県宮城郡松島町松島浪打浜 「不明」 | ||
中世の松島は”奥州の高野”と称される死者供養の霊場でした。その中心は松島の奥の院と呼ばれる雄島でした。ここは平安後期の僧、見仏上人が法華教六万部を読通した見仏堂の跡があり、多くの岩窟が残り、岩窟に卒塔婆を彫りつけた跡がいくつも残る壁が見受けられ、浄土往生を祈念した石造供養塔の板碑や五輪塔が点在している。 その雄島は「松島海岸」駅の南<0.5㎞の海岸にかかる朱塗りの渡月橋を渡って入る。阿弥陀磨崖仏は渡月橋を渡ったすぐ右手の石龕の壁に半肉彫りされている。座像で風化がすすみ、目鼻や着衣はほとんど残っていない。年号は不明で、様式も風化すすみ確認できないため制作年代はわからないが、なかなか堂々としている。 |
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東北の磨崖仏(6) 達谷窟大日如来磨崖仏 | ||
岩手県西磐井郡平泉町平泉北沢16(西光寺境内) 「鎌倉時代」 | ||
平泉の西南約6キロ、美しい渓谷美を誇る厳美渓(名勝天然記念物)に至る道路の途中に、達谷窟毘沙門堂(西光寺)がある。 達谷窟毘沙門堂は坂上田村麻呂が蝦夷平定の際、京の鞍馬寺を模して毘沙門堂を建立し、108体の多門天(毘沙門天)を安置したのが始まりとされてい.る。現在、毘沙門堂は崩れて浅くなった窟の壁面に半ば食い込む形で建てられている。昔は深い大きな窟で、蝦夷の王、悪路王(アテルイ?)や赤頭らがたてこもったともいわれる。 毘沙門堂の横、高さ40mほどの大岸壁にこの大日如来磨崖仏がある。現在は顔面と肩の線を残すのみであるが、その大きさは十分うかがえる。九州の熊野磨崖仏や普光寺磨崖仏に匹敵する巨像で、日本最北の磨崖仏といわれている。 顔は下ぶくれの角顔で三角形の大きな鼻と厚い唇の大きな口が特徴である。大まかで上作とは言いがたいが、切り立った岩壁の迫力と無骨な東北人を思わせる顔が印象に残る磨崖仏である。髪は螺髪のようなので、阿弥陀如来であるという説もある。 永承6(1051)年、源頼義が、安倍貞任を成敗したときの戦死者の供養のため、弓弭で図像を岩面に描いたのを、彫り出したのがこの大日如来であると言い伝えられている。 |
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令和6年5月20日 地元の住宅地にて |
イソヒヨドリ |
地元の山のハイキングコースを歩きました。暗いスギ林で「ギィー」「フィーホイホイ」とサンコウチョウの鳴き声が聞こえ、姿をちらっと見かけたのですが撮影できませんでした。結局ハイキングコースではシヤッターを切ることができず、ハイキングコースの入り口の住宅地で雄と雌のイソヒヨドリを撮影しただけでした。 |
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令和6年5月19日 宮崎の田の神(112)~(114) | |||
宮崎の田の神 (112) 浮田にある田の神 | |||
宮崎県宮崎市浮田 | |||
栗下の田の神 「明治25年(1892)」 | |||
浮田の田の神 「年代不明」 | |||
浮田の栗下は東自動車道が通っている付近の大谷川の南側の集落である。その栗下集落の西に小山があり、その頂上付近に栗下自治公民館がある。そこに石祠や石塔と一緒に栗下の田の神が祀られている。左手にスリコギ、右手にメシゲを持つ像高80㎝の高岡型の田の神像である。浅い中腰で正面から見ると直立しているように見える。穏やかであるが威厳のある顔で、村の和尚さんといった雰囲気である。「明治二十五年辰二月十九日」の紀年銘が基壇に刻まれている。 浮田の田の神は「上浮田」バス停の南にある用水路わきの樹の下に祀られている。田の神の前には水田が広がっているが後ろは駐車場や武道場や民家になっている。像高90㎝の高岡型田の神像で、シキを阿弥陀に被り中腰で左手にメシゲ、右手にスリコギを持つ。紀年銘を探したが確認できなかった。鼻の頭に傷がありスリコギの一部がかけているぐらいでほとんど摩滅や痛みがなく、比較的新しい田の神と思われる。額に皺をよせて目尻を下げて微笑む姿は印象に残る。 |
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宮崎の田の神 (113) 白髭神社の田の神 | |||
宮崎県宮崎市有田2311 「明治14年(1881)?」 | |||
白髭神社の田の神は有田の白髭神社の参道階段の左側の神社の森の端にある。深い中腰で、大きなメシゲを左手に持ち、右手にスリコギを持った田の神で、横から見ると今にも立ち上がって農民が田の神舞を踊る姿が想像できる。顔は柏原の田の神と同じくビリケンのような金柑頭である。明治十四年(1881)建立の文字があるとのことだが確認できなかった。 | |||
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宮崎の田の神 (114) 生目の田の神 | |||
宮崎県宮崎市生目阿智野 「明治30年(1897)」 | |||
生目神社の西、外環状線(県道9号線)「生目橋南」交差点の西の0.2㎞の三叉路の山裾に水神碑や月待塔などの石塔や石祠と一緒に生目の田の神は祀られている。像高90㎝ほどのシキを阿弥陀に被って中腰で立つ高岡型の田の神である。メシゲとスリコギを持つと思われるが両手とも手首から先か破損してどちらに持っていたかわからない。基壇に「明治三十年八月二十八日 奉勧請太田乃命 生目村大字生目 小村 中組 下組 味野組」の刻銘がある。 | |||
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令和6年5月18日 近くの水田地帯にて |
オオヨシキリ |
近くの水田地帯の葭原でオオヨシキリが鳴いていました。 |
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令和6年5月17日 隣町の山にて |
キビタキ |
隣町の山のキビタキです。今まであちこちで聞いたセンダイムシクイの囀りはまったく聞こえず、キビタキの囀りも1カ所で聞いただけでした。そのキビタキを暗い木々の茂った山中で何とか粘って撮影しました。 |
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令和6年5月14日撮影 地元にて |
チョウゲンボウ・カワラヒワ |
この日も公共施設屋上のテレビアンテナにとまっているチョウゲンボウを撮影しました。 |
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チョウゲンボウを撮影していると「ビーン ビーン」と聞きなれない鳥の鳴き声が近くの電線から聞こえました。カメラを向けてみるとカワラヒワでした。帰って図鑑で調べてみるとカワラヒワの雄が「ビーン」と鳴くこともあるようです。 |
令和6年5月12日撮影 地元にて |
チョウゲンボウ |
地元の公共施設の換気口でチョウゲンボウが毎年、巣作りをします。いつも4、5羽の雛が生まれ巣立っていきます。今年も期待して来てみると、チョウゲンボウの雄が施設の屋上のテレビアンテナにとまっていました。 |
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イカルチドリ |
チョウゲンボウを撮影した公共施設の近くの川の河原でイカルチドリを撮影しました。コチドリと思ってカメラを向けたのですが、液晶モニターで確認するとイカルチドリでした。 |
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令和6年5月11日撮影 隣町の山にて |
センダイムシクイ |
今まで使っていたカメラが故障して修理に出したため、この頃は古いカメラを引っ張り出して撮影しています。今までのカメラに比べると解像度が低く、眼や羽毛などをしっかりと捉えることができません。この日もコナラの木で囀るセンダイムシクイを見上げるように撮ったのですが? |
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令和6年5月9日撮影 少し遠くの大きなため池と史跡公園にて |
トビ・コアジサシ |
池の上空をタカ類らしき鳥が旋回していました。ミサゴを期待してカメラを向けてみるとトビでした。この池でトビを見たのは初めてです。 |
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このため池で毎年5月頃コアジサシを撮影しています。今年もコアジサシが来ていました。今日は対岸近くを飛んでいて、近づいてくれず、ぼけた写真しか撮れませんでした。 |
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オオヨシキリ |
大きな池の隣は草原が広がる史跡公園で、その公園の資材倉庫の周りのオギ原で盛んにオオヨシキリが鳴いていました。オオヨシキはオギ原の中で鳴いていて声が聞こえるのですが姿が見られません。あきらめてセッカの鳴く草原に向かおうとした時、倉庫を囲むフェンスにとまっているオオヨシキリを見つけました。 |
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セッカ |
セッカは公園の資材倉庫の近くのスイバの花が目立つ草原の上を「ヒッ ヒッ ヒッ 」「チャ チャ チャ」と鳴きながら飛んでいます。時々草原に降りるのですが遠い草原の中に潜ってしまいなかなか撮影できません。何とか撮影できたのは資材倉庫のフェンスの上でした。 |
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令和6年5月10日 宮崎の田の神(109)~(111) | |||
宮崎の田の神 (109) 高野東の田の神 | |||
宮崎市高岡町上倉永高野 「昭和35年(1960)」 | |||
上倉永高野の集落の東、「高野西の田の神」のある水田地帯を挟んだ丘陵沿いに数軒の家が集まった集落がある。その集落の南の端に高野東の田の神が祀られている。像高65㎝でシキを光背のように背負い、着物に袴姿で中腰で立つ高岡型田の神である。下倉の田の神と同じように右手にメシゲ、左手にスリコギを持っている。 寺迫の田の神と同じ昭和35年(1960)の作であが、同じ高岡型田の神であるが趣は少し違う。着物の襞など丁寧に彫り、顔も額や目もと、口周りの皺なども丁寧に表現していて、顔には微笑みはなく、田の神というより羅漢のように見える像である。 |
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宮崎の田の神 (110) 柏原(かしわばる)の田の神 | |||
宮崎県宮崎市柏原 「昭和16年(1927)」 | |||
大字跡江・大字有田・大字生目・大字浮田・大字柏原・大字小松・大字富吉など宮崎市生目地区は元々、薩摩藩でなく、江戸時代、田の神像はあまり多くはつくられなかった。そのため、生目地区の田の神の多くは明治以降に制作されたものである。昭和になってつくられたものも多い。それも、ほとんどがシキを阿弥陀にかぶり、坊主頭でメシゲとスリコギを持ち、着物に袴姿の田の神、青山幹雄氏が高岡型と名付けられた田の神像である。 | |||
柏原の田の神は谷口漬物店近くの田の中にある。昭和十六年九月二十七日につくられたもので、高岡型田の神で左手にメシゲを持つ、右手は一部が欠けているが、スリコギを持つていると考えられる。ビリケンのような金柑頭で、中腰というより腰掛けているように見える。像高は約80㎝。基壇に個人の功績を称える表彰記念文が刻まれている。柏原には他に3体ほどの田の神がある。 | |||
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宮崎の田の神 (111) 跡江にある田の神 | |||
宮崎県宮崎市跡江 | |||
八坂神社の田の神 「昭和14年(1925)」 | |||
跡江の田の神 「年代不明」 | |||
八坂神社にある田の神も柏原の田の神と同じく、基壇に個人の功績を称える表彰記念文が刻まれている。昭和十四年三月十二日の像立されたもので、像高は105cmで、中腰で左手にメシゲ、右手にスリコギを持つた高岡型の田の神である。小太りで首がなく丸顔で額や目尻、口の周りに皺が刻まれている。皺が髭のように見え、太ったカワウソのような印象を受けるユニークな田の神像である。イチイガシが田の神の背後にあり、撮影したときはイチイガシの木と美しい青空と田の神がマッチして印象深い写真になった。 また、八坂神社の北100mの三叉路の空き地にも像高1mの高岡型の田の神がある。痛みがひどく胸元が大きく破損してる。セメントで補修して頭部とつなげている。 |
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令和6年5月8日 宮崎の田の神(106)~(108) |
宮崎市の田の神2 (農民型田の神) |
高岡町や宮崎市生目地区・綾町にはシキを阿弥陀にかぶり、坊主頭でメシゲとスリコギを持ち、着物に袴姿で中腰で立つ田の神が多数ある。青山幹雄氏はこの像を高岡型と名付けられている。これらの田の神はすべて明治以降の作である。これらは高岡町の石工によって彫られたもので、昭和期の作のものも多数ある。 青山幹雄氏の『宮崎の田の神像』によると、これらの田の神は明治2年頃から柳原作兵衛等を中心とした、高岡町川原の石工たちによって作られてきた高岡町ものであるという。 『宮崎の田の神像』には柳原作兵衛が描いたと思われる田の神の下絵が紹介されていて、青山幹雄氏は、その内の一つの下絵が像立年のわかる高岡型田の神では最も古い明治12年像立の下倉の田の神のものと推測されている。高岡町では昭和になって作られた高岡型の田の神の寺迫の田の神や高野田の神・小山田の田の神を紹介する。 生目地区は元々、薩摩藩でなく、江戸時代、田の神像はあまり多くはつくられなかった。そのため、生目地区の田の神の多くは明治以降に制作されたものである。昭和になってつくられたものも多い。それも、ほとんどが高岡型と名付けられた田の神像である。生目地区では八坂神社の田の神・栗下公民館の田の神・浮田の田の神などの高岡型の田の神を紹介する。 |
宮崎の田の神 (106) 下倉の田の神 | |||
宮崎県宮崎市高岡町下倉永 「明治12年(1879)」 | |||
下倉の田の神は下倉の村の外れに祀られていて、像立年のわかる高岡型田の神では最も古い。また、、最も大きい像でもある。「明治十二年卯(1879)」の紀年銘がある。像高は150㎝で大きなシキを光背のように背負い、右手にメシゲ、左手にスリコギを持ち、着物に袴姿で中腰で微笑んでいる。高岡型の田の神の代表する像である。 | |||
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宮崎の田の神 (107) 小山田の田の神 | |||
宮崎市高岡町小山田 「昭和16年(1941)」 | |||
県道28号(高岡・日南)線の高岡町小山田の「宮崎門前」交差点から西へ0.4㎞行った道端にブロックで冂の字型に囲んだ中に小山田の田の神が祀られている。大きなシキを光背のように背負い、着物に袴姿で中腰で微笑んでいる高岡型田の神である。両手首の部分が摩滅して持物はわかりにくいが、左膝の部分にメシゲの跡が残っていて、右手にスリコギ、左手にメシゲを持っていたと考えられる。 下倉の田の神とは持物が左右逆である。中腰でかがめた膝の後ろに石材を残していて、横から見ると腰掛けているかのように見える。昭和期の高岡型田の神にはこのような表現が多い。額に皺をよせたドングリ眼の顔はいかに人のよい農夫といった風情である。基壇に「昭和十六年七月七日」の紀年銘と設立者の名前などが刻まれている。 |
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宮崎の田の神 (108) 寺迫の田の神 | |||
宮崎市高岡町上倉永寺迫 「昭和35年(1960)」 | |||
上倉永の寺迫の集落の西の水田地帯の真ん中に2本の木があり、その下に石塔や石碑が安置されている。訪れた時は手前に2本の竹竿を立てて注連縄をかけて木の周りを神域のようにしていた。田の神は向かって右の木の下に祀られている。この像も大きなシキを光背のように背負い、着物に袴姿で中腰で微笑んでいる高岡型田の神である。小山田の田の神と同じように右手にスリコギ、左手にメシゲを持っている。目尻の下がった穏やかな表情でどこか知的な雰囲気も漂う顔の田の神である。像高は106cm。基壇に奉納者名と共に「昭和三十五年二月」の刻銘がある。 | |||
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令和6年5月7日 隣町の山にて |
キビタキ |
今日も隣町の山へ行きました。狙いはオオルリなのですが、撮影できたのはいつものようにキビタキでした。2か所で撮影しました、 |
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令和6年5月5日撮影 近くの川にて |
イカルチドリ |
近くの川に行きました。河原で「ビュ」「ピィ ピィ」とチドリの鳴き声が聞こえ、数羽の鳥が飛びまわっていました。コチドリを期待してシャッターを切ったのですが、モニター画面で確認するとイカルチドリでした。撮った写真を確認してみると口を開けて鳴いている場面がいくつもありました。 |
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令和6年5月6日 宮崎の田の神 (104)(105) | |||
宮崎の田の神 (104) 有田の田の神 | |||
宮崎県宮崎市有田 | |||
宮崎市の生目地区(旧生目村)は島津領ではないが、隣接する島津領の高岡町などの影響か田の神像が多くつくられた。ただし、ほとんどが高岡町の下倉の田の神と同じ様式の農民型の田の神で明治以降の作である。そのような生目地区で江戸時代の作と思われる2体の神官型の田の神を撮影した。 その内の1体が有田の高峯墓地の入り口付近の道沿いの小さなお堂に祀られている。烏帽子をかぶり狩衣を着た神官の座像で笏を持つように両手を輪組みしている。全体的に風化が進み、目鼻や衣紋など、細かい部分は一部消えかかっているが上品で穏やかな面影が残っている。田の神というより仏像もしくは神社の神像に見える整った美しい像である。江戸時代の作と思われる。隣に耕地整理の記念碑があることなどから田の神像であることは間違いないだろう。撮影した時はできるだけたくさん田の神を撮影しょうと急いでいて、記念碑の刻銘など確認していなかった。 |
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宮崎の田の神 (105) 富吉の田の神 | |||
宮崎県宮崎市有田 | |||
国道10号線沿いの富吉神社の東にある丘にある富吉の田の神も神官型の田の神である。丘の中腹に上半身だけが見える。冠の甲を頭に乗せた狩衣姿の田の神像で、明らかに素人がつくったと思える田の神像で、子どものような素朴で愛らしい田の神像である。紀年銘はないが、江戸時代の作と考えられる。 | |||
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令和6年5月4日 隣町の山にて |
キビタキ |
隣町の山のキビタキです。最近はいつも4ヶ所でキビタキの囀りを聞きます。その内、3ヶ所でキビタキを撮影しています。この日、撮影したのもその3ヶ所の1つです。 |
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芋虫を捕まえたようです。 |
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令和6年5月3日 宮崎の田の神 (102)(103) | |||
宮崎の田の神 (102) 城ヶ峰の田の神 | |||
宮崎県高岡町花見城ヶ峰 | |||
城ヶ峰の田の神1 「明治2年(1869)」 | |||
城ヶ峰の田の神2 | |||
花見の城ヶ峰自治公民館の北650mの農道脇に石祠に納められた2基の神官型田の神像がある。向かって左の田の神は矩形の石材を四本立てその上に屋根石を置いた石祠の中に祀られた神官型座像の田の神で高浜の田の神2と同じように右手に彫った笏を持つ、左手は手首の部分が破損していて持物(宝珠?)などはわからない。頭部は破損されて別の頭部を継いだように見える。装束の表現は「尾谷の田の神」とよく似ていて高岡五町や去川・浦之名の田の神のような立体感に欠ける。石祠の石柱に「明治2年(1869)」の刻銘があり、「尾谷の田の神」と年代はあまり変わらない。 右の田の神も石祠の中に祀られた神官型座像の田の神である。石祠は壁または柱の部分がブロックに変えられている。この像は「尾谷の田の神」と同じく膝の上で両手で彫った笏を持っている。装束は雛人形の男雛のように袖を張った表現になっていて立体感は出ているが、全般的に硬く、おそらく「尾谷の田の神」や左の像と同じ頃の造立と思われる?。頭部は左の像と同じく継いだように見えるが、頭部は材質や表現から元の頭部と思える。 |
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宮崎の田の神 (103) 高野西の田の神 | |||
宮崎県高岡町上倉永高野 「安永6年(1777年)」 | |||
高岡町上倉永の高野地区の水田の用水路脇に石祠があり、その中に高野西の田の神が祀られている。田の神は丸彫りでなく、直方体の石材の表面いっぱいに矩形に深く彫り込みその中に田の神の座像を厚肉彫りしたもので、上に屋根石を乗せて石祠にしている。地蔵など石仏ではよく見られるが、田の神像では珍しい。 最初、この田の神をちらっと見た時は、頭を丸めているように見え、両手も膝上で定印を組んでいるように見えたので、地蔵菩薩と思えた。しかし、よく見ると胸元に笏が彫られいて、頭部も頭上に冠の甲が彫られているように見え、仏像でないことは明らかである。衣装も僧衣にも見えたが、安座している部分の衣装は狩衣のように見える。従って神官型座像の田の神と考えられる。石祠の側面に「安永6年(1777年)」の刻銘がある。衣装などに彩色の跡が残る。 |
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令和6年5月2日 近くの水田地帯にて |
麦畑のセッカ |
近くの水田地帯に行きました。最近は昔のように麦を裏作としてつくる田んぼが増えていて、その麦畑に毎年、セッカが姿を見せます。 |
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