令和5年10月31日撮影 近くのため池と水田地帯にて |
ハシビロガモ♀・キンクロハジロ・ヨシガモ♀・ノビタキ |
10月末になってようやく大きなため池で冬鳥のカモ類を数が少ないが何種類か見られるようになりました |
ハシビロガモとヨシガモの雌です。 |
キンクロハジロはこの秋最初に見た冬鳥のカモです。この日は雄雌あわせて6羽いました。しかし、ほとんど顔を埋めて休んでいました。1羽の雄だけが活発に動いていました。 |
耕作放棄地のノビタキです。10羽ほどいたノビタキはこの日は雄のノビタキを1羽いただけでした。この秋、最後のノビタキでした。 |
令和5年10月28日 近くの菊畑にて |
ノビタキ |
2週間ぶりに近くの菊畑でノビタキを撮影しました。今日は刈り取り出荷した後の菊畑で撮影しました。支柱も取り払われ、刈り取った後に咲いた黄色や赤・白の花が美しく、絶好のノビタキの撮影ポイントでした。 |
令和5年10月26日撮影 自宅と地元の山の上の公園にて |
ジョウビタキ♀・キビタキ |
山の上の公園へカメラを持って家の玄関を出ると、「ヒッ、ヒッ、ヒッ」とジョウビタキの声が聞こえました。聞こえた方を見てみると、空き地を挟んだ隣の家のテレビアンテナにとまっていました。雌のジョウビタキです。この秋初めてのジョウビタキです。 |
山の上の公園にもジョウビタキ♀がいました。 |
キビタキの雌もいました。山の上の公園では毎年、秋よくキビタキを撮影しているのですが、この秋はあまり見ていません。雌を数回見たくらいです。 |
この秋、初めてのキビタキの雄です。後ろ姿しか撮れませんでした。毎年、秋もキビタキ♂をよく撮影していたのですが。 |
令和5年10月25日 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
ホオアカ幼鳥・ノビタキ |
ノビタキを撮影しているときにノビタキと思って撮影したオオアレチノギクに止まったホオアカの幼鳥です。撮影した後、モニター画面で見直してみると頬が赤茶色であることに気づきました。ただ、頬の赤茶色が薄く、頭部も灰色でなく褐色なのでコホオアカの幼鳥ではないかと考えました。家へ帰って見直したり図鑑やネットで調べてみると、塔央線がなくどうやらホオアカの幼鳥のようです。コホオアカなら初見だったのですが。 |
ホオアカを撮影する前にノビタキも撮影しました。 |
令和5年10月23日撮影 地元の山の上の池にて |
オシドリ |
この日も山の上の池のオシドリです。この日はいつもいた池の東側の岸付近でなく、日影になる南側の岸付近にいました。8羽ほどのオシドリがいて、追いかけ合いをしたり、水浴びや潜水をしたり、活発に動いていました。潜水や水浴びの後、よく羽ばたきました。 |
令和5年10月22日撮影 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
ノビタキ |
一週間ぶりに近くの水田地帯でノビタキを撮影しました。耕作放棄地に生えたコセンダングサやオオアレチノギクに次々とノビタキがとまります。 |
令和5年10月21日撮影 地元の山の上の池にて |
オシドリ |
19日に引き続いてオシドリを撮影した山の上の池に行きました。この日も木に絡んだ藤の蔓に2羽のオシドリが止まっていました。 |
藤の蔓にとまっている2羽のオシドリの奥にもう1羽いました。 |
少し離れた岸近くにも2羽のオシドリがいました。 |
1羽のオシドリが岸から岸へ池を横切って移動しました。 |
令和5年10月19日撮影 地元の山の上の池にて |
オシドリ |
17日にオシドリを撮影した山の上に行きました。17日にオシドリがいた水面が木に覆われた岸を見ると、木に絡んだ藤の蔓に2羽のオシドリが止まっていました。 |
この後、奥の岸に隠れてしまいました。この後、30分ほど出てくるのを待ったのですが、姿を見られませんでした。鳴き声も聞こえたので17日の時と同じように10羽ほどいると思うのですが。 |
令和5年10月19日撮影 地元の山の上の公園にて |
コサメビタキ |
山の上の公園には2日に1回ほどの間隔で出かけているのですが、最近は鳥影少なくシャッターを切ることはあまりありません。この日、久しぶりにコサメビタキを見かけました。 |
令和5年10月18日撮影 近くのため池にて |
キンクロハジロ・マガモ♀・ホシハジロ・カワセミなど |
「冬鳥のカモがそろそろ見られる頃かな」と近くのため池をまわりました。 |
最初にいったため池にはキンクロハジロとマガモの雌がいました。 |
大きなため池にもカイツブリとともにキンクロハジロがいました。右端のキンクロハジロの雌はスズガモの雌のように嘴基部が白い個体です。 |
ホシハジロもいました。右端で丸くなって休んでいるのはキンクロハジロの雌です。 |
ホシハジロの雄と丸くなって休んでいるホシハジロの雌です。 |
水路にはカワセミがいました。 |
令和5年10月17日撮影 近くの菊畑と山の上の池にて |
ノビタキ・オシドリ |
17日午前中は菊畑でノビタキを撮影しました。毎年、この菊畑でノビタキを撮影しているのですが、今年はなかなか近づいてくれません。 |
ノビタキ撮影して帰る途中、池の近くを通ると上空を20羽ほどのオシドリの群れが上空を飛んでいるのを見かけて、撮影しました。半年ぶりに撮影したオシドリです。 |
昼食後、オシドリを撮影しようと、地元の山の上の池に行きました。池の上にかかった橋から見てみると1羽のオシドリを見つけました。しばらく粘ったのですが、1羽しか見つけられませんでした。 |
池を離れて他の鳥を撮影しよう他の所をまわって、池にかかった橋に戻って見ると水面が木に覆われた岸からノビタキの鳴き声が聞こえました。しばらくすると次々とオシドリが木の下から姿を見せました。 |
令和5年10月16日 宮崎の田の神(79)(80) | |||
宮崎の田の神 (79) 下浦の田の神 | |||
宮崎県えびの市浦1211 「年代不明」 | |||
京町温泉駅の南の集落、下浦の入口近くの道の横の竹藪の前に下浦の田の神が祀られている。襷がけで、左足を一歩踏み込み、メシゲを両手でしっかり持つ農民型の田の神像である。大きな額と、団子鼻が印象的である。着物は赤と緑に、頭にかぶるシキは赤に鮮やかに彩色されていて、目鼻は黒で描かれている。 「宮崎の田の神像」(鉱脈叢書)で亡くなった上方落語の桂枝雀を思わせる好々爺といった顔のこの田の神の写真を見て、是非とも見たいと訪れたのであるが、白塗りし目鼻を描いているため、表情はきつくなっていて、印象は少し違った。 |
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宮崎の田の神 (80) 中浦の田の神 | |||
宮崎県えびの市島内2022-2 「昭和時代」 | |||
中浦の田の神は県道53号線沿いの瓦葺きの立派な祠に祀られている。柄の長いメシゲを右手でかかげ、左手に杵を持ち、青色の袴・黄色のシキ・白色の顔面で頬紅・口紅と鮮やかに化粧された田の神である。ブリキのおもちゃのような趣で親しみの持てる像である。製作者は昭和初期・中期に活躍した京町の石工、春田浅吉である。えびの市歴史民俗資料館に展示されている「今田家の田の神」も春田浅吉の作である。 | |||
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令和5年10月15日 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
耕作放棄地のノビタキ |
今日もノビタキです。去年の今頃は地元の山の公園や山でエゾビタキ・キビタキなどを撮影していたのですが、今年は鳥影が少なく、山へ行ってもシャッターを切ることはほとんどありません。結局、水田地帯や菊畑のノビタキの撮影になります。 |
令和5年10月13日撮影 近くの菊畑にて |
菊畑のノビタキ |
前日に引き続いて菊畑でノビタキを撮影しました。なかなかよい所にはとまってくれません。前日と違って花の上にとまってくれたのですが、遠くて粗い写真になりました。 |
令和5年10月12日 近くの菊畑と水田地帯にて |
菊畑と水田地帯のノビタキ |
近くの菊畑のノビタキです。毎年、この菊畑でノビタキを撮っているのですが、今年はあまり姿を見せません、今日ようやく撮影できした。 |
菊畑に行く前に、水田地帯の耕作放棄地でいつものようにノビタキを撮影しました。 |
令和5年10月10日 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
ノビタキ |
今日も近くの水田地帯の耕作放棄地のノビタキです。 |
枯れたオオアレチノギクにとまったノビタキ♂です。 |
コセンダングサにとまったノビタキ♀です。コセンダングサは耕作放棄地ではセイタカアワダチソウやオオアレチノギクなどとともによく見かける雑草です。 |
令和5年10月7日撮影 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
ノビタキ |
河原でイカルチドリを撮った後、前日にノビタキを撮影した水田地帯の耕作放棄地に行きました。前日は2羽でしたがこの日は次々とノビタキが姿をあらわしました。 |
令和5年10月7日 近くの川にて |
イカルチドリ |
近くの川の河原にイカルチドリとイソシギがいました。 |
令和5年10月6日 近くの水田地帯の耕作放棄地にて |
ノビタキ |
今日もノビタキです。場所は毎年、水田の畦でチュウジシギ・タシギ、水の張った休耕田でタマシギ・コチドリ・トウネンなどを撮影していた水田地帯です。ただし、この水田地帯は水害対策のため遊水池になるため去年の秋から耕作が放棄されました。現在はセイタカアワダチソウやオオアレチノギクなどの雑草が茂っています。ノビタキはセイタカアワダチソウとオオアレチノギクにとまっていました。 |
令和5年10月5日 近くの豆畑にて |
ノビタキ |
前日に引き続いて近くの枝豆の畑にノビタキの撮影に行きました。隣にコスモス畑があり、コスモスにとまるのねらったのですが、コスモスにはとまってくれませんでした。ただ、昨日と違ってコスモスを背景にしたノビタキの写真は撮れました。 |
令和5年10月4日 近くの豆畑にて |
ノビタキ |
近くの枝豆の畑にノビタキが2羽いました。近くにコスモス畑があるのでコスモスにとまるのを期待したのですが、コスモスにはからんでくれませんでした。 |
令和5年10月3日 京都の石仏(39) | ||
京都の石仏(39) 石峰寺五百羅漢 | ||
京都市伏見区深草石峰寺山町 「江戸時代」 | ||
石峰寺は、伏見稲荷大社の南に続く低い丘陵地帯の中腹に位置する禅宗の寺院である。黄檗宗を開いた隠元の孫弟子に当たる、黄檗宗六世千呆(せんがい)禅師によって、正徳三(1713)年に創建された。 石峰寺には、異色の画家、伊藤若沖(1716~1800)が下絵を描き、石工たちに彫らしたという、石仏群がある。若沖は、京都の錦の青物問屋の生まれで、青物問屋の主人として17年間を過ごしたあと、家督を弟に譲り40歳以降、画道三昧に過ごしで、中国の院体花鳥画を手本にして、緊張感の高い独自の花鳥画を完成した人で、戦後、とみに評価を高めている画家である。「動植綵絵」(宮内庁・御物)三十幅のような幻想的な傑作や野菜を釈迦や羅漢に見立てた「果蔬涅槃図」などの宗教画がある。 |
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釈迦誕生仏 | ||
二十五菩薩来迎石仏 | ||
十八羅漢 | ||
釈迦三尊(説法場) | ||
羅漢 | ||
善光寺釈迦 | ||
賽の河原 | ||
白衣観音? | ||
石峰寺石仏群は安永(1772~1781)の半ば頃より天明元(1781)年まで、6~7年でつくられたもので、本堂の背後の裏山の小道に沿って、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る石仏群になっている。したがって、石峰寺五百羅漢と呼ばれて有名であるが、主役は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語を飾る劇の脇役といったところである。 石仏群は、「天上天下唯我独尊」と姿を示す釈迦誕生仏から始まり、出山釈迦、二十五菩薩来迎石仏や十八羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢〔羅漢(托鉢)〕の群像、釈迦涅槃の場面、賽の河原〔賽の河原地蔵〕と続いていく。その数は約500体(寺説)で、大きさは2m~数十㎝で、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。「果蔬涅槃図」の作者が原画を描いた石仏群らしい洒脱な石仏群である。 北条五百羅漢や山野五百羅漢や瓜生十六羅漢・香高山五百羅漢などと比べると、石や岩の美しさ生かしているとは言い難く、石仏としては劣る。しかし、一種の釈迦の一代を描いた絵巻物として見たとき、この石仏群は、魅力を増すことになる。 若沖は妹と二人、石峰寺の古庵に住み、生涯独身で過ごし、寛政十二年(1800)、85歳で没した。墓は賽の河原の石仏群を下った石峰寺墓地にある。 |
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令和5年10月2日 京都の石仏(36)~(38) | ||
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このページは伏見区と宇治市の石仏を紹介する。このエリアは洛北・洛中・洛東(東山)・洛西(嵯峨野)のように京都の石仏を代表する石仏は見られない。しかし、豊満な顔、丸みのある体躯など、平安時代後期の様式がよく残る「安楽寿院三尊石仏」や鎌倉時代の厚肉彫りの「宇治橋観音石仏」・嵯峨油掛地蔵とおなじように油を掛けて参拝する信仰が残る「伏見油掛地蔵」(鎌倉時代)なとの古い石仏もある。江戸時代の石仏であるが、「奇想の画家」ともいわれる異色の画家、伊藤若沖が下絵を描き、石工たちに彫らしたという、「石峰寺五百羅漢」もこのエリアの石仏の見所である。 |
京都の石仏(36) 安楽寿院三尊石仏 | ||
京都市伏見区竹田中内畑町74 「平安後期」 | ||
釈迦三尊石仏 | ||
薬師三尊石仏 | ||
阿弥陀三尊石仏(京都国立博物館) | ||
安楽寿院は鳥羽上皇により、阿弥陀三尊を祀るために、保延3年(1137)、鳥羽離宮の東殿に、、建てられた御堂を起源とする寺院である。その後、本御塔、九躰阿弥陀堂、閻魔堂、不動堂などの諸堂が建てられ、全国に広大な寺領を持つ寺院となったが、中世以降衰え、現在は江戸時代の大師堂や書院などが残のみで、本尊の阿弥陀如来などに当時の面影をとどめる。 三尊石仏は大師堂の西側の三宝荒神社の参道ぞいに仮堂がもうけられて2基安置されている。江戸時代に、安楽寿院の西の聖菩提院跡から掘り出されたものである。凝灰岩の高さ1mあまり、幅1.1m~1.2m、厚さ0.4mの方形の切石に釈迦三尊と薬師三尊を厚肉彫りしたものである。軟質の凝灰岩のため痛みがひどく当時の面相が残るのは釈迦三尊の蓮華をささげた右の脇侍のみである。 三尊石仏はもう一基、出土していて、現在、京都国立博物館の西の庭に安置されている。三尊石仏で最も保存状態がよく、豊満な顔、丸みのある体躯など、平安時代後期の様式がよく残る。 |
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京都の石仏(37) 伏見の油掛地蔵 | ||
京都府京都市伏見区下油掛町898 「鎌倉時代」 | ||
「伏見桃山」駅より、大手筋通りを西に400mほど行き、納屋町を南に下り、魚屋通にはいるとそこは下油掛町である。その町の名前は魚屋通の北にある西岸寺にまつられている油掛地蔵尊に由来する。 油掛地蔵はお堂の中の厨子に安置されていて、高さ170㎝、幅80㎝の花崗岩の表面に、右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩を厚肉彫りしたものである。嵯峨油掛地蔵と同じく油が参拝の度に掛けられ、油が層になり黒光りをしていて、紀年銘などはわからない状態であるが、優れた面貌やなで肩の体躯など鎌倉時代の様式を示している。 |
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京都の石仏(38) 宇治橋観音石仏 | ||
京都府宇治市宇治乙方 「鎌倉時代」 | ||
宇治川にかかる宇治橋のたもと、京阪宇治駅の東詰にまつられている観音石仏である。花崗岩製で、別石の蓮華座の上に、二重光背を負った高さ115㎝の聖観音を厚肉彫りしたものである。宝冠をつけ、左手に蓮華を持って結跏趺坐している。かなり摩滅が進んでいるがやさしい顔の表情はまだ残っている。 京阪宇治駅が改築され、駅周辺も大きく変わり、この観音石仏の周辺は喫茶店や雑貨店となっている。 |
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