姫路市・加東市・小野市の石棺仏
 
播磨の石棺仏(23) 真禅寺の石棺仏
兵庫県姫路市別所町北宿255
阿弥陀石棺仏
文永2年(1265) 鎌倉時代
 真禅寺の本堂前の庭の中央に東面して立つ。高さ1mあまり、幅90cmの家型石棺の蓋石を利用し、像の周辺のみを彫りくぼめて、如来座像を薄肉彫りする。膝のあたりは摩滅して手印はあきらかでないが、おそらく定印の阿弥陀如来であろう。

 像の左右に「文永二年乙丑」 「十一月十日」の紀年銘があり、在銘石棺仏としては最古であり、播磨の石棺仏では種子の石棺仏を除けば最も古いものである。

 この石棺仏と座仏の輪郭の彫り方、蓮華座の表現などがそっくりな石棺仏が大阪府柏原市山ノ井町の瑠璃光寺にある。瑠璃光寺石棺仏は藤原時代後期の作なので、真禅寺のこの石棺仏は瑠璃光寺石棺仏を真似たものと思われる。
 
 瑠璃光寺石棺仏
 
 
真禅寺墓地阿弥陀石棺仏
室町時代
 真禅寺境内の西側の墓地の真ん中に立っている。高さ130cm、幅74cmの家型石棺の蓋に、阿弥陀如来座像を薄肉彫りする。著しく抽象化された表現の阿弥陀石棺仏で「室町時代」の石棺仏の典型である。衣紋は等高線のような平行線の表現で、蓮台も幾何学的な模様である。  本堂前の阿弥陀石棺仏や加西市の春岡寺や玉野の阿弥陀座像石棺仏などの鎌倉期の石棺仏はしっかりとした写実的な表現で、薄肉彫りながらボリュームがあり、整った表現になっている。

 これらの石棺仏に比較して室町期のこの石棺仏は、形式化がすすみ、鎌倉期の石仏と較べれば、仏像の表現としては劣っている。しかし、この石棺仏の抽象的・幾何学的表現は、装飾古墳や縄文土器などの原始美術と通じるところがあり、石棺とマッチし、鎌倉期の石棺仏とまた、違った魅力がある。

 宮下忠吉氏は「石棺仏」(木耳社刊)の中で播磨石棺仏についての全体像を明らかにし、石仏表現の変遷をを本堂前の阿弥陀石棺仏などの古典(クラシック)表現からこの阿弥陀石棺仏に代表される抽象(シュール)表現の流れで説明された。そして、このこの阿弥陀石棺仏に代表される抽象(シュール)表現の流れの頂点として「北条羅漢石仏」を位置づけられた。(北条五百羅漢参照)

 確かに、北条羅漢石仏の方柱形の石材に頭部だけ刻みだした「こけし」のような幾何学的・抽象的な表現とこの石仏は通じるところがあるような気がする。
 
 北条羅漢石仏
 
アクセス
・JR山陽線別所駅より東南東へ徒歩1.5q(駅より国道2号線を渡り北東に270m、右折して西国街道を南東に400m、左折して「今池」の南側・「瀬戸池」の西側を通って東南東へ750m、左折して50mで真禅寺山門)
自動車・国道2号線姫路バイパス、別所ランプで下りて別所大橋を渡って北東へ1qで国道2号線「北宿交差点」。交差点をそのまま北東へ230mで北宿公民館前、右折して「今池」の南側・「瀬戸池」の西側を通って東南東へ650m、左折して50mで真禅寺山門。



播磨の石棺仏(24) 福円寺不動三尊石棺仏
兵庫県姫路市的形町福泊260 「室町時代」
矜羯羅童子
セイタカ童子
 福円寺裏山の墓地に立つ。組合せ式家型石棺の底石を利用して、不動三尊像をやや厚く薄肉彫りする。(石棺材の高さ約160cm、不動の像高は約1m)  中尊の不動明王は、異常に肩幅が広く、誇張した表現に見える。しかし、矜羯羅童子とセイタカ童子の両脇侍はしっかりとした写実的表現である。不動明王も鼻や口元など顔の一部が剥落しているために、カリカチュアのように見えるのであって、よく見ると、しっかりとした力強い彫りである。石質が赤みを帯びていることと相まって、不動三尊石仏として出色のできばえの石棺仏である。

 製作年代については、江戸時代説と室町時代説があるが、西山光照寺跡などの越前一乗谷の不動石仏と表現がよく似ているので、室町時代ではないだろうか。

西山光照寺跡セイタカ童子
アクセス
・山陽電鉄的形駅下車。南西に徒歩1.4km。福円寺裏墓地。
自動車・姫路バイパス高砂ランプから国道250線を西南西へ約5km、「的形西」交差点を左折して南南西へ1.0qで福泊の福円寺裏墓地。



播磨の石棺仏(25) 八幡神社毘沙門天石棺仏
兵庫県加東市下滝野1275−8 兵庫県立播磨中央公園  「室町時代」
  播磨中央公園の中にある八幡神社の裏手の山頂の岩陰にある。小さな石棺底石に、毘沙門天像を半肉彫りする。左手に宝塔、右手に戟(げき)を持つ。四頭身で子どものような、かわいらしい毘沙門天でる。しかし、右足を前に踏み出した下半身は力強い。播磨の石棺仏で毘沙門天を単独で彫ったものは加西市周遍寺山奥の毘沙門洞の毘沙門天とこの2つだけである。
アクセス
・JR加古川線「滝野駅」下車、南西へ2.6kmで播磨中央公園第5駐車場。駐車場の北西直線距離200mに八幡神宮。八幡神社の裏手の山頂。
自動車・ 中国自動車道「滝野社IC」から西へ2.4qで播磨中央公園第5駐車場。(「滝野社IC」から176号線に入り「滝野インター入口」交差点を右折し県道17号線を北西へ1.3q、県道145号線を経てJR加古川線を越えて、「みどり大橋西詰」交差点へ。交差点を左折し県道349線を南西へ1.1q。)駐車場の北西直線距離200mに八幡神宮。八幡神社の裏手の山頂。



播磨の石棺仏(26) 家原阿弥陀石棺仏
兵庫県加東市家原  「鎌倉後期」
 滝野社インターチェンジの南1.5kmの社町赤岸の交差点の西の道路下の用水路脇にこの阿弥陀石棺仏が立っている。高さ130cm、幅72cmの家形石棺蓋石に、光背として舟形の彫り窪みをつくり、像高95cmの来迎印の阿弥陀立像をやや薄肉彫りしたものである。

 来迎印の阿弥陀立像石仏は大和ではよくみられるが、播磨の鎌倉時代の石棺仏の中では唯一の来迎印阿弥陀立像である。手や衣紋にやや硬さは見られるが、顔は満月相で、鎌倉後期らしい風格をそなえた石棺仏である。
アクセス
・JR加古川線「滝野駅」下車、南へ2.6km。赤岸の交差点の西の道路下の用水路脇。
自動車・ 中国自動車道「滝野社IC」から国道176号線に入り南へ1.3q、「家原」交差点を左折し0.5q。赤岸の交差点の西の道路下の用水路脇。



播磨の石棺仏(27) 浄土寺地蔵石棺仏
兵庫県小野市浄谷町2094 「南北朝時代」
   浄土寺は俊乗房重源上人が建立した浄土堂(国宝)と快慶の代表作である阿弥陀三尊立像(国宝)で知られた名刹である。その浄土寺の境内に、この地蔵石棺仏がある。もとは、浄土寺の西の浄谷墓地にあったものである。

 高さ122cm、幅52cmの石棺材(組み合わせ式石棺の底石)の板面の上半に光背を大きく彫り、全面に像高105cmの地蔵立像を半肉彫りする。宝珠と錫杖を持つ延命地蔵尊と思われるが、錫杖部分が摩滅していてわかりにくい。

 大きな鼻で角張った顔、幅一ぱいに、使って上半身をボリューム豊かに表現した体躯など、他の南北朝時代の播磨石棺仏とは趣を異にする石棺仏である。衣紋などの表現は抽象的であるがのびのびした線が生きている。
アクセス
・神戸電鉄粟生線「小野」駅下車。コミュニティバス「らんらんバス」で「電鉄小野」より北回り循環バス(反時計回りルート)乗車「浄土寺」下車(1日2本) 。まは「小野」駅よりタクシー10分。
自動車・山陽道三木小野ICから北へ6.7km(三木小野ICから国道175号を北へ5.3 km、「浄谷町南」交差点を右折して北東へ1.4q。)



播磨の石棺仏(28) 養父寺の石棺仏
兵庫県小野市来住町1095-1 「室町時代」
 小野市来住町の養父寺の参道入口の両脇に二体の地蔵石棺仏が立っている。ともに全長160pほどの板状の石材に地蔵立像を半肉彫りしたもので、左の地蔵は組み合わせ石棺の側石、右の地蔵は底石をを利用している。向かって右の地蔵は未開敷蓮華を持ち、左は錫杖を持つ。共に穏やかな顔で好感がもてるが、衣紋表現は線彫り風で写実性に乏しい。16世紀初め頃、同じ石工によって造られたと思われる。
アクセス
・JR加古川線「小野町」駅より、西北西へ1.4q。
自動車・山陽道三木小野ICから北西へ7.2km



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