加古川市の石棺仏 | |||
播磨の石棺仏(11) 地蔵寺の石棺仏 | |||
〒675-1233 兵庫県加古川市平荘町池尻1 | |||
地蔵立像石棺仏 | |||
鎌倉後期 | |||
加古川にかかる池尻橋の近くの丘陵裾に、地蔵寺がある。階段を上り山門をくぐったすぐ左側に石棺仏二基が立っている。 向かって右は、組合式石棺の側石(高さ148cm、幅62cm)を利用したもので、上部に二重光背を彫りくぼめ、右手に錫杖を左手に宝珠もつ延命地蔵立像を薄肉彫りしている。背面には胎蔵界大日如来の種子「アーンク」を薬研彫りしていて、種子の下に弘安四(1281)年四月廿日の銘を刻む。地蔵立像は石棺材を使った板碑の裏に後年彫られたものである。播磨の石棺仏としては珍しい二重光背であることから考えて種子が彫られてからあまり隔てていない鎌倉後期の作と考えられる。 |
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六地蔵石棺仏 | |||
南北朝時代 | |||
左の石棺仏は家形石棺蓋石(高さ135cm、幅102cm)を利用したもので、三体づつ2段に地蔵菩薩を半肉彫りしている。その下に男女の供養座像が彫られている。右の地蔵立像石棺仏とよく似た作風や二重光背から、地蔵立像石棺仏と同じ頃の造立と考えられる。 | |||
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播磨の石棺仏(12) 神木阿弥陀石棺仏 | |||
兵庫県加古川市平荘町374 「南北朝時代」 | |||
神木公民館の南の小高い丘の上にこの石棺仏がある。地元では「神木(こうぎ)の大日さん」と呼ばれている。高さ177cm、横100cmの家形石棺の蓋石の内側に二重光背の彫りくぼみをつくり像高52cmの阿弥陀座像を薄肉彫りしたもので、蓮華座は線彫りである。 隣の加西市に多くある阿弥陀座像の石棺仏に比べると写実性に乏しく、簡略化した表現になっている。膝の衣紋は斜め左右に線を流しただけの表現で、光背も同じ二重光背であっても加西市の阿弥陀石棺仏のように凝ったものではなく、単なる彫りくぼめになっている。このような表現は加古川地方の石棺仏に共通したものである。 玉野阿弥陀石棺仏や春岡寺阿弥陀石棺仏などの加西市の石棺仏に比べると稚拙さは免れず、彫刻としての出来映えは劣るが、簡略化した硬い抽象的な表現が石の生命力を引き出し、石棺という古墳時代の石の世界とマッチしていて、魅力的である。「一結衆十六人 大願衆法蓮」の刻銘がある。 |
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播磨の石棺仏(13) 報恩寺石棺仏 | |||
兵庫県加古川市平荘町466-1 「文和2年(1353) 南北朝時代」 | |||
平荘小学校の北東にある報恩寺には多くの石造美術があり、十三重石塔(元応元年1319年)や4基の五輪塔(正和元年<1316>年)などが県指定文化財となっている。 この石棺仏は本堂西墓地の南端にある。高さ86p、幅68cmの石棺の底石を利用し、上部に光背として舟形の彫りくぼみを4つつくり、そこに同型の像高17〜19pの阿弥陀座像を4体薄肉彫りしている。蓮華座は線彫りで、向かって左から2番目の像の左右に文和2年(1353)の刻銘がある。 四角張った顔、凵の字形の両腕と手、斜め左右に線を流しただけの膝の衣紋など抽象的・図形的な表現は近くの神木阿弥陀石棺仏と同じである。 |
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播磨の石棺仏(14) 見登呂姫の石仏 | |||
兵庫県加古川市上荘町見土呂486 「室町時代」 | |||
加古川の右岸、上荘橋西から北へ200m、見登呂姫の石仏への小さな案内板が立っている。その案内板から細い道を少し入ったところに小さなお堂と大きな銀杏の木があり、お堂の右に、「見登呂姫の石仏」と名付けられた石棺仏が前屈みに立っている。 高さ174cm、幅125cmの石棺材と思われる平板状の石材に二重光背の彫り窪みを3つつくり、なかに阿弥陀立像と脇侍の観音・勢至菩薩を半肉彫りしたもので、三尊とも、細長く、「こけし」のような表現である。阿弥陀像は衣の袂部分を細長い四角形で表し、その袂部分から浮き出るように来迎印の手が彫られている。左の勢至像は合掌し、右の観音像は左手に蓮華を持つ、手はともに体の側面から浮き出ているように表している。これらの「こけし」のような幾何学的・抽象的な表現は加西市の北条羅漢石仏に通じる。阿弥陀像の顔は切れ長の優しそうな目と一文字に描いた口は、近くの神木阿弥陀石棺仏に似ていてる。 見登呂姫は、赤松満祐の管下におかれていた井口城の城主、井口家治の娘である。「見登呂姫の石仏」と名付けられたのは次のような伝説からである。 ……見登呂姫の美しさに一目惚れした満祐の家来の青年が、「月見の祝」 の席で姫に近寄り、思いを打ち明けたが、姫は青年の申し出を拒んだ。それに逆上した青年が姫を殺傷し裏山に埋めた。しばらくしてその事実を知った村人たちが姫を悼み石仏を立てて奉った。…… |
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播磨の石棺仏(15) 長楽寺石棺仏 | |||
兵庫県加古川市平荘町小畑150−1 長楽寺 「南北朝時代」 | |||
加古川市の石棺仏の特色の一つは像自体は小ぶりで、多尊石仏が多いことである。その多尊石棺仏の代表といえるのが「八つ仏」とこの長楽寺石棺仏である。 高さ185cm、幅118cmの縄掛突起つき家形石棺蓋石の内側に舟形の彫りくぼみを6つつくりそこに像高22cm〜30cmの阿弥陀如来と地蔵菩薩を薄肉彫りする。上の2体が阿弥陀如来で、蓮弁を彫っていないお椀のような蓮華座に座っている。後の4体は地蔵菩薩と思われる。3体は立像で中央の向かって右の像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。他の2体は合掌しているように見える。印相や持ち物はわかりにくいが、向かって左下は地蔵座像であると思われる。 他の加古川地方の石棺仏と同じように写実性に欠ける形式的な表現の石棺仏であるが、石棺の合わせ目部分を額縁のようにして、中に6体の半薄肉彫りすることにより、大型の縄掛突起つき家形石棺そのものの迫力を充分に生かしている。加古川の石棺仏を代表する一基といえる。 |
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播磨の石棺仏(16) 八つ仏 | |||
兵庫県加古川市平荘町小畑 「南北朝時代」 | |||
長楽寺の西、一本松集落の南東の山麓に、「八つ仏」とよばれる石棺仏がある。野の中に立つこの石棺仏は、佐藤宗太郎氏の写真集「石仏の美」などに取りあげられ、加古川の石棺仏では最も知られた石棺仏である。現在はトタンの波板でかこまれた覆屋の中にあるため昔のような風情はない。 高さ160cm、幅116cmの家形石棺蓋石の内側に像高20〜30cmの6体の仏像を舟形光背の彫りくぼみの中に薄肉彫りする。長楽寺石棺仏の阿弥陀座像と同じように、6体とも蓮弁を彫っていないお椀のような蓮華座に座っている。 中央下の2体は地蔵で他は定印の阿弥陀である。他の家形石棺蓋石を使った石棺仏と違って、合わせ目部分にも像を刻んでいる。合わせ目部分か広いため内側部分だけでは迫力にかけることを考慮して彫られたのではないだろうか。(長楽寺石棺仏も合わせ目部分か広いが縄掛突起によってバランスがとられている。)作者は長楽寺石棺仏と同じと思われる。 |
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播磨の石棺仏(17) 堂山六地蔵石棺仏 | |||
兵庫県加古川市志方町 「室町時代」 | |||
「広尾東」バス停の側に地蔵堂があり、その地蔵堂の横にこの六地蔵石棺仏か立っている。高さ90cm、幅60cmの板状の石棺材に、上下二段に六つの舟形の彫りくぼみをつくり中に像高24cm、六地蔵立像を薄肉彫りしたものでで、蓮華座は線彫りである。左下には施主と思われる女の供養座像が彫られている。 蓮華座の表現など地蔵寺の六地蔵石棺仏とよく似ているが、地蔵寺の六地蔵石棺仏より形式化がすすんでいることから、時代はやや下ると思われる。光背も地蔵のような二重光背ではなく、舟形光背になっている。 私か撮影に行った時には、近くのおばあさんか地蔵堂の中で熱心にお経をあげていたが、この六地蔵石棺仏はお堂の外にひっそりと立っていた。 |
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播磨の石棺仏(18) 皿池の二尊石仏 | |||
兵庫県加古川市志方町志方町1940 「室町時代前期」 | |||
皿池とよばれる溜池は加古川市に3ヶ所にある。この二尊石仏は志方小学校の南西の県道65号線と515号線の交わる交差点の北西にある皿池の西北隅の空き地にある。 高さ80cm、幅93cmの石棺の一部と思われる石材に像高30cmほどの阿弥陀と地蔵を彫ったものである。阿弥陀は線彫りの蓮華座上に二重光背の彫りくぼめた中に定印の阿弥陀座像を薄肉彫りし、地蔵菩薩は同じく線彫りの蓮華座上に、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵座像を薄肉彫りしている。形式化の進む室町期の石仏であるが、地蔵は上品な尼僧のような雰囲気である。 |
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播磨の石棺仏(19) 宮前地蔵堂の石棺仏 | |||
兵庫県加古川市西神吉町宮前685 「室町時代前期」 | |||
神吉町宮前の真福寺の地蔵堂の横、宮前公民館との境に、組合せ石棺の底石と並んで阿弥陀座石棺仏が立てられている。 石棺材を立てて信仰の対象にするのは他にも見られ、平荘町里の観音堂にも2基、立てられている。そのことからも石棺仏は石棺を単に石材として利用したものではなく、石棺材そのものに対する信仰とつながっていると考えられる。 阿弥陀座石棺仏は129cm、71cmの家形石棺の蓋石いっぱいに舟形の彫りくぼみをつくり、像高48cmの阿弥陀如来座像を薄肉彫りする。卵形の頭部は摩滅がひどく、目鼻、口も欠けている、螺髪も見られず地蔵のような比丘形にみえる。凵の字形の両腕と手、衣紋や蓮華座の抽象的・図形的な表現などは、報恩寺石棺仏や神野阿弥陀石棺仏と共通する。 |
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播磨の石棺仏(20) 成福寺墓地の石棺仏 | |||
兵庫県加古川市八幡町上西条546 「室町時代後期」 | |||
JR加古川線「厄神」駅の南西1.5km、宮山遺跡のある宮山農業公園の南の丘陵に臨済宗成福寺がある。成福寺の南側は広い墓地となっていて、その墓地の入口に2体の石棺仏が立っている。 向かって左側は、高さ85cm、幅46cmの組合せ式石棺の側石に像高44cmの地蔵立像を薄肉彫りしている。地蔵寺地蔵石棺仏と同じ延命地蔵で、右手に錫杖を左手に宝珠持つ。蛇腹模様の衣紋やにぎやかな装飾的な蓮華座などは滋賀県の永正16(1519)の刻銘がある菩提禅寺地蔵石仏によく似ていて室町時代後期の作と思われる。 向かって右側は、高さ91cm、幅66cmの家形石棺に像高27cmの地蔵立像を薄肉彫りしたもので、左側の地蔵石棺仏に比べると頭が大きく稚拙な表現で時代は下ると思われる。 |
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播磨の石棺仏(21) 西之山墓地の石棺仏 | |||
兵庫県加古川市神野町西之山 「南北朝時代」 | |||
日岡山公園の北、神野山西之山の共同墓地の入口に2基の石棺仏が立っている。2基とも組合せ式石棺の側石と思われる平板状の石材を使ったものである。 向かって左側は高さ121cm、幅66cmの石材に上下に2つづつ4つの舟形の彫りくぼめをつくり、1体の地蔵立像と3体の阿弥陀座像を薄肉彫りしている。右側は高さ121cm、幅66cmの石材の上部を、舟形に彫りくぼめて2体の阿弥陀座像を浮き彫りしている。四角張った顔、凵の字形の両腕と手、斜め左右に線を流しただけの膝の衣紋など、報恩寺石棺仏や神木阿弥陀石棺仏と共通した様式となっていて同じ頃の作と思われる。 |
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播磨の石棺仏(22) 堂田の石仏 | |||
兵庫県加古川市神野町西之山 「南北朝時代」 | |||
阿弥陀石棺仏 | |||
たごり地蔵 | |||
皿池とよばれる溜池は加古川市に3ヶ所にある。志方町の皿池のつもりで神野町石守の皿池を目的地にして自動車のナビを設定した結果、偶然見つけた石棺仏がこの堂田の阿弥陀石棺仏である。 神野町石守の皿池の北の田の中に3体の石仏が祀られている。そのうちの1体がこの石棺仏である。高さ122cm、幅100cmの家形石棺の蓋石と思われる石材に像高60cmの阿弥陀座像を浮き彫りにしている。線彫りの蓮華座の上に、斜め左右に線を流しただけの膝の衣紋以外は輪郭線だけの表現で、報恩寺や神木の石棺仏に通じる表現となっている。角形の屏風のような形から通称、屏風岩と呼ばれている。 右端の石仏は「たごりの地蔵」と呼ばれている。細長い自然石に二重光背状の彫りくぼみをつくり、錫杖を持って立つ地蔵を半肉彫りしたものである。「たごる」とは咳をしたり、もどす、という意味で、咳の病(肺結核など)に願をかけると治るとして信仰された地蔵である。この像も南北朝時代の作である。 |
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