阿弥陀石仏100選V
来迎石仏・南北朝時代〜江戸時代  
  
 
 平安後期からの浄土信仰の浸透にともにって、臨終に際し阿弥陀如来が観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に、諸菩薩や天人従えて信者を迎えに来る様子を描いた仏画、来迎図が平安時代中期から鎌倉時代にかけて多く制作された。石仏でも阿弥陀如来を中尊として脇持に蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩で来迎の様子を表した弥陀来迎三尊像が、石材の表面に線彫りや浮き彫りで表すかたちで制作されるようになる。

 そのような来迎石仏が板碑として多く造立されたのが福島県の中通り地方である。これらの来迎三尊像はほとんどが線彫りでなく薄肉彫り、もしくは半肉彫りの像の立体的表現で来迎というドラマチックな場面を空間的に表している。福島の来迎石仏で最も古い紀年銘を持ち優れた石仏は(10)陽泉寺阿弥陀三尊来迎石仏である。他に長命寺来迎石仏・前田川広町双式来迎石仏・下宿来迎石仏などが知られている。阿弥陀三尊来迎石仏の他に大分県の千燈石仏のように観音菩薩・勢至菩薩を脇侍に、諸菩薩や天人従えて信者を迎えに来る様子を表した弥陀来迎二十五菩薩の石仏もある。

 南北朝時代を経て室町時代になると多数の阿弥陀石仏がつくられるようになる。特に町人や農民などの民衆により造立された石仏が急増する。この時代も浄土教的信仰が中心で、地蔵とともに阿弥陀が石仏造立の中心となっている。石仏の大量産にともなって、阿弥陀石仏も小型化・形式化が進み、像容も拙劣になっていく。そのような中でも、若草山の麓にある仏頭石のように鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏や鵜川四十八体仏のような大規模な石仏群、一乗谷の石仏のような細部を省略せず細密に彫り出した古様な表現の石仏など、それなりに見ごたえのある石仏も見られる。南北朝時代の磨崖仏では鹿児島県の岩堂観音磨崖仏が特出した存在である。非常に量感のある充実した磨崖仏である。

 室町時代〜江戸時代には阿弥陀如来を中心に多数の僧形座像を彫ったものや数体の阿弥陀や地蔵などを彫った多尊石仏や阿弥陀と地蔵を彫った双仏石なども造立されるようになる。
阿弥陀石仏100選T   阿弥陀石仏100選U



阿弥陀石仏100選(70)  長命寺来迎石仏
福島県須賀川市畑田   「弘長2年(1262) 鎌倉時代」
 陽泉寺来迎石仏に次ぐ古いものである。福島県の浮き彫りの来迎石仏は、陽泉寺に代表する早来迎と、正面する阿弥陀如来とやや下方に腰をかがめた観音・勢至菩薩を表現する石仏にわけることができる。 阿弥陀が正面に向く来迎石仏の代表作がこの像である。 陽泉寺像のような優美さはないが、 彫刻的に優れている。三尊をやや小さめに刻むことにより、空間をうまく生かしている。



阿弥陀石仏100選(71) 前田川広町双式来迎石仏
福島県須賀川前田川草地下  「鎌倉時代」
 トステム須賀川工場の西0.5q、台地の突端部に覆堂を設けて祀られている。。正面する阿弥陀如来と、やや下方に観音・勢至を薄肉彫りした阿弥陀三尊像を二組並べた、双式来迎供養塔である。三尊とも飛雲の上にのり、右の観音菩薩は腰をかがめて蓮台を持ち、左の勢至菩薩は腰をかがめて合掌する。二組ともほぼ同じ大きさで、阿弥陀像は高さ35〜36p、両脇持は28〜29pである。

 福島の来迎石仏の中でも優れたものの一つで、県の重要文化財に指定されている。



阿弥陀石仏100選(72) 観音山磨崖来迎石仏
福島県西白河郡泉崎村踏瀬観音山  「鎌倉時代」
 二瀬川の北岸の断崖に、巾約30mの枠を7段に設け、内部に石造塔婆や板碑を約320余基、浮彫りした搭婆群である。地元では俗に「踏瀬の五百羅漢」と呼ばれいる。現在は東北自動車道の陸橋の下になっている。その供養搭婆群の中心となっているのがこの磨崖来迎石仏である。

 磨崖来迎石仏は、頭部を山形にし額部・根部を持つ高さ102p、巾44p〜53pの板碑を深く彫りだして、板碑の身部に、阿弥陀三尊を薄肉彫りにしたものである。頭部をやや前に傾けて、身体をやや横にひねって立つ阿弥陀像と、腰をかがめ蓮台を持つ観音と合掌する勢至の両脇侍は左の方に向き、飛雲に乗って来迎する様子をあらわしている。像の彫りは、押型状の平板なもので衣紋等は刻まれていない。造立当時は彩色されていたものと思われる。



阿弥陀石仏100選(73) 下宿来迎石仏
福島県須賀川市森宿下宿22  「鎌倉後期〜南北朝時代」
 森宿の集落入口に宝来寺がある。その宝来寺の本堂前に、3基の阿弥陀三尊来迎石仏が立っている。 3基とも板石状の正面に凸字形に輪郭を作りその中に雲に乗った三尊像を刻む。 蓮台を差し出す観音と合掌する勢至は、 腰をかがめていて、 高いところから来迎する動きをうまく表現している。 左端の1基は、三尊とも左下へ向かう姿になっていて、左下には念仏信者をえがく。いわゆる早来迎で、他の2基より、より動的な表現になっている。



阿弥陀石仏100選(74) 袋田来迎石仏
福島県須賀川袋田西の内  「鎌倉時代」
 向袋田の集落の北、竹藪の中の簡素な阿弥陀堂の中に祀られている。搭高の163pの大型の供養塔である。蓮座の上に立つ正面を向いた来迎相の阿弥陀如来と下方左右に腰をややかがめて向かい合って立つ観音・勢至を半肉彫りする。

 早くから堂内に祀られていたと思われ、保存状態はよく、阿弥陀の納衣の衣紋などがよく残っている。弘長2年(1262)の在銘の残る長命寺来迎石仏とよく似ていて、同じ頃の作と思われる。蓮華座や脇侍の肉身部などに白色顔料の跡が残り彩色されていたことが伺える。



阿弥陀石仏100選(75) 長慶寺来迎石仏
福島県石川郡玉川村大字小高池ノ入92  「鎌倉時代」
 この阿弥陀三尊来迎供養塔は長慶寺の山門前に西面してたっている。 二重光背形に彫りくぼめを作り、 そこに阿弥陀座像を薄肉彫りする。蓮弁と観音・勢至の両菩薩は線彫りである。 郡山から須賀川にかけて見られる浮き彫り像とは違った様式の来迎石仏である。



阿弥陀石仏100選(76) 千燈石仏
大分県国東市国見町千燈  「鎌倉末期」
 厚い一枚石の全面を平らに刻み、来迎二十五菩薩を薄肉彫りする。右下方に願主と思われる念仏信者を配し、その仰ぐ方向から斜めに、阿弥陀如来を中心とする、奏楽、舞踊の諸菩薩が来迎して来る様子を描いている。知恩院や奈良興福院などに代表される来迎図の形式に基づいて彫られたものであろう。

 ただ、それらの来迎図と違うのは、不動明王と多聞天か刻まれていることである。不動と多聞天を脇侍とするのは豊後磨崖仏の特色でよく見られる。



阿弥陀石仏100選(77) 旧千燈寺奥院磨崖仏
大分県国東市国見町大字千燈   「平安時代後期〜鎌倉時代?」
 千燈寺の奥の院にも来迎形式の群像らしきものを薄肉彫りした磨崖仏がある。風化が激しくよくわからないが、飛行天人像や往生者とも考えられる願主と思われる比丘形像が中央を見上げるように彫られている。



阿弥陀石仏100選(78) 西教寺阿弥陀来迎二十五菩薩石仏
滋賀県大津市坂本5-13-1  「天正12年(1584) 安土桃山時代」
阿弥陀三尊・大自在王菩薩
阿弥陀如来
阿弥陀三尊(勢至・阿弥陀・観音)
大自在王・金剛蔵・虚空像菩薩
宝蔵・徳蔵・衆宝王・勢至菩薩
 大津市坂本の日吉大社参道から北へ2qに天台真盛宗総本山西教寺がある。朝倉氏が帰依した真盛上人が中興した寺で、現在も江戸時代再建の本堂をはじめ豪壮なたたずまいが見せている。その西教寺には、笏谷石製の美しい阿弥陀来迎二十五菩薩石仏がある。

 本堂前方西側の納骨堂の裏側の一段高い石垣の上に、阿弥陀如来を中心に、不動・天部など計27体の石仏が並んでいる。阿弥陀如来に随行し、笙や横笛・琵琶・琴などを奏でる二十五菩薩を軟質な青緑色の笏谷石の特色を生かして精緻に彫った秀作である。

 天正12年(1584)に、近江栗田郡の富田民部進が、幼くして没した息女花清妙蓮童女のため、極楽浄土を願って、造立したもので、その旨を記した刻銘がある。



阿弥陀石仏100選(79)   赤水岩堂観音磨崖仏
鹿児島県霧島市横川町赤水城ヶ崎岩堂  「建武2(1335)年 南北朝時代」
 天降川の中流域は新川温泉郷で妙見温泉や天降川温泉なと風情ある温泉が多くある。その新川温泉郷の北の端がラムネ温泉と塩浸温泉である。ラムネ温泉から北は天降川沿いの道もなくなり天降川は深い渓谷になる。その渓谷近くの岸壁に岩堂観音磨崖仏がある。岩堂観音磨崖仏へは、谷の北の尾根づたいに細い農道を降りていく。案内板がなければたどり着けない山の中にある。

 秘境を思わせる深い谷の大岸壁に、高さ1.4m、幅3.5m、深さ0.5mの龕を穿ち、阿弥陀三尊を厚肉彫りする。中尊は上品上生の阿弥陀如来で非常に量感のある充実した磨崖仏である。左右に観音・勢至の立像がある。

 阿弥陀如来といえば、定朝作の平等院阿弥陀如来座像に代表されるような情感豊かな優美な仏といったイメージが強い。しかし、この阿弥陀如来は、逞しく力強く、どことなく上野公園の西郷さんの銅像の顔に似ていて、平等院像とは、また違った阿弥陀如来の慈悲の奥深さを感じられる秀作である。建武2年(1335)の銘があり、南北朝時代初期の作である。 



阿弥陀石仏100選(80)   小路磨崖仏
鹿児島県薩摩川内市東郷町斧渕9179  「永正14年(1517)  室町時代後期」
 中世の山城、東郷渋谷一族の鶴ヶ丘城跡の岸壁に彫られた磨崖仏である。小像であるが宝冠や衣に赤い着色が残り印象的な磨崖仏である。

  宝冠をかぶっている為、一見して胎蔵界大日如来にみえる。しかし、上部に(キリーク)とあるので阿弥陀如来であることがわかる。

 この像は紅玻璃式阿弥陀如来座像で、大衆に人気のあった阿弥陀如来を密教の最高仏、大日如来に近づけようと、宝冠をかぶらせた上に仏身全体を玻璃(ガラス) 光沢で赤を塗った阿弥陀如来で、高野山櫻池院の絹本図幅に遺存するのから始まったという。石仏ではわが国唯一のものである。永正十四年丁丑(1517年)九月八日の銘がある。



阿弥陀石仏100選(81) 南太平寺磨崖仏
大分市永興南太平寺  「鎌倉末期〜室町時代」
 上野丘陵の南端、市立美術館の南の斜面に通称「伽藍」様と呼ばれる小社がある。その小社前の広場の前の崖に小石窟が3つ並んでいて、阿弥陀如来座像などか半肉彫りされている。これが大分市指定史跡の南太平寺磨崖仏(伽藍石仏)である。鎌倉時代末期から室町時代の作という。

 向かって右の窟龕は、内部は1uほどの広さで、蓮華座に乗る端正な像高約57pの阿弥陀如来座像が半肉彫りされている。顔面が摩滅しているが惜しまれる。光背は舟形であるが、如来及び円光との間を弧線で繋ぎ、あたかも鳥の羽を重ねたようになった珍しい形式である。入口の左に脇持の菩薩像の頭部と胸部の一部が残っている。

 中央の窟龕の奥壁にも、右窟と同じ形式の光背を持つ、像高約54pの阿弥陀如来座像が半肉彫りされている。顔は右窟の像と比べるとのびびやかさに欠ける。顔も丸顔である。鳥の羽を重ねたような光背は朱色と墨で彩られている。左端の窟龕は摩滅して現在、何も残っていない。 




阿弥陀石仏100選(82) 城山四方仏石
豊後高田市真中字城山  「鎌倉末期〜室町時代」
 真木大堂の南の丘の藪の中にある。現在木造の小堂に覆われている。磨崖仏は天然の崖に彫ったものが一般的であるが、この石仏は巨大な岩塊の四方に仏像を半肉彫りする。

 これは、おそらく京都今宮神社四方仏石のような四方四仏信仰によるものと思われる。普通、四方仏石は、薬師(東方)・釈迦(南方)・阿弥陀(西方)・弥勒(北方)で表現するが、この四方仏の場合はそのような配列にこだわらずつくられている。8体ほどみられる如来のうち6体は阿弥陀如来、2体は薬師如来と思われる。また、不空羂索観音と思われる像もある。


阿弥陀石仏100選(83) 青宇田磨崖仏
大分県豊後高田市美和字青宇田  「室町時代」
  青宇田地区にはに阿弥陀来迎図などの様々な画像が線刻された画像石(県有形文化財)と呼ばれる80枚ほど石板残っている。この画像石の収蔵庫の向かって左の崖の突き出た凝灰岩層の巨岩に小龕が刻まれ、中に上品上生印の阿弥陀如来を半肉彫りされている。

 小龕の左右に種子で観音(サ)と勢至(サク)が刻まれ三尊形式になっている。近畿地方などでは本尊を彫刻し、脇持を種子で表すのはよく見かけるが、九州では珍しい。



阿弥陀石仏100選(84)   千光寺阿弥陀三尊磨崖仏
広島県尾道市東土堂町 「室町時代後期」
  千光寺には石仏ブームのきっかけとなった若杉慧の「野の仏」によって、全国的に知られるようになった阿弥陀三尊磨崖仏がある。 参道の階段の隅にある像高50pほどの小さな磨崖仏であるが、 かわいらしいこけしのような磨崖仏である。室町時代末期の作と思われる。



阿弥陀石仏100選(85)   楢津阿弥陀石仏
岡山市北区北区楢津3043 「南北朝時代」
 岡山市楢津の若宮八幡宮参道脇に宝篋印塔とともに阿弥陀石仏が祀られている。分厚い舟形光背を負った厚肉彫りの定印の阿弥陀如来座像である。衣文の襞が摩耗のため見られず裸のように見える。やや硬さが見られるが優雅な顔をした阿弥陀仏で鎌倉時代の名残か残る南北朝時代の造立と思われる。

 この石仏は道路の下の田んぼから掘り出されたもので、明治時代の廃仏毀釈のため、粗末にされた八幡宮関係の石仏ではないかと言われている。



阿弥陀石仏100選(86) 北出橋阿弥陀磨崖仏
奈良市阪原町中村  「文和5(1356)年 南北朝時代」
 阪原北出橋近くの白砂川の川岸の大きな岩に彫られている。川の清流と溶け合った風景は素晴らしく、入江泰吉や佐藤宗太郎など多くの写真家がこの風景を撮っている。

 方形の枠の中に壺形の光背を深く彫りくぼめて、像高91pの来迎阿弥陀像を半肉彫りしたもので、文和五(1356)年の北朝の年号を刻む。保存状態も良く、南北朝時代を代表する磨崖仏である。品の良い整った顔であるが、上出阿弥陀磨崖仏に比べると力強さに欠ける。



阿弥陀石仏100選(87) 柳本町の双仏石
奈良県天理市柳本町159-3  「南北朝時代」
 柳本の町の中に長岳寺の飛び地があり、五智堂と呼ばれる真ん中に太い心柱がある傘のような建物か立っている。その近くの道ばたに20体近い石仏が集められていて、その中に南北朝時代の双仏石がある。高さ53p、幅70pの花崗岩の石の正面に船形光背を二つつなげて彫りくぼめ、像高35pの阿弥陀と地蔵の立像を半肉彫りしたもので、柳本付近でよく見られる善教作の石仏に通じる作風である。天理市福住の泥かけ地蔵とともに双仏石の先駆けとなる石仏である。



阿弥陀石仏100選(88) 仏頭石
奈良県奈良市春日野町  「室町時代」
 若草山の南麓の春日山遊歩道の入口ゲートの少し手前の山麓の小高いところに、仏頭石と洞の地蔵と呼ばれる倒れたままの地蔵石仏がある。 仏頭石は六角石柱に阿弥陀如来と思われる仏頭を丸彫りし、柱の各面に観音を刻んだ石仏で、頂上の仏頭は阿弥陀如来をあらわし、阿弥陀信仰に付随する六観音を配した珍しい石仏である。鎌倉時代からの花崗岩を刻む確かな技術の伝統が息づいた石仏である。



阿弥陀石仏100選(89) 新池上手の阿弥陀磨崖仏
奈良県奈良市白毫寺町  「室町時代」
 地獄谷新池の北の山の中にある磨崖仏で、周遊歩道沿いにある。大きな岩に舟形光背を彫りくぼめて、蓮華座に立つ来迎印阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。滝坂の道の磨崖仏に比べると表現は硬く、衣紋も抽象的で、室町中期の様式を示す。石仏としては劣るが苔むした岩肌に刻まれたこの像は印象的である。



阿弥陀石仏100選(90) 月峯寺六体阿弥陀石仏
大阪府豊能郡能勢町大里  「文安4(1447)年 室町時代」
 大阪府能勢町の月峯寺六体阿弥陀は高さ130pほどの船型光背を背負って坐す像高80p前後の定印阿弥陀像を厚肉彫りした大作である。鵜川四十八体仏と違って一体一体の顔の表情は少しずつ異なっていて、鎌倉期の石仏のような張りはないが、室町時代としては優れた石仏である。



阿弥陀石仏100選(91) 金剛輪寺阿弥陀石仏
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874  「南北朝後期」
 鎌倉後期の(59)金剛輪寺阿弥陀石仏によく似た様式の阿弥陀石仏が、本堂に続く長い石階段の参道を右に200m程入ったところにある。高さ約1mの花崗岩に、蓮華座に坐す定印阿弥陀如来を半肉彫りしたもので、像の左右に観音・勢至を表す梵字のサ・サクの月輪を刻む。

 鎌倉後期の阿弥陀石仏に比べると顔は丸顔で張りがなく、衣紋も形式化した表現となっていて、南北朝後期の作と思われる。 



阿弥陀石仏100選(92) 西隆寺阿弥陀石仏
滋賀県守山市岡町246  「南北朝時代」
 西隆寺は聖徳太子創建と伝えられる天台真盛宗の寺院で、JR守山駅の北東800mにある。

 その西隆寺の本堂の南側の墓地に二体の優れた阿弥陀如来石仏がある。その内、一体は墓地入口にあり、南北朝時代の作である。高さ2.8mの花崗岩に深い舟形の彫り窪みを入れて、像高68pの定印阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、もう一体の阿弥陀如来(鎌倉時代)に比べると厚く彫られ、納衣等の表現もやや固く伸びやかさに欠く。訪れたときは、やや斜めから陽が当たって、厚肉彫りの良さか生きたよい写真を撮ることができた。



阿弥陀石仏100選(93) 鵜川四十八体仏
滋賀県高島市鵜川1093  「天文22(1553)年 室町後期」
 湖水面に鳥居が立つ、謡曲「白鬚」の舞台、白鬚神社を国道161号線北へ450m進んで、左手の山道に入り300ほどで鵜川四十八石仏がある。鵜川の共同墓地を背景にひかえた入口に、像高約1.6mの丸彫りの阿弥陀石仏が所狭しと並んでいる。48体の内、13体は慈眼堂に移されたため35体になっている(2体盗難に遭い現在は33体)。

 全て、定印を結んだ座像で、面相や納衣の摩滅が目立ち、衣紋も抽象的で硬い表現であるが、大型の丸彫りの石仏がずらっと並ぶ姿は壮観である。2回目に訪れたときはイチョウの葉が散った後で、黄色い絨毯のようにになっていて乳白色の阿弥陀石仏とマッチしていて見事であった。

 近江の守護職、佐々木六角義賢が、亡母の追善供養のために、弥陀の四十八願にちなんで、天文22(1553)年に造立したものという。



阿弥陀石仏100選(94) 一乗谷の阿弥陀石仏
 福井県の朝倉氏の居城跡、一乗谷には、多数の石仏が残されている。一乗谷の石仏のほとんどは朝倉氏がさかえた16世紀の石仏である。日本全体で見ると16世紀は、造形的に見ると石仏の衰退期で、小型化・様式化・簡略化がすすみ、迫力のある魅力的な石仏はみられなくなる。しかし、この一乗谷の石仏は、細部を省略せず、細密に彫り出した、古様な表現であり、室町時代後期の石仏の中では異彩を放つ石仏群である。

 では、なぜそのような石仏がつくられたのだろうか。それは、京にあこがれつづけた戦国大名朝倉氏の存在である。朝倉氏の城下町、一乗谷は北陸の小京都として栄え、朝倉氏の庇護により多くの寺院が作られた。多くの石仏が残る西山光照寺や盛源寺は天台宗真盛派の寺院で、一乗谷の石造物造立の重要な担い手が、城主の朝倉貞景が帰依した特異な浄土教である天台宗真盛派である。もう一つは笏谷石(しゃくだにいし)という金鋸で切れるほど軟らかい凝灰岩の石材と古墳時代より続く越前の石の加工技術である。一乗谷の石造物のほとんどがこの笏谷石で、木彫と同じように加工できる笏谷石という石材が、細部を省略せず、細密に彫り出す、古様な表現を可能にした。
盛源寺の阿弥陀石仏
福井県福井市西新町 「室町後期」
 盛源寺は、朝倉館跡(義景屋敷跡)から一乗谷川を1qほどさかのぼった西新町にある天台宗真盛派の寺院で、真盛上人によって建立されたといわれている。真盛上人の高弟、舜盛上人の墓も残る。

 参道から境内に至るまで二百体ほどの石仏が、所狭しと並べられていて壮観である。中でも境内の不動明王<弘治2(1556)年在銘>と地蔵菩薩<天文6(1537)年在銘>は、量感もあり、一乗谷の石仏の最高傑作である。参道におかれた石仏も天文・弘治・永禄頃の朝倉氏全盛時代のものである。多くが阿弥陀如来と地蔵菩薩である。

 真盛によって始められた天台真盛宗の宗風は、「戒称二門」と表現され、「戒律」と「念仏」の両方を重視する点に特色がある。(「戒称」の「戒」は戒律、「称」は「称名念仏」、つまり阿弥陀仏の名を一心に称えることを言う。)従って当然、一乗谷では阿弥陀如来石仏が多く造立された。盛源寺の境内に入る手前の石垣の前には頭部が破損した像も含めて上品上生などの阿弥陀座像や来迎印の阿弥陀如来立像が多く見られる。放射光の光背を負った立像や双仏石も見られる。
 
西山光照寺跡地蔵石仏
福井県福井市阿波賀中島 「室町後期」
 西山光照寺は一乗谷の北端近くにあった、最澄の創建と伝える古刹を、文明3年、朝倉孝景が真盛上人の高弟、舜盛上人を招いて再興した寺である。江戸時代に福井城下に移され(福井大仏観音のある光照寺)、現在、廃寺となっている。本堂跡付近には舜盛上人の供養塔や 虚空蔵菩薩の石仏が残る。

 本堂跡に至る参道両側には、簡素な石仏堂がつくられ、大永(1521〜28)・天文(1532〜55)・永禄(1558〜80)などの古い銘を残す石仏が40体近く安置されていて、往年の栄華を物語っている。特に目立つのは地蔵菩薩や阿弥陀如来・不動明王で、如意輪観音・千手観音なども見られる。

 阿弥陀石仏は十三の化仏が彫られた船型光背を背負った弥陀定印の阿弥陀座像や来迎印の阿弥陀立像、放射光の光背を負った立像、善光寺式阿弥陀三尊などが見られる。善光寺式阿弥陀三尊は石で船型の板碑をつくり、周りに枠取りを造って、板碑の上部に格狭間の基壇の上に蓮華座にのる善光寺式阿弥陀三尊を、下部には十王像を2体半肉彫りした珍しい形式の石仏である。各石仏は穏やかな面容で衣紋も写実的である。



阿弥陀石仏100選(95) 豊能町の多尊石仏
 多尊石仏とは、磨崖または単独の石に多数の像容を彫った石仏で、地蔵菩薩など同形の繰り返しが多いのが特徴である。特に知られているのは大阪府の豊能町の多尊石仏である。阿弥陀如来を中心に多数の僧形座像を彫った多尊石仏が最も多く7体ほど見られる。僧形座像はほとんど合掌像で、この石仏を造った時の造立願主である結衆講員の逆修仏と思われる。戦国時代末期から安土桃山時代の短期間につくられたものである。

 各石仏は素朴で稚拙な表現てあるが、当時の庶民の来世の安穏を求めた願いが感じられるとともに当時の民間信仰の実態がわかる貴重な石仏群である。
川尻北の谷多尊石仏
大阪府豊能郡豊能町川尻北の谷 「天正8(1580)年 安土桃山時代」
 町役場などがある豊能町余野の西にある天台山の麓の集落が川尻である。川尻は三つの谷沿いの集落から成り立って、北の谷の法輪寺へ上がる道沿いに川尻北の谷多尊石仏がある。

 高さ1mほどの板状の岩に22体の石仏と3基の五輪塔が薄肉彫りされている。平らな表面を4段に区画し、最上段には蓮台を持つ観音と錫杖を持った地蔵をしたがえた放射光背を背負った阿弥陀如来を刻む。阿弥陀の定印は膝の上でなく胸前で結んでいるため一見する立像に見えるが、よく見ると結跏趺坐しているので座像であることがわかる。

 脇侍の右隣に2体、下段に17体の合掌する比丘形座像を浮彫りする。これらは、この石仏の造立した時の願主である結衆議員の逆修仏である。天正8年(1580)の紀年銘がある。
 
川尻中の谷多尊石仏
大阪府豊能郡豊能町川尻中の谷 「天正元年(1573)」安土桃山時代」
 北の谷の南の谷が中の谷である。その谷沿いにある元氷川神社参道の横に、光明真言板碑とともにまつられているのが川尻中の谷多尊石仏である。

  川尻中の谷多尊石仏は豊能町て多くある石英閃緑岩の自然石に阿弥陀三尊と16体の僧形座像を浮き彫りした多尊石仏である。上部に船形の彫りくぼみをつくり、放射光背を負った来迎印の阿弥陀立像を薄肉彫りし、阿弥陀像の向かって左足元に合掌する勢至菩薩と、右下に蓮台を持つ観音菩薩を体を左に傾けた姿で薄肉彫りしたもので、西方浄土より阿弥陀仏が往生する人を迎えにくる様子を表したものである。

 下段三段に、合掌する比丘形座像が16体彫られている。これらは願主である結衆議員の逆修仏と考えられる。阿弥陀の両肩部に「為□□ 天正元年」「八月十五日」の刻銘がある。(□□は逆修と考えられる)
 
切畑西野多尊石仏
大阪府豊能郡豊能町切畑西野 「天正3年(1575)」安土桃山時代」 
 町役場などがある豊能町余野の東、府道109号線沿いに広がる村が切畑である。西野は切畑の余野と接する西端の集落で、切畑西野多尊石仏は府道109号線から少し北へ入った所にある福聚観音堂の境内にある。

 石英閃緑岩の船形の板状の石に18体の像を薄肉彫り出されている。上部の半円部分いっぱいに彫りくぼみをつくりその中に高さ24pの来迎印の阿弥陀如来立像と観音と勢至の脇侍を薄肉彫りする。阿弥陀の頭部の周りには他の豊能町の多尊石仏と同じく放射光を彫っている。

 その下を4段に区切り4・4・4・3体ずつの15体の合掌する比丘形座像を薄肉彫りする。阿弥陀三尊の右側に「為逆修」左に「天正三乙亥年八月三日」と刻まれていて、他の多尊物と同じく比丘形座像は願主である結衆議員の逆修仏もしくは供養者と考えられる。
 
切畑大円下所多尊磨崖仏
大阪府豊能郡豊能町切畑大円下所 「天正2年(1574) 安土桃山時代」
 切畑の東部が大円(おおまる)である。大円下所に府道109号線から分かれて希望ヶ丘(北大阪ネオポリス)へ抜ける山道があり、その山道の採石場の入口の南側崖下に、切畑大円下所多尊磨崖仏がある。

 多尊磨崖仏は高さ約2.5m、幅3mの石英閃緑岩の岩面に阿弥陀像と、20体の比丘形座像と五輪塔を彫ったものである。最上段の船形の彫りくぼみの中に二重蓮台に立つ像高19pの放射光の光背を負った来迎印の阿弥陀如来を半肉彫りする。左右に2体ずつ比丘形座像、阿弥陀像の下の枠内に銘文、その向かって右に4体の比丘形座像、左に五輪塔、最下部には14体の比丘形座像が薄肉に近い半肉彫りで彫られている。20体の比丘形座像は合掌する手と腕が眼鏡のように二つの円で表している。天正2年(1574)の紀年と「為逆修」「為逆修檀」などの文字を刻む。



阿弥陀石仏100選(96)  加古川市の多尊石棺仏
 春岡寺阿弥陀石棺仏や玉野阿弥陀石棺仏のある加西市の隣の加古川市にも多くの石棺仏がある。加古川市の石棺仏は南北朝時代から室町時代のものが多く、阿弥陀とともに地蔵石仏も見られる。しかし、像自体は小ぶりで、「八つ仏」(加古川市平荘一本松)と呼ばれる石棺仏のように多尊石仏が半数以上しめる。

 四角張った顔、凵の字形の両腕と手、斜め左右に線を流しただけの膝の衣紋など抽象的・図形的な表現など写実性に欠ける形式的な表現の石棺仏である。しかし、縄掛突起つき家形石棺や長持ち型石棺の蓋の形をそのまま残して彫られていて石棺という素材の持つ魅力を多尊仏の抽象的・図形的な表現が生かして独特の世界を作り出している。
長楽寺石棺仏
兵庫県加古川市平荘町150?1 「南北朝時代」
 加古川市の石棺仏の特色の一つは像自体は小ぶりで、多尊石仏が多いことである。その多尊石棺仏の代表といえるのが「八つ仏」とこの長楽寺石棺仏である。

 高さ185cm、幅118cmの縄掛突起つき家形石棺蓋石の内側に舟形の彫りくぼみを6つつくりそこに像高22cm〜30cmの阿弥陀如来と地蔵菩薩を薄肉彫りする。上の2体が阿弥陀如来で、蓮弁を彫っていないお椀のような蓮華座に座っている。後の4体は地蔵菩薩と思われる。3体は立像で中央の向かって右の像は右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。他の2体は合掌しているように見える。印相や持ち物はわかりにくいが、向かって左下は地蔵座像であると思われる。

 他の加古川地方の石棺仏と同じように写実性に欠ける形式的な表現の石棺仏であるが、石棺の合わせ目部分を額縁のようにして、中に6体の半薄肉彫りすることにより、大型の縄掛突起つき家形石棺そのものの迫力を充分に生かしている。加古川の石棺仏を代表する一基といえる。
 
八つ仏
兵庫県加古川市平荘町一本松 「南北朝時代」
 長楽寺の西、一本松集落の南東の山麓に、「八つ仏」とよばれる石棺仏がある。野の中に立つこの石棺仏は、佐藤宗太郎氏の写真集「石仏の美」などに取りあげられ、加古川の石棺仏では最も知られた石棺仏である。現在はトタンの波板でかこまれた覆屋の中にあるため昔のような風情はない。

 高さ160cm、幅116cmの家形石棺蓋石の内側に像高20〜30cmの6体の仏像を舟形光背の彫りくぼみの中に薄肉彫りする。長楽寺石棺仏の阿弥陀座像と同じように、6体とも蓮弁を彫っていないお椀のような蓮華座に座っている。

 中央下の2体は地蔵で他は定印の阿弥陀である。他の家形石棺蓋石を使った石棺仏と違って、合わせ目部分にも像を刻んでいる。合わせ目部分か広いため内側部分だけでは迫力にかけることを考慮して彫られたのではないだろうか。(長楽寺石棺仏も合わせ目部分か広いが縄掛突起によってバランスがとられている。)作者は長楽寺石棺仏と同じと思われる。
 
報恩寺石棺仏
兵庫県加古川市平荘町山角 「南北朝時代」
  平荘小学校の北東にある報恩寺には多くの石造美術があり、十三重石塔(元応元年1319年)や4基の五輪塔(正和元年<1316>年)などが県指定文化財となっている。

 この石棺仏は本堂西墓地の南端にある。高さ86p、幅68cmの石棺の底石を利用し、上部に光背として舟形の彫りくぼみを4つつくり、そこに同型の像高17〜19pの阿弥陀座像を4体薄肉彫りしている。蓮華座は線彫りで、向かって左から2番目の像の左右に文和2年(1353)の刻銘がある。

 四角張った顔、凵の字形の両腕と手、斜め左右に線を流しただけの膝の衣紋など抽象的・図形的な表現は近くの神木阿弥陀石棺仏と同じである。



阿弥陀石仏100選(97)   万治の石仏
長野県諏訪郡下諏訪町社 「万治3(1660)年 江戸時代」
 岡本太郎が絶賛したという石仏がこの万治の石仏である。諏訪大社の春宮の左を流れる砥川の西、田んぼの中に巨大な阿弥陀如来像がどっしりと座っている。高さ2mほどの半球状の石の胴体に、イースター島のモアイを思わせる高い鼻と深い眼が印象的な首がちょこんとのっている。弥陀定印を結ぶ手や袈裟などは、板彫風に線や面を薄肉彫りし、メキシコのマヤ文明の彫刻を連想するような抽象的な表現となっている。「南無阿弥陀仏 万治三年 願主明誉浄光 心誉慶春」と銘が刻まれている。

 諏訪高島三代藩主忠晴が、諏訪大社下社春宮に大鳥居を奉納しようとした時、命を受けた石工が大鳥居造営の材料としてこの地にあった大石にノミを入れたところ、血が流れ出したので、取りやめてこの石に阿弥陀如来を刻んだという伝説が残っている。この伝説と共に、一度見たら忘れることのできない迫力のある異形の石仏は「自由で素朴で個性的な表現の石仏」にふさわしいものである。




阿弥陀石仏100選(98)   上新城阿弥陀三尊磨崖仏
福島県白河市大信上新城 「元禄15年(1702) 江戸時代」
 旧大信村の上新城の集落の北西の山麓にある上新城墓地の上段に彫られた善光寺式阿弥陀三尊の磨崖仏である。

 露出した岩に75p四方、深さ35の仏龕を彫り窪め、龕内に舟形光背を浮き彫りにして、頭光を背負った施無畏与願印の阿弥陀立像(像高60p)と同じく頭光を背負った宝珠を持つ観音・勢至の両脇侍(共に像高55p) を厚肉彫りしたものである。元禄十五年(1702)の紀年銘を持つ。

 同じ元禄期の作の羽黒山十三仏と比べると趣が違う。羽黒山十三仏は4頭身の地方作独特の迫力ある造形なのに対して、この像は中央の木彫仏を思わせる破綻のない端正な造形である。



阿弥陀石仏100選(99)   知恩寺墓地五劫思惟阿弥陀石仏
京都市左京区田中門前町 「江戸時代」
  今出川通り東大路東入るにある百万遍智恩寺は浄土宗総本山の智恩院につぐ浄土宗の大本山として大伽藍を誇っている。法然が念佛の教えを説いた「賀茂の河原屋」が前身となって、法然上人の弟子源智がこの地に法然上人の御影堂を建立し恩を知るお寺「知恩寺」としたのがはじまりである。鎌倉末期、京都中に疫病がはやった時に、当寺の善阿上人が、百万回の念仏を唱えると忽ちやんだことにより、百万遍の寺号を賜わった。境内の奧、北隅に広い墓地があり、多くの石仏がある。締まった腰で体部の肉付けの堂々とした迫力を持つ鎌倉時代の阿弥陀石仏石仏があるが、残念なことに頭部は貧弱な後補である。

 鎌倉時代の阿弥陀石仏以外にこの墓地の特出すべき石仏として、五劫思惟の阿弥陀如来石仏があげられる。阿弥陀仏が衆生救済の四十八願をたて、五劫もの長い間考え続けたことを表したもので、頭部螺髪が異様に大きく伸びた姿でつくられている。1体は墓地の中央部に、2体は上記の阿弥陀如来の近くにある。



阿弥陀石仏100選(100)   光前寺阿弥陀石仏
長野県駒ヶ根市赤穂29番地  「文政8(1825)年 江戸時代」
 江戸時代活躍した高遠の石工守屋貞治の唯一の阿弥陀如来像である。光前寺本堂の南側の歴代住職の墓がある墓地の中にある。方形、六角、反花と積み上げた台の上に高さ約40pの円柱を据え、三重の蓮華座に坐す上品上生の定印を結ぶ阿弥陀如来座像を丸彫りする。円柱正面に「大阿闍梨寂応」と彫る。

 口元は、鼻の付け根から下顎にかけて円形の彫りくぼみをつくり、その中に微笑みを含む口と円形の顎を浮き彫りにする「円形微笑型表現」である。貞治の「円形微笑型表現」の像としては貞司四十歳代の力作の福岡西や善福寺の准胝観音、光前寺佉羅陀山地蔵などがある。

 「円形微笑型表現」の最初の作とされるのが光前寺の寂応和尚をモデルにし彫像したとされている上赤須福沢家墓地にある延命地蔵で、貞治の三十歳代の作である。そして「円形微笑型表現」の最終作のこの阿弥陀如来が寂応本人の墓碑または供養塔である。他に寂応との関連性を認めるのは、福沢家など願主の大方が光前寺主要檀家である点である。(福岡西墓地准胝観音も福沢家墓地にある)

 以上のような理由から、「円形微笑型表現」と名付けた伊那谷石造物文化財研究所の田中清文氏は、口元円形微笑型表現は、寂応と貞治との信頼の上に生まれた表現方法と捉えている。

 温泉寺の願王和尚とともに貞治が師と仰いだ寂応和尚の墓上に捧げた生涯唯1体の阿弥陀如来がこの像で、願王和尚の墓標として彫った温泉寺願王地蔵大菩薩とともに、貞治の傑作である。


  
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