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京都では鎌倉時代になると、石彫技術の発達に伴って、硬質花崗岩が石材の中心となり、丸彫りに近い厚肉彫りの表現も可能になる。石仏の需要も平安時代に比べると飛躍的に増大する。特に阿弥陀石仏が多くつくられた。その背景には浄土信仰の広がりと鎌倉仏教の多様性がある。特に京都で広がった法然の浄土宗や一遍の時宗は、専修念仏をとなえるともに造仏を否定しなかったので、この時代の京都の石仏は阿弥陀が断然多くなったのである。これらの阿弥陀石仏はほとんどが定印の阿弥陀如来座像である。 それらの阿弥陀石仏の中でよく知られていて秀作といえるのが、大原三千院阿弥陀石仏・石像寺阿弥陀三尊石仏である。石像寺阿弥陀三尊石仏は国の重要文化財で鎌倉中期の元仁元年(1224)の年号を持つ。二重円光式光背には十三個の月輪があり、梵字を陽刻する。このような梵字を刻んだ二重円光式光背を背負った厚肉彫りの像は京都の石仏に多く見られる。北白川阿弥陀石仏や聞名寺阿弥陀石仏もこの様式である。 奈良で地蔵石仏に次いで多いのは阿弥陀石仏である。しかし、鎌倉時代の阿弥陀石仏は京都のように多くはない。奈良では鎌倉時代の阿弥陀石仏は定印の阿弥陀如来座像よりも来迎印の阿弥陀如来立像が多い。 奈良で鎌倉時代の阿弥陀石仏が多く見られるのは、大和高原と奈良と大阪を結ぶ奈良街道沿いである。大和高原では常照院阿弥陀石仏や切りつけ地蔵阿弥陀磨崖仏、滝山阿弥陀磨崖仏、つちんど墓地阿弥陀三尊などが知られている。藤尾阿弥陀石仏や伊行氏の作の石仏寺阿弥陀三尊・阿弥陀立像、尼ヶ辻阿弥陀石仏などが奈良街道沿いの阿弥陀石仏である。 |
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阿弥陀石仏100選T 阿弥陀石仏100選V |
阿弥陀石仏100選(33) 大沢の池石仏群阿弥陀石仏 |
京都市右京区嵯峨大沢町 「鎌倉時代」 |
大沢池石仏群は大覚寺の東、日本最古の人工の林泉で庭湖とも呼ばれる大沢池のほとりの護摩堂の北の庭にある石仏群で、胎蔵界大日・薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒などの鎌倉時代の古仏が並んでいて京都を代表する石仏である。この石仏群の中心となるのは、大きな木の左にある薬師とその左に並ぶ釈迦・胎蔵界大日・阿弥陀・阿弥陀の各如来と少し離れた場所にある弥勒菩薩で、2つ目の阿弥陀を除く5体が胎蔵界五仏として作られたもの考えられる。これらの石仏は光背を刻出せず、大きな岩を背負っていて、おおらかな様式で迫力がある。 大日如来の横の半円形の岩を背負った阿弥陀座像は上品上生の定印で顔は満月相で、平安後期の古い様式を残す。その左の阿弥陀はやや長細い三角の岩を背負った定印の座像である。 |
阿弥陀石仏100選(34) 石像寺阿弥陀石仏 |
京都市上京区花車町503 「元仁元年(1224) 鎌倉時代」 |
石像寺は「釘抜き地蔵」と呼ばれ、現在も参拝者が絶えない、庶民の寺が千本通りに面した小さい門を入った家並みの中にある。 「釘抜き地蔵」の由来は、両手の痛みで苦しんだ商人が石像寺の地蔵に平癒を祈願し日参したところ、満願の日に夢に地蔵尊があらわれ、「前世に人をうらみ、人形の両手に八寸の釘を打って呪ったむくいである。釘を抜き取って救ってあげる。」と言い、目覚めた商人の手に釘が握られていたことによる。諸々の痛みを抜き取るとして信仰を集め、現在も釘と釘抜きを描いた絵馬が奉納されている。 その地蔵尊をまつる本堂の裏に石像寺阿弥陀三尊石仏がある。国の重要文化財で鎌倉中期の元仁元年(1224)の年号を持つ京都の石仏を代表する石仏の一つである。 中尊の阿弥陀如来は弥陀の梵字「キーリク」が11個、小円形に刻まれた、二重円光の光背を背負い、二重の蓮華座上に結跏趺坐する。穏やかな整った顔やよどみのない衣紋はみごとである。 脇侍の観音・勢至菩薩は別石で安置されていて、同じく小円相に観音の「サ」・勢至の「サク」の梵字の刻んだ二重円光の光背を背おっている。この阿弥陀三尊も多くの人が供える香華が絶えず、線香・蝋燭の煙で白い花崗岩の膚が茶色になっている。 |
阿弥陀石仏100選(35) 戸寺町阿弥陀石仏 |
京都市左京区大原戸寺町553 「鎌倉時代」 |
敦賀街道は京都市街より八瀬・大原の里をへて日本海へ向かう。八瀬と大原の境にあたるのが花尻橋である。橋の南に志ば漬で知られた土井志ば漬本舗の本店と工場があり、観光客でにぎわっている。その花尻橋を北に渡ると、すぐ右手に江文神社の御旅所があり、鳥居の左横に小堂に、戸寺町阿弥陀石仏がある。 石仏は高さ105p、幅57p、厚さ40pの灰黄色の花崗岩に蓮華座に坐す定印の像高69pの阿弥陀如来を厚肉彫りする。無地の二重円光式の光背や、木彫風の衣紋の表現など大原阿弥陀石仏と共通するところが多く、この石仏も香炉ヶ岡弥勒石仏につながる叡山系の石仏と考えられる。大原阿弥陀石仏のような雄大さはないが清楚な美しい石仏である。 |
阿弥陀石仏100選(36) 聞名寺阿弥陀石仏 |
京都府京都市左京区北門前町487 「鎌倉後期」 |
東山二条から東山仁王門にかけての北門前町には多くの寺が集まっている。その多くは浄土宗や日蓮宗の寺である。その中に時宗の寺院の聞名寺がある。光孝天皇ゆかりの寺で、一遍上人が再興して時宗道場とし、宝永5年(1708)の大火により、京極大炊御門からこの地に移された。 その聞名寺の本堂裏の墓地に鎌倉時代後期の阿弥陀石仏がある。墓地の入り口付近に多くの無縁仏が並べられていてその中央に、この阿弥陀石仏が祀られている。像高156pで、蓮華座の上に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、二重輪光背を背負う。光背には十一個の月輪があり、阿弥陀の種字「キーリク」を陽刻する。この様式は石像寺の阿弥陀石仏と同じで、鎌倉末期に石像寺像を手本にして造立されたものと思われる。 昔火災にあったようで、首が折れ、差し込むように頭部がはめこまれている。頭部は風化が少なく、穏やかな顔である。しかし、石像寺像のようなはりや緊張感は見られない。 |
阿弥陀石仏100選(37) 安養寺阿弥陀石仏 |
京都市東山区八坂鳥居前東入円山町624 「鎌倉時代」 |
しだれ桜や藤の花などの花が四季を彩る円山公園の東の山腹に慈円山安養寺がある。安養寺はもとは最澄の開基と伝えられる天台宗の別院で、室町時代に国阿上人によって時宗の寺として再興されて栄えた寺である。明治時代になって火災にあって衰退し、現在は阿弥陀如来をまつる本堂書院が残るのみである。 その本堂の前、参道の左にこの阿弥陀石仏が南面して安置されている。高さ1.5mの舟形光背を背負い、蓮華座に坐す、定印を結んで結跏趺坐する像高90pの阿弥陀如来を厚肉彫りしたものである。他の京都の多くの石仏と同じく花崗岩製である。他の石仏は軟質の花崗岩のため、摩滅風化がすすんでいるのが多いが、この像は風化がほとんどなく、ひたい際を深く刻んだ端正な顔や、写実的な衣紋表現など鎌倉期の石仏の様式がよくわかる秀作である。 |
阿弥陀石仏100選(38) 安養寺前の阿弥陀石仏 |
京都市左京区粟田口山下町 「鎌倉時代」 |
「蹴上」(けあげ)という地名は、源義経が奥州藤原氏のおもむくおり、この地で馬にのる平家の侍9人がすれ違いざま、義経一行に溜まり水をかけた(馬が溜まり水を蹴り上げた)のがきっかけで乱闘になり平家方が悉く斬られたという伝説から起こっている。そのとき、殺された9人の武士の菩提をとむらって9体の石仏が彫られたという。 地下鉄東西線の「蹴上」駅を出て、南へ進むとすぐに「青竜山安養寺」の石標が立っていて、急な石段を上るとそこが、琵琶湖疎水の第3トンネルの出口で、昔の船溜場である。ここから南禅寺船溜までの間、船はインクライン(傾斜鉄道)に載せられていた。その船溜場の西に(安養寺の参道となっている橋の手前を左折)大日堂と呼ばれるお堂があり、そこに「義経大日」と呼ばれる阿弥陀石仏が祀られている。「義経大日」の縁起は、先に述べ伝説に由来する。 花崗岩製で高さ1.6mの舟形光背を背負い、蓮華座に結跏趺坐する像高90pの定印阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、鎌倉中期から後期の造立と考えられる。京都の花崗岩製の石仏は風化か進んでいて面相はわからないものが多いがこの石仏は保存状態よく、穏やかで引きしまった面相や衣紋がよく残っている。 |
阿弥陀石仏100選(39) 六波羅蜜寺の阿弥陀石仏 |
京都府京都市東山区大和大路上ル東 「鎌倉時代」 |
六波羅蜜寺は民間における浄土教の先駆者、空也上人が天暦5年(951)に建てた寺である。西国第17番の札所で、空也上人像をはじめ藤原時代から鎌倉時代の仏像多く伝わり、巡礼者や観光客でにぎわっている。 本堂の南側にこの阿弥陀石仏が安置されいる。京都の石仏は光背を背負った厚肉彫りの像が多いが、この阿弥陀石仏は丸彫りである。高さ約2mの蓮華座上に結跏趺坐する定印の阿弥陀如来像である。穏やかな端正な顔で、螺髪を丁寧に刻む。納衣の衣紋は浅い彫りの簡略なつくりであるが、それが木彫仏にない石の存在感を活かした造形美となっている。 |
阿弥陀石仏100選(40) 東小会所阿弥陀石仏 |
京都府木津川市加茂町東小上高庭49 「弘長2(1262)年 鎌倉時代」 |
浄瑠璃寺の東方、藪の中地蔵から北へ少し入った東小高庭の集落にある会所の前の広場にこの石仏が安置されている。長方形の石の表面に彫りしずめを作り、その中に定印の阿弥陀座像を半肉彫りにしている。 洗練された技法の「笑い仏」に較べると顔はやや硬い表現となっているが、 それだけ厳しく引き締まり、石の硬質感をうまく生かしていて、魅力的である。近くの藪の中磨崖仏と顔や衣紋の表現がよく似ており、同作者の彫刻と考えられる。首が深くくびれて切れているように見えるためか「首切り地蔵」と呼ばれている。(刑場跡にあったためという説もある。) 舟形内の像の横に「弘長2年(1262)‥‥」の銘があり、当尾の在銘石仏としてはもっとも古い。石材の上に低い突起があるのでもとは笠をのせたことがわかる。 |
阿弥陀石仏100選(41) 藤尾阿弥陀石仏 |
奈良県生駒市藤尾町 「文永7(1270)年 鎌倉時代」 |
暗峠を超えて大阪と奈良を結ぶ奈良街道沿い(国道308号線)に鎌倉期の阿弥陀石仏が多い。生駒市では藤尾阿弥陀石仏をはじめとして西畑阿弥陀磨崖仏や最近まで秘仏とされた伊行氏の作の石仏寺阿弥陀三尊・阿弥陀立像などの阿弥陀石仏がそれである。 石仏寺のある藤尾集落の西の外れ、奈良街道の道ばたに藤尾阿弥陀石仏をまつる小堂がある。上部欠けた菱形の板状の花崗岩の表面に、来迎印の阿弥陀如来立像を薄肉彫りし、衣紋などを線彫りで表したものである。顔は摩滅がすすんでいるが、衣紋の線などはのびやかな自然な流れで、時代の特色が現れている。 像の向かって左に「南無阿弥陀仏」の刻銘あり、右に「文永七年广午六月 為西仏過去也」と刻む。「广」は「庚」の代用である。「文永7(1270)年」は生駒山の東辺では最も古い紀年銘である。 |
阿弥陀石仏100選(42) 尼ヶ辻阿弥陀石仏 |
奈良県奈良市尼辻北町6-5 「鎌倉後期」 |
奈良市に入っても奈良街道沿いには尼ヶ辻地蔵石仏や尼ヶ辻阿弥陀石仏・佛願寺阿弥陀石仏なとの鎌倉時代の石仏がある。尼ヶ辻地蔵石仏のある交差点は奈良街道と郡山道の交差する辻である。 尼ヶ辻駅から東へ230mほど旧奈良街道を進むと、古跡「伏見崗」として整備された小さな公園があり、繋がった大小の2棟の真新しいお堂が見えてくる。大きい棟のお堂にこの尼ヶ辻阿弥陀石仏が祀られている。 伏見崗は「伏見翁(ふしみのおきな)」ゆかりのの霊地である。伏見翁は東大寺大仏建立にさいして、この崗で、何も言わず3年間伏して、時々東方の東大寺造営を見ながら過ごし、東大寺造営の土地を鎮め守護したという。東大寺造営が完成したとき、立ち上がり菅原寺(喜光寺)へ下り、行基や婆羅門僧らと共に歌い舞ったという。 尼ヶ辻阿弥陀石仏は高さ2mほどの船型光背を造り、蓮華文様の頭光背を背負って立つ像高150pほどの来迎印阿弥陀如来の厚肉彫り像である。力強さや引き締まった緊張感に欠けるが、おおらかな表情で、巨大な体部の量感は魅力的である。鎌倉後期の作風である。 |
阿弥陀石仏100選(43) 京終地蔵院阿弥陀三尊石仏 |
奈良市北京終町1 「鎌倉後期」 |
北京終町の街中に京終地蔵院と呼ばれる小さな寺院がある。その寺院入り口の覆堂に鎌倉時代後期の阿弥陀三尊石仏が祀られている。 高さ180pほどの大きな船型光背をつくり、阿弥陀三尊像を厚肉彫りしたもので、阿弥陀如来は像高130pの来迎印の立像で蓮弁を刻んだ頭光背を負う。合掌する勢至菩薩と蓮台を持つ観音菩薩は像高70pの立像で主尊と同じく蓮弁を刻んだ頭光背を負う。 鎌倉初期や中期の像に比べると力強さに欠けるが三尊とも穏やかな面相で、衣紋の表現も流麗である。 |
阿弥陀石仏100選(44) 十国台三体仏 |
奈良市川上町 「鎌倉後期」 |
奈良の若草山の頂上に近い十国台には、高さ135p、幅100pの広めの船型光背を造って、阿弥陀を中尊に向かって左に弥勒仏・右に十一面観音を半肉彫りした、十国台三体石仏がある。 阿弥陀如来は右手をあげ、左手を下げた来迎印の立像、向かって右の十一面観音観音は立像は、念珠と蓮華nを持つ。左の如来立像は右手をあげて施無畏印、左手を下げていて、弥勒仏と思われる。鎌倉後期の作。 |
阿弥陀石仏100選(45) 上出阿弥陀磨崖仏 |
奈良市大柳生町上出 「鎌倉後期」 |
誓多林から大柳生へ出る白砂川に沿った旧柳生街道に突き出た大岩の岩壁にこの阿弥陀磨崖仏は彫られている。誓多林から大柳生への旧柳生街道は東海道自然歩道に指定されていないため、ほとんどのハイカーは忍辱山へ向かう東海道自然歩道を通るので、この磨崖仏は人の目にふれることは少ない。 岩肌に、高さ約110p、幅約60p、深さ15pの方形を彫りくぼめ、蓮華座上に像高約90pの来迎印の阿弥陀如来立像を半肉彫りする。頭部が大きく4〜5頭身ほどであるが、豊かな包容力のある力強い顔に魅力がある。 |
阿弥陀石仏100選(46) あたや地蔵 |
奈良市柳生下町 「鎌倉後期」 |
柳生から北(笠置方面)に1qほど行った、川の東の大きな岩壁にあたや地蔵がある。高さ2mほどの方形の枠組みを彫り、放射光を刻んだ頭光背を背負った、像高約150pの来迎印阿弥陀如来を薄く半肉彫りする。保存状態は良く、西日を受けた姿は美しい。左下には像高70pほどの追刻と思われる地蔵菩薩がある。 あたい地蔵から県道を少し北に行くと、弥勒大磨崖仏や、虚空蔵石磨崖仏で知られた笠置山への東海道自然歩道が通じている。 |
阿弥陀石仏100選(47) 切りつけ地蔵 |
奈良市田原南田原町 「元徳3年(1331) 鎌倉後期」 |
地元の人が「きりつけ地蔵」とよんでいる阿弥陀磨崖仏である。 花崗岩壁に高さ、約2mの長方形を深く彫り込み、蓮華座上に立つ来迎相の阿弥陀像を厚肉彫りする。 像の両脇奥壁に、石大工行恒が彫刻したことを刻む。行恒は有名な伊派石工の一人で、 和歌山県地蔵峰寺地蔵石仏(重文)など鎌倉後期を代表する石仏を残している。 いずれも、木彫仏に劣らない、丁寧な技法の熟達した作品である。 |
阿弥陀石仏100選(48) 常照院阿弥陀石仏 |
奈良県山辺郡山添村的野 「建長5(1253)年 鎌倉時代」 |
山添村の的野には建長5(1253)年の造立銘のある常照院阿弥陀石仏がある。自然石の表面に蓮華座に立つ、上品下生の来迎印の像高1mの阿弥陀像を厚肉彫りしたものである。赤黒い色が目立つためじっくり見ないとわからないが、肉付けや面貌は写実的である。笠石は上面山形状の自然石である。像の脇に「建長五年丁未十月造立」の刻銘がある。 |
阿弥陀石仏100選(49) 的野阿弥陀磨崖仏 |
奈良県山辺郡山添村的野 「鎌倉後期」 |
布目川の岸の岩にこの阿弥陀磨崖仏は彫られている。 舟形光背を彫りくぼめた中に、蓮華座に立つ像高150cm程の来迎印阿弥陀像を厚肉彫りする。布目川の清流越しに見る、八頭身近いすらっとした長身の姿は印象的である。鎌倉後期の造立と思われる。 |
阿弥陀石仏100選(50) 滝山(下笠間)阿弥陀磨崖仏 |
奈良県宇陀市室生区下笠間 「永仁2年(1294) 鎌倉後期」 |
笠間川対岸の岸壁に、二重光背式の彫りくぼめを作り、その中に連座上にたつ来迎相の阿弥陀像を半肉彫りする。 頭光には、 放射光が線彫りされている。優雅でおおらかな面相の磨崖仏で、鎌倉後期の磨崖仏の秀作である。 絵画的な柔らかい表現で、 同じ時代のつちんど墓地の阿弥陀石仏とは違った魅力がある。 |
阿弥陀石仏100選(51) 三谷阿弥陀磨崖仏 |
奈良県桜井市三谷小字下の佛 「延慶2年(1309) 鎌倉後期」 |
都祁村藺生から三谷に抜ける旧道の藺生峠に、「ネンゾ(寝地蔵)」と呼ばれている地蔵磨崖仏と阿弥陀磨崖仏がある。 三谷阿弥陀磨崖仏はもとは、 寝地蔵と呼ばれる横向きに転落している地蔵磨崖仏と2体の対になった磨崖仏であった。 高さ約60cmの二重光背を彫りくぼめ蓮華座に座す定印阿弥陀如来を半肉彫りする。端正な表情の整った石仏である。寝地蔵の左右の岩面に藺生(いう)の住人祐禅浄覚房が延慶2年(1309)造立した旨が刻まれている。 |
阿弥陀石仏100選(52) 中之瀬磨崖仏 |
三重県伊賀市寺田中之瀬 「鎌倉時代」 |
伊賀上野から東へ、木津川の支流、服部川に沿って伊賀街道(国道163号線)が津に通じている。その川沿いの道の北側のそそり立つ岩壁に中之瀬阿弥陀三尊磨崖仏が彫られている。本尊は像高2.5mの巨像で来迎印の阿弥陀如来立像を薄く半肉彫りしたもので、鎌倉時代のおおらかで雄壮な磨崖仏である。 放射光を刻んだ頭光背など、柳生のあたい地蔵と呼ばれる阿弥陀如来立像磨崖仏に表現は似るが、あたい地蔵に較べると、口元が大きく、素朴で力強い面相である。 脇侍の観音菩薩と勢至菩薩は、線刻像で、後世の追刻である。他に、不鮮明であるが、阿弥陀三尊の左右に線刻の不動明王と地蔵菩薩立像が彫られている。 |
阿弥陀石仏100選(53) 花の木三尊磨崖仏 |
三重県伊賀市大内岩根 「徳治元(1306)年 鎌倉後期」 |
上野市大内の花の木小学校の校門を入ってすぐ、校庭の右側に廃道があり、その廃道沿いに巨大な岩塊が露出している。その南面に幅220p、高さ148pの長方形を彫りくぼめ、像高約1.2mの三体の立像を厚肉彫りする。 向かって右から、釈迦・阿弥陀・地蔵で、釈迦は施無畏・与願印、阿弥陀は来迎相、地蔵は錫杖・宝珠を持つ。各尊の間には蓮花瓶を浮き彫りに配している。地蔵の上部に「徳治第一年九月日 願主沙弥六阿弥」の刻銘があるという。(摩耗していてるため、見た目ではわからない。)各尊とも、写実的で力強い秀作である。 |
阿弥陀石仏100選(54) 中村薬師堂磨崖仏 |
三重県伊賀市島ヶ原 中村 「鎌倉後期}」 |
JR関西線「島ヶ原」駅から東踏切を北へこえ、しばらく行くと、道の左手に大きな石に六地蔵を彫りつけた石仏がある。(慶長9(1604)年の刻銘)その石仏の前を右手に下りたところに薬師堂がある。薬師堂の扉の内すぐに岩面があり、薬師如来座像と、阿弥陀三尊が半肉彫りされている。 堂でおおわれているため、保存状態は良く、光背と衲衣が朱と黒で彩色されている。鎌倉時代の石仏にしては力強さに欠けるが、やわらかい素朴な表現の磨崖仏である。 この中村薬師堂の北には東大寺の二月堂の修二会(お水取り)とよく似た修正会が行われる正月堂(観菩提寺)がある。 |
阿弥陀石仏100選(55) 清岸寺石龕仏 |
三重県伊賀市摺見1315 「鎌倉後期}」 |
伊賀鉄道「丸山」駅の東4qに摺見(するみ)という集落がある。その集落の東の丘陵の麓の小高い場所に集落を見下ろすように清岸寺がある。浄土宗の寺院で本堂は藁ぶきで、開放的な雰囲気の寺である。境内の西に古い墓地があって、その入口にこの石龕仏がある。 総高117pで切石で奥壁と側壁を組み立派な宝珠のついた屋根を載せた石龕で奥壁に像高47pの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。穏やかな締まった表情の優れた像容の阿弥陀像である。左右の側壁には二重円光背の彫り窪みがつくられその中に蓮台を持つ観音と合掌する勢至菩薩が半肉彫りで表されている。脇持を対面させた珍しい形式の阿弥陀三尊である。 |
阿弥陀石仏100選(56) 日神墓地の阿弥陀石仏 |
三重県津市美杉町太郎生 「鎌倉時代」 |
旧美杉村(現在は津市美杉町)は西は奈良県の御杖村・曽爾村、北は名張市・伊賀市に接し、伊勢湾に流れる雲出川の上流に位置する山里である。伊勢の国司で守護大名でもあった畠山氏の拠点として国府がおかれ、伊勢本街道の宿場町としてさかえた歴史の村でもある。 村の西の太郎生(たろう)地区は大阪湾に注ぐ名張川の上流にあたり、平家の落武者が住みついたと伝えられる地である。名張から国道368号線を南へ名張川に沿って15qさかのぼると美杉村で、最初の集落が太郎生(たろう)地区の飯垣内(はがいと)である。飯垣内のバス停より名張川を渡って飯垣内の集落を抜け、曲がりくねった道を上りきった所にある小さな集落が日神(ひかわ)である。そこに、三重県指定文化財の日神墓地石仏群がある。 日神墓地は平家六代墓ともよばれ、墓域は柵で囲まれている。入口の鉄扉を開けて上った正面突き当たりに、石龕があり、奧に高さ1.2mの安山岩に舟形光背を彫りくぼめ、蓮花座に座す半肉彫りの定印阿弥陀如来石仏が安置されている。整った張りのある阿弥陀石仏で、ほほえむ眼や口元が若々しく魅力的である。体躯や衣紋もゆったりとしていて写実的で、鎌倉中期から後期の様式を示している。 |
阿弥陀石仏100選(57) 石山観音阿弥陀磨崖仏 |
三重県津市芸濃町楠原 「鎌倉時代」 |
昔の面影を残す白壁塗りの店舗や家屋の残る、「日本の道百選」に選ばれた、宿場町、関宿の南2qの丘陵に石山観音磨崖仏があるこのあたりの丘陵は安山岩や凝灰岩などの巨岩が露出していて、石山観音磨崖仏は高さ40mほどの岩肌に大小の磨崖仏が刻まれている。石山観音は、江戸時代に三十三ヶ所観音霊場の観音を彫ったところから名づけられた。 その群像の中には、鎌倉時代の阿弥陀仏や地蔵菩薩も、彫られている。 阿弥陀磨崖仏は三十三ヶ所観音石仏巡拝コースの最後にあり、巡拝コース入り口付近から見上げた、岩山に彫られている。直立した岩肌に、二重光背を深く彫りくぼめ、蓮華座に立つ、像高352pの上品下生の来迎印の阿弥陀如を厚肉彫りしたものである。像の下には二面の格狭間を刻んだ須弥壇が設けられている。平行線に整えられた衣紋は美しくのびやかで、総高5mを越えるこの磨崖仏は迫力があり、下から見上げると、破壊されたアフガニスタンのパーミヤンの大仏を連想させる。格狭間の様式などから見て鎌倉後期の作と思われる。(県指定文化財) |
阿弥陀石仏100選(58) 八講堂千体地蔵阿弥陀石仏 |
滋賀県大津市坂本5丁目10-8 「鎌倉時代」 |
日吉大社から西教寺へ向かう道の途中、大きな楓の樹がそびえ、その下付近に多くの小石仏・板碑が集められている。その中央に大きな阿弥陀石仏が坐している。高さ1.4mkの花崗岩の石材を削り、表面に高さ1.1mの定印阿弥陀如来を半肉彫りした石仏である。摩耗が進み、衣紋や指先などはよくわからない。しかし、顔は穏やかで力強く、体躯も堂々としていて、厚肉彫りではないが豊かな量感を感じられる石仏である。 村人が昔から伝教大師御自作としてまつってきた石仏である。この付近には大師の作と伝えられる石仏が少なくない。鎌倉時代、浄土教の広がりと共に、比叡山周辺には多くの阿弥陀石仏がつくられた。 |
阿弥陀石仏100選(59) 見世のおおぼとけ |
滋賀県大津市滋賀里見世 「鎌倉時代」 |
滋賀里の西の山中に天智天皇の創立という崇福寺の跡がある。その崇福寺跡へ向かう山道(昔の京都への脇街道)の途中に、この石仏がある。石というよりは岩と呼びたい巨石の表面をきれいに加工し、座高3mを越える巨大な阿弥陀如来座像を厚肉彫りに刻み出している。頭部はほとんど丸彫りに近い。通称「見世の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれる丈六の石仏である。 磨崖仏ではないか磨崖仏に匹敵する量感をそなえた石仏である。顔は童顔であるがひきしまった優美な姿で、鎌倉期の特色を見せている。衣紋などの表現は大まかであっさりした表現となっているが、それがかえって、石の持つ迫力を引き出していて、木彫仏と違った魅力が感じられる。 |
阿弥陀石仏100選(60) 金剛輪寺阿弥陀石仏 |
滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺874 「鎌倉後期」 |
金剛輪寺は、行基菩薩の創建と伝えられる寺院で、平安時代慈覚大師円仁によって天台宗の道場として興隆した寺院で、湖東三山の一つとして多くの文化財を有する寺院である。紅葉の寺としても知られ訪れる人が絶えない。 惣門をくぐって参道を少し進むと、拝観受付があり、桃山時代の庭園のある本坊がある。本坊の入り口から、本堂に続く長い石階段の参道がある。その参道の途中のに「石仏」と書いた案内板があり、左に少し入った小さな覆堂に鎌倉後期の阿弥陀石仏が祀られている。 花崗岩を使い舟形をつくり像高82pの定印阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、写実的で端正な姿の石仏である。光背の上部にキリーク、左右に6個のアの梵字の月輪が刻まれている。比叡山香炉ヶ岡弥勒石仏や京都石像寺阿弥陀石仏など京都・滋賀によく見られる様式である。 |
阿弥陀石仏100選(61) 大円釈迦堂阿弥陀三尊笠塔婆 |
大阪府豊能郡豊能町切畑 「乾元2(1303)年 鎌倉後期」 |
豊能町最古の石仏は切畑大円の釈迦堂の阿弥陀三尊笠塔婆である。高さ1.5m、幅48p、厚さ25pの細長い花崗岩の自然石上部に舟形の彫り込みをつくり定印阿弥陀座像を厚肉彫りし、その下に合掌する勢至菩薩と蓮台を持つ観音菩薩を半肉彫りした阿弥陀三尊像である。頂上は水平で、ほぞが残っていて、もと笠石ががあったことがわかる。 勢至と観音の間の中央部に「為三世四恩乾元二年癸卯二月下旬願主敬白」の紀年銘があり、鎌倉後期の1303年の作であることがわかる。素朴ながら、気品のある石仏で、豊能町では最も優れた石仏といえる。 |
阿弥陀石仏100選(62) 総願寺跡宝塔阿弥陀像 |
岡山県倉敷市児島下之町田和 「建仁3年(1203) 鎌倉初期」 |
倉敷市児島下之町の民家の間に小さな社(王子権現社)があり、社の東側に鎌倉時代初期「建仁3年(1203)」に造立された宝塔(高さ216p)がある。自然石を基盤にし、四方大面取りにした長い塔身に仏像が彫られている。 南面(正面)に多宝・釈迦の二仏、西面に弥勒如来(釈迦如来説もあり)座像、東面に阿弥陀如来座像、北面に不動明王立像が薄肉彫りしたもので、塔身四隅の面取の所に各1行、合わせて4行の刻銘がある。(「総願寺塔□一切衆生現世安穏後生善所」「建仁3年(1203)亥癸二月十日酉己律師□□敬白」の2行と、諸行無常と一光一花の偈文) 火災のため花崗岩の塔身は破損しているが、東面だけは無事である。美しい天蓋の下、蓮座に座す定印の阿弥陀如は優雅で、吉備地方を代表する阿弥陀石像といえる。 |
阿弥陀石仏100選(63) 弥谷寺阿弥陀三尊磨崖仏 |
香川県三豊郡三野町大見70 「鎌倉時代」 |
標高382mの弥谷山は、死者の霊が帰る「仏の山」として昔から信仰を集めている。その弥谷山の中腹にある四国霊場第71番札所弥谷寺は本堂まで急勾配の階段が続き、遍路泣かせの難所であるが、いかにも密教の修行の場に相応しいところである。 この弥谷寺に四国で唯一といってもよい、鎌倉時代の磨崖仏がある。比丘尼谷と呼ばれる崖の面に彫り窪めた舟形光背の中に阿弥陀三尊像を半肉彫りする。摩滅がひどく、脇持の観音・勢至菩薩は顔がほとんどわからない。舟形光背の彫り込みの上にコンクリートで補強されたひさしが興ざめるが、端正な顔の阿弥陀如来は四国の石仏の中でも傑作といってよい。 |
阿弥陀石仏100選(64) 円台寺磨崖仏 |
熊本市北区植木町円台寺 「鎌倉時代」 |
阿弥陀如来座像 |
善光寺式阿弥陀 |
円台寺磨崖仏は凝灰岩の岩壁に、多くの石仏が彫らていて、中心となるのは岩壁の下方の阿弥陀三尊像と一番上に彫られている阿弥陀如来座像である。阿弥陀三尊磨崖仏は所謂、善光寺式阿弥陀である。阿弥陀如来座像は将棋の駒の形の彫り窪みをつくり説法印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りしたもので、顔の部分が風化しているのが惜しいが端正な磨崖仏である。 |
阿弥陀石仏100選(65) 鹿谷阿弥陀三尊磨崖仏 |
宮崎県串間市福島鹿谷 「永仁六年(1298) 鎌倉時代後期」 |
宮崎県の南部、串間市の鹿谷に鎌倉時代の阿弥陀三尊磨崖仏がある。鹿谷の集落の西300m、県道ぞいの、高さ約250p、幅約220pの大きな凝灰岩の岩に阿弥陀三尊を厚肉彫りしたものである。道からやや下がったところにあるためうっかりすると見過ごしてしまう。 阿弥陀如来像は、摩滅のためか、他の鎌倉時代の磨崖仏と比べると鋭さや厳しさがないが、面長の優しそうな目をした顔がすばらしい。額付近が右から左に斜め帯状に剥落しているため、正面から見ると顔を傾けているように見える。 三尊像の左に石塔があり、「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」の願文と「永仁六年(1298)」の年号が墨で書かれている。また、その横には、一石に彫られた五輪塔があり、これも市指定有形文化財である。 なお、この磨崖仏には「鉄砲の腕を自慢するため、向かいの飯盛山から三尊に鉄砲を撃ちかけ、観音にあたり、天罰を受け狂い死んだ。」という伝説が残っている。(「串間の民話と伝説」串間市教育委員会参照) |
阿弥陀石仏100選(66) 元箱根石仏群二十五菩薩阿弥陀如来 |
神奈川県足柄下郡箱根町元箱根 「永仁元年(1293)」 |
箱根で最も知られている石仏は、芦の湯から元箱根に通じる国道1号線沿いの、精進池の周辺にある元箱根石仏群である。精進池周辺は厳しい気候と火山性の荒涼とした景観で、地獄の地として、また賽の河原として、昔から地獄信仰の霊場となっていた。その地に、地蔵講結縁の衆が救済や極楽浄土を願つて、鎌倉時代後期に石塔や地蔵磨崖仏がつきつぎとつくられていったのがこの元箱根石仏群である。元箱根石仏群のメインは「六道地蔵」または「六地蔵」と呼ばれている元箱根石仏群最大の地蔵磨崖仏と「二十五菩薩」とよばれる磨崖仏群である。 「二十五菩薩」は精進池の北一番奥まった所にある、三角状に突き出た高さ3mほどの大きな岩に阿弥陀如来と蓮台を持った供養菩薩と21体の地蔵菩薩を厚肉彫りしたもので、国道を挟んだ岩に彫られた3体の地蔵菩薩と合わせて菩薩は25体になり、そのため「二十五菩薩」と呼ばれている。 その中でも、優れているのが、来迎印の阿弥陀如来立像や東面の向かって右端の地蔵菩薩やそれに続く東面の大型の地蔵菩薩である。ともに、木彫風の精巧で丁寧な彫りで、衣紋の表現も写実的で、見ごたえがある。岩に舟形を彫りくぼめてそこに厚肉彫りで彫られているため、岩の存在感、生命感が感じられ、磨崖仏としては六道地蔵よりは優れている。 東面の右から2番目の地蔵菩薩の横に二十人ほどの結縁衆の名前とともに、「永仁元年(1293)癸酉八月十八日 一結衆等敬白 右志者為各□聖霊法界衆生平等利益也」の記銘かあり、地蔵講結縁衆が、先祖の霊を供養し現世の利益を願って造像したものであることがわかる。 |
阿弥陀石仏100選(67) 富沢阿弥陀磨崖仏 |
宮城県柴田郡柴田町富沢岩崎山 「嘉元4(1306)年 鎌倉時代後期」 |
東北本線槻木駅の北約3qの柴田町富沢の小さな丘、岩崎山の西面する山裾に通称「富沢大仏」と呼ばれる阿弥陀磨崖仏がある。丘陵端の凝灰岩の岩層を利用して作られた磨崖仏で、堂内に保存されていたため保存状態はよい。
岩面を1mばかり彫りくぼめ、像高240pの定印の阿弥陀如来座像を厚肉彫りする。ほとんど丸彫りに近く彫られた角張った大きな顔と大粒の螺髪が、「富沢大仏」という通称にふさわしく雄大である。大きな鼻と厚ぼったい唇など達谷窟大日如来磨崖仏と共通する表現で、いかにも東北らしい鈍重であるが素朴な力強さを感じる磨崖仏である。 像に向かって右壁面に「嘉元4(1306)年」の年とともに恵一坊藤五良なるものが父の供養のために刻んだ旨がかかれた銘文があり、東北地方唯一の在銘磨崖仏として資料的価値も高い。 |
阿弥陀石仏100選(68) 舘ヶ岡阿弥陀磨崖仏 |
福島県須賀川市舘ヶ岡向山 「鎌倉時代」 |
東滑川の南岸、中世須田氏の居城であった向山丘陵の西崖面にある。この地方の中世の磨崖仏の中では最も風化が少なく、後でつけられたと思われるが赤い彩色も残る。 硬い安山岩に彫ってあるため螺髪を省略した大まかな像容であるが、硬いシャープな線のフォルムが魅力的である。像高2.15mの体躯も量感に富み、頼もしい体つきで東北を代表する磨崖仏の1つである。 |
阿弥陀石仏100選(69) 住吉磨崖仏 |
福島県いわき市小名浜住吉町 「鎌倉時代」 |
小名浜住吉町の遍照院金剛寺の裏山墓地の、第三期砂岩層に彫られた石龕の中に像高190pの厚肉彫りの阿弥陀如来座像がある。地層と像が重なり合って、独特の彫刻美を見せる。近くに阿弥陀座像、20mほど離れたところには阿弥陀三尊像もある。 |