阿弥陀石仏100選T
BEST10・奈良時代・平安時代・石棺仏(鎌倉時代) 
  
 
 阿弥陀如来は、西国極楽浄土の教主で、梵名で「アミターバ」「アミターニス」といい、「阿弥陀如来の光明は無量で十万のの国土を照らす」「阿弥陀如来の浄土に生まれるものは、寿命無量である」(阿弥陀経)とあることから、無量光如来、無量寿如来ともよばれる。阿弥陀如来の功徳により極楽往生ができるという浄土信仰の広がりとともに、多数の阿弥陀石仏がつくられた。

 浄土信仰が普及した平安時代後期になると臼杵石仏のホキ石仏の阿弥陀三尊像をはじめとして次々と阿弥陀石仏が造立される。九州では他に臼杵石仏の堂ヶ迫石仏、菅尾石仏などに阿弥陀の磨崖仏が見られる。近畿でも安楽寿院阿弥陀三尊石仏や春日石窟仏阿弥陀像・正楽寺阿弥陀石棺仏などが平安後期の作である。

 鎌倉時代になると京都をはじめ全国各地で阿弥陀石仏が造立される。石棺を利用した石棺仏は平安後期から鎌倉時代・室町時代にかけての奈良県や兵庫県でよく見かけるが、その多くが阿弥陀仏である。

 最初の10体は秀作や気に入った特色ある阿弥陀石仏を掲載した。その後、奈良時代と平安後期・鎌倉時代と時代を追いながら地域別に全国の阿弥陀石仏を掲載していく。
阿弥陀石仏100選U   阿弥陀石仏100選V



阿弥陀石仏100選(1) 大原三千院阿弥陀石仏
京都市左京区大原来迎町 「鎌倉時代」
 大原三千院の境内、「あじさい苑」の奧、律川に架かる橋を渡った山裾の吹放しの覆堂に祀られている。以前は勝林院から律川にそって自由に行くことができ、「日本石造美術辞典」などでは勝林院境内から行くように紹介されている。

 高さ2.25mで京都の石仏では一番大きく、美しい石仏である。光背形の花崗岩の自然石に単弁を並べた蓮座に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りに彫りだしたものである。光背は二重円光式になっている。頭部の螺髪を一粒づつ刻む。長めの顔は美しく、眼は半眼に開き優しいまなざしである。やわらかい流れるような衣紋で、花崗岩の硬さを感じさせない、木彫風の傑作である。二重円光の光背には石像寺阿弥陀三尊のよう梵字は彫られていないが、香炉ヶ岡弥勒石仏のながれを組む叡山系の石仏である。

 秋のやわらかな日差しの中でみた、この阿弥陀石仏は素晴らしく、慈悲にあふれた顔は忘れられない。 




阿弥陀石仏100選(2) 北白川阿弥陀石仏
京都市左京区北白川西町 「鎌倉時代」
 百万遍から銀閣寺に向かう今出川通りは通りをはさんで京都大学の建物が一帯をしめている。通りの南側、京大の建物がおわり、40mほど通りを銀閣寺方面に向かった、通りの南側の旧道沿いに、立派な覆堂が建っていて、そこに大きな2体の阿弥陀石仏がまつられている。

 右側の石仏は、高さ約150p、幅95p、厚さ62pの花崗岩製の二重輪光式の光背を背負った像高120の厚肉彫りの定印阿弥陀如来座像で、光背には十三個の月輪があり、梵字を陽刻する。香炉ヶ岡弥勒石仏と同じく、比叡山系の流れをうけた古い一例である。満月相の顔は豊かで、張りのある堂々たる肉付きの体躯とともに、実におおらかな感じをうける。衣紋のひだも写実的で、平安後期から鎌倉前期の様式をつたえる、京都を代表する石仏のひとつである。

 左側の石仏も阿弥陀如来座像で、像高は110pで、右の像より摩滅がすすんでいる。光背部分は自然石のままで、右の像と作風が異なり、やや迫力に欠けるが鎌倉時代の秀作である。



阿弥陀石仏100選(3) 臼杵磨崖仏ホキ石仏第二群
大分県臼杵市深田 「平安後期」
第1龕阿弥陀三尊
第2龕九体阿弥陀像
 ホキ石仏第二群は2つの龕に分かれていて、最初の龕は(第2龕)は九品の阿弥陀像である。中央の一尊が定印を結ぶ座像で他は立像で来迎印または施無畏、与願印と思われる。

 中心となる第1龕に、古園石仏の大日如来とともに臼杵石仏を代表する「阿弥陀三尊像」がある。2つの龕とも末法思想の流行とともに、来世に阿弥陀の浄土に生まれることを願って像像されたものである。

 第1龕の阿弥陀三尊の阿弥陀如来像は像高3m近い、丈六仏で、臼杵石仏の中では最も大きい像である。丸彫りに近いほど厚肉に彫り出され、衣紋や目鼻など、冴えた鑿あとを残し、木彫仏のような鮮やかさをたたえている。丸顔に、伏目という、いわゆる定朝様式の阿弥陀像で、制作年代は11世紀〜12世紀とされているが、肩から胸にかけて逞しく量感があり、厳しい表情とともに平安前期の様式も残す。脇持の観音・勢至菩薩も2mを越える巨像で苦渋を秘めた強い表情が印象的である。

 最初の画像は保存修復工事前の覆堂ができる前の写真で、光が入り、陰影がついて、鑿あとの鋭さがよくわかる。



阿弥陀石仏100選(4) 臼杵磨崖仏ホキ石仏第一群
大分県臼杵市深田 「平安後期」
釈迦如来座像・阿弥陀如来座像・薬師如来座像(第2龕)
阿弥陀如来座像(第2龕)
阿弥陀如来座像(第1龕)
阿弥陀如来座像(第3龕)
 ホキ石仏第二群に続いて、ホキ石仏第一群(堂が迫石仏)がある。4つの龕に分かれていて、最初の龕(第4龕)は地蔵十王像を厚肉彫りする。中央の地蔵菩薩は右手は施無畏印、左手に宝珠を持つ古様で、石仏では珍しい右脚を折り曲げ、左足を垂らして座る半跏椅像である。左右に五体づつの十王像は鮮やかな色彩が残っている衣冠束帯の道服の姿で、個性的な怪異な顔が魅力的である。鎌倉時代以降の制作と考えられ。
 次の龕(第3龕)は金剛界大日如来を中心とした龕で、やや硬いいが引き締まった彫りである。
 続く第2龕は堂が迫石仏の中心となる龕で、像高も一番高く、等身大より大きい(釈迦如来座像は2m、他の如来は173〜178p)。制作年代も堂が迫石仏ではもっとも古く、ホキの阿弥陀三尊、古園石仏につぐ。重厚感のある体躯と引き締まった威厳に満ちた顔は貞観仏を彷彿させる。よく見ると、ホキの阿弥陀三尊のような鑿跡の冴えはなく、衣紋は平行状に刻まれていて形式化が目立ち、やや鈍重な印象である。
 一番奥の第1龕も第2龕と同様に阿弥陀・釈迦・薬師の3如来を中心とした石仏群である。



阿弥陀石仏100選(5) 菅尾石仏阿弥陀像
大分県豊後大野市三重町浅瀬乙黒 「平安後期」
薬師如来・阿弥陀如来
阿弥陀如来
 豊肥本線菅尾駅の北西1.5q、徒歩20分。小高い山の中腹に覆堂があり、向かって右から千手観音・薬師・阿弥陀・十一面観音と多聞天(これだけ半肉彫り)の五体の磨崖仏が刻まれている。 千手観音から十一面観音までの四像は丸彫りに近い厚肉彫りで、臼杵石仏とならぶ木彫的な藤原調の石仏として知られている。この磨崖仏は昔から「岩権現」といわれており、紀州熊野権現を勧請したもので、四像は熊野権現の本地仏である。阿弥陀如来は熊野本宮大社の主祭神、家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)の本地仏である。国の史跡で重要文化財に指定されている。



阿弥陀石仏100選(6) 大門仏谷磨崖仏
京都府木津川市加茂町北大門  「平安後期」
 他の当尾石仏群から一体だけ離れているため、訪れる人も少なく、「笑い仏」とくらべるとあまり知られていない。 しかし、当尾石仏中、最古最大の磨崖仏であり、堂々たる体躯や幅のある丸い厳しい顔の表情など、近畿地方を代表する磨崖仏の一つである。

 二重光背形を浅く彫り、 その中をさらに彫りくぼめて、裳懸座に座る如来形を半肉彫りしている。 手の部分の一部が不明瞭で印相がわからず、 像名は阿弥陀・釈迦・弥勒など諸説がある。造立年代については奈良時代後期・鎌倉時代など諸説があるが、幅広い丸顔や豊満な仏身の表現から平安後期造立説が有力である。



阿弥陀石仏100選(7) さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏)
京都府木津川市加茂町岩船 「永仁7年(1299) 鎌倉後期」
 大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を持つ観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。

 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。



阿弥陀石仏100選(8) つちんど墓地阿弥陀三尊石仏
奈良県宇陀市室生区小原 「永仁6年(1298) 鎌倉後期」
阿弥陀三尊
阿弥陀立像
 つちんど墓地の奥まった所に、阿弥陀三尊を、一体ずつ、別石で彫られている。中尊の光背面に永仁6年の紀年を刻す。中尊は高さ約1.8mの細長い板状 石の表面に、二重光背形の彫りくぼみをつくり、像高1.3mの来迎印相 の阿弥陀如来を半肉彫りする。 顔は優しく温厚な表情で印象的である。一方、衣紋や全体の彫りは、硬く抑揚に欠ける表現である。しかし、その硬さが、石の美しさを引き出していて、 木彫の仏像にはない魅力を作り出している。



阿弥陀石仏100選(9) 富川磨崖仏
滋賀県大津市大石富川町    「鎌倉時代」
阿弥陀三尊
 信楽川沿いの山腹の40mを越える大岩壁に刻まれた阿弥陀三尊磨崖仏である。像高6.3mで線刻彫りの大野寺や笠置寺の磨崖仏を除くと近畿では最大の磨崖仏である。

 一見線彫りのように見えるが、中尊の阿弥陀如来は、像の周りをやや深く彫り沈め、板彫風に線や面を薄肉彫りした陽刻である。そのために、口や目などの表現が不自然になっている。観音と勢至の脇持は普通の手法の薄肉彫りである。

  九州の磨崖仏のほとんどは厚肉彫りか半肉彫り・薄肉彫りで、線刻の像は少ない。中には臼杵磨崖仏や菅尾・元町磨崖仏のように丸彫りに近い磨崖仏もある。それに対して、近畿の磨崖仏は線刻彫りや薄肉彫りの像が多い。それは、技術の違いというよりは素材の違いである。つまり、近畿地方の岩のほとんどが硬質の花崗岩であるのに対して、九州は加工しやすい柔らかい凝灰岩であることが、この違いを作り出したといえる。

 特に、この富川磨崖仏のような大規模な磨崖仏となると、花崗岩の岩に半肉彫りをすることは非常に困難なことと思われる。そのため、笠置寺虚空蔵磨崖仏(像高約9m)や大野寺弥勒磨崖仏(像高約11.5m)は線刻彫りである。笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏は近畿を代表する磨崖仏として知られているが、私はあまり魅力を感じられない。確かに、線は美しく優美であるが、表現は絵画的で岩の雄大さ、力強さを生かしていないように思える。

  富川磨崖仏は、笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏のような優美な表現でないが、薄肉彫りや陽刻の線彫りといった方法で、岩の厳しさに正面から取り組んでいて、大岩壁をうまく生かした力強い表現で、忘れがたい磨崖仏である。




阿弥陀石仏100選(10) 陽泉寺阿弥陀三尊来迎石仏
福島県福島市下鳥渡    「正嘉2(1258)年 鎌倉時代」
 福島県の中通りには、多くの浮き彫りの阿弥陀三尊来迎板碑が分布している。 鎌倉時代から南北朝時代にかけてつくられたもので、 線刻像も含めれば、100基を越す。

 平安後期から浄土信仰の浸透によって、人の臨終に阿弥陀如来が観音・勢至菩薩とともに、極楽浄土へ迎えとるために、来迎する様子を描いた来迎図が仏画として多く描かれた。その来迎図を浮き彫りで表したのが福島の阿弥陀三尊来迎板碑である。

 福島の阿弥陀三尊来迎板碑は薄肉彫りという立体的表現と背景の自然景の空間が溶け合い、来迎というドラマチックな場面を空間的に表現していて、石仏として魅力的である。特に福島市鳥渡の陽泉寺阿弥陀三尊来迎供養塔は薄肉彫りの傑作である。

 来迎印を結ぶ阿弥陀像を中心にして、 死者の魂をのせる蓮台をささげ腰をかがめる観音菩薩像を前方に、後方に合掌する勢至菩薩像が、蓮台に立ち、 雲足を後方になびかせる雲に乗って西方(右方)から下りる早来迎の様子をあらわす。 絵画的な図柄であるが、空間の奥行きが見事に出ていて、石の美を充分に生かした石仏である。



阿弥陀石仏100選(11) 頭塔阿弥陀三尊石仏
奈良県奈良市高畑町921番地    「奈良時代」
 頭塔は、頭塔は方形の7段からなる奈良時代の土の塔で国の史跡になっている。古くより僧玄ムの頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきたが、本来の土塔「どとう」がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれるようになったものと思われる。頭塔の造営については、神護景雲元年(767年)に東大寺の僧で二月堂修二会(お水取り)を創始した実忠が、造った塔であるとされている。

 頭塔の各段には、浮彫の石仏が配置されている。復元前には13基の石仏が露出していていたが、最近の発掘によってあらたに14体と抜き取り痕跡5個所を発見された。東西南北の各面に11基ずつ、計44基設置されていたものと推定される。

 西面の第一段の中央には、南北東面と同じく上方に花蓋と飛雲宝珠を配した大型の如来三尊像の浮き彫り像がある。説法印を結び、半跏像の脇持菩薩を従えた阿弥陀三尊像で、東面の多宝如来三尊とともに保存状態も良く、優れた彫刻美を誇る石仏である。

 二重円相の光背を負い、説法印を結び、左足を前に組んて千蓮華上に坐す中尊像は当麻曼荼羅の阿弥陀像と特徴を同じくする。半跏像の脇持を従えた説法印の阿弥陀三尊像としては奈良市法蓮町にある興福院(こんぶいん)の木心乾漆造像が知られていて、頭塔石仏と同じ8世紀後半の作である。



阿弥陀石仏100選(12) 芳山二尊仏(西面阿弥陀如来)
奈良県奈良市高畑町芳山    「奈良時代」
 仏師であり石仏研究家でもある太田古朴氏によって世に知られることになった、天平後期の様式を示す石仏である。  林の中の急斜面を登った芳山の峰の上に、この芳山二尊石仏は立っている。高さ184p、幅152p、奥行き約1mk自然石風の花崗岩の南面と西面に、説法印の如来立像を半肉彫りしている。両像とも、広い肩幅、がっしりとした腰や、薄い絹衣をまとったような刻みの衣紋など唐招提寺や大安寺の天平後期の木彫仏と共通する表現となっている。

 両像とも形姿はほぼ同一であるが、受ける印象は少し違う。西面像は貞観仏に通じる量感と逞しさが感じられるのに対して、南面像は天平仏の深い精神性を感じさせる顔が魅力的である。印相が同じであるので、尊命は決めにくいが、南面像を釈迦如来、西面像を阿弥陀如来として、このページに掲載した。

 石仏写真家佐藤宗太郎氏は芳山二尊石仏が立石として石が生きている点を高く評価され、「石に対する固有信仰を基礎とした仏像造型の様々な精神性を一個の石像に見事に凝結せしめたものとして、やはり日本の石仏の一つの出発点と考えられる。」(『石仏の美V 古仏への憧れ』木耳社)と述べられている。



阿弥陀石仏100選(13) 臼杵磨崖仏古園石仏無量寿如来
大分県臼杵市深田 「平安後期」
無量寿如来(阿弥陀如来)
大日如来・無量寿如来・不空成就如来・普賢菩薩・観音菩薩
阿しゅく如来・大日如来・無量寿如来
 臼杵石仏の白眉といえる古園石仏は、古園十三仏」と呼ばれるように、像高3m近い金剛界大日如来を中心とした五智如来(阿しゅく如来・宝生如来・無量寿如来・不空成就如来)と菩薩・明王・天部像の計十三体を、浅く彫りくぼめた龕の中に、厚肉彫りしたものである。

 もろい凝灰岩に丸彫りに近く彫りだしたため、甚だしく風化・破損して、下半身はほとんどの石仏が下半身を剥落していて、大日如来をはじめとして如来はすべて首が落ちていた。現在は修復され、臼杵石仏のシンボル的存在である大日如来の頭部も残っていた胴体部とつながり造立当時の姿に近づいた。

 修復前に行ったときは大日如来の横に転がるように置かれていた無量寿如来(阿弥陀如来)の頭部もあごから肩の部分まで残っていた胴体部に付けられた。



阿弥陀石仏100選(14) 臼杵磨崖仏山王山石仏阿弥陀如来
大分県臼杵市深田 「平安後期」
 堂が迫石仏の向かいの山が山王山である。遊歩道は堂が迫石仏からカーブして山王山の山裾を通る。この山裾に通称「隠れ地蔵」と呼ばれる山王山石仏がある。地蔵ではなく一光三尊形式の三体如来像である。

 中尊は像高約270pで、釈迦如来と伝えられている。(印相は施無畏与願印と思われるので釈迦如来であろう。)丸顔で額は狭く、頸が短く、目鼻口が小さい童顔で、ホキの阿弥陀三尊や堂が迫の第2龕の如来座像の厳しい顔とは対照的である。

 脇侍は向かって右が薬師、左が阿弥陀と称されているが、中尊と同じような印相で区別はつけがたい。薬師像は破損が激しかったが修復された。脇侍の2尊もおだやかな親しみのもてる顔である。



阿弥陀石仏100選(15) 宮迫西磨崖仏阿弥陀如来
大分県豊後大野市久士知 「平安後期」
 宮迫東磨崖仏から100mほど離れた小高い丘の中腹の大きな石龕の中に釈迦・阿弥陀・薬師の三如来の丸彫りに近い厚肉彫りがある。いずれも基壇、台座、仏像の三段から構成されている。 いずれも彩色されており、 螺髪は方眼状に刻出されているところなど、やや形式的な作風が見られる。 保存状態は非常によく、仏身や光背に原初の色彩や文様が残っている。



阿弥陀石仏100選(16) 隼人塚層塔四方仏・正国寺跡石仏
 
隼人塚層塔四方仏阿弥陀如来
霧島市隼人町内山田265-3 「平安後期」
 
正国寺跡石仏
霧島市隼人町内山田287-1  隼人塚史跡館 「康治元年(1142) 平安後期」
 隼人塚は、方形の封土を持つ塚で、奈良時代に隼人平定の後、彼らの霊を慰めるために設けられたという伝説がある。その塚に、3基の五重層塔と丸彫り石造四天王が置かれている。最初に訪れた時は四天王像は完全なものは一体しかなく二体は地中に半分埋まっていた。層塔も破損していて五重塔の2基は三重目軸部以下、1基(南塔)は一重目屋根以下が落下していた。

 各塔の初重軸部は四面とも開かれ、蓮華座上に二重光背を背負う如来座像を半肉彫りしている。画像は南塔と北塔の阿弥陀如来像で、満月相の藤原仏の様式がうかがえる。二重目以降の軸部にも四方仏が刻まれている。2回目に訪れた時は史跡公園として整備され、層塔と四天王は復元されていて、隼人塚史跡館も設けられていた。

 隼人塚史跡館には内山田宇津山にあった正国寺跡から出土した3体の石仏が展示されている。光背を背負い厚肉彫りに彫り出された如来形坐像と菩薩形立像(観音?)と丸彫り如来座像である。光背を背負った如来像は、手首の部分は風化していて印相はわからないが両手を膝の上に持ってきているので阿弥陀如来と思われる。阿弥陀如来?と菩薩形立像の光背には「康治元年九月四日供養」という銘文が確認さている。



阿弥陀石仏100選(17) 安楽寿院阿弥陀如来三尊
京都市東山区茶屋町527 京都国立博物館 「平安後期」
 安楽寿院は鳥羽上皇により、阿弥陀三尊を祀るために、保延3年(1137)、鳥羽離宮の東殿に、建てられた御堂を起源とする寺院である。中世以降衰え、現在は江戸時代の大師堂や書院などが残のみで、本尊の阿弥陀如来などに当時の面影をとどめる。

 三尊石仏は江戸時代に、安楽寿院の西の聖菩提院跡から掘り出されたものである。凝灰岩の高さ1mあまり、幅1.1m〜1.2m、厚さ0.4mの方形の切石に釈迦三尊と薬師三尊と阿弥陀三尊を厚肉彫りしたものである。釈迦三尊・薬師三尊の2基は参道ぞいに仮堂に安置されている。軟質の凝灰岩のためこの2基は痛みがひどい。

 阿弥陀三尊は、京都国立博物館の西の庭に安置されている。この像は3基の三尊像のなかで最も保存状態がよく、豊満な顔、丸みのある体躯など、平安時代後期の様式がよく残る。


磨崖仏100選(18)   春日石窟仏
奈良市春日野町 春日奥山  「保元二年(1157) 平安後期」
西窟(多聞天・阿弥陀座像)
 奈良奥山ドライブウェーは高円山ドライブウェーと新若草山ドライブウェーにつながっているが、一方通行で高円山ドライブウェー側からは車は入れない。したがって、奈良奥山ドライブウェーの出口が高円山ドライブウェーの終点となる。その終点の場所から南側へ登る細い道があり、その道を50mほど歩くと穴仏と呼ばれる春日石窟仏がある。その穴仏の少し下に旧柳生街道の石畳の道が通っている。

 春日石窟仏は東西2窟から成り立っていて、凝灰岩層を深く削りくぼめて、つくられた石窟で、全面はかなり崩壊していて、造立当初の様子は知ることはできないが、平安時代後期の保元二年(1157)の墨書銘が残る、わが国では珍しい本格的な石窟仏である。

 東窟は中央に層塔としてつくられたと思われる石柱があり、塔身にあたる部分には、四仏が彫られている。東窟の西壁には、地蔵立像が4体残っている(もとは六地蔵だと思われる)。東窟には、他に観音菩薩と思われる像が3体(もとは六観音)、天部像が2体残っているが破損が大きく痛ましい姿となっている。

 西窟は金剛界の五智如来座像が彫られていて、左端の阿弥陀如来と思われる一体と多聞天のみがほぼ完全な姿で残っている。阿弥陀如来は二十光背を負った像高94pの定印の座像である。穏やかな満月相で、なだらかな丸みを持った肩や流麗な衣紋など典型的な藤原様式となっている。多聞天は顔の部分は痛んでいるが、火焔光背を背負い邪鬼を踏み、右手に矛、左手に宝塔を捧げ持つ姿が鮮やかに残っている。 



阿弥陀石仏100選(19) 正楽寺石棺仏
奈良県香芝市平野  「平安後期」
 西名阪道「香芝IC」の北の集落が香芝市平野である。平野の集落の北に正楽寺がある。コンクリートつぐりの本堂の北側のコンクリート覆堂にこの石棺仏が安置されている。

 古墳石棺の棺台を転用したと思われる高さ230cm、幅95cmの板状石に、二重蓮華座の上に上品上生印を結んで端座する定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。年号は記されていないが、繊細な造形とおおらかな曲線の表現に平安時代後期頃の作風を残す。石棺を利用した石仏では最も古い遺品である。




阿弥陀石仏100選(20) 高井田石棺仏
大阪府柏原市高井田  「平安後期」
JR大和路線「たかいだ」駅から西へ細い道を200mほど行ったところに、高井寺がある。その寺の南側の塀に接して石仏が数体並んでいる。その中に大きな長方形の平板な石材に彫られた阿弥陀石仏がある。石棺の蓋石、または棺台石を使った石棺仏である。(案内板は棺台石となっている。)

 高さ1.7m、幅1m、厚さ30cmの石棺材の表面に像高1mあまりの定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。かなり摩滅が加わっているため衣紋の線はわからないが、穏やかな面相や裳架座と呼ばれる古式の台座などから藤原時代の造立と思われる。 




阿弥陀石仏100選(21) 瑠璃光寺石棺仏
大阪府柏原市山ノ井町  「平安後期」
 柏原市の北部、八尾市との境近くの、山ノ井町の東の山麓に曹洞宗の小さな禅寺、瑠璃光寺がある。その瑠璃光寺の門を入った左側に小さな堂があり、石仏が三体、安置されている。

 その中央に高さ1.4m、幅75cmの石材に二重円光背を彫りくぼめ蓮華座に坐す像高67cmの如来像を半肉彫りした石仏がある。一見して石棺材を使ったとわかる石仏で、家形石棺の蓋を横断カットして使用していて、上部に蓋石の合わせ目部分が、上部外側に縄付き突起が残っている。

 如来像は右手をあげ、左手をさげて膝上に置くが、親指先を欠損しているため、尊名は断定できないが阿弥陀如来か釈迦如来と思われる。体部の充実感や衣紋の表現などから見て、藤原時代の造立と考えられる。




阿弥陀石仏100選(22) 光蓮寺跡阿弥陀石棺仏
奈良県天理市柳本町830 「建治2(1276)年 鎌倉時代」
 古びた家屋が残る柳本の街の細い路地を入ったところにに光蓮寺跡があり、小さな毘沙門堂と石仏を集めた仮堂がある。仮堂の中心となっているのが、高さ113cm、幅49cm、厚さ26cmの石棺の一部を使用したと考えられる長方形石材に、舟形光背を深く彫りくぼめ、その中に来迎阿弥陀立像を厚肉彫りしたこの石仏である。鎌倉中期の建治2(1276)年の刻銘がある。

 面長で、細身で、技巧的な個性の強い石仏で、このような石仏は柳本の町や長岳寺周辺には30体ほどあり、そのおおくが建治年間(1275〜1278)の銘がある。



阿弥陀石仏100選(23) 専行院阿弥陀石棺仏
奈良県天理市柳本町1474   「鎌倉時代」
 柳本町の東に卑弥呼の時代の鏡、三角縁神獣鏡が多数出土したことで知られる黒塚古墳がある。その古墳の南に藩主であった織田一族の菩提寺、専行院(せんぎょういん)が建つ。本堂の前にこの阿弥陀石棺仏が立っている。

 高さ121cm、幅91cm、厚さ30cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に立つ阿弥陀来迎像を厚肉彫りする。建治年間の刻銘はないが、面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾など建治2(1276)年の光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。

 阿弥陀石棺仏の右には建治2(1276)年の地蔵石仏、また、境内の無縁仏内にも石棺材を使った地蔵石仏がある。これらも光蓮寺阿弥陀石棺仏と同じ作風である。




阿弥陀石仏100選(24) 中山観音堂阿弥陀石棺仏        
奈良県天理市中山町493  「鎌倉時代」
長岳寺の田んぼを隔てた北の小さな集落が天理市中山町で、そこには小さな観音堂がある。境内に十数基の小石仏が集めてられている。その中にこの阿弥陀石棺仏がある。

 高さ89cm、幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐す像高31cmの定印阿弥陀像を半肉彫りする。光蓮寺や専行院の阿弥陀石棺仏に比べると彫りは浅く、穏やかな端正な顔である。鎌倉時代の作と思われる。



阿弥陀石仏100選(25) 聖衆来迎寺石棺仏        
滋賀県大津市比叡辻2丁目4-17  「鎌倉時代」
恵心僧都が念仏修行し、弥陀の来迎を感得したと伝えられる念仏修行の寺、聖衆来迎寺の本堂前の庭の覆堂の中にこの石棺仏はまつられている。

 高さ145cm、幅110cmの家形石棺の蓋石を利用した石材の中央に舟形の光背を彫りくぼめ、像高83cmの来迎印の阿弥陀立像を半肉彫りしたものである。左右には同じく舟形光背を彫りくぼめて、腰をかがめ中腰姿で、蓮台を捧げる観音菩薩と合掌する勢至菩薩を半肉彫りしている。二尊の下には合掌する比丘形像と比丘尼形像が彫られている。子どもが両親の極楽往生を願って、造立供養したものではないかといわれている。



阿弥陀石仏100選(26) 真禅寺阿弥陀石棺仏        
兵庫県姫路市別所町255 「文永2(1265)年 鎌倉時代」
 真禅寺の本堂前の庭の中央に東面して立つ。高さ1mあまり、幅90cmの家型石棺の蓋石を利用し、像の周辺のみを彫りくぼめて、如来座像を薄肉彫りする。膝のあたりは摩滅して手印はあきらかでないが、おそらく定印の阿弥陀如来であろう。

 像の左右に「文永二年乙丑」 「十一月十日」の紀年銘があり、在銘石棺仏としては最古であり、播磨の石棺仏では種子の石棺仏を除けば最も古いものである。

 この石棺仏と座仏の輪郭の彫り方、蓮華座の表現などがそっくりな石棺仏が大阪府柏原市山ノ井町の瑠璃光寺にある。瑠璃光寺石棺仏は藤原時代後期の作なので、真禅寺のこの石棺仏は瑠璃光寺石棺仏を真似たものと思われる。



阿弥陀石仏100選(27) 倉谷薬師堂阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市倉谷町237 「鎌倉時代」
  倉谷町の北側の林の中に薬師堂があり、堂内厨子の中に石棺仏がまつられている。堂内にあるために、拝観できなかったが、本の写真で見ると丁寧な作風の石棺仏である。

 左の写真は薬師堂の外の崖に立つ石棺仏である。高さ137cm、幅95cmの家型石棺の底石に、線刻の舟形光背を負う如来座像を薄く彫り出している。手印は不明であるが、おそらく定印の阿弥陀如来像であろう。

 この石棺仏は、真禅寺の「文永2年(1265)」の阿弥陀石棺仏と同じように下の結跏趺坐の部分は摩滅しているように見え、はっきりとわからない。意図的にこのような表現にしているのではないだろうか。これによって、石と仏像が一体となり、石の生命か仏像となってあらわれたような印象を受ける。



阿弥陀石仏100選(28) 春岡寺阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市池上町 「鎌倉後期」
 池上町の南、静かな森に囲まれた池を前にして春岡寺が建っている。その寺の境内にこの石棺仏がある。高さ、185cm、幅98cmの大きな家型石棺の蓋石に蓮華座に座す阿弥陀如来座像(像高60cm)を薄肉彫りする。

 胴体部分は肩幅が狭く、裾が広がった三角形の形になっている。その形が、四角の石棺とうまくマッチして、加西市の阿弥陀座像の石棺仏独特の世界を作り上げている。特に、この春岡寺の石棺仏のゆったりと座す姿は気品があり、玉野の阿弥陀石棺仏とともに、播磨の石棺仏を代表する秀作である。

 ここでも、縄掛け突起はそのまま残しているが、山伏峠の石棺仏と同じく、全く気にならない。石仏の腰のあたりで2つに折れているが、石の重みでびくともしない。「腰折れ地蔵尊」と呼ばれて腰痛の人がお参りするという。



阿弥陀石仏100選(29) 家原阿弥陀石棺仏
兵庫県加東市社町家原 「鎌倉後期」
 滝野社インターチェンジの南1.5kmの社町赤岸の交差点の西の道路下の用水路脇にこの阿弥陀石棺仏が立っている。高さ130cm、幅72cmの家形石棺蓋石に、光背として舟形の彫り窪みをつくり、像高95cmの来迎印の阿弥陀立像をやや薄肉彫りしたものである。

 来迎印の阿弥陀立像石仏は大和ではよくみられるが、播磨の鎌倉時代の石棺仏の中では唯一の来迎印阿弥陀立像である。手や衣紋にやや硬さは見られるが、顔は満月相で、鎌倉後期らしい風格をそなえた石棺仏である。



阿弥陀石仏100選(30) 玉野阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市玉野町 「鎌倉後期」
 玉野町の南、豊倉町との境の路傍、道の西側の茂みの中にこの石棺仏は立っている。高さ、180cm、幅103cmの家型石棺の蓋石を使い、内側のくぼみの内に、像高57cmの阿弥陀座像を薄肉彫りしたもので、播磨石棺仏を代表する秀作である。

 鳥の羽状の文様の身光と頭光の二重光背と端正な古典的蓮華座を持ち、衣紋の表現も写実的で、像容も整った優美な石棺仏である。この石棺仏も一見して家型石棺の蓋石を使ったことがわかり、石棺の美しさを十分生かした、印象的な石棺仏である。



阿弥陀石仏100選(31) 上宮木阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市上宮木町 「鎌倉後期〜南北朝時代」
 加西中学校の前の道から東北東へ少し入った、上宮木の旧道脇に、2基の石棺仏がある。1基は「キーリク」と阿弥陀仏の種子を薬研彫りした石棺仏である。もう一基は、右の写真の石棺仏である。

 高さ120cm、幅75cmの組合せ式家型石棺の底石に、像高48cmの阿弥陀如来座像を薄肉彫りする。光背は玉野阿弥陀石棺仏と同じ二重光背で、古典的な蓮華座の上に整った端正な阿弥陀仏である。

 玉野阿弥陀石棺仏と較べると彫りは浅く、石棺材といっても底石のため、石棺仏というより板碑といった感じである。



阿弥陀石仏100選(32) 延命尼寺跡阿弥陀石棺仏
兵庫県加西市朝妻町 「鎌倉後期〜南北朝時代」
 加西市の朝妻町には工業団地があり、椿本チェーンなどの会社の工場がある。その工業団地と朝妻の集落との間の茂みの中にこの石棺仏はある。このあたりに延命尼寺があったという。

 高さ112cm、幅72pの石棺だと思われる石材に上品上生印の阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。光背は玉野や上宮木の阿弥陀石棺仏と同じ二重光背で、ほぼ同じ頃の作だと思われる。顔は、玉野や上宮木の石棺仏と較べると丸顔で愛らしい表情である。


  
阿弥陀石仏100選U   阿弥陀石仏100選V