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霊諍山の石神仏
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  長野県更埴市郡にある霊諍山の石仏・石神群は、昭和50年代のはじめ、浅野井坦氏によって紹介されてから、 全国の石仏愛好家から知られるようになった。 修那羅と似た奇妙な像が多数あり、修那羅との濃密な関係も含めてそのユニークな存在がクローズアップされている。ほとんどが明治時代およびそれ以降に造られたものと思われるが、民衆の自由な発想による造像でありその信仰形態とともに注目すべきところである。

    霊諍山を開いたのは、この地出身の北川原権兵衛で、彼が書いた「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」によると、明治18年から、母の癪の病を信仰の力によって治すために修行にはいり、 明治24年には、「神がかり」ができるようになったと記している。その後、次第に村人の尊敬を受けるようになり、人々の願い事を神に取り次ぎ、信者が増えていき、この霊諍山を開いた。霊諍山本殿には、天神七代、地神五代、人皇三代と大国主命が祀っている。信者の願果として、多数の神々を合祀したのがこの霊諍山の石神仏である。


  修那羅山安宮神社と同じく大国主命を祀る点や、石造の種類様式等から、修那羅山と霊諍山が似通った信仰形態を持っていた事は明らかである。 修那羅を開いた大天武が亡くなったのは明治5年で権兵衛は7歳の幼児で、 直接師事したとは考えにくい、しかし、 先の「更埴郡八幡村霊諍山開山申書」には「修奈羅様の御情により、 云々」とあるので、大天武に私淑し、信仰形態や思想で大きな影響を受けたと思われる。また、大天武の弟子、和田辰五郎という人物も霊諍山にかかわっている。


    修那羅と同じように、猫神が中心的な位置に祀られている。その他、子育地蔵や鬼・摩利支天・大日如来など修那羅と共通する石神仏が多い。 一代守り本尊としての石仏や奪衣婆など霊諍山に見られない石神仏もあるが、全体としては形にとらわれない大胆な表現は修那羅と共通している。

 参照  (「日本発見 石仏紀行  久野健 修那羅・霊諍山の石像 」 暁教育図書 )


アクセス   JR「やしろ」駅よりバス「八幡」下車徒歩40分      tizu.gif (2477 バイト)

自動車  長野自動車道「更埴IC」より国道403号線を聖高原方面へ7km象山桑原記念館」手前の交差点を南に1kmに大雲寺という寺があり、周りの山が遊歩道なっている。その裏山に霊諍山がある。大雲寺の庫裏の横から急な山道を歩いて、約20分、小さな鳥居が見えてきて、そこに大国主命を祀る霊諍山がある。

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摩利支天

猫神

摩利支天

  大日如来
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文殊菩薩

滝見観音

天神

奪衣婆

素戔嗚命

蔵王権現


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