修那羅の石神仏50体
 
  
 
  修那羅峠は長野県東筑摩郡坂井村(現在は筑北村坂井)と小県群青木村の境にある峠である。その峠に、地元の人がショナラさまと呼ぶ、「修那羅山安宮神社」がある。修那羅大天武と称する一修験行者が江戸時代末期の安政年間に、土地の人の熱望により雨乞いの法を修して信頼を得、古くから鎮座する大国主命の社殿を修し、加持祈祷をもっておおいに人々の信仰を集めたのが、安宮神社のはじまりである。

 この神社のまわりにおよそ700体の石造物が立ち並んでいる。その内、230体ほどが、石神仏像で、ユニークな表現の像や他に例類を見ない異形像が多く、非常に魅力的な石神石仏群である。これらの像の多くは高さ40p前後の小像で、幕末から明治時代にかけて、修那羅大天武の信奉者や一帯の地域の人々が建立したものである。そういう意味では、修那羅の石神仏は大天武という一修験者の教化活動の所産であるとともにこの時代、この地域の庶民信仰の集約でもある。

  縄文時代の土偶や古墳時代の埴輪にも似たこれらの石神仏のプリミティブな表現は原始から脈々と続いている自然崇拝の精神の発露ともいえる。そのような修那羅の石神仏の中で特に優れた石仏や私の気に入った石仏を50体選んで紹介する 。
修那羅山安宮神社   長野県東筑摩郡筑北村坂井眞田11572


修那羅の石神仏50体(1)   母子像or姉妹像(子育地蔵)
 修那羅で一番多い石像は地蔵菩薩で、約50体近く確認される。 その多くは、亡き子どもの追善供養としてつくられたり、子宝に恵 まれるように願ったり、子どもの無事成長を祈って奉納されたもの で、子どもへ寄せるさまざまな思いが込められている。まず、地蔵菩薩と思われる像を中心に紹介する。

 修那羅の石神仏を代表する像の一つである。「元治元□」(1864年)と紀年があり江戸末期の作である。このかわいらしい姉妹像、あるいは母子像を道祖神と見る人もあるが、手に錫杖や宝珠を持つので子育地蔵と思われる。

修那羅の石神仏50体(2)   子育地蔵
 江戸時代になると赤子を抱いた姿の子育地蔵は信州をはじめ全国各地で、子どもの無事成長を祈って造立された。修那羅では子育地蔵として、(1)の姉妹像のような手をつないだ母子像・父子像のようなものが多くあるが、この像は赤子をを抱くと言うより、背負っているように見える。母子像を思わせる、美しい姿態の子育地蔵である。

修那羅の石神仏50体(3)   父子像1(子育地蔵)
 この像も(1)の母子像のような、子連れの像である。手をつなぐのではなく1本の紐をしっかり握り合っている。大きい像は穏やかであるが意志の強そうな顔で、小さい像もよく似た顔でいかにも親子といった風情である。母子と言うより父子に見える。子育地蔵のつもりでつくられたものと思われる。釘抜きを持つ獄卒像など、これと同じ石質・彫り片の像かいくつか見られる。

修那羅の石神仏50体(4)   父子像2(子育地蔵)
 この像も、子連れの像で子育地蔵としてつくられたと思われ。子供の腕を右手でしっかり握り、左手でかざした剣で外敵をしっかり守ろうとしている。(3)の父子像に比べるとやさしい顔つきであるが、この像も母子というより父子に見える。

修那羅の石神仏50体(5)   洟垂れ地蔵
 修那羅には様々な姿の童子地蔵が見られる。亡き子どもの追善供養としてつくられたり、子宝に恵 まれるように願ったりして造立されたもので、常識的な仏教美術の枠から離れた、バラエティーに富んだ像が多くある。

 その内の一つが、修那羅の石神仏を世に知らしめた三石武古三郎氏が洟垂れ地蔵と名付けた像である。明治22年に奉納された像で、普通の延命地蔵と違って右手に宝珠、左手に錫杖を持つ。宝珠は手鞠のように見える。洟垂れ小僧を思わせる童顔のほほえましい地蔵である。

修那羅の石神仏50体(6)   アポロ地蔵
 三石氏が太陽地蔵=アポロ地蔵と名付けた炎のような髪をした地蔵である。炎のような髪と見えるのは火焔光背を表したものと思われる。火焔といい済ました丸顔といい、太陽地蔵=アポロ地蔵はぴったりの表現である。

修那羅の石神仏50体(7)   勝軍地蔵
 勝軍(将軍)地蔵はは身に甲冑を着け、右手に錫杖を持ち、左の掌てのひらに宝珠を載せ、軍馬にまたがった姿をしたもので、時代以後、武家の間で信仰された。この像も兜らしきものをかぶり、錫杖と宝珠を持っているので、勝軍地蔵と思われる。修那羅には兜や鎧を着けた、武神・武人と思われる像が何体かあり、修那羅の特色ある石神仏の一つにあげられる。今まで紹介した亡き子どもの追善供養としてつくられたり、子宝に恵 まれるように願ったり、子どもの無事成長を祈って奉納された地蔵とはまた違った意味を持つものかもしれない。

修那羅の石神仏50体(8)   子育観音1
 観音菩薩は地蔵菩薩とともに現世利益を説く菩薩として庶民の信仰を集めている。修那羅の石神仏の多くは個人の祈願として奉納されたものが多く、女性や子どもの思いが込められている。修那羅には聖観音・千手観音・十一面観音など多くの像がある。特に目立つのは子どもを抱いた子育観音と思われる像である。子育地蔵と区別がつきにくいが、子育地蔵と同じように、子宝に恵まれるように願ったり、子どもの無事成長を祈って奉納されたものである。

 この像は三石氏が「酒泉童子」や「左うちわ神」と名付けた裸形神などと同じように衣服などの装飾物を省いた、いかにも”修那羅的”な表現の子育観音である。

修那羅の石神仏50体(9)   子育観音2
  母親が胸の前で愛おしそうに赤子を抱いたような姿の子育観音で、味わい深い像である。「巳年女長壽」「小宮山與兵衛」と記銘があり、出生した女子の無事な成長と長寿を祈って父親が建立したことがわかる。

修那羅の石神仏50体(10)   ブナ観音
  ブナの木の洞に安置されている十一面千手観音である。ブナの木に埋もれそうになっていることから、三上氏は「ブナ観音」、俳人の加藤楸邨氏は「樹胎仏」と名付けた。姿も彫りもよくできた像である。

修那羅の石神仏50体(11)   千手観音
 この像は三面十臂でちょつと千手観音には見えない。庚申塔(青面金剛像)とされたこともあったようである。右側に千手観音という装飾的な文字が刻んであり、千手観音であることがわかる。

 手袋のような手や子供のような顔など、非常にユニークで可愛らしい千手観音である。千体的に彫りが浅く平面的だが、それだけ見事な省力化がなされ、デザイン的にも面白い表現になっていて、修那羅を代表する石仏の一つと言える。

修那羅の石神仏50体(12)   左うちわ神
 修那羅の石神仏の中には衣服等の装飾物を一切省略して、裸身のように見える像がいくつもある。それぞれが注意をひく、ユニークな像が多い。顔の表情などから同じ石工の作と思われる像が3組ほどある。その内の一体がこの像である。三石武古三郎氏によって「左うちわ神」と名付けられ、胡座を組み(仏像の結跏趺坐は両足を組み合わせ、両腿の上に乗せるものである。)、手に鏡のようなものを持つている。

修那羅の石神仏50体(13)   箱を持つ裸身像
 「左うちわ神」とよく似た裸神である。この像も結跏趺坐ではなく胡座で、右手を膝に置き胸前で鏡のかわりに箱を持っている。顔は四角で左うちわ神とそっくりである。同じ作者と考えられる。

修那羅の石神仏50体(14)   斧を持つ裸身像
 この像も「左うちわ神」や「箱を持つ裸神」とよく似た表現の像である。顔は四角で碑形(舟型光背に浮き彫り)も共通する。ただ、眉の表現や胡座でなく足を崩して腰掛け、斧のようなものをかつぐ点など異なる。かって左に「二十三才女未」の刻銘がある。山仕事に精を出す夫のために奉納したのか。それとも斧で病根を断ち切るという意味なのか。修那羅には何を意味するのか不明の像が多い。

修那羅の石神仏50体(15)   酒泉童子
 三石武古三郎氏によって「酒泉童子」と名付けられた裸身像である。桶から水を汲んでいるような、あるいは餅をついているような像である。水くみ像なら水の豊かさをさらに酒屋がよい酒を祈願したものか。餅つきなら豊穣を祈ったものか。様々な解釈が可能な像である。「左うちわ神」などと同じ舟型の碑の浮き彫り像で、表現が似ているが、顔つきは目がややつり上がっていて「左うちわ神」などと微妙に違っている。碑型の舟型も「左うちわ神」のような船首部分の反りはなく幅もやや広い。

修那羅の石神仏50体(16)   親子の裸身像
 裸身の親子が手をつないで坐している像で、これも母子ではなく父子に見える。子育地蔵として建立したものであろうか。碑型の舟型や顔つきは酒泉童子とよく似ている。「クワバラ童子」と三石氏が名付けた桑の葉らしい小枝を担いだ裸身像もよく似た像で、この父子像と同じく舟型の碑に日月が彫られている。この三体は同じ作者と考えられる。

修那羅の石神仏50体(17)   軍配を持つ裸身像
 裸身像は「左うちわ神」「箱を持つ裸身像」などと「酒泉童子」「親子の裸身像」などの2種類以外に、もう1種類ある。それが、すでに紹介した(8)の「子育観音1」やこの「軍配を持つ裸身像」である。「左うちわ神」や「酒泉童子」と違って丸彫り像でつり上がった眉と目に特色がある。軍配は何を意味するかはわからないが、この像は軍配団扇を持つ武将とは思えず、相撲と関わりのある神とも考えられる。

修那羅の石神仏50体(18)   剣を持つ裸身像
 (17)軍配を持つ裸身像とよく似た像で、軍配の代わりに宝剣を両手で笏のように持つ。この像と(8)「子育観音1」(17)「軍配を持つ裸身像」は共にV字形のつり上がった眉毛と、小さな目と鼻・口で同じ石工の作と考えられる。

修那羅の石神仏50体(19)   大日如来?
 この像も衣服等の装飾物を一切省略して、裸身のように見える像である。手に穴アキ銭を持つ「銭謹金神」と刻されている像(21)金神と頭部の頭髪(冠?)や顔つきや舟型の碑に浮き彫りするいう造りなど共通する。ただ、着衣の金神に対してこの像は裸身で、古墳時代の埴輪のようなプリミティブな表現である。尊名はわからないが、法界定印のような手の組み方や冠?(頭髪?)などから一応大日如来とした。

修那羅の石神仏50体(20)   金神?
 この像も(21)金神とよく似た像で(19)の大日如来?と同じ裸身像である。足の組み方(大日如来?は胡座に対してこの像は結跏趺坐)と手の形(印相)が異なる。手の形は銭を持つ(21)金神とよく似ていて、一応金神とした。

修那羅の石神仏50体(21)   金神
 (19)(20)の二つの像とよく似た造りや表現の石仏で両手に穴アキ銭のようなものを持つ。舟型の碑の向かって左に「銭謹金神」と刻銘がある。銭を謹んで(倹約して?)お金を貯めたいという願いが込められているのか?本来の金神とは陰陽五行説に由来する方位の神で、恐ろしい神としてあがめられた神なのだそうだが、ここでは「銭を呼び込む神」のように見える。足は胡座でも結跏趺坐でもなく、赤ちゃんの足のように足の裏をあわせるように坐すなど姿態がユニークで可愛い像で、修那羅を代表する石神の一つである。

修那羅の石神仏50体(22)   
 修那羅には鬼や鬼神と思われる像がいくつもある。地獄の鬼や獄卒と考えられるもの以外に、威力ある神としての鬼と考えた方がよい鬼(鬼神)もあり、非常にバラエティに富んでいる。数ある鬼・鬼神の中で純粋に鬼と考えられるのがこの3体の鬼である。

 この3体の鬼は他の石神仏群から離れた北アルプスの見える尾根道に並んで立っている。いずれも角が生えた恐ろしい顔つきで、左側の像は、駒形の石材に金槌を自らの頭に打つ着けるようなボーズの鬼を厚肉彫りしたもので、中央と右側の像は丸彫りで、金槌を肩に担かつぐいだ姿(中央)と金棒をドシンと着いた姿(右側)である。言うことが聞かなければ打ちすえるぞと脅しているように見え、民話や昔話に出てくる鬼のようで、恐ろしい中にユーモアが感じられ鬼たちである。

修那羅の石神仏50体(23)   獄卒の鬼1
 生前にウソをついた者は閻魔に裁かれ舌を抜かれるるという話はしばら前までは知らぬ者がない話である。その舌を抜く獄卒の鬼を表したもので釘抜きのようなものを持つ。恐ろしい顔つきであるがどことなくとぼけた感じの鬼である。

修那羅の石神仏50体(24)   獄卒の鬼2
 この像も釘抜きのような者を持っていて、(23)と同じ獄卒の鬼?としたが、顔は穏やかで角もなく鬼には見えない。顔など全体の表現は(3)の父子像やその近くにある宝珠を持つ像によく似ていて、同じ石工の作と考えられる

修那羅の石神仏50体(25)   鬼or猫神
 前に獄門の首が置かれた修那羅大天武と彫った大きな文字碑の裏に2匹の猫の像に挟まれ安置されている鬼の像である。牙のある大きな口を開き、太い眉毛と大きな目で睨みつけている。胴体は頭に比べると小さく、衣服等の装飾物を一切省略した裸身のため子供の身体のように見える。右手を胸に、左手を腹に当てたかっこうは修那羅独特のポーズで、他に(20)の金神や次に紹介する鬼神などいくつか見られる。脚にはぽこんとした可愛い膝頭が刻まれている。

 頭の左右には猫の耳のような角があり、手足の爪か猫の爪のようにとがっていて、左右に猫の像とセットのように並べられていることなどから、見ようによれば猫の人格神(猫神)ともとることができる。(修那羅と関係深い更埴市の霊諍山には顔が猫で身体が人体の猫神がある。) 

修那羅の石神仏50体(26)   鬼神1
 安宮神社拝殿横の渡り廊下をくぐると最初に見られるのがこの像である。手の位置などが(25)の鬼とよく似ていることから、鬼神とした。細長い自然石の表面いっぱいに半肉彫りした像で、(25)の鬼と同じように頭が大きく、衣服等の装飾物を一切省略した裸身で、脚にはぽこんとした膝頭がある。つり上がった目でやや顎か出た独特の顔をしていて、髪の毛はオールバック風に後ろになびかせ、足くびは直角に曲げられている。稚拙な表現であるが、不気味な迫力を感じる像である。「安政四丁巳六月吉日」の刻銘があり、幕末の安政4(1857)年の造立であることがわかる。

修那羅の石神仏50体(27)   鬼神2(立山坊舎悪鬼神)
 石材を舟型にして、そこに右手で宝剣を左手で羂索を持って立つ鬼を半肉彫りしたもので、「立山坊舎悪鬼神」の刻銘がある。顔は2本の角で牙をむいた典型的な鬼の顔であるが、(22)や(25)(26)の鬼のような恐ろしさや迫力を感じさせないとぼけた雰囲気の顔である。立山は修験道の霊地として広く信仰を集めていた山である。修那羅大天武は修験道と関わりのある行者と考えられることから修那羅にはこのように修験道に関わる神仏が多く見られる。

修那羅の石神仏50体(28)   鬼(風ふつ神)
 舟型石材に両手を腹の上で組んで立つ像を半肉彫りしたもので、胸元に鬼の字の浮き彫りがある。つり上がった鋭い目であるが、牙や角はなく鬼には見えない。像の向かって右に「風ふつ神」の刻銘があり風神と関係あるのかもしれない。ただ、最初の字は「風」としたが「凪」の字にも見え、何とも言えない不思議な像である。

修那羅の石神仏50体(29)   行者1(修那羅大天武?)
 安宮神社拝殿横の渡り廊下をくぐると(26)の鬼神などとともに2体の修那羅大天武像とされる行者像がある。奥の方にある1体は右手に剣、左手に巻物を持ち、行者風の衣装をまとっている座像である。総髪を後にたらし、髭をたくわえた姿で額に皺があり、もう一体の像よりも写実的で修那羅大天武を彫った肖像彫刻のようにも見える。

修那羅の石神仏50体(30)   行者2(修那羅大天武?)
 もう一体は(26)の鬼神の近くにある両手で宝剣を持った像高70pの立像である。筑北村教育委員会の作成した「修那羅山安宮神社石神仏群ガイドマップ」ではこの像を修那羅大天武像とし、、大天武の死後、土地の人々が古人の言い伝えをもとに、彼の偉大さを称え奉納したものとしている。

修那羅の石神仏50体(31)   蔵王権現
 蔵王権現は吉野の金峯山寺の本尊として知られ、修験道の開祖、役行者が大峰山で感得したものという仏像である。修那羅大天武と修験道との関わりは深く、この蔵王権現像をはじめ、(27)立山坊舎悪鬼神などの像や「月山」「湯殿山」「天狗」「熊野大神」など修験道に関わる文字碑なども多く見られる。

 この蔵王権現像は浮き彫り像で、右手で宝剣のようなものを振りかざし、左手は剣印を結んで脇腹に置き、右足を躍らせ、右足を踏みしめている。金剛杵が宝剣になっている以外は蔵王堂本尊や「仏像図彙」の像など今までの蔵王権現の姿を踏襲している。力強さは感じられるが忿怒相はいかめしくはなく、どこか親しみを感じる顔である。次に紹介する摩利支天と同じ石工の作と思われる。

 蔵王権現の石像は修験道の発祥地の関西では珍しく奈良県三郷町の山上蔵王権現石仏(南北朝時代)や奈良県大淀町の泉徳寺の像(室町時代)などが知られているのみであるが、江戸時代末期から近代にかけては関西は見られないが全国各地で蔵王権現石仏が造立されている。長野県でもみられ、修那羅と関係のある更埴市郡にある霊諍山にも見られる。

修那羅の石神仏50体(32)   摩利支天
 蔵王権現像と同じく上を丸くした板状の石材に浮き彫りで表した像で、猪に乗る憤怒相の三面六臂像で、弓矢や軍配などを持つ。摩利支天は武士の守り本尊として、護身・蓄財・勝利などを祈る対象とされているが、信州では「生き霊よけ」として信仰もあるという。また木曽の御嶽信仰とともに広まり、各地の山岳に勧請され、江戸末期以降、甲信越や関東で摩利支天像は造立された。長野県では霊諍山の摩利支天石仏や茅野市の惣持院や権現の森の摩利支天石仏が知られている。

 この像や(31)蔵王権現・(7)勝軍地蔵や後で紹介する(42)~農など同じ場所に置かれていて、酒屋や薬屋を営んでいた金井一族が明治時代に建立したものと思われる。おそらく「仏像図彙」などの仏像図譜などを参照して造立されたのではないだろうか。

修那羅の石神仏50体(33)   山犬
 この山犬像は三峰山信仰に基づいて造立されたものと考えられる。三峰山(埼玉県秩父市)は,鎌倉時代の初期、修験者によって開かれた山で、山上に三峰権現を祀る三峰神社がある。権現の眷族は山犬とされ、「お犬様の札」と呼ばれる神札は火難、盗難をよけると信じられている。長野県では三峰講も多く組織され、今でも広く信仰されている。この山犬像は神札などを元にして彫られたものと考えられる。

修那羅の石神仏50体(34)   猫神
 (25)の鬼の像の左右に猫の像があり、3体でセットのようになっている。信州では田畑を荒らしていた巨大な大ネズミを退治するため中国から呼び寄せた大ネコ(唐猫=カラネコ)にかかわる伝承が残っていて、唐猫様、カラネコ大神、猫神などとしてとして信仰されてきた。特に養蚕がさかんになると猫が蚕の大敵であるネズミを食い殺すことから、蚕神=養蚕の神としてあがめられた。この猫の像もそのような信仰から生まれてきたと考えられる。この像の近くには蚕の枝を持った蚕神もある。

修那羅の石神仏50体(35)   蚕神
 十二単をまとう女神像で、右手に桑の葉のついた枝を持つ。養蚕のさかんだった信州には各地に有名な養蚕に関わる神社仏閣があり、また路傍の道祖神や石仏も信仰の対象となった(繭玉を持ったどうぞ陣も見られる)。この像と共に修那羅にも(34)の猫神や三石武古三郎氏が「クワバラ童子」と名付けた像などがあり、大正時代には養蚕農家が非常に多く集まったと伝えられている。桑の枝を持った女神はカイコガミ様などと呼ばれ神社の出すお札によく描かれていている。このように神社などの神札を参照して彫ったと思われ像が修那羅には(33)山犬などいくつか見られる。

修那羅の石神仏50体(36)   ササヤキ大明神
 天衣をまとい、笹の枝を両手で担ぐように持ち、上目遣いで前方を凝視する奇妙な像である。舟型光背に刻まれた「さゝやキ大明神」の神名は、「銭謹金神」や(28)「風うつ神」・(47)「大銑皇神・大切皇神」なとどともに修那羅独特の神名で、意味不明である。ササヤキを「囁き」と解すればロマンチックな神名となるが、笹の枝を持つことから「笹焼き」と考えるのが自然と思われる。ただ、どのような信仰の神については三石武古三郎氏などがいろいろな考察をされているが決定的な説はなく、よくわからない。

修那羅の石神仏50体(37)   鍬神
 手に鍬らしきものを持つことから、「鍬神」と呼ばれている。蓮華座の上に立っているが、服装・顔立ちはいかにも百姓といった素朴な感じの像である。高さ40pで文久2(1862)年の銘がある。鍬を持つ石像としては薩摩の田の神が知られているが、この像も同じような農業の神と言えるのかは即断できない。蚕神を除いて農業の神と言えるのは修那羅には多くない。

修那羅の石神仏50体(38)   魚を抱く神
 草むらに埋もれるようにして立つ、高さ45pほどの像で、両手で魚のようなものを抱きかかえている。単純に考えると漁師の神となるが、魚覧観音やえびすなど魚を持つ神仏もあるので、何か別の信仰に基づくものと思える。

修那羅の石神仏50体(39)   鎌持神
 地蔵のような姿で両手で棒を握るように鎌を持った神像である。碑の右に「御手ニ鎌持」、左に「病愈神/病根切神」と銘がある。農具である鎌を持つことから農業に関わる神とも考えられるが、碑の左の刻銘から、病根を断ち切ってもらうために祈った神であることがわかる。この像も修那羅を代表する石神仏の一つである。

修那羅の石神仏50体(40)   錐を持つ神
 (39)の鎌持神のとなりにある神像で錐のような物を右手に持つ。鎌持神と違って十王風の冠と服装である。地獄絵図などに亡者の頭に錐を刺す鬼なども見られるので、この像は閻魔十王ではないだろうか?

修那羅の石神仏50体(40)   寿老人
 七福神の一人、寿老人の像?。寿老人は中国、宋の元祐年間の人で、星辰信仰に由来する南極星の人格化ともいわれる。長頭の老人で頭に巻物をつけた杖をついているとされる。同じく七福神の一人、福禄寿も長頭の老人で頭に巻物(経巻)をつけた杖をついた姿で表され、七福神を描く場合、寿老人は頭巾をかぶった姿で表されることが多い。絵画などでは寿老人は鹿を従えていたり、杖以外に桃や団扇を持った姿で表される。この像は右手に経巻を持ち左手で杖をついていて、どちらとも言えないが、修那羅の他の2体の経巻や杖を持たない長頭の老人像が福禄寿と思われるのでこの像を寿老人とした。福禄寿も南極星の化身とされ、寿老人と福禄寿を同一神とみなされことも多い。

修那羅の石神仏50体(41)   福禄寿
 中国人が人生の三大目的とする福(幸福)・禄(身分)・寿(寿命)の全てを兼ね備えたのが福禄寿で、その姿は、寿老人と同じく、背が低く、長い頭に長い髭、巻物を結んだ杖を持つことになっている。ただ、この福禄寿像は杖や経典の代わりに、右手で宝剣を持ち、左手で宝輪を持っている。次に紹介する(42)~農や(31)蔵王権現・(32)摩利支天と同じ場所にあり、この像も(32)摩利支天で説明した金井一族による建立と考えられる。

修那羅の石神仏50体(42)   ~農
 ~農は中国の農業神で、中国古代の伝説上の帝王(三皇五帝)、三皇の一人、炎帝と結びつき、炎帝神農氏と称される。農業以外に、医薬の神、鍛冶の神、商業の神、易の神としてあがめられるようになった。日本でも漢方医や薬種商によって祀られた。

 この像は(41)福禄寿と同じ石質であり、同じ石工の作と思われる。この像も金井一族の建立と思われる。金井一族は本家は酒屋であるが、一族の金井みちは薬屋を営んでいたという。金井みちは熱心に修那羅を信仰していたようで「金井みち」と刻銘のある文字碑が何体かあり、この像も刻銘がないが金井みちの建立かもしれない。

修那羅の石神仏50体(43)   天神
 この像は張り子人形や土びななどでよく見かける天神とよく似ていて、ウメバチの紋はないが天神と思われる。杓や装束を線彫りで表した素朴でユニークな像である。この地方では天神講と呼ばれる子供達の行事もよくおこなわれていて、天神様は村人には親しまれる存在であった。

修那羅の石神仏50体(44)   鉄砲を持つ神
 修那羅には刀や弓矢など武器を持った武人像が何体か見られる。鎧兜を着けた武士風の像もあり、修那羅の石神仏の一つの特徴となっている。鉄砲を持った像も2体見られる。その内の一体が右目を細めて狙うように鉄砲を構えたこの像である。服装は鎧兜ではなく着物で武士というより猟師といったイメージで、狩猟の神、あるいは狩人の神とする説がある。

 ただ、鉄砲の持ったもう一体は鉄砲は短銃のような物で狩猟に使う銃には見えず、鉄砲は仏像の天部像や修那羅の他の武人像の持っている刀や弓矢なとと同じ、敵を威圧する道具と考えるのがいいように思う。

修那羅の石神仏50体(45)   武神
 修那羅を代表する武人像である。鎧を着けて武士の持つ長い刀を2本腰に差した、いかめしい姿をした像である。着けた鎧は、錣(しころ)や草摺(くさずり)や膝や足を守る佩楯(はいだて)臑当(すねあて)など本格的な具足の鎧である。そのくせ、頭にかぶるのは近代的軍隊の鉄カブトのようである。顔の作りや石材・彫り方は(3)の父子像やその近くにある宝珠を持つ像・(24)の獄卒の鬼などに似ていて同じ石工の作と思われる。

 このような武人像やそれに近い像は修那羅にはいいくつもあり、一つの傾向をなしていて、修那羅特有の信仰があったのであろう。敵を威圧する「威力ある神」という意味があったのかもしれない。その意味でこれらの武人像を「武神」と表現した。

修那羅の石神仏50体(46)   馬に乗った武神
 馬に乗った引立烏帽子をかぶった武人、あるいは貴人と見える像である。少しいかめしい顔つきをしている。それに対して、馬は、首をかしげたとぼけた顔で、人か入って担いでいるような足など学芸会の馬のようで、この武人と馬のアンバランスがこの像の一つの魅力になっている。「願主子年男」の銘があがる。何を祈ったのであろうか。

修那羅の石神仏50体(47)   対神1
 対神と名付けられている、対(つい)、すなわちペアで並んでいる神の像が何体か見られる。信州ではペアの神の石像としては道祖神が知られているが、修那羅には所謂、道祖神に見える像は見当たらない。しかし、男女とみられる対神もあり、道祖神信仰との関わりは考えられる。

 しかし、この対神は道祖神とは縁のない像で、侍烏帽子に大袖付胴丸の鎧を着けた典型的な侍の像である。向かって左の像は両手で刀を構えた像で、「大切皇神」の銘がある。向かって右の像は刀を抜こうとしている像で「大銑皇神」の銘がある。「大切皇神」については「病根切神」の銘のある(39)の鎌持神と同じく病根を断ち切ってもらうために祈った神であるのかもしれない。

修那羅の石神仏50体(48)   対神2
 この像は対神というより対仏である。合掌して蓮華座に立つ菩薩風の像で、向かって左の像の背後には月輪、右の像の上には日輪が刻まれている。この像は金井一族の銘のある文字碑や金井一族の建立と思われる(42)~農などがある一画にあり、金井一族と関わりのある像と思われる。

修那羅の石神仏50体(49)   対神3
 りっはな八字髭をたくわえ、笏を持った対神像である。この種の神像は他に類を見ず、名前もわからず、どのような信仰による神かわからない。

修那羅の石神仏50体(50)   対神4
 修那羅をでは最もよく知られた対神である。両神とも両手で剣を持ち、宝冠をかぶり流れるような衣紋の衣装を着ている。向かって右の像には頭光がある。信州の夫婦道祖神は右が男神で、となりに女神が寄り添っているが、この像も顔つきなどから右が男神、左が女神のようにも見える。

 この対神も名前がわからず何を祈ったかわからない。筑北村教育委員会が作成した「修那羅山安宮神社石神仏群ガイドブック」では「弁財天にあやかって彫られた対神像。女性の福の神として彫られたものであろう。」としている。弁財天には八臂像や琵琶を持った像以外に、剣を持ち宝冠をかぶり、天衣を着けた二臂像も見られるので可能性はあるが、二臂の辨財天が剣と共に持っているはずの宝珠は見られず、何とも言えない。抱くように持った剣が印象的で「威力ある神」として祀ったのであろうか。