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田の神サア50選はえびの市の山形家の田の神で終わったが、50選に選ばなかった田の神像にも魅力ある像がたくさんあり、「この像も、あの像も50選に入れて置けばよかった。」と後悔している。そこで、「田の神サア100選U」として、あと50体を追加して紹介することにした。 | ||
田の神サア100選T | ||
田の神サア100選一覧 年代順一覧 所在地別一覧 型別一覧 |
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宮崎県えびの市真幸中内竪梅木 「享保10年(1725)」
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「田の神サア50選」は私が田の神石像に興味を持ったきっかけとなった西田の田の神像から始めたが、「田の神サア100選U」の最初は私が最初に撮影した田の神像、内竪(うちだて)梅木の田の神とした。この時あまり田の神像に興味はなかったのだが、山に囲まれた田園の中にどっしりと座った重厚感のある田の神像のある風景に魅力を感じて撮影した。その意味では私の田の神像遍歴の最初といえる田の神像である。 内竪梅木の田の神はえびの市の京町温泉の北西、中内竪の水田の中を通る国道447号線の道端に祀られている。「享保十年(1725)」の刻銘があり、小林市の新田場の田の神・都城市高崎町の谷川の田の神とともに、宮崎県を代表する神官(神像)型の田の神である。円形の台に腰掛けた束帯姿の田の神で、着衣の線は単純であるが厚みとふくらみがあり、引き締まった顔で、石の美しさや力強さを生かした重厚な彫りの像である。西田の田の神で田の神像に興味を持ったあと、この像は何回も撮影した。 |
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宮崎県西諸県郡高原町広原井手上 「享保9年(1724)」
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JR吉都線「広原」駅、西400m、広原小学校の裏手にある王子神社の参道に井手上の田の神はある。新田場の田の神と同じく束帯姿(強装束)の神官像で腰掛け姿の像で、手は両手を前で合わせ孔を作っている。祀る時にそこに笏を持たせるためであると思われる。衣紋等の表現は新田場の田の神や谷川の田の神と比べると直線的で写実性に欠けるが、石の硬さが直線的な表現で生かされ、端正な顔と共に気品のある田の神像となっている。 北向きの参道の木陰にあるため日が当たらず苔むしている。顔の左面の表面が崩れているのが惜しい。「享保九甲辰閏四月八日 寄進者、森雲平」の記銘がある。 |
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宮崎県都城市岩満町巣立
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神官(神像)型は宮崎から始まったと言われていて、「享保5年(1720)」の刻銘がある新田場の田の神などの腰掛型神官像が始まりとされ、宮崎の享保年間建立の田の神像は腰掛型神官像である。それに対して鹿児島県では神官型田の神の多くは県の有形民俗文化財の上木田の田の神のように安座姿である。 安座型神官像の田の神は鹿児島より始まったかというと、それも疑問で、小林市の南島田の田の神「享保7年(1722)」・桧坂の田の神「享保10年(1725)」のように腰掛型神官像と同じ享保年間造立のものも見られ、安座型神官像もふくめて、神官型座像の田の神は宮崎県から始まったと言えるのではないだろうか。(霧島市の安座神官型の田の神の紫尾田の田の神の造立が「延享元年(1744)」ではなく「正保元年(1664)」であれば、神官型の田の神は鹿児島県が発祥となる。) 宮崎県の安座型の田の神像は数は多くあるが新田場の田の神や谷川の田の神のような優れたものは少なく、秀作としてあげるとすれば、宮崎市高岡町にある柚木崎、面早流(もさる)、田之平の田の神像なとである。これらの像は瓜実顔で気品のある顔で冠の巾子(こじ)を表現した田の神像である。同じく宮崎市高岡町の唐崎の田の神も秀作で、両手を膝の上で輪組みする安座像で量感豊かな表現の田の神である。背面に「元文二年五月吉日」(1737年)と刻む。 都城市岩満町巣立の北の端、木之川内川近くの民家の前に立派な神官型の田の神像がある。それがこの岩満巣立の田の神である。像高75pで両手を膝の上で輪組みして安座する像で、唐崎の田の神とよく似た量感豊かな像である。正面から見た顔は、小林市の新田場の田の神や都城市高岡町の谷川のような端正ではなく、下ぶくれでやや野暮ったい感じである。しかし、横顔は引き締まっていて、力強く迫力があり、宮崎の安座型神官像の田の神を代表する像といえる。 |
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鹿児島県姶良市加治木町木田上木田 「明和4年(1767)」
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上木田の田の神は、宮崎県の神官型の田の神と同じように衣冠束帯姿であるが、腰掛け型でなく安座姿である。像高は65pで宮崎県の神官型の田の神に比べると小形で、両袂が左右にはね上がった両手は前で合わせて笏を持つ孔をつくっている。宮崎県えびの市の梅木の田の神のような力強さに欠けるが、端正な田の神である。県の民俗資料有形文化財に指定されている。 |
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鹿児島県姶良市加治木町小山田迫下 「安永10年(1781)」
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迫の田の神は上木田の田の神と同じく、衣冠束帯型の安座姿の田の神である。像高は56pで、衣冠束帯姿で、冠の纓は背に長く垂れている。右手に笏を持っていたと思われるが手の先は欠けている。顔は面長で、目は半眼で静かな気品のある表情で、整った美しい田の神像である。 |
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鹿児島県いちき串木野市生福 坂下 「延享4年(1747)」
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鹿児島県の日置市やいちき串木野市周辺の特色ある田の神像として神像(神官)型立像の田の神がある。いちき串木野市生福の五反田川に面した段丘上に立つ坂下の田の神はそのような神像型立像の田の神である。県の民俗資料有形文化財に指定されている日置市の元養母の田の神<「神明和6年(1769)」>より古い延享4年(1747)の記銘を持ち、神像型立像の田の神としては初期の頃の田の神である。 衣冠束帯姿で胸の前で笏を持ち、頭には冠を被り、纓(えい)は背に長く垂れている。顔は摩滅してわからないが顎髭は残っていて、元養母の田の神と同じように忿怒相であったと思われる。元養母の田の神と比べると着衣の線は単純で堅く、伸びやかさに欠けるが、丘の上から五反田川を見下ろすように立つ姿は威厳がある。 |
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鹿児島県薩摩川内市中郷2-2-6 「文化2年(1805)」
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薩摩川内市立川内歴史資料館の庭には3体の田の神像が並んで展示されている。これらの像は薩摩川内市平佐町の中ノ原地区から寄贈されたものである。中央の一体は船型石材に深い船型の彫り窪みをつくって、神官(神職)型立像を厚肉彫りした田の神像である。 着物を着て、右手にメシゲを持って、冠をかぶった神官型立像という珍しい田の神像で、神像というより神職像と言える庶民的な雰囲気の像である。冠をとめる簪が大きく表現されているため、頭に十字架をつけているように見える。 |
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鹿児島市上福町 木之下 「宝暦6(1756)年」
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木之下の田の神は笠状のシキをかぶり、右手にメシゲ・左手に椀を持った田の神で狩衣風の上衣をきた神職型の田の神で、石工の腕のさえが感じられる田の神像である。背部に「宝暦六子天二月吉日 奉供養田之上」と刻む。直衣または狩衣姿でメシゲを持った神職型立像の田の神としては、山崎麓の田の神とならぶ秀作である。山崎麓の田の神の端正な顔に対して、この田の神は庶民的で味わいのある顔である。 |
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鹿児島県いちき串木野市川上 「天保7年(1836)」
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いちき串木野市にある川上の田の神は、神職姿で、シキをかぶりメシゲと椀を持った像で、顔が小さく袴が大きく広がり安定した姿に特徴がある。 シキはあご紐でくくり、メシゲは右手でやや斜めにして立てて持ち、左手で椀を 右手と同じ位置で持つ。この姿は近くの鏑楠(てきなん)の田の神や福薗の田の神などの一石双体の田の神の向かって右の像と共通する。 |
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鹿児島県いちき串木野市川上中組 「明治7(1874)年」
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川上の田の神から2qほと南の水田のはずれに中組の田の神はある。川上の田の神と同じく顔が小さく袴が大きく広がり安定した姿である。シキをあご紐でくくり、右手にメシゲ、左手に椀を持つ。 「明治7(1874)年」の記銘があり、川上の田の神などを参考にして造立されたものと思われる。川上の田の神に比べると顔は小さく、衣装も直線的で写実性に乏しく、こけし人形のようである。しかしそのこけし人形のような表現が、石の持つ素材の力を引き出し、この田の神の魅力となっている。 |
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鹿児島県曽於市大隅町月野広津田 「弘化4年(1847)」頃
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大隅半島に多く見られる田の神像として神職型座像の田の神が上げられる。頭には冠や烏帽子の代わりにシキをかぶり、手には笏ではなくメシゲとスリコギを持つ。大隅半島の神職型座像の田の神は豊原の田の神など右膝を半ば立てた趺座の形で組む像が多いが、安座する像も見られる。 曽於市大隅町の広津田の田の神は安座姿の神職型座像の田の神としては最もよく知られている像である。高さ140pの大型の田の神で、単純明快な簡略な表現に特徴がある。案内板は造立年を「弘化4年(1847)」頃としている。 |
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鹿児島県志布志市志布志町内之倉森山 「弘化4年(1847)」
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志布志市志布志町の森山の田の神は高さ118pの安座姿の神職型座像の大型の田の神で、曽於市の広津田の田の神と同じくシキの笠を被り、スリコギとメシゲを持つた、単純明快な表現の田の神である。着衣は広津田の田の田の神の垂領(たりくび)<左右の襟を低くたれさげ、引き合わせに着用すること>の衣装に対して狩衣(かりぎぬ)姿である。 |
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鹿児島県鹿屋市上高隈町鶴
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鹿屋市の特色ある田の神像の一つは神職神舞型で、高隈地方に7体ほどある、烏帽子を被り、神舞を舞う神職を彫ったもので、手には振り鈴を持つ。鶴の田の神はその中の1体で、両手は欠けていて、振り鈴などは確認できないが、烏帽子を被り、やや前屈みで中腰で神舞(かんめ)を舞う姿を表した田の神である。鹿屋市の山中の小さな集落の外れの棚田の上の畑に祀られていて、下の棚田や水田を見下ろしている姿は絶好の被写体である。 |
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鹿児島県鹿屋市上野町芝原 「文政12年(1829)」
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鹿屋市の特色ある田の神像のもう一つは、メシゲと振り鈴を持ち、上衣の衿から胸にかけて可憐な飾りがついている田の神舞を踊る田の神像である。その代表的な像が野里の田の神(県指定民俗資料有形文化財)とこの芝原の田の神である。共に八角柱台石の上の角台石の上に立つ赤い凝灰岩に彫られた田の神像である。大きなシキを肩にたらし、襟元に波形の飾りのついた上衣で、腹を大きく膨らましている。大きく膨れた裁着け袴を着け、メシゲを右手でたらして持ち、左手に振り鈴を持っている。 像高は野里の田の神よりやや小さい65pで、顔つきは野里の田の神より庶民的で、野里の田の神のような伸びやかさにやや欠ける。野里の田の神より78年新しい「文政12年(1829)」の建立である。野里の田の神の撮影時と同じく背後の空にはさば雲が広がっていた。 |
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鹿児島県伊佐市大口平出水 「享保六年(1721)」
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仏像型田の神として地蔵菩薩を田の神として祀った紫尾の田の神「宝永2(1705)年」や中組の田の神「宝永八年(1711)」が知られている。これらは最も古い紀年銘を持った田の神である。平出水の田の神も仏像型の田の神である。しかし、地蔵菩薩ではなく大日如来像である。石台正面に「大日如来を本地として御田之神を造立した」という意味の言葉が書かれていて、大日如来を彫って田の神としたことは明らかである。 六角形の台上の反花と蓮弁の蓮台に坐す宝冠をかぶり、両手で胸前で智拳印を結んだ金剛界大日如来像である。穏やか顔立ちの像手で、衣のひだか複雑に重なった精緻な表現の像である。県の民俗資料有形文化財に指定されいる。 |
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鹿児島県薩摩川内市樋脇町塔之原岩元 本庵 「正徳4年(1714)」
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薩摩川内市樋脇町塔之原の本庵の田の神は鎧甲を着けた武人の田の神である。持ち物は破損していてわからないが、左手に杖状のもの(鉾?)を持ち右手に宝棒のような物をもつ。右手の持ち物は見ようによればメシゲにも見え、メシゲとすればはじめから田の神として作られたものといえるが、おそらくもとは広目天や持国天などの天部像であったのではないだろうか。市の民俗資料有形文化財に指定されていて、正徳4年(1714)の紀年銘がある。 |
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鹿児島市松元町入佐 新村 「享保12(1727)年」
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入佐新村の田の神は山の中の大きな岩の前に安置されている。笠のようなシキをかぶり、肩布のついた中袖の上衣に、長袴を着け、右手にメシゲ、左手にスリコギらしきものを持つた僧型立像の田の神である。白黄色の粗い凝灰岩で彫られていて顔の風化が進んでいるのが惜しい。県の民俗資料有形文化財で「享保12(1727)年」の紀年銘を刻む。 |
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鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名 池頭
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以上に大きな笠状のシキを被った田の神で、水田の中の小さな丘に立つ。袖のついた上衣に裁着け袴で、右足を一歩、前に踏み出して歩く姿を表している。右手にメシゲを下にして持ち、左手は腰に当てている。村々をまわる僧をモデルにした僧型立像の田の神と思われ縷々。頬が膨れた庶民的な顔や大きな笠状のシキ、前へ振りかざすような大きなメシゲなど誇張された表現がこの田の神の魅力である。 |
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鹿児島県薩摩川内市祁答院町下手 轟
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轟の田の神は頭の光背のように被るシキはそのままに背石となっていて背面を厚く覆い、丸彫りに近い半浮き彫りの田の神像である。大きな袖の上衣と裁着け袴で腰掛けるている。右手でメシゲを持ち、左手は指で輪を作っている。 さつま町などに見られる僧型腰掛け型の田の神と思われるが庶民的な笑いを含んだ顔と胸をはだけ姿は僧と言うより農民そのものである。石の量感さを活かした重厚で力強い表現がこの田の神の魅力である。2回目に訪れたときは赤と白で鮮やかに化粧されていた。ただ、ゴールデンボンバーの樽美酒研二のような白塗りの顔はいただけない。 |
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鹿児島県肝属郡肝付町野崎東大園 「明和8年(1771)」
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大隅半島の中部、鹿屋市や肝属郡にはシキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神がある。すらりとした女性的な表情の鍬持ちの僧型立像の田の神の最も古い紀年銘を持つ像は肝属郡肝付町野崎東大園にある。2体並んだ田の神の向かって右にある像で、寛保2(1743)年の刻銘がある。残念なことに風化が激しい。 この像は2体並んだ左側の像で。「明和8年(1771)」の刻銘があり、鹿屋市吾平町の中福良の田の神と共にこの地方の鍬持ちの僧型立像の田の神の代表的な像である。黒い凝灰岩の丸彫り像で、克明な藁の編み目を刻んだ肩までたらしたシキや帯紐を前で大きく結んだ、袖の長い着流しの長衣などの精緻な表現と優しい眼差しが印象的な田の神像である。背後にワラヅトを斜めに負い、ツトの上にはメシゲがかざしてある。右の寛保2(1743)年の像と共に県の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島県肝属郡東串良町新川西下伊倉 「文化4年(1807)」
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シキを肩に垂らしてかぶり、大きな袖のついた長衣を着たすらりとした女性的な表情の僧型立像の田の神はワラヅトを背負い鍬を持つ像以外に、米俵にのりヒョウタンをさげメシゲと宝珠を持つ像がある。肝付町野崎の塚崎の田の神とこの下伊倉の田の神がそれである。 下伊倉の田の神は像高96p、台石の高さ60p(俵も含む)の大型の田の神で、右手にメシゲ、左手に宝珠を持ち、帯紐に大きなヒョウタンと木の葉の形の杯を下げている。正面から見ると塚崎の田の神と同じくすらっとした姿であるが、横から見ると量感がある。顔は端正であるが男性的な相貌である。「文化4年(1807)」の紀年銘があり、県の有形民俗文化財に指定されている。 |
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鹿児島県鹿屋市永野田
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永野田の田の神も大きな袖のついた長衣を着たすらっとした僧型立像の田の神である。他の僧型立像の田の神と違って左手で稲穂を担ぐように持つ、稲穂を担ぐように持つ田の神像はあまり見られないが、19世紀になってあらわれる大黒天像と融合した大黒天型の田の神像には金嚢(袋)のかわりに稲穂を背負う像が見られる。下伊倉の田の神などよりも新しい時代のものと思われる。 |
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鹿児島県鹿屋市吾平町上名中大牟礼
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大隅地方で特色ある僧型の田の神として、シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に大きな頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを横にして持つ托鉢僧姿の田の神がある(旅僧型)。鹿屋市や肝属郡を中心とした地域では最も多い田の神像である。旅僧型の田の神は肝付町宮下川北の「明和8(1771)年」の像や「安永4(1775)年」の下名真角の田の神などが古く、多くは19世紀以降の作である。 大牟礼の田の神はその中でも比較的古く19世紀初頭の作と思われる。長衣を着たすらっとした僧型立像の田の神と同じくシキを後ろに長くたらして被るが、裁着け袴をはき、胸に宝珠描いた頭陀袋をさげ、スリコギを持つことや、頭が大きく4頭身の体形など僧型立像の田の神とはかなり違っている。右足は左足より少し上げて台座にのせて、托鉢する姿を表している。顔は一見、童顔風であるがよく見ると山伏僧らしい厳しさが感じられる風貌である。数多い旅僧型田の神の中では下名真角の田の神ととも優れた田の神像である。 |
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鹿児島県曽於郡大崎町田中 「文化11年(1814)」
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大崎町田中の水田地帯の道路脇に立派な椿の木があり、その椿の樹の横に田中の田の神は祀られている。シキを後に頭巾風に長く垂らして被り、胸に宝珠を描いた頭陀袋をさげ、右手でスリコギを立てて持ち、左手でメシゲを斜めにして持つ旅僧型の田の神で、上衣の袖口やメシゲなどにベンガラで着色した跡が残る。顔も白く化粧した跡が残っている。支え石を使っていないため、やや股を開くように立っている。 稚拙に補修した鼻が気になるが、背後の水田や横の椿の樹・花生けの花瓶などとマッチして風情ある田の神像のある風景となっている。 |
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鹿児島鹿屋市川東町 「昭和31(1956)年」
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川東町の田の神は昭和31年につくられた旅僧型の田の神である。裁着け袴をはき、胸に宝珠描いた頭陀袋をさげ、メシゲとスリコギを持つことや、頭が大きく4頭身の体形など旅僧型の田の神の特徴を備える、ただ、シキは肩までたらした頭巾風のシキではなく、スリコギを左の手に持ち、メシゲを右手で立てて持つことなどは違っている。 メシゲやスリコギを持っ手はカニの足のようで写実性に乏しいが、顔の表情や内股で右足を半歩進める姿勢は独特のものがあり、作者の個性が出た現代の田の神像の秀作である。 |
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鹿児島県姶良市蒲生町漆 「享保3年(1718)」
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漆の田の神は県指定の有形民俗文化財でメシゲを両手で捧げた田の神舞型の像である。享保3年(1718)の紀年銘を持ち、田の舞型の田の神としては最も古い。石材の半分は自然石で、前面に丸彫りに近い厚肉彫りで、両手でメシゲを斜めに持ち、左足を膝を立てるように踏み込み、田の舞をを踊る神職の姿を表している。シキの笠は大きく厚く、胸をはだけてタスキを掛け、長袴を着けている。顔はつぶれてわからないが神職と言うより田の神舞を踊る農民といった風情である。石の持つ量感を活かした重厚感のある田の神像である。 |
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鹿児島県霧島市隼人町内山田 「天明元年(1781)」
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宮内の田の神は漆の田の神とともによく知られた田の神舞型の県指定の有形民俗文化財の田の神像である。大隅国一之宮の鹿児島神宮の神田の奥に祀られていて、五月五日に行われる御田植え祭りにはこの前で田の神舞が行われる。 自然の岩のような台石の上に右足を右足を踏み上げるにして中腰で立ち、右手でメシゲをかかげ持ち、左手で椀を抱えるように持っている。袂の短い上衣に、両膝の丸く膨れた裁着け袴をはく。被った大きなシキは風にあおられて波打っていて、動きがありみごとに田の神舞を踊る姿を表している。顔は顎髭があり翁風の顔立ちである。シキの背後に「天明元辛丑天九月吉日 正八幡宮田神 沢正納右衛門」の刻銘がある。 |
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鹿児島県日置市東市来町湯田中央 「元文4年(1739)」
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湯之元の田の神はメシゲと椀を持った田の神舞型の田の神で、宮内の田とともに県の有形民俗文化財に指定されている。左手で椀を抱えるように持ち、右手で持つメシゲはのワラの編目がていねいに刻まれた笠状のシキの上にのせている。表情豊かに笑っている顔が印象的である。袴は前から見ると裁付袴で後ろから見ると長袴になっている。宮内の田の神より古い「元文4年(1739)」の紀年銘を持つ。 |
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鹿児島県姶良市蒲生町下久徳三池原 「明和五年(1768)」
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自然石の前面を平らにし、舟形などに彫り窪みを作り、浮き彫りや半肉彫りにした田の神像は薩摩地方北部から姶良市にかけてよく見られる。その中でも県の有形民俗文化財に指定されているのが下久徳の田の神である。シキを被り、袂のない上衣に裁付袴を着た農作業姿の田の神である。顔がつぶれているのが惜しい。明和五年(1768)の作。 |
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鹿児島県姶良市宮島町
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姶良市には漆の田の神・触田の田の神・西田の田の神など田の神舞型の田の神が多くある。田の神舞型田の神像には触田の田の神のようなメシゲと椀を持って舞う田の神像と、漆の田の神のように両手でメシゲを持って舞う田の神像と2種類あり、福岡家の田の神は、両手でメシゲをもって踊る田の神像である。 シキをかぶり、タスキ掛けで、一歩踏み出して、両手でメシゲを持ち、空を見上げるように力強く田の神舞を踊っている。元は姶良市木津志の城の口にあった田の神で木津志の上脇家の田の神に作風が似ていて、上脇家の田の神の紀年銘の「文化2(1805)年」前後の製作と考えられる。 |
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鹿児島県姶良市加治木町木田新中
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姶良市加治木町の新中公民館の前庭に2体の田の神が安置されている。一体は日木山里の田の神と同じ、左手でシキを押さえて、笑みを浮かべて中腰で田の舞を踊っている田の神像で、もう一体が右手で曲がったメシゲを持ち、左でメシゲに添えるようしめたタスキを持つ田の舞姿のこの田の神である。大きな折り笠状のシキをかぶり、垂れ目でシワ面で好々爺のような顔をしている。 江戸時代後半から末期になると田の神舞型の田の神はこのように戯画的な姿の田の神が多くなる。これは田の神が厳粛な神から戯れ神に庶民化しつつある姿と言える。 |
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鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名 松下田 「元文2年(1737)」」
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松下田の田の神は元文2年(1737)の作で、大きなドーム状のシキをかぶり、裁着け袴をはき右手で軍配のようなメシゲをかかげ、左手を腰に置いている。支え石があり、横から見るとと腰掛けているように見える。シキの前の部分か欠けていて日差しがまぶしそうである。 横に立つ案内板には「(前略)シキをかぶり、袴の裾を引きしぼり、メシゲを持つという型の田の神像としては、入来で最初に現れたものです。これを後から見てください。男茎型ですが、これは生殖と増産とが結びついた古代以来の信仰を現わしているのです。」と書かれていた。 |
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鹿児島県曽於市末吉町南之郷富田
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大隅半島の北部に位置する曽於市には神職座像型の田の神も見られるが、田の舞型の田の神像が多く、田の神像の様相は大隅半島の中部の鹿屋市や肝属郡とは違っている。 曽於市の田の舞型の田の神像のなかでも味わい深いのが富田の田の神である。右手でメシゲをかかげ、左手で椀を持った田の神で、大きく膨らんだお腹と両膝の丸く膨れた裁着け袴袴が福耳を持ったにこやかな丸顔とマッチして、田の神舞を舞う素朴な農民と行った風情である。 |
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鹿児島県曽於市財部町下財部大川原 「安永9年(1780)年」
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大川原の田の神も田の神舞型の田神である。宮内の田の神や富田の田の神などと同じく右手でメシゲをかかげ、左手に飯椀を持って、右足をやや前に出して田の神舞を舞う田の神像である。宮内や富田の田の神と比べると動きもなく、体躯は子供のような稚拙な表現になっている。しかし、味わい深い農民風の顔と、白・青・赤・茶をうまく使った彩色が、この像を引き立て魅力ある田の神像になっている。「安永9年(1780)年」の刻銘がある。 |
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鹿児島県曽於市財部町北俣刈原田 「文化8(1811)年」
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刈原田の田の神は長袴を着て、両手でメシゲを持って田の神舞を踊る姿の田の神像で、口をひん曲げゆがめた顔に特徴がある。刈原田の田の神も西田の田の神や新中の田の神と同じく、田の神が厳粛な神から戯れ神に庶民化して、戯画的に表現したものである。この田の神像の前には前にはミニサイズの田の神像が置かれている。 |
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宮崎県えびの市真幸下浦
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鹿児島県と接する宮崎県のえびの市には、メシゲや椀、スリコギ、杵などを持った田の神像が多くある。多くは田の神舞を舞っている像であると思えるが、神職や僧というよりはいかにも農民といった姿が多く、「宮崎の田の神像」(鉱脈叢書)の作者青山幹雄氏はこれらの像を内竪梅木の田の神などの神官型(神像型)に対して農民型としている。 京町温泉駅の南の集落、下浦の入口近くの道の横の竹藪の前に下浦の田の神が祀られている。襷がけで、左足を一歩踏み込み、メシゲを両手でしっかり持って田の神舞を踊る農民型の田の神像である。大きな額と、団子鼻が印象的である。着物は赤と緑に、頭にかぶるシキは赤に鮮やかに彩色されていて、目鼻は黒で描かれている。「宮崎の田の神像」(鉱脈叢書)で亡くなった上方落語の桂枝雀を思わせる好々爺といった顔のこの田の神の写真を見て、是非とも見たいと訪れたのであるが、白塗りし目鼻を描いているため、表情はきつくなっていて、印象は少し違った。 |
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宮崎県えびの市原田八幡
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えびの市飯野の五日市の南東に八幡岳と言う小さな山があり、寺と公園になっている。その麓の小さな集落が八幡である。八幡の西の田園地帯の中に小さな墓地があり、その墓地の前に、このかわいらしい2体の農民型の田の神像がある。 右の像、高さ54pで、幅55pほどの2俵の大きな俵を背負っていて、俵2俵の高さは、背の高さとほぼ同じである。顔と胸、手は白く塗られていて、右手に赤いメシゲを左手に白に塗られた椀(握り飯に見える)を持つ。 左の像は高さ46pほどで、頭にシキをかぶり、右手に赤いメシゲを、左手に大きな赤い椀を持つ。白塗りの顔は、目と眉毛は黒く、口は赤く塗っていて、垂れ目の目と、赤い頬と口がかわいらしい。 |
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宮崎県西諸県郡高原町西麓梅ヶ久保
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高原町から野尻町へ向かう、県道29号線が越(後川内越)方面へ行く道と分かれる三叉路を過ぎてすぐ斜め左の細い道を入ると梅ヶ久保の集落である。その小さな集落を通り過ぎ突き当たった所を右折して農道を下ると岩瀬川にそった水田地帯になる。その水田地帯の真ん中に梅ヶ久保の田の神がある。 農民型の田の神で、シキを阿弥陀にかぶり、右手にメシゲ、左手に杵を持ち右足を一歩踏み出した立像である。農民型の田の神の多くは田の神舞を踊る姿を表していると思われるが、ほとんどは棒立ちの姿でこのように動きのある田の神は珍しい。田の中で力強く一歩踏み出すこの田の神の姿は印象的で心に残る。 |
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宮崎県西諸県郡高原町西麓並木
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JR吉都線「高原」駅、南西1.1qの水路脇にこの田の神は祀られている。台座の上に安座する像高100pの田の神で、シキを阿弥陀にかぶり右手にメシゲ、左手に枡を持つ。銘はなく制作年は不明であるが、かたわらの水神碑銘には「嘉永三年戌七月廿一日」とある。 嘉永3年(1850)に完成した下川原開田を記念し、その工事の奉行であった平島平太左衛門に似せて作らせたという伝承がある。そのため、平島田の神ともいう。味わい深い顔をした田の神である。農民型というより僧型といえる田の神像である。 |
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鹿児島県薩摩川内市入来町副田山口
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薩摩川内市入来町には自然石に舟形や四角形の彫りくぼみを作り、右手にメシゲ、左手に閉じた扇子を持つ農民風の像を浮き彫りする田の神が多くある(入来地方石碑型)。田の神サア50選に載せた鹿子田の田の神や栗下の田の神などが入来地方石碑型の典型で1771年と17769年の明和年間の作である。山口の田の神も入来地方石碑型の田の神で、被っているシキがおかっぱ頭のようになっていて、かわいい女の子に見える秀作である。 |
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鹿児島県薩摩川内市入来町浦之名 堂園
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堂園の田の神も、右手にメシゲ、左手に閉じた扇子を持つ農民風の入来地方石碑型田の神であるが、他の入来地方石碑型田の神と違って陣笠のようなシキをかぶった細長い顔の田の神像である。 |
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鹿児島県薩摩川内市陽成町本川
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旧川内市から旧串木野市にかけて見られる特色ある田の神像として一石双体の並立の田の神像があげられる。両市で44基確認されている(川内歴史資料館「川内の田の神」参照)。一石双体の並立の田の神像は烏帽子を被り袴着けが男像、シキ被り着流しが女像が一般的であるが、持ち物は杵・メシゲ・扇子・おにぎり・振り鈴などいろいろあり、複雑な変化が見られる。一石双体の並立の田の神像は旧川内市では水引町・網津町・陽成町などに多く像がある。 陽成町の柿田橋の田の神も一石双対浮き彫り像で、一條殿の田の神などの陽成町の一石双体像の田の神と比べればやや小型で高さ63pで上部に日と月が彫られている。向かって左の像は笠状のシキを被り、着物を着て両手でメシゲを持つ。右の像は烏帽子をかぶり裃・袴姿で、右手に扇子、左手に握り飯を持つ。 |
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鹿児島県いちき串木野市上名 河内 万延元年(1860)
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薩摩川内市に接するいちき串木野市にも一石双体の並立の田の神像が多くある。河内の田の神は高さ1mを超える方形の石材に笠状のシキを被った大きなメシゲを持った像と烏帽子姿で両手で笏を持った神官姿の像を半肉彫りした一石双体の並立の田の神像である。顔はともに風化が進んでいて表情はわからない、衣装などの表現は形式的で写実性に乏しい。しかし、それがこけし人形のような素朴な味わいとなっていて味わいがある。 |
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鹿児島県いちき串木野市生福 福薗 「文久2年(1862)」
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旧串木野市の一石双体並立の田の神像は旧川内市の像と比べると、彫りが深く、浮き彫りというより半肉彫りでより立体的な表現になっている。神楽鈴(振り鈴)を持った像とあご紐のついたシキをかぶり、メシゲを持つ像の組み合わせの田の神がこの地方では多く見られる。福薗の田の神と鏑楠の田の神などかそれである。 福薗の田の神は南方神社の二つの鳥居の前にあり、将棋の駒のような形の石材の三角にとがった部分と台座を残して、その間に右手に神楽鈴を持った僧姿の神とシキをかぶりメシゲと飯椀を持った神を半肉彫りしたもので、石材の大きさは1mを越える大型の像でが迫力がある。 旧川内市内の一石双体の並立の田の神像はシキをかぶりメシゲを持った着物姿の像が女神、烏帽子をかぶった像を男神とするのが一般的であるが、雑多な変化があり、両方と男神と思えるものも見られ、一概に言えない。福薗の田の神はシキ被りメシゲ持ちの像は裁着け袴を着けているので男神に見え、着物姿の神楽鈴持ち像が女神らしく見えるが、神楽鈴持ち像は坊主頭のように見え何とも言えない。 |
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鹿児島県いちき串木野市生福 鏑楠 「天保13年(1842)」
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鏑楠(てきなん)の田の神は市の文化財に指定されている一石双体の並立の田の神像で、高さ1mほどの方形の石材に台座を残して、並立で2~を浮き彫りしたものである。 右神はシキをかぶり、右手にメシゲ、左手に椀を持ち、左~は大きな神楽鈴を両手で抱えるように持ち、髪を大垂髪(おすべらかし)にしている。右~は男神、左神は女神であることは明らかで、厚肉彫りで写実的な表現の優れた一石双体の並立の田の神像である。 |
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鹿児島県薩摩郡さつま町虎居大角 「文化二年(1805)」
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薩摩川内市やさつま町には並立型田の神像から派生したと思われる女子像の田の神が10体以上見られる。女子像型の田の神の分布は並立型の田の神とほぼ一致していて、並立型で明らかに女子像を意識して彫ることが始まり、その女子像型だけが独立してつくられたと考えられる。 女子像の田の神でよく知られてる田の神の一つがさつま町虎居にある大角の田の神である。自然石の前面を平らにして、舟形に彫り窪めて半肉彫りしたもので、髷を結い、その頭部に櫛をさしている。右手に小さなメシゲをたらして持つている。田の神サア50選で紹介した下狩宿の田の神と同じように長い袖での着物であるが袴は裁着け袴のように見え、華やかさはなく農作業姿のように見える。 |
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鹿児島県薩摩郡さつま町柊野柊野下
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柊野下の田の神は下狩宿の田の神と同じく髷を結い長い袖での着物で袴をはき、手鏡のような小さなメシゲを持った女子像型の田の神像である。下狩宿の田の神のようなすらっとした姿ではなく4頭身で庶民的な雰囲気の田の神像である。 |
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鹿児島県薩摩川内市陽成町中麦
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春花橋付近の田の神は春花橋付近の民家へ続く道の近くの斜面に祀られている。高さ60pほどの丸彫りの女子像型の田の神像で、椅子のようなものに腰掛けている。日本髪姿で着物を着て、右手にメシゲを持っている。おでこが広く小さな目でおちょぼ口の可愛い姿の田の神像である。 |
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鹿児島県薩摩川内市中村町飯母
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中村神社の田の神は俵の上に乗りシキをかぶり小槌とメシゲをかかげるようにもった大黒天との混合型の田の神である。大黒天は音韻や容姿の類似から大国主命と重ねて受け入れられるとともに、農村では豊作の神として信仰を深めていく、そのため田の神信仰は西日本では大黒天と結びついていった。田の神像の中にも、影響を受け、この像のように田の神像と大黒天を融合させた像が19世紀中期以降につくられ始めた。 |
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鹿児島県霧島市国分川内口輪野 昭和7(1937)年
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昭和になっても、地元の石工によって田の神像は作られた。稚拙な像もあるが、伝統を引き継ぎながら近代的で個性的な田の神像も何体かつくられている。その中でも優れた田の神像が口輪野の田の神である。丸顔で庶民的な笑顔がすばらしい像である。石工は田端喜蔵で、昭和7(1937)年の作である。 |