信州の道祖神50体
 
  村の入口や峠などに祀られている道祖神は、道の神として、村の境を守る神として、また、災厄を払う神として、信仰を集めている。子供たちが道祖神の前でドンド焼(左義長)をすることから、子どもの神でもある。男女の双体像や性をかたどる石を神体として、夫婦和合の神、生産の神としても信仰されている。

 長野県や群馬県などの東日本各地では、男女の双体像で道祖神が表現される。信州安曇野には、肩を寄せ合い握手する双体像や盃と瓢箪の酒器を持つ祝言像の美しい道祖神が多くあり、観光パンフレットや旅行案内書に紹介され多くの人が訪れている。

  安曇野とともにすぐれた双体道祖神が多くあるのが、松本の西にある東筑摩郡山形村である。特に、下大池橋爪東と小坂殿にある寛政7年、8年の道祖神は御所人形風の愛らしい姿で、石仏愛好家の人気を集めている。このページは安曇野市や山形村、松本市の道祖神を中心に石像双体道祖神の秀作や特色ある像を50体選んで紹介する。最初の10体は秀作や気に入った道祖神を掲載し、その後、茅野市・松本市・安曇野市・白馬村と南から順番に40体、中信地区の道祖神を紹介する。


道祖神50体(1)   下大池の道祖神
長野県東筑摩郡山形村下大池 「寛政7(1795)年」
 山形村下大池の公民館近くのしだれ桜の下に祀られている道祖神である。碑高120p幅40pの自然石風の碑に舟型の彫り窪みをつくり、その中に肩を抱き合い握手する男女の神を浮き彫りする。みやびやかな宮廷人をしのぼせ、鼻筋の通った優雅な顔立ちである。

 山形村では若さと初々しさを感じさせることから、「幼なじみ」という意味をこめて、伊勢物語の23段「筒井筒」からとって「筒井筒下大池道祖神」と名づけている。ノミで彫ったあとを磨きかけて美しく仕上げられていて、信州を代表する道祖神である。

 「ェ成七年乙卯十一月吉日 大池村中」の刻銘がありェ成7(1795)年の作であることがわかる。この近くには、ェ成7年と8年の記銘のある同じ様式の道祖神が3体ある。


道祖神50体(2)   小坂殿の道祖神
長野県東筑摩郡山形村小坂殿 「寛政8(1796)年」
 下大池の道祖神(筒井筒下大池道祖神)とともに平安朝のみやびやかな宮廷生活を思わせる優れた彫像の道祖神である。碑高130pの自然石風の碑にハートのような形の彫り窪みをつくり、その中に肩を抱き合い握手する男女の神を浮き彫りにして磨き上げている。「ェ成八年丙辰歳二月吉日 殿村中」(1796年)の刻銘がある。碑の上部をひさしにしていることもあり、二百年以上経ても損傷のあとが少ない。

 村のHPではこの像も、伊勢物語の23段「筒井筒」からとって「筒井筒小坂」と名付けている。「筒井筒下大池道祖神」よりは顔は幼く、より幼なじみの恋人同士といった風情である。「筒井筒下大池道祖神」は優美な雛人形を連想させるのに対して、この像は省略して抽象化された衣装と、幼い顔によって御所人形を連想させる。


道祖神50体(3)   島立町区の道祖神
長野県松本市島立町区 「天保13(1842)年」
 松本市島立の亀田屋酒造店の前の路傍に立っている道祖神である。高さ110pの表面を磨いた長円形の石に円形の彫り窪みをつくって提子(ひさげ)を持つ女神と盃を持った男神を浮き彫りにした祝言像で、美しく彩色されている。

 碑の左に「天保十三年壬寅三月十二日」の刻銘があり、碑の裏には制作に携わった藤森吉弥と重森文四郎の石工の名前が刻まれている。藤森吉弥は高遠の石工で秩父観音札所31番観音院の石像仁王など多くの名作を残している。


道祖神50体(4)   小室の道祖神
長野県松本市梓川梓6981?2 「文久3(1863)年」
 旧梓川村の小室地区にある道祖神である。高さ100pの自然石に力強い達筆の「道祖」の文字を深く刻み、その下部に扇形の彫り窪みをつくり双神を半肉彫りする。男神は衣冠束帯・女神は小袿姿で坐して互いに肩を組み、女神は提子(ひさげ)を男神は盃を持った祝言像である。みやびで優美な姿の像である。

 碑の側面に「文久三年癸亥九月吉日」、正面左に「温清堂書」と刻銘がある。1863年、江戸末期の作である。


道祖神50体(5)   本村西村の道祖神
長野県安曇野市豊科本村1941 「弘化3(1846)年」
 松本盆地の北部の扇状地は安曇野と呼ばれ、古代より人々が住みつき開発されてきた。現在、美しい水田が広がる穀倉地帯となっている。そして、この安曇野は道祖神の里でもある。400基を越える双体像道祖神があり、質量ともに、全国有数の道祖神の宝庫となっている。

 特に旧穂高町を中心とした安曇野市は衣冠束帯、十二単姿の整った端正な道祖神や彩色道祖神が多くあり、道祖神を目的に、訪れる観光客も多い。旧穂高町から旧豊科町・旧堀金村にかけ、共通した表現の道祖神が多くある。旧豊科の本村や細菅・中曽根、旧穂高町の柏原や矢原・等々力などの道祖神がそれである。

 これらの道祖神は、男神は衣冠束帯姿で、冠の後から尾のように纓(えい)が垂れていて、女神は十二単姿で、頭上で髪を束ねてから肩先へ垂らしていて、男神の纓と女髪の垂髪が左右対称のようになっているのが特徴である。女神が頭上で髪を束ねることによって、男神との背丈を揃えている。

 これらの道祖神は、内側の手を肩に回し、外側の手で握手をする握手像と、内側の手を肩に回し外側の手で女神が瓢(ふくべ)を持ち、男神が盃を持つ祝言像の2種類がある。握手像の秀作が旧穂高町の等々力西村の天保12年の道祖神柏原中下の道祖神であり、祝言像の秀作が旧豊科町本村の弘化3年の2つの道祖神である。

 この像は本村の弘化3年の道祖神の1体で、幅360pの大きな基壇の上に二十三夜塔とともに立っている。碑高150pのお握りの形をした花崗岩に大きな丸い彫り窪みをつくり、杯と瓢を持った男女の神を半肉彫りする。碑のとがった上部には直径24pの大きな菊花紋が彫られている。

 男神は衣冠束帯姿で冠は甲の部分が小さくて巾子(こじ)が大きい、垂れた纓は幅広の薙刀のような形である。裾(きょ)は大きく円を描いて後に跳ね上げている。やや内側に向いて右手を女神の肩に回し、内側に向いて左手で杯を持つ。女神は髪を頭の上で高く束ねて、後ろに腰のあたりまで垂らしている。女神も内側に向いて、左手を男神の肩に回し、右手で大きな瓢を持つ。

 像高は69pで豊科では最も大きい像である。整った優美な像で、安曇野の道祖神を代表する一つである。「弘化三年二月吉日 本村西村中 帯代三十両」の刻銘がある。


道祖神50体(6)   矢原橋詰の道祖神
長野県安曇野市穂高矢原 「元治元年(1864)年」
 安曇野の道祖神が観光客の人気を集めている理由の一つは本村西村の道祖神のような衣冠束帯、十二単姿の整った端正な道祖神が多いことと、カラフルに彩色した道祖神が多いことである。その彩色道祖神の代表作と言えるのが旧穂高町の矢原の橋詰(はしのつめ)にあるこの道祖神である。県道310号線沿いの地元の旅行会社の営業所の横の路地を北へ入ってすぐの民家の生け垣の間にある柵をめぐらした屋形この道祖神が祀られている。

 碑高90pのお握りの形の石材に円形の彫りくぼみをつくり、その中に肩を抱き合い握手する衣冠束帯と十二単の男女の神を半肉彫りしたもので、共に像高53pで四頭身のプロポーションである。エメラルドのような光沢のある塗料で彩色されている。目もパッチリと口紅もきかせてあり、あどけなさも感じられ、幼い子供顔の雛人形を思わせる。

 像の下に「仲間中」、碑の裏に「元治元年甲子(1864)四月足日 矢原村」の刻銘がある。


道祖神50体(7)   矢原西村の道祖神
長野県安曇野市穂高矢原 「元治元年(1864)年」
 矢原には七体の双体道祖神があるがその内、橋詰の道祖神を含む3体が彩色道祖神である。橋詰の道祖神と共に見事な彩色の道祖神がこの西村の道祖神である。昭和50年に屋形が新築されたときに、村の洋画家の手で彩色されたものである。

 ピンク色の着物に青の打掛けで朱の瓢を持った女神と水色の衣に黒い冠、緑の盃を持った男神の祝言像で、男神には本来なかった八の字髭と顎髭か描かれている。男神の顔は肌色に彩色され、女神の頬は紅がほんのりきいている。彩色した人の近代的なセンスが光る彩色道祖神である。

 周囲に「甲元治元年子四月吉日、西村中」と装飾的な刻銘があり、黒い墨が入れられていて、全体を引き締めている。男女の神の像高は橋詰の道祖神よりやや低い48pである。


道祖神50体(8)   等々力西村の道祖神
長野県安曇野市穂高等々力 「天保12(1841)年」
 JR穂高駅から2.5qほど東へ行くと大王わさび園がある。その途中にある集落が等々力である。古くからの豪族で江戸時代は大庄屋として力を持ていた等々力氏の拠点でり、本陣等々力家や白壁土蔵の家など歴史の重みを感じさせる集落である。この等々力には9基の道祖神が祀られている。白壁土蔵の側にも道祖神が安置されていて絶好のシャッターポイントもある。

 等々力の道祖神で最も優れた像が等々力の村の西にあるこの道祖神である。長円形の自然石に矩形の深い彫り窪みをつくり、その中に衣冠束帯、十二単で肩を組み手を取り合った男女の神を厚肉彫りに近く彫り出した秀作である。矩形の彫り窪みの上には唐破風の屋根を彫り出している。鬼瓦にはくねった「水」の字をいれ、その下に菊の花と枝を広げた松の木を彫っている。

 最初に行ったときは、朱や青、黒などの彩色の跡がうっすら残っていて、古代色を思わせる落ち着きを見せていた。数年後訪れたときには、衣装などが彩色され、水色や青などの色がうっすら着けられていた。


道祖神50体(9)   古厩の道祖神
長野県安曇野市穂高有明古厩 「慶応3(1867)年」
 JR大糸線安曇追分駅の西にある江戸期の古厩原村の道祖神である。安曇野市の旧穂高町には彩色道祖神が15基あり、その中でも矢原橋詰の道祖神とともに彩色道祖神の代表と言える像である。高さと幅70p、厚み20pの磨いた円形の石材の中に丸い彫り窪みをつくりその中に、互いに肩を組み、瓢と盃を持つ像高39pの男女の神を半肉彫りした祝言像である。

 昭和25年頃から彩色されていたものだという。女神はピンク色の打掛けで朱の瓢を持ち、男神は茶色の衣に黒い冠、茶色の盃を持つ。女神の髪をくくる元結と、男神の黒い冠の簪は白で引き締めている。白塗りの顔の目も上品に描いている。ふくよかな顔で五月人形を見るように美しい。


道祖神50体(10)   野倉の道祖神
長野県上田市野倉538 昭和時代?
 別所温泉の裏山を一つ越えた野倉にある道祖神である。集落のほぼ中央の細い道のいろいろな花が植えられた土手に祀られている。高さ73pの石に直径45pの深い彫り窪みをつくり、衣冠束帯・十二単の衣装で肩を組み握手をするともに穏やかな丸顔の男女の神を半肉彫りする。夫婦(みょうと)道祖神として、別所温泉の観光ホースターに使われ全国的に有名になった。

 この地方の道祖神は安曇野や松本盆地の道祖神のような優美な姿の道祖神はなく、素朴なものなので、巧みな彫りのこの道祖神は出色の出来栄えである。しかし、古色は感じられず近代的な趣の像で、おそらく昭和以降の作と思われる。


道祖神50体(11)   南大塩の道祖神
長野県茅野市豊平 南大塩 「明治35(1902)年」
 尖石遺跡の国宝の土偶「縄文のビーナス」を見た帰り偶然見つけた道祖神である。縄文ロードを走行中、「信玄の棒道」の案内板をみて車をとめてみると、その側にこの道祖神を含めて3基祀られていた。この道祖神は童子風の姿が珍しく、道祖神50体に入れた。

 高さ73p、幅43pの石材の上部を残して深く彫り込み、その中に像高43pの抱擁握手像の道祖神を半肉彫りしたもので、両像とも衣装などは同じで、どちらか男神か女神か区別つかない。髪型が共に双髻で幼い顔のため童子に見える。顔は向かって左の像が丸顔で、右はやや細面で、うつむき加減である。他の双体道祖神と違って右の神が女神にも見える。「明治三十五(1902)年一月吉日」の記銘がある。


道祖神50体(12)   広丘原新田の道祖神
長野県塩尻市広丘原新田 「大正6(1917)年」
 塩尻市の北部のJR中央本線「広丘」駅の西にある山神社津島社の境内の片隅に、文字碑の道祖神とともに安置されている双体道祖神である。高さと幅70〜75pの磨いた円形の石材の中に丸い彫り窪みをつくりその中に、互いに肩を組み、瓢と盃を持つ男女の神を半肉彫りした祝言像である。安曇野などでよく見られる祝言抱肩像であるが、安曇野の道祖神の優美な整った面相とは違って、男神・女神とも大きな目と鼻の庶民的な顔つきの像である。


道祖神50体(13)   広丘野村の道祖神
長野県塩尻市広丘野村 「慶応2(1866)年」
 JR中央本線「広丘」駅の東の広丘野村地区にある道祖神である。高さ87p、幅96pの栗の形をした石材に同じ形の彫り窪みをつくり、その中に肩を抱き合い握手する男女の神を半肉彫りしたもので、男女神はそっくりな面長の顔で、男神の冠と女神の垂髪を頭の上で束ねた姿もよく似ていて、頭部だけ見ると男女の区別がつかない。女神の袖口が「女陰のかくし彫り」という説もある。


道祖神50体(14)   上大池豆沢の筒井筒道祖神
長野県東筑摩郡山形村上大池豆沢 「寛政7(1795)年」
 「筒井筒」と名づけられた下大池の道祖神小坂殿の道祖神と同期同系の作である。碑高100p幅60pの自然石に舟形の彫りくぼみをつくり、その中に公家スタイルで、折烏帽子をつけ男神と垂髪の女神、肩を抱き合い握手する姿を浮き彫りする。他の筒井筒道祖神と違って女神の垂髪がつんと跳ね上がっている。これは顔を前にうつむいたために髪が動いた瞬間のようにもとれる。男が実の鼻の先と女神の左まぶたの上部が欠損しているのが残念である。


道祖神50体(15)   中大池上手東の道祖神
長野県東筑摩郡山形村中大池上手東 「寛政7(1795)年」
 この像も「筒井筒」と名づけられた道祖神で下大池の道祖神などと同期同系の作である。碑高85p幅63pの自然石に舟形の彫りくぼみをつくり、その中に折烏帽子をつけた男神と垂髪の女神の抱肩握手像を半肉彫りする。他の3碁の筒井筒道祖神に比べて小さい。やや像身が磨滅していて、女神の外袖の一部が剥げて欠けているのが残念である。訪れた時には、眉や目、髪が墨で軽く描かれ、ビールが供えられていた。


道祖神50体(16)   下竹田北村の道祖神
長野県東筑摩郡山形村下竹田北村 「嘉永3(1850)年」
 高さ50p、幅81p、厚さ130pの自然石の基壇の上に載せた、雲の形をした高さ110p、幅190p、厚さ43pの自然石に円形の彫りくぼみに抱肩握手像を半肉彫りした、立派な双体道祖神である。男神は烏帽子に狩衣装束、両足をやや開いて正面を向いて立ち、女神は十二単衣をまとい垂髪で足をそろえて正面を向いて立っている。

 男神は右手、女神は左手を相手の肩にかけ、左手と右手で体の前で握手している。互いに正面を向いて握手していることや握りあった手が複雑な形なのでやや不自然に見える。顔は眉毛、目、耳ともに大きく、若々しい顔である。特に女神の顔は優しく初々しい。

 碑の右に紀年銘、左に「本州高遠住石工四良右門兼氏作」と石工の名前が刻まれている。四良右門兼氏作の道祖神は松本市今井上新田にもある<弘化3(1843)年造立>。高遠の石工名が明記されているこの地方の像として他に松本市島立町区の道祖神や松本市入山辺中村の道祖神が知られている。(両像は藤森吉弥の作で、ともに名作である。)


道祖神50体(17)   上竹田・建部神社の道祖神1
長野県東筑摩郡山形村上竹田・建部神社 
道祖神1(路傍の情熱2)・庚申塔・道祖神2(童唄) 
 上竹田の建部神社の道路際の草むらの中に、2体の道祖神と庚申塔があった、そのうちの1体がこの道祖神である。(現在は、建部神社の入り口付近に案内板とともに3体並べられている。)高さ 100p、幅 52p、厚さ 20pの三角形の自然石の割られた平面に釣り鐘型の彫りくぼみをつくり、その中に抱擁する男女の神を半肉彫りする。右の男神が左の女神の肩をぐっと引き寄せ、女神は衣のつまをとり裾を広げている情熱的な姿の道祖神である。服装は衣冠束帯や十二単ではなく法衣で、像の下には蓮の花の添え彫りがしてあることから仏教系の道祖神である。

 山形村では道祖神を中心とした観光にも力を入れていて、村や観光協会のホームページで詳しく紹介している。それらのHPで各道祖神を「筒井筒」「じじばば」「童唄」などユニークな名前をつけて紹介している。この像と同じ構図の道祖神は村内に3体あり、この像と下竹田中通りにある道祖神を村は「路傍の情熱」とその情熱的な姿態から名付けている。この建部神社の像は情熱的な姿態に比して穏やかで清純な顔で、静かに正面を向いている。隣接する松本市今井にも同じような道祖神があり、「筒井筒」道祖神とともにこの地方の特色ある道祖神である。

 庚申塔は、自然石の表面を削り、青面金剛像を浮き彫りにしたもので、腕に弓、矢、縄など足下に鶏か2羽、三猿がいる。顔は四角く幼い子供のような顔で、隣にある道祖神2(童唄)とよく似ている。


道祖神50体(18)   上竹田・建部神社の道祖神2
長野県東筑摩郡山形村上竹田・建部神社 
 建部神社にあるもう1体の道祖神は村が「童唄」と名付けたこの道祖神である。高さ 55p、幅 38p、厚さ 18pの舟形の碑を船底の形に削りそのくぼみに手をつないだ幼い兄弟のような姿の道祖神を半肉彫り下もので、修那羅を代表する石神仏の「母子像or姉妹像(子育地蔵)」を連想させる。子供を守る専門の道祖神でもあろうか。

 右の女神?、左の男神?とも着物姿で、男神はやや足を開いて立ち、左手はお腹のあたりにあてている。この道祖神は波田村の若沢寺に祀られていたもで、明治の初め、廃仏毀釈によって同村の盛泉寺に移された後、同寺から上竹田・中耕地の山中松二(力士・岩の松)が友達と力比べで担いで、竹田の氏神様境内へ持ち込んだと言われている。


道祖神50体(19)   上大池豆沢のじじばば道祖神
長野県東筑摩郡山形村上大池豆沢 「嘉永4(1851)年」
 高さ70p、幅66p、厚さ30pの立菱形の自然石に円形の彫りくぼみをつくり、肩を抱き合い握手する公家風衣装をまとった男女の神を半肉彫りした道祖神である。安曇野や松本市付近の双体道祖神は下大池の道祖神や矢原橋詰の道祖神など若々しい姿の道祖神が多いが、この像は渋い中高年風の顔で、村や観光協会のホームページでは「豆沢のじじばば」道祖神として紹介している。

 男神が女神の親指を握っていることや女神の冠帽や男神の冠の甲など他の道祖神と違う点がいくつか見られる。特に女神の冠帽は変わった模様の角かくし風の冠り物である。男神の冠も巾子の部分がなければ山伏の頭巾(ときん)のように見える。いずれにしてもユニークな道祖神である。観光協会のホームページの写真を見ると、碑の左の端が大きく欠けてしまっている。(この画像は10年以上の前に撮影した写真をスキャンしたものである。)


道祖神50体(20)   上大池の道祖神
長野県東筑摩郡山形村上大地「嘉永5(1852)年」
 高さ145p、幅170p、厚さ63pの菱形の自然石に円を穿ち、肩を抱き合い握手する男女の神を半肉彫りした道祖神である。男神は狩衣、女神が小袿で、共に括袴を着け、いかにも農民の頭領らしい着付であるため村や観光協会のHPでは「大池の頭領」道祖神と紹介している。上大池豆沢の道祖神と同じく老夫婦の趣を持った道祖神である。

 山形村では最大級の大きさで、重さは推定で1.5トンはあろうかと思われます。訪れた時はこの道祖神の石垣の中からS50年掘り出された道祖神が傍らに置かれていたが、あまりにも小さく村の経済力の移り変わりを見るかのようである。向かって左に「大池上郷」の施主名、右に「嘉永五子二月八日」の造立年か刻まれている。


道祖神50体(21)   上竹田唐沢の道祖神
長野県東筑摩郡山形村上竹田唐沢  「弘化2(1845)年」
 高さ100p、幅95p、厚さ40pの三角形の自然石の表面いっぱいに彫りくぼみをつくり、提子(ひさげ)と盃を持った双神を半肉彫りしたものである。提子を持った女神は十二単衣でひざまずきながら男神をじっと見つめている。折烏帽子をつけた神官衣装の男神は女神を引き起こそうとしているかのように手を引いている。男女とも初々しく美しい清楚な姿の像である。この像とよく似た祝言像は山形村上竹田に接する松本市波田地区にも3基あり、この地方の特色ある道祖神である。

 「弘化二巳年(1845年)」の記年銘と「竹田村車屋中」の施主銘がある。唐沢川という川があり水車で精米・製粉をしていた人が造立したものである。村や観光協会のホームページでは「車屋美人」道祖神として紹介している。


道祖神50体(22)   上波田の道祖神
長野県松本市波田上波田  「天保13(1842)年」
 高さ85p、幅60pの細長く下部が厚く上部が板状の自然石の上部いっぱいに円形の彫りくぼみをつくり、提子(ひさげ)と盃を持った双神を半肉彫りしたものである。上竹田唐沢の道祖神とよく似た像で、同一石工の作と考えらる。上竹田唐沢のは互いに向き合うように横を向いているのに対して、この像は男神が正面を向き、女神が体を反らすようにして見上げていてる。上竹田唐沢の道祖神<弘化2年(1845年)の記年銘>より3年前の「天保13(1842)年」の作で、中波田からの嫁入り(道祖神盗み)像である。


道祖神50体(23)   中波田原村の道祖神
長野県松本市波田中波田  「天保15(1844)年」
 松本市波田地区の中波田には上竹田唐沢上波田の道祖神とよく似た像が2基ある。1基は(22)の像が盗まれた後、造立された像で、上竹田唐沢の神と酷似した向き合うように横を向いている祝言跪座像である。そして、もう1基はこの像である。高さ95p、幅85pの自然石に円形の彫りくぼみをつくり、提子(ひさげ)と盃を持った上竹田唐沢の神などの像と同じく若々しい顔の双神を半肉彫りしたものである。ただ、この像だけは両神とも座って盃事する。同じ石工の作と思われる中波田や上竹田唐沢の神より若々しく幼さが残る姿の像である。


道祖神50体(24)   今村の道祖神
長野県松本市大字笹賀今305−1 「寛政元(1789)年」
 松本市の西部、奈良井川と松本空港はさまれた奈良井川西岸の南北約8q、東西2qの細長い地区が笹賀である。その一番南の集落が今である。古い集落で昔の曲がった道が残っている。村の中心の公民館やよろず屋のある辻に今村の道祖神がある。道祖神の後ろは消防団の建物で近くには火の見櫓がある。高さ80pの幅50p、幅35pの上がやや尖った四角柱の自然石に上が凸形になった矩形を浅い彫りくぼみをつくり、左手と右手で正面を向いて握手する二神を浮き彫りにした道祖神である。

 衣装や顔、頭などはそっくりでどちらが男神か女神がわからない。向かって右の神の方がやや背が高く、風折烏帽子を被っているように見えるので右の神が男神と思える。ただ、18世紀の道祖神は僧形で男女が明らかなでないものが多いことや、左の神も頭部が三角なので右が男神と断言できない。笹賀地区で最も古く、右面に「寛政元乙酉年 仲冬吉日」 と紀年銘、左面に並立で「右 松本道」「左 大町道」 とその下に 「今村」と記銘がある。市内で唯一の道標も兼ねた道祖神である。


道祖神50体(25)   永田の道祖神
長野県松本市島立永田  「弘化2(1845)年」
 祝言跪座像の道祖神の中で最も優れた像の一つが、松本市島立の永田の火の見櫓の下にあるこの像である。高さ150pほどの四角形の自然石に円形の彫りくぼみをつくり、提子(ひさげ)と盃を持った双神を半肉彫りしたものである。提子を持った女神は十二単衣で中腰でひざまずきながら男神を見つめている。男神は女神を引き起こそうとしているかのように手を引いている。男神の姿は上竹田唐沢の道祖神などの折烏帽子をつけた神官衣装と違って冠をつけた衣冠束帯姿である。天保8年銘の道祖神が南栗に嫁入りした後、建立された像である。

 島立町区の道祖神とともに松本を代表する化粧(彩色)道祖神である。ただ、この像の彩色は(3)の像と比べると雑で色が濁ったりはみ出たりしている。それももっともなことで、子どもの護り神として毎年二月に、子供たちが化粧しているからである。

 [2月 13 日の夕方、子どもたちが道祖神の前に集まります。上級生は、リヤカーに太鼓をたたく下級生を乗せて、「チャンチャンリース、イオ」と囃しながら、東西南北の町会境まで回ります。直前の土曜日には、道祖神の前に集まって昨年の化粧を拭き取り、みんなが筆で新しく色を塗りました。以前は適齢期の娘さんが顔に化粧を施していたそうです、現在ではお母さんたちが行っているとのこと。少しずつやり方が変わりながらも、次世代に引き継いでいく年中行事です。](平成25年3月30日の松本市公民館報より)


道祖神50体(26)   小室北村の道祖神
長野県松本市梓川梓6813  「文久3(1863)年」
 旧梓川村の小村地区には7基の道祖神がまつられている。その内6基が文久3(1863)年の造立である。その中で3基が文字碑で残りが双体像である。双体像 は、3基とも優れた像であるが、造形・彫法もそれぞれ異なり同一石工の作ではない。その内の一基は文字碑と組み合わせた小室の道祖神である。もう一基は雅な姿の祝言跪座像である。残る一基がこの小室北村の道祖神である。

 高さ90pほどの上がややとがった長円形の自然石に長円の彫りくぼみをつくり、その中いっぱいに瓢と盃を持つ男女の神を半肉彫りした祝言像である。女神は十二単姿で、頭上で髪を束ねてから肩先へ長円形の彫りくぼみに沿って垂らし、男神は冠の纓(えい)も長円形にそって表している。基本的には安曇野によく見られる本村西村の道祖神などとおなじ形式の抱擁祝言像であるが、双神とも長身であることや、薄肉彫りであること、男神の冠の纓が短いことなど少し表現は違う。引き締まった若々しい顔つきの道祖神の秀作である。長円形の彫りくぼみの周りに見事なくずし字で「文久三年癸亥八月 小室北村中」と刻む。


道祖神50体(27)   中塔の道祖神
長野県松本市梓川梓7298  
 小室北村の道祖神などがある旧梓川村小室から県道25号線(山麓線)を北へ西山の山麓を500m進むと旧三郷村小倉(現在、安曇野市三郷小倉)である。その境の集落が旧梓川村中塔である。中塔の集落の南の山麓線からの分かれ道の山の麓にこの道祖神が立っている。

 碑高127pの上がとがった自然石に将棋の形の彫りくぼみをつくり、その中に向き合って抱き合おうとする男女の神を半肉彫りした像である。顔などが摩滅していて表情がわからないが、女神は左足を踏み込み、右足をあげていて、今にも男が見に飛びつきそうな動きのある姿で、男神は立って女神を迎えようとして、お互いに肩に手をかけ、これからしっかりと抱き合おうとしているように見える。男神は烏帽子をかぶっているように見えるが、神官や公家のようには見えず、愛し合う若い農民ようなユニークな道祖神である。


道祖神50体(28)   岩原新屋の道祖神
長野県安曇野市堀金烏川岩原 「文久2(1862)年」 
 旧堀金村の中心地堀金烏川の山沿いの集落が岩原である。岩原には5基の双体道祖神がある。その内の1基がこの岩原の道祖神で、岩原新屋の集落の外れ、県道25号線(山麓線)沿いの三叉路の端に西向きにまつられている。高さ120p、幅90pの石に長矩形の角を切り落とした八角形の彫りくぼみをつくり、その中に瓢(ふくべ)と盃を持つ男女の神を半肉彫りする。安曇野によく見られる、衣冠束帯姿で冠の後から尾のように纓(えい)が垂れた男神と、十二単姿で、頭上で髪を束ねてから肩先へ垂らしている女神の像で、男神の纓と女髪の垂髪が左右対称のようになっている安曇野よく見られる双体道祖神の抱擁祝言像である。

 同じ形式の本村西村の道祖神が顔も面長でこけしのような優美な姿であるのに対して、この像は男女神とも丸顔で、まなじりがやや釣り上がった、おちょぼ口で田舎風の親しみの持てる顔つきで、男神の冠や手や指なども大作りで、田舎風の親しみを感じさせてくれる道祖神である。碑の裏に「文久二年壬戌正月吉日 岩原新屋中」の銘と「当村石師千代吉」の石工名がある。岩原中村にも文久2(1862)年の抱擁祝言像がある。この像は小室北村の道祖神とそっくりで小室北村の道祖神を彫った同じ石工の作と思われる。


道祖神50体(29)   上堀(曲り戸北木戸)の道祖神
長野県安曇野市堀金烏川上堀2060-5 「嘉永2(1849)年」 
 旧堀金村の堀金烏川上堀の堀金中学校の西に「曲がり戸(まがりっと)」と呼ばれる集落があり、そこには道祖神や二十三夜塔などがまつられた屋根と柵のある立派な屋形が二つある。一つは古い道祖神と思われる2個のかけた石とりっばな文字碑の道祖神がまつられている「曲り戸南木戸」の屋形で、もう一つはこの道祖神と二十三夜塔と庚申塔がある「曲り戸北木戸」の屋形である。

 道祖神は屋形の左端にあり、高さ90p、幅100pの花崗岩の自然石に円形の彫りくぼみを穿ち、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りする。男神の巾子と纓、女神の髪の束ねた髪と垂らした髪が左右対称のようになっている安曇野の典型的な双体道祖神である。お互いにやや内側に向いて手を取り合って、手を握るというより重ね合わせている。重ねた手や肩にかけた手の指もしっかりと彫り分けている。「嘉永二酉年正月吉祥日 上堀北村中」と彫りくぼめた円の周りを飾るようにくずし字で刻まれている。


道祖神50体(30)   中堀の道祖神
長野県安曇野市堀金烏川中堀 「嘉永2(1849)年」 
 中堀の集落は県道321号線(豊科楡線)にそって南北に形成されていて、集落の真ん中を江戸時代後期に開削された用水路、拾ヶ堰(じっかせぎ)が東西に流れている。その拾ヶ堰沿いに中堀公民館があり、そこから150m、南へ行った三叉路の角の亀甲形の石をきれいに積んだ基壇の上に、文字碑の道祖神と共にこの中堀の道祖神はまつられている。

 高さ120p、幅57pの高山の峰ように上がとがった花崗岩の自然石に円形の彫りくぼみを穿ち、中に衣冠束帯姿と十二単姿の杯と瓢を持った男女の神を半肉彫りする。二神は互いにやや内側に向かい肩を組み合っている。男神の巾子(こじ)は大きく、腰のあたりで裾はねあがっていて、足元には浅沓(あさぐつ)の先崎が見えている。女神は頭上で高く束ね、腰あたりまで波打つように垂らしている。二神はともにやや耳たぶの先かとがっていて、細面で端正な顔立ちである。

 円の外回りには「嘉永二酉年 正月吉祥日 中堀村連中」の銘が、縁を飾るように記されている。ここから1qほど西にある本村西村の道祖神やその近くの神代文字の碑の隣にある本村の道祖神とよく似ていて、これらの道祖神群は安曇野を代表するにふさわしい。訪れた時は八月のこの木戸の祭りの日の朝で、提灯が飾られていて、子供たちも集まっていた。
 


道祖神50体(31)   中堀中村の道祖神
長野県安曇野市堀金烏川中堀 「天保4(1832)年」 
 中堀の道祖神から300mほど離れた拾ヶ堰(じっかせぎ)沿いの自転車道の横に、立派な亀甲形石の石積みの基壇上に中堀中村の道祖神が拾ヶ堰に向かって南向きにまつられている。高さ80p、幅80pの花崗岩の中央に52pの円を穿って、その中に祝言像の双体道祖神を半肉彫りしている。安曇野市では珍しい女神が跪座の像である。ただ、松本市(旧波田町や梓川村を含む)によく見られる祝言跪座像とは少し違っている。

 男神は烏帽子かぶった直衣姿と思えるが、烏帽子はロシアの人がかぶる毛皮の帽子のように見え、衣もかなりだぶついた感じて直衣のようには見えない。左手で盃を無造作に持ち、右手で女神の手を取るが袖で隠れている。女神は膝をそろえて座り、左手に松本市の祝言跪座像とは違って提子ではなく瓢を持っている。「天保四巳正月 中堀中村中」の銘がある。


道祖神50体(32)   本村の道祖神
長野県安曇野市豊科本村1908 「弘化3(1846)年」 
 JR南豊科駅の西にある集落、本村(ほんむら)には本村西村の道祖神以外にもう一基優れた道祖神がある。火の見櫓や公民館(本村区コミュニティセンター)のある三叉路の角、大日堂前の石組みの基壇の上に大きな道祖神文字碑や庚申塔などと共にまつられている。本村西村の道祖神と同じ「弘化3(1846)年」の紀年銘かある。高さ117p、幅130pのおにぎりの形をした自然石に深く円形の彫りくぼみをつくりその中に中に衣冠束帯姿と十二単姿の杯と瓢を持った男女の神を厚めに半肉彫りする。

 男神は衣冠束帯姿で冠は甲の部分が小さくて巾子(こじ)が大きい、垂れた纓は幅広の薙刀のような形である。裾(きょ)は大きく円を描いて後に跳ね上げている。やや内側に向いて右手を女神の肩に回し、内側に向いて左手で杯を持つ。女神は髪を頭の上で高く束ねて、後ろに腰のあたりまで垂らしている。女神も内側に向いて、左手を男神の肩に回し、右手で大きな瓢を持つ。本村西村とほぼ同じ形式の道祖神であるが、男神の簪か陽刻ではなく線彫りで、面長の顔というより卵形の顔である。「弘化三午年正月吉日 本村 帯代十五両」の銘がある。

 この隣に丸や縦横斜めの線を刻んだ碑があり、現在はこの碑だけ碑を囲むように屋形が作られている。この碑は「神代文字碑」として安曇野市指定有形文化財となっている。訪れた時は合併前で豊科町指定文化財となっていた。説明板には下記のように書かれていた。 

 「神代文字(じんだいもじ)の一つ「阿比留文字」で、ヤチマタヒコノカミ (※八衢彦または比古神)ヤチマタヒメノカミ (※八衢姫神)クナトノカミ と、三柱の神を刻んだ碑である。もともと屋敷神としてあったもので、平田国学の影響下、江戸時代末に造立されたものと考えられる。その後、現在地にに移転してから、「本村中」の文字が加えられ、道祖神として祀られている。俗間(ぞくけん)の目に触れぬ文字が刻まれ、しかも信仰されているという貴重な民俗資料である。」  


道祖神50体(33)・(34)   柏原倉平の道祖神
長野県安曇野市穂高柏原1944 「安政5(1858)年」・「安政2(1855)年」 
酒器像「安政5(1858)年」 握手像「安政2(1855)年」 
握手像「安政2(1855)年」
 JR柏矢駅の西にある集落が旧穂高町の柏原である。この地は本村西村本村の道祖神上堀中堀の道祖神のある旧豊科町や堀金村と接していて、これらの道祖神と同じ様式の道祖神が4基ある。その内の2基が柏原倉平に並んでまつられている。日吉神社の東へ280m行った倉平集会所の道を挟んだ民家の生垣とブロック塀の前に道祖神祭祀場があり、石積みの基壇の上に2基の道祖神が東向きに並べられている。

 向かって左の1基は中堀の道祖神と同じような山の形をした花崗岩(高100p、幅80p)に円形を穿ち、その中に衣冠束帯姿と十二単姿の杯と瓢を持った男女の神を半肉彫りしたものである。円形の周りに「安政五午年 三月吉祥日 上蔵平中」の銘が、縁を飾るように記されている。向かって右の1基は、高さ、幅とも85pの丸い形の花崗岩に円形を穿ち、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りする。左の像や中堀の道祖神の祝言像と違うが、男神の巾子と纓、女神の髪の束ねた髪と垂らした髪が左右対称のようになっている所は同じで、安曇野の典型的な双体道祖神である。「安政二卯年正月吉祥日 下蔵中」と流暢な文字が、中の二神を飾るように円形に囲んでい。

 2基の道祖神の前には石柱が二本立っているが、これは一月に行われる道祖神の御柱祭りの若竹や白扇、俵、御幣、五色の髪などを飾った御柱を立てるときに結わえ付けられたそうである。現在、この2基の道祖神の基壇は新しい石積みになり、柵のある屋形が設けられている。


道祖神50体(35)   柏原中下の道祖神
長野県安曇野市穂高柏原745 「天保13(1842)年」
 JR柏矢駅の南西650mほどにある中下(なかしも)集会所の近くの四つ辻の角の民家の生け垣の前にまつられている。昔は柵と屋根のある屋形にあったのだか、今はコンクリート製の基壇の上に置かれている。高さ125p、幅130pの先が山頂のように尖ったおにぎり状の花崗岩に円形を穿ち、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りしたもので、男神の巾子と纓、女神の髪の束ねた髪と垂らした髪が左右対称のようになっている。

 男神の垂れた纓は幅広の薙刀のような形で、腰のあたりで衣の裾はねあげて動感を持たせ、袴の下から沓の先端が見えている。女神は髪の生え際が富士額の美人で、髪を頭上で太い紐で束ね、豊かな髪を腰のあたりまで垂らしている。二神はひきしまった穏やかな容貌で、柏原にある4基の同じ様式の道祖神では最も整った美しい像である。また、今まで紹介した同じ様式の道祖神の中では最も古い天保13(1842)年の紀年銘を持つ。円形の彫りくぼみの周りに「天保十三年 寅正月吉日 中下中」と行書で飾るような彫られていて、頂には「柏」の文字が入れられた紋所がついている。訪れた時は記銘には黒で紋章は赤で墨入れがされていた。 


道祖神50体(36)   本郷中村の道祖神
長野県安曇野市穂高6460 「天保4(1833)年」 
 穂高駅前の交差点から南へ向かい大糸線の踏切をわたり県道432号線を450mほど西へ向かうと三叉路の角に火の見櫓ある。火の見櫓の近くに消防団の建物があり、その隣の民家の前に二十三夜塔とともにこの道祖神がまつられている。旧穂高町には矢原橋詰の道祖神など彩色道祖神など多くあり、この道祖神もよくネットで紹介されている。

 高さ137p、幅100pの将棋の駒のような形の石に鳥居を板状に鳥居を陽刻し、鳥居の下を彫りくぼめて、中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りする。男神は冠をかぶり、正面を向いて、右手で女神の肩に手を添え、左手で女神の手をとる。女神は内側を向いて男神の顔を見つめ、髪は上で束ねず、垂髪を横に長く流している。「天保四巳年 貝梅中」と刻まれていて、1.2qほど離れた貝梅村から持ってこられたものである。

 訪れた時は男神の彩色は束帯と沓が群青、襟元や袖から見える単(ひとえ)は赤、袴は水色で、女神の唐衣は橙色で、赤い打衣の下に見える裾も白・桃色と見事に塗り分けていた。白塗りの顔も黒で眉や目、赤で口も丁寧に描かれていた。穂高神社の御遷宮の祭りに飾られる人形をつくる人形師の手によって彩色されたそうである。(ネットで調べるて見ると2016年3月時には素人の手による彩色になっていた。)


道祖神50体(37)   本郷上手村の道祖神
長野県安曇野市穂高6868−3 「寛政元(1789)年」
 本郷中村の道祖神の西北西0.3mの道路沿いの農地の一角に、基台をコンクリートでかためて祭壇をつくり、ブロックで囲った中に、恵比寿像、大黒天像と並んでまつられている。3基とも円形もしくはおにぎりの形の自然石に円形を穿ち、各像を半肉彫りしたもので3基とも青・赤・黒・白を中心に色が塗られている。彩色されていることと背景に北アルプスの山々が見えるのでよく撮影スポットとなっている道祖神でもある(撮影後、後ろに住宅が建ったため、アルプスは半分隠れてしまった)。

 向かって右端にある道祖神は高さ80p、幅85pのおにぎりの形をした石に円形を穿ち、中に肩を組み握手する男女の神を半肉彫りしたものである。5頭身で道祖神してはスマートな像である。厚く化粧しているため彫りの冴えはわからないが、気品のある像である。右肩から「安政五午年」、左肩へ「三月吉祥日」と紀年銘を刻み、下に「上手村中」の銘がある。

 
道祖神50体(38)   神田町北の道祖神
長野県安曇野市穂高2579-7 「天保12(1841)年」 
 JR穂高駅や穂高神社・安曇野市役所穂高支所などの西、国道147号線と平行して南北に続く旧道(県道309号線)沿いの町が神田町である。町村合併によって神田町という名は正式町名から消え、簡易郵便局の名前などに残るぐらいである。その神田町には2体の彩色道祖神があった(グークールアースで見ると現在は彩色は行われていない)。その内の1基は簡易郵便局の筋向かいにある神田町南の田の神である。この像は後で紹介する耳塚の道祖神と同じ石工の作で、訪れた時は男女二神とも衣装は青、顔は肌色、瓢は白に丁寧に色づけされていた。

 もう1基は国道147線沿いの処方箋薬局の建物の裏の路地沿いのあるこの神田町北の田の神である。赤松が枝ぶりよく上から傘のようにさしかけている。高さ95p、幅80pのおにぎりの形の自然石に矩形の彫りくぼみをつくり、肩を組み合い手をとる男女の神を半肉彫りしたものである。矩形の上には菊の花と葉をあしらった唐破風形の神殿の屋根を刻んでいる。女神は髪を上で束ねて、垂髪は体から離れて流し、やや首を傾けて男神をみつめていて、右腕をひねって、親指を上にして男神の手をとっている。男神の冠は柏原中下の道祖神などと違って甲の部分が大きく、巾子(こじ)が小さく、纓(えい)も小さい。これからフォークダンスのオクラホマミキサーを始めるかのような二神のかまえである。

 訪れた時の彩色の色は神殿の柱と男神の衣装は青、女神の衣装はピンク、神殿の菊の花は黄、男神の袴と冠の紐、女神の帯は緑とカラフルに色づけされていた。「天保十二辛丑閏正月 等々力村新町中」の記銘がある。穂高地区の文化文政年間(1084〜1829)の道祖神は神殿や鳥居の中に入った握手像がほとんどで、この道祖神や等々力西村本郷中村の道祖神など天保年間(1830〜)から安政年間(〜1859)の像にも見られ地域的な特色となっている。


 
道祖神50体(39)   久保田の道祖神
長野県安曇野市穂高柏原2944 「天保12(1841)年」 
 穂高柏原の久保田の集落の村の外れの三叉路に、久保田の道祖神が二十三夜塔や道祖神文字碑とともに立派な屋形に祀られている。高さ120p、幅130pの丸い自然石に矩形の彫りくぼみをつくり、神田町北の道祖神と同じく菊の花をあしらった唐破風形の神殿の屋根を設け、肩を組み合い手をとる像である。女神の垂髪は頭上で結わいていないように見えるが、上に伸ばしてから垂らし、右手をそっと男神に向かってさし出している。冠をかぶった束帯姿の男神が左で女神の差し出した手を上から握っている。彩色は補色に近い黄色と青そして白、黒で、色合いはもう一つである。「天保十二年丑正月吉日 久保田村中」の銘がある。


   
道祖神50体(40)   等々力の土蔵わきの道祖神
長野県安曇野市穂高2919 「天保10(1839)年」 
 安曇野によく見られる、衣冠束帯姿で冠の巾子(こじ)が大きく、後から尾のように纓(えい)が垂れた男神と、十二単姿で、頭上で髪を束ねてから肩先へ垂らしている女神の像で、男神の巾子と垂れた纓、女髪の束ねた髪と垂髪が左右対称のようになっている道祖神は、天保年間からよく見られるようになる。それらの道祖神は、等々力西村の道祖神のような矩形の彫り窪みをつくり、その上に唐破風などの屋根を設け神殿とし、その中に男女の神を半肉彫りする像と、柏原中下の道祖神のように円形の彫りくぼみの中に男女の神を半肉彫りする像に分けられる。神殿の中に男女の神を半肉彫りする像で私が見たなかで最も古いのがこの等々力のこの道祖神である。

 この道祖神は白壁土蔵の家など歴史の重みを感じさせる集落の三叉路の角の民家の生け垣の前にある石積みの基壇の上に月待塔と大黒天の文字碑と共に安置されている。背景に白壁土蔵を入れて道祖神を撮ることができるのため、絶好の撮影ポイントにもなっている。高80p、幅65pの花崗岩の自然石に上部に菊の花を彫り込んだ花頭窓風の彫りくぼみをつくり、その中に衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神を半肉彫りしている。

 女神の像高は40p、男神は41pで頭部は大きく3頭身と言ってもよいほどである。丸顔で鼻が大きいが、上品な顔で印象に残る。握り合っている女神の手は、手のひらが合うようにひねって親指が下にきている。様式的には男神の巾子と垂れた纓、女髪の束ねた髪と垂髪が左右対称のようになっている道祖神であるが、男神の冠の纓は見当たらない。冠の巾子は大きいが形は丸く、簪は上に蕨のように曲がっている。「天保十己亥年正月吉日 仲間中」の銘がある。等々力西村の道祖神や旧豊科町の細菅の道祖神と共に、安曇野の天保期を代表する田の神である。


 
道祖神50体(41)   等々力の明治時代の道祖神
長野県安曇野市穂高2831 「明治18(1885)年」 
 等々力にはもう1基、神殿を設けた優れた道祖神がある。等々力の土蔵わきの道祖神の一つ北の辻の民家の生け垣の前にある道祖神である。石積みの基壇の上に大黒天と月待塔の文字碑と並んで道祖神が立っている。この像も土蔵わきの道祖神と同じく唐破風屋根を設けた神殿に収まった衣冠束帯姿と十二単姿の肩を抱き合い、握手する男女二神の半肉彫り像である。やや細長い矩形の彫り込みで上部には見事な菊の花が彫り込まれている。男女の神はお互いにやや内側を向いて眺め会い肩を組んで、男神が女神の手をしっかりと包み込むように握っている。

 「明治十八年乙酉八月建之等々力方耕地仲間中 帯代金五拾円」の銘があり、明治時代の建立である。土蔵わきの道祖神や等々力西村の道祖神などの安曇野の道祖神の伝統を受け継いで彫られたものであるが、やや面長の男女の神の顔は近代的な容貌で、模倣ではなく、石工の腕の確かさ、造形力がうかがえる。明治時代の道祖神の秀作である。


道祖神50体(42)   水色の時道祖神
長野県安曇野市穂高等々力 「昭和50(1975)年」 
 ネットで「安曇野 道祖神」と画像検索すると一番よくででくるのが、この「水色の時道祖神」と安曇野市堀金鳥川扇町の「常念道祖神」である。共に常念岳を背景に美しい写真が撮れることから多くのカメラマンが集まる撮影スポットとなっている。道祖神はともに現代の道祖神である。「常念道祖神」は地元の写真家が1991年に地元の同意を得て桜の植樹と共に設置したもので、風景はすばらしいが、道祖神自体には魅力を感じない。それに対して水色の時道祖神は須藤賢という彫刻家の個性と創造力が生きた魅力的な道祖神である。

 水色の時道祖神は大王わさび園の北西、早春賦の碑のある穂高川沿いの早春賦歌碑公園へ向かう途中の小さな川の橋を渡った川沿いに(わさび園から900m)ある。舟形の石のいっぱいに肩を抱き手をとる男女の神を厚肉彫りしたものであるが、既存の道祖神とは全く違った姿である。女神の髪は双髻で男神は単髻(または烏帽子をかぶっている?)で、体をしっかりつけ会い、男神は右手を肩から回して女神の胸あたりに当て、女神は男神の腰に左手をまわし、左手と右手で手を握り合っている。女神も男神も目を細めて微笑んでいて、まるで恋愛中の若い恋人同士のように見える。となりには「残菊」と名付けた同じような姿の少し小さく幼い顔の道祖神も置かれている。

 作者の須藤賢(1904〜1998年)は戦前、満州の華北鉄道につとめ、戦後は立命館大学や新潟大学で人文地理学の教授として、また写真家として活躍。63歳の時、愛娘を亡くし、これを契機に第一作、半跏思惟の伎芸天像を制作し「さゆり地蔵」と名付け、その後1400体以上の石仏を制作。須藤賢の石仏は交流のあった瀬戸内寂聴の寂庵や須藤賢の菩提寺の栃木県さくら市の龍光寺などに残っている。須藤賢は「私の石仏は、つくりはじめた頃からどれも微笑しています。彫っているうちにほゝえんだ石仏が生まれてしまい、彫ればほゝえみの石仏になってしまうのです」と生前語っている。須藤賢の石仏の原点は戦前に見た雲崗石窟で、特に第七窟主室の南壁の供養六天像には深い感動を受けたそうである。

 水色の時道祖神という名前は昭和50年のNHKの朝の連続ドラマ「水色の時」のために、つくられたことに由来する。「水色の時」は安曇野が舞台として設定されたドラマで大竹しのぶ・篠田三郎が主演した。碑陰の撰文には次のように書かれている。

 『「水色の時」道祖神 昭和五十年(1975)NHK放映のテレビドラマ「水色の時」に登場し、全国の視聴者の心を魅了した道祖神である。彫像者須藤賢氏の厚志をけ、ドラマの舞台となった松本市の西北詩情豊かにして日本人の心のふるさとを思わせる安曇野のアルプスを背にしたれんげ花咲く穂高の里にこの像を安置し、諸願成就を念じ、素朴なたたずまいを後世に伝えんとするものである。
 昭和五十四年五月吉辰 寄贈 信濃金石拓本研究会・穂高町拓友会』


道祖神50体(43)   等々力町の道祖神
長野県安曇野市穂高4557
 等々力町は穂高駅から国道147号線へ向かう駅前通の北の町が等々力町で、神田町から続く旧街道沿いの町である。その街道沿いの喫茶店と雑貨・土産物店を兼ねた「あづみ野バザール若松屋」の東の小路に等々力町区公民館がある。その公民館の裏側近くのコンクリートの塀の陰に隠れるように2基の道祖神がある。向かって左の像は半円の花崗岩に彫った祝言像で「天保八年」の紀年銘がある。

 右の像がこの道祖神である。高さ88p、幅55pの上が丸くなった矩形花崗岩に上が花頭窓風になった矩形を穿ち、像高43pの衣冠束帯姿の男神と像高38pの十二単姿の女神が肩をよせてそっと手を取り合っている姿を半肉彫りした双体道祖神である。男神の冠の垂れた纓と女神の垂髪が見あたらない。記銘がなく中区の上には線彫りの鳥居がある。慎ましく暮らす若い公家と言った趣の道祖神である。


 
道祖神50体(44)   耳塚香取神社の道祖神
長野県安曇野市穂高有明118-イ 「明治18(1879)年」 
 耳塚の氏神の香取神社の拝殿前の広場北側に大黒天、恵比寿天、文政10(1827)年造立と明治18(1879)年造立の道祖神が屋形の屋根の下に並んでいる。明治18(1879)年造立の道祖神は高さ、幅とも100pの丸い自然石に円を穿ち、像高53pの衣冠姿の男神と、像高50pの十二単姿の女神が肩を組み合い手を握る姿を半肉彫りする。

 重なり合う十二単の襟周りや裾や男神の衣紋、冠の紐など写実的に丁寧に彫っていて、顔は共に卵形で鼻筋の通った端正な容貌である。等々力の明治時代の道祖神と同じく安曇野の道祖神の伝統を受け継いで彫られたものであるが、この像のほうがより近代的な雰囲気がある。香取神社の道祖神はすべて耳塚公民館から移されたものである。「明治十二年十一月吉辰 本郷中」の紀年銘がある。


 
道祖神50体(45)   耳塚上木戸の道祖神
長野県安曇野市穂高有明2760-1 「元治2(1865)年」 
 香取神社の西200mの三つ辻に小さな屋形があって、耳塚上木戸の道祖神がまつられている。高さ63p幅80pのおにぎり形の自然石に円形を穿ち、中に肩を組んだ、瓢を持った十二単姿の女神と盃を持った衣冠束帯姿の男神を半肉彫りした祝言像である。女神は鴨の首をわしづかみにしたように大きな瓢を握りしめ御神酒を男神の盃に注ごうとしている。二神とも口をややとがらしたエラの張った顔でいかにも庶民の神といった趣である。

 「元治二乙丑三月十六日 帯代金二十五円」と裏に彫られ、表の円の周りには「みみつかむら かみきど中」とかなでがざるように刻んでいる。この像とそっくりな道祖神はともに「慶応二(1865)年」の紀年銘のある耳塚の下木戸と穂高神田町南の道祖神と同一石工の作と思われる。


 
道祖神50体(46)   島新田の道祖神
長野県安曇野市穂高北穂高 
 JR大糸線「追分」駅の西に市営の集合住宅、追分団地があり、その団地の北の外れから120pの農道脇のU字溝の脇に、島新田の道祖神がぽっんと東向きに佇んでいる(訪れた時は追分団地もなく、まったくの水田地帯であった)。高75p幅60p厚さ45pの先の尖った花崗岩の自然石に凸形の彫りくぼみをつくり、肩を抱き合い手をとるあどけない像高32pほどの男女の神を浅く半肉彫りする。

 二神は顔を左右にやや傾けてそっと見合っているが、ちょっと見ただけではどちらが男神かわからない。向かって左の神は特に幼く雅な顔をしている。一般的に向かって左の神が女神であるが、衣装は衣冠束帯の袍(ほう)で被っているのは風折烏帽子に見えるので男神と考えられる。右の神は襟があわせで着物と思えるので女神と考えられる。小首を少し傾けて頬よせ、そっと手を男神の手にのせている。女神のかぶり物はティァラノのようにも見え、その上に蝶の触覚のようなものがのっていて、女神は西洋の妖精のようにも見える。


道祖神50体(47)   古厩新知の道祖神
長野県安曇野市穂高有明7099
 古厩(ふるまや)と言う地名は古代の駅屋(うまや)に由来し、戦国時代、仁科氏の支族とされる古厩氏が、古代からの集落を受け継いで郷町をつくった。その古厩氏の城があった場所が古厩新知の正真院という寺院である。古厩氏が天正11(1583)年に滅ぶ。古厩新知は江戸時代、正真院がおかれたあと開かれた村である。正真院はかつてご朱印寺として威容を誇っていたという。明治の廃仏棄釈によって正真院は廃寺となり、その後再建された。平成になって本堂など諸堂が新築されている。道に面した山門も立派なコンクリート製の建物である。その門から南へ80m行った、民家の外れに南向きの屋形があり古厩新知の道祖神と大黒天像がまつられている。

 道祖神は、高さ幅とも70p、厚さ30pの花崗閃緑岩の自然石に、45pの円を穿って、十二単姿と衣冠束帯姿で瓢と盃を持つ祝言像を半肉彫りする。女神は小柄で像高30p、垂髪は頭上で束ねず、そのまま後ろに流している。男神の冠は安曇野典型的な道祖神と同じように巾子(こじ)は大きい、しかし纓は幅広の薙刀のような形ではなく細く折り曲がった形である。男神の衣の緒は装飾的な結び片である。足の下にも背景にも瑞雲がたなびいている。顔は男女とも卵のような形で、細めた目をしていて、気の弱そうな公家のように見える。「嘉永四亥年九月吉日 古厩新知中」の銘がある。普通は屋形に柵を設けた場合でも、碑全体が見えるようになっているのだか、この屋形は柵の上に横板を追加しているため像全体は写せなかった。


道祖神50体(48)   塔の原中耕地の道祖神
長野県安曇野市明科中川手1655  「元治2(1865)年」
 大王わさび園の犀川を挟んだ東の集落が旧明科町の塔の原である。この集落にはふくよかな姿の道祖神が2基ある。1基は国道沿いの町の公民館の入り口にある万延元(1865)年の造立のもので男神は豊かな頬で耳が大きくまるで大黒天のように見え、拝めばお金が貯まりそうな神様である。あと1基は塔の原の中耕地の辻にある道祖神で、辻の角に石を積んでコンクリートで固めた大黒天や庚申塔・馬頭観音などの石仏の並べられたL字形の基壇の左端にある。

 高95p、幅95pのおにぎり形の自然石に上部が丸い矩形の彫りくぼみをつくり、その中に衣冠束帯姿の男神と十二単姿の女神が肩を組み合い手を握る姿を半肉彫りすしたもので、体型や顔の形は公民館の万延元(1865)年の道祖神とよく似ている。しかし、顔つきは全く違って、男神は鼻が大きく威厳のあるやや鋭い目つきである。女神は公民館の道祖神の庶民的な顔に比べると品のある顔立ちである。「明治六酉年八月吉旦 塔原中耕地 帯代百円」の銘がある。


道祖神50体(49)   森の道祖神
長野県大町市平10510  「安政6(1859)年」
 木崎湖の南の湖畔の集落、森は温泉施設や温泉民宿・ペンションなどが集まった地区であるが、訪れた時は人の数も少なく静かな昔の村の雰囲気が残っていた。その森の集落の北の端の辻に森の道祖神は立っていた。高さ80p、幅70p、厚さ30pの自然石に将棋の形を穿ち、上の尖った部分に菊の花を彫りだし破風屋根として、中に頬を寄せてぴったりと寄り添い、握手する男女の神を半肉彫りする。男神は下ぶくれの顔で、女神は丸顔で共に庶民的な顔立ちである。手や腕の部分が欠けているのが惜しい。このような神殿に収まった頬をつくように寄り添う双体道祖神は大町市や北安曇郡の北安曇でよく見かける道祖神である。


道祖神50体(50)   白馬グリーンスポーツの森の道祖神
長野県北安曇郡白馬村北城265  「安政6(1859)年」
 キャンプ場や民俗資料館・テニスコート・体験教室・アスレチックなどがある姫川沿いの「白馬グリーンスポーツの森」の森の中にある道祖神である。元はここから北東14qの山中の菅入という現在廃村状態の集落にあった道祖神である(現在でもなお6〜7棟の見事な茅葺き屋根の民家が残る。貸別荘業者のグリーンバレー白馬がそのうちの1軒を「いろりの宿」として1日1組限定で貸し出している)

 高さ65p、幅50pの自然石に上部に破風風の神殿の屋根を設けた矩形を穿ち中に瓢を持った女神と盃を持った男神を半肉彫りした祝言像である。衣服は十二単や衣冠束帯ではなくともに腰紐をつけた着物のようなものを着ていて、肩に飾りのようなものあてている。女神は孫悟空のつけている金輪のようなものを頭に付け、頭上で髪を束ねてから肩先へ垂らし髪先も紐で止めている。男神の頭には半円形の飾りのようなものが乗っている(風折烏帽子には見えない)。

 祝言像は肩を組むのが一般的であるがこの像は腰付近で仲良く手を握っている。足は沓などははかず、男女とも裸足である。破風屋根の上の鬼瓦の部分にも建物が設けられ中に菊の紋がある。細部まで丁寧に彫られた、この地方の道祖神では最も優れた像の一つである。