Photo Gallery「石仏と野鳥」新版  2023年5月 
 
4月 6月



令和5年5月31日撮影 近くの水田地帯にて
オオヨシキリ
 近くの水田地帯に行きました。休耕田の草原や麦畑で見られるセッカや、水の張った水田などで見られるコチドリ・アマサギなどねらいだったのですが、去年セッカを撮った麦畑や休耕田の草原はなくなり、水田の水張りはまだおこなわれていないため、これらの鳥は撮影できませんでした。撮影できたのは遠く離れた竹藪の若竹の上で鳴いていたオオヨシキリだけでした。撮影した時は鳴き止んでいました。



令和5年5月27日撮影 地元にて
チョウゲンボウ
山の上の公園でブラシノキのメジロを捕った後、昨日2羽が巣立ったチョウゲンボウの営巣地に行きました。
換気孔を覗いて見ると1羽の雛が顔を出していました。しばらく待ったのですが1羽しか姿を見せませんでした。
巣立った幼鳥を探して見ると、建物の屋上に1羽の幼鳥がいました。
 やがて幼鳥は屋上から飛び去りました。この後、しばらく親鳥や他の巣立った幼鳥が姿を見せないかと待機したのですが、換気孔の入口にいる1羽の雛以外は見ることができませんでした。所用があってそれ以上待つことができなかったので、3羽目の雛が巣立ったかどうかわかりませんでした。



令和5年5月26日撮影 地元にて
チョウゲンボウ
21日から4日間連続してチョウゲンボウ親子を撮影した後、1日おいてのチョウゲンボウの撮影です。
 巣のある換気孔を覗く前に、換気孔のある建物の隣の屋上にいるチョウゲンボウが目にとまりました。チョウゲンボウの雌の親鳥です。カナヘビを咥えていました。
屋上から飛び出し換気孔の雛に獲物のカナヘビを運ぶのを期待したのですが、飛び出さず屋上のどこかに隠れてしまいました。
換気孔を覗いて見ると2羽の雛が顔を出していました。
顔を出す雛が1羽の時もありました。
 換気孔のある建物の屋上にチョウゲンボウがいるのを見つけました。親鳥と思ったのですが、よく見ると幼鳥です。巣立ちした雛のようです。
隣の建物の屋上を見てみると2羽のチョウゲンボウがいました。1羽はカナヘビを咥えていた雌の親鳥です。
もう1羽は幼鳥でした。巣立った雛は2羽だったようです。
もう一度換気孔を覗いてみると、2羽の雛がいました。換気孔の雛は3羽しか写したことがありませんでしたが4羽だったようです。



令和5年5月27日撮影 地元の山の上の公園にて
ブラシノキとメジロ
 キビタキなど夏鳥を撮りたいと思って久しぶりの公園の桜園に行ったのですが、ヤマガラやシジュウカラしか撮れませんでした。公園の小さな池と東屋のある場所で赤い花が目立つ木を見つけました。近づいて見ると花は瓶を洗うブラシに似た赤い花でした。ブラシノキです。ブラシノキはテレビでは見たことがあるのですが実物を見たのは初めてでした。
ブラシノキを撮影して帰るつもりだったのですが、メジロがいるのを見つけました。



令和5年5月25日撮影 隣町の山にて
キビタキ・コシアカツバメ
 この2週間、山へ行けば必ずといってよいほどキビタキの声は聞くのですが、なかなか姿を見ることができません。たまに姿を見てもピントを合わせているうちに飛び去ったりして撮影できませんでした。この日ようやくひさしぶりにキビタキを撮ることができました。2分ほど近くの枝にとまって鳴いていてシャッターを何回も切ることができました。
 キビタキを撮影した後、コシアカツバメの営巣地に行きました。毎年、多くのコシアカツバメが渡ってきて子育てをします。今は巣作りをしているようです。



令和5年5月22日撮影 地元にて
チョウゲンボウ
前日と同じく3羽の雛が換気孔の入り口に姿を見せました。
 しばらくすると雛たちが鳴き始め、前日と同じく隣の施設の屋上にチョウゲンボウの雌がやって来ました。親も大きく口を開けて隣の施設の換気孔を向いて鳴いていました。
チョウゲンボウ♀は正面から横に向きを変えましたが相変わらず口を開けて鳴いています。
チョウゲンボウ♀が向いた先には雄のチョウゲンボウがいるようです。
チョウゲンボウ♀が雄の方に向かって飛び立ちました。
飛び立った雌と雄が接触しかかったのですがすぐに2羽は離れて元の位置に戻りました。元の位置に戻ったチョウゲンボウ♂です。
元の位置に戻った雌です。まだ口を開けていました。
雄は飛び去り、雌は屋上においていたと思われる鳥と思われる獲物に食らいついています。
 雌は食らいついているように見えたムクドリぐらいの大きさの鳥を咥え持ち上げました。食らいつくのではなく、雛にあげるため羽をむしっていたのかもしれません。実際、この後すぐに施設の屋上から飛び出し獲物をくわえて雛のいる換気孔に入りました。残念ながら飛んでいる所の写真はピンボケでした。また、換気孔の出入りの場面も撮れませんでした。換気孔から親が下腹を出して糞をする場面は撮れましたが?。



令和5年5月23日撮影 地元にて
チョウゲンボウ
 3日間続けてチョウゲンボウ親子を撮影しました。この日は雛が顔を出している換気孔の前で待ち構えて、親のチョウゲンボウの換気孔の出入りを撮影できました。
換気孔を覗いて見ると2羽の雛が見られました。
やがてもう1羽が姿を見せ雛は3羽になりました。
突然、親のチョウゲンボウが換気孔に飛び込んで来ました。換気孔の入口にとまって雛に餌をあたえました。
しばらくすると換気孔から飛び出しました。
親が飛び去った後、10分ほどしてまた親が戻ってきました。
数分して、親鳥は巣から飛び出しました。



令和5年5月24日撮影 地元にて
チョウゲンボウ
24日もチョウゲンボウ親子を撮影しました。
換気孔を覗いて見ると3羽の雛が見られました。
親鳥♀は隣の施設の屋上にいました。いつも捕らえた獲物を屋上に持ってきて、そこから飛び出し換気孔の雛に獲物を運びます。
親鳥が換気孔の入口にとまって、雛に餌をあたえます。この日は換気孔を出入りする親鳥は撮影できませんでした。
親鳥が換気孔から飛び去った後、雛の1羽が換気孔の中で羽ばたきました。巣立ちが近づいているようです。
親鳥は2回、巣のある換気孔に飛び込んだ後、隣の施設の屋上にしばらくいて、やがて餌をとりに屋上から飛び立ちました。



令和5年5月23日 県内の山にて
シロハラホオジロ
 この冬、県内の山で撮影したシロハラホオジロです。初め見つけた時はホオジロと思ったのですが、家へ帰って見直して見ると頂頭部は褐色でなく白い頭央線と黒い側頭線で、腹も赤褐色ではなく薄い褐色で白い部分もあり、ホオジロではなさそうです。

 図鑑て調べてみると、耳羽後方の白い斑点などからシロハラホオジロであることがわかりました。シロハラホオジロは図鑑によると数少ない旅鳥で、日本海側の小島での記録が多いそうです。県内で見たというのは聞いたことがありません。



令和5年5月21日 地元にて
チョウゲンボウ
地元の毎年チョウゲンボウが子育てをする施設に行きました。施設の換気孔に巣を作ります。3羽の雛が換気孔の入り口に姿を見せました。
 換気孔から顔を出したチョウゲンボウ雛を撮った後、親が雛に給餌するのを待ち構えていたのですが、1時間経っても親は現れません。あきらめて帰ろうとした時にチョウゲンボウの鳴き声が聞こえて、隣の施設の屋上にチョウゲンボウの雌がとまりました。大きなカナヘビを咥えていました。
屋上から隣の施設の換気孔に向かって飛び出しました。
 換気孔に親がはいる場面は撮りどこないました。換気孔の入口で餌をあたえている場面と思います。この後、中へ入ってしまいました。換気孔から親が出てくるのを待ったのですが、なかなか出て来ません。
 換気孔から目をそらして隣の施設の屋上を見てみると、アンテナにチョウゲンボウがとまっているのが目に入りました。親が他の換気孔から出たと思って、移動してアンテナのチョウゲンボウにカメラを向けました。モニターで見てみると雄のチョウゲンボウでした。こちらは小鳥を咥えていました。
雄も雛に餌をあたえるのを期待したのですが、自分で食べてしまいました。



令和5年5月20日 地元の山にて
コサメビタキ・エナガとヤマガラの幼鳥
 葉の散った高い木の枝に小鳥がとまりました。シヤッターを切った時にはわかりませんでしたが、モニター画面で見直して見るとコサメビタキでした。
竹藪でエナガの鳴き声が聞こえました。カメラを向けてみるとエナガの幼鳥でした。
ヤマガラの幼鳥もいました。



令和5年5月19日 福島県の磨崖仏(8)(9)
福島県の磨崖仏Ⅱ
江戸時代の磨崖三十三観音 
 福島県には、平安後期から鎌倉時代にかけての磨崖仏とともに、江戸時代の磨崖仏が多く、現存する磨崖仏の数では平安・鎌倉期をしのぐ。 福島県の江戸時代の磨崖仏で目立つのは、西国三十三観音を模した三十三所観音である。

 江戸時代の石仏には三十三所観音が多く見られる。 それは、 西国三十三観音の巡礼巡りの信仰の盛行を反映したものである。 全国各地に巡礼巡りの組織がつくられ、それがミニチュア化して、一寺院や一山に三十三観音石仏がつくられていった。 こうしてできた石仏は形式化した個性のないものがほとんどである。

 しかし、福島県の場合、多くが磨崖仏であるため、形式化を免れている。 福島市信夫山の岩谷観音のように、 東北地方の磨崖仏の伝統を受け継いだ厚肉彫りの傑作もある。 



福島の磨崖仏(8) 岩谷観音磨崖仏
福島県福島市信夫山 「江戸時代」
十一面観音(西国三十三番、華厳寺)
千手観音(西国二十四番、中山寺)
馬頭観音(西国二十九番、松尾寺)
千手観音(西国四番、施福寺)
宝剣と宝珠を持つ観音
千手観音(西国三番、粉河寺)
弁財天
不動明王
地蔵菩薩
 福島市の町のすぐ北にそびえる信夫山、その東端の中腹に岩谷観音がある。岩谷観音は応永二十三年(1416)に観音堂が建立されたのにはじまる。江戸時代、宝永六年(1709)頃から岩谷一面に、西国三十三所観音をはじめとして、庚申・弁財天・釜神などが彫られた。風化は著しいが厚肉彫りで像容の優れたものが多い。

 特に西国三十三番、谷汲山華厳寺の十一面観音はその中でも傑作である。気品のある面相で、量感もあり江戸時代の作とは思えない。西国二十四番、中山寺の千手観音は彫りは浅いが、彩色も残り愛らしい像である。(中山寺の本尊は十一面観音だが、ここではなぜか千手観音になっている。)2体並んだ像高83㎝の千手観音像は穏やかな幼い顔で心がいやされる(赤い着色の残る左の像は2番施福寺像・右の像は宝珠と宝剣を持つ像)。その他、3番粉河寺の千手観音・29番松尾寺の馬頭観音など優れた像が多い。

 西国三十三所観音以外に不動明王・地蔵菩薩・弁財天・虚空蔵菩薩などが彫られている。その中でも優れたのは弁財天である。厚肉彫りの八臂座像で胸前の二臂は宝珠と剣を持つ、残りの六臂は薄肉彫りで表している。頭の上には鳥居と蛇体をのせていて、宇賀弁財天であることがわかる       



福島の磨崖仏(9)  布川下神山磨崖仏
福島県伊達市月舘町布川三淀ヶ入     「江戸時代 享保8(1723)年」
千手観音・千手観音
如意輪観音・千手観音?・千手観音
 月舘町の布川の渓流沿いに不動堂があり、御堂に向って右手の花崗岩の岩肌には、享保8年(1723)癸卯の年号のある半肉彫の磨崖仏三十三観音が刻まれている。6体の観音はやや離れた場所に刻まれているが、残りの27体の観音と番外の阿弥陀如来は大きな岩に3段に渡って整然と併刻されていて、千体仏を連想させる。像高はすべて35~40㎝ほどで、すべて立像である。西国三十三所観音の巡礼巡りの信仰から彫られたものであるが西国三十三所観音とは一部違った構成になっている。



令和5年5月18日 隣町の山にて
コジュケイ
 キビタキ・ホトトギス・ウグイス・センダイムシクイ・ソウシチョウ・メジロ・ヒヨドリなど様々な鳥の鳴き声が聞こえますが、これらの鳥の姿をみることができませんでした。あきらめて帰ろうとした時、木の枝にとまっているコジュケイを見かけました。



令和5年5月17日 福島県の磨崖仏(5)~(7)
福島の磨崖仏(5)  御城地内磨崖仏
福島県西白河郡中島村滑津御城    「鎌倉時代」
汗かき地蔵
 中島村の東端の代畑は石川光房によって築かれたと云われる滑津館(なめつたて・別名南面津城)があった場所で御城と呼ばれている。その代畑の公民館の横にお堂があり、汗かき地蔵と呼ばれる地蔵石仏が安置されている。

 汗かき地蔵堂への登り口の古い墓地の崖の岩に薄肉彫りの阿弥陀如来像がある。岩に高さ120㎝、上辺67㎝・下辺72㎝の梯形の窪みを彫り、その中に頭光を有する定印の阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。建武四年(1278)の紀年銘があり、紀年銘のある磨崖仏としては県内最古のものである。

 汗かき地蔵は高さ1.7mの地蔵座像で背部に建武二年(1335)と建立年が刻まれている。その昔何か天変地異が起きる時、赤褐色の五体に汗をかき、その兆を知らせるとの言い伝えから「汗かき地蔵」の名がついたという。目鼻は風化してないが、新潟県妙高村の関山石仏群を連想する迫力のある石仏である。

 



福島の磨崖仏(6)  観音山磨崖来迎供養塔
福島県西白河郡泉崎村踏瀬観音山  「鎌倉時代」
 二瀬川の北岸の断崖に、巾約30mの枠を7段に設け、内部に石造塔婆や板碑を約320余基、浮彫りした搭婆群である。地元では俗に「踏瀬の五百羅漢」と呼ばれいる。現在は東北自動車道の陸橋の下になっている。その供養搭婆群の中心となっているのがこの磨崖来迎供養搭である。

 磨崖来迎供養搭は、頭部を山形にし額部・根部を持つ高さ102㎝、巾44㎝~53㎝の板碑を深く彫りだして、板碑の身部に、阿弥陀三尊を薄肉彫りにしたものである。頭部をやや前に傾けて、身体をやや横にひねって立つ阿弥陀像と、腰をかがめ蓮台を持つ観音と合掌する勢至の両脇侍は左の方に向き、飛雲に乗って来迎する様子をあらわしている。像の彫りは、押型状の平板なもので衣紋等は刻まれていない。造立当時は彩色されていたものと思われる。



福島の磨崖仏(7)  仁井田双式来迎磨崖仏
福島県岩瀬郡鏡石町仁井田 「鎌倉時代」
 小さな墓地の上の崖に浅い龕が彫られていて、その中に、阿弥陀来迎三尊像を2組、半肉彫りした双式来迎磨崖仏である。両三尊とも阿弥陀如来像は像高約31㎝、観音・勢至の両脇持は像高約22㎝である。磨崖仏の阿弥陀三尊は二本松市黒塚、泉崎村観音山、白河市表郷町硯石などにあるが、双式はこの磨崖仏のみである。嘉歴四年(1329)の墨書名を県文化財専門委員委員の田中正能氏が発見されているが現在は確認できない。



令和5年5月16日 少し遠くにある大きなため池近くの草原にて
オオヨシキリ・セッカ
オオヨシキリとセッカの声が草原のあちこちから聞こえました。
 オオヨシキリの鳴き声がオギの草原から聞こえるのですが、草は背の中にいて、姿をなかなか見せません。1回だけフェンスの上で鳴いてくれました。
セッカは近くへは来てくれませんでしたが何とか撮影できました。



令和5年5月15日 福島県の磨崖仏(3)(4)
福島の磨崖仏(3)  和田磨崖仏
福島県須賀川市和田大仏 「鎌倉時代」
阿弥陀磨崖仏(和田大仏)
六体阿弥陀座像
 阿武隈川の河岸段丘の崖の横穴古墳群を利用してつくられた石窟仏である。中心となる像は通称、 和田大仏とよばれる丈六の如来座像である。剥落風化が烈しく、印相がわからないので像名ははっきりしないが、おそらく阿弥陀如来であろう。胸を削って飲めば母乳が出るという信仰が、摩滅に拍車をかけ、痛ましい姿である。左方の横穴古墳を利用した岩屋には、六体の阿弥陀座像が浮き彫りにされている。



福島の磨崖仏(4)  住吉磨崖仏
福島県いわき市小名浜住吉搦    「鎌倉時代」
 小名浜住吉町の遍照院金剛寺の裏山墓地の、第三期砂岩層に彫られた石龕の中に像高190㎝の厚肉彫りの阿弥陀如来座像がある。地層と像が重なり合って、独特の彫刻美を見せる。近くに阿弥陀座像、20mほど離れたところには阿弥陀三尊像もある。 



令和5年5月14日 福島県の磨崖仏(1)(2)
福島県の磨崖仏Ⅰ
平安時代・鎌倉時代 
 福島県は大分県と並ぶ磨崖仏の宝庫である。浜通りとよばれる太平洋岸には、平安期後期を代表する磨崖仏として泉沢大悲山磨崖仏が知られている。 その他、吉名石窟群・塩崎岩屋堂磨崖仏などが平安期の磨崖仏である。

 中世の磨崖仏も多く、中通りと呼ばれる東北本線沿いには、和田磨崖仏・舘ヶ岡磨崖仏・観音山石塔婆群など鎌倉期の造立の磨崖仏が多く見られる。 浜通りにある住吉磨崖仏も鎌倉期である。

 大分県とくらべると、密教系の尊像が少なく、不動磨崖仏などは江戸時代までつくられなかった。多くが阿弥陀如来や薬師如来といった顕教系の磨崖仏である。

 それは、平安時代のごく早い頃に活躍した法相宗の碩学、徳一の影響が大きいと思われる。彼は、磐梯山信仰と結びついた会津の恵日寺の建立をはじめ会津一帯に五薬師と呼ばれる寺々を建てた。 彼が建立したと伝えられる寺々は、宮城県から関東北部にまでに及び、一つの徳一文化圏というべきものを形成していて、泉沢大悲山磨崖仏・吉名石窟群などの磨崖仏も徳一の造建という伝承がある。



福島の磨崖仏(1)  泉沢大悲山薬師堂磨崖仏
福島県南相馬市小高区泉沢薬師前 「平安後期」
弥勒如来・釈迦如来像
釈迦如来・弥勒如来像
釈迦如来像
弥勒如来像
弥勒如来像
泉沢の大悲山には丘陵地の岩層を利用して開いた石窟が3か所現存する。その中で、最も保存状態がいいのが、この薬師堂磨崖仏である。中央に3mを超える高さの如来三尊[釈迦・弥勒・弥勒]と菩薩立像などを厚肉彫りする。中央の釈迦如来は蓮台を含めれば5mを越え力強いフォルムである。 覆い堂がかかっているが、岩質がもろく、 相当崩れていて、痛ましいが量感や迫力は少しも失っていない。



福島の磨崖仏(2)  舘ヶ岡阿弥陀磨崖仏
福島県須賀川市舘ヶ岡向山     「鎌倉時代」
 東滑川の南岸、中世須田氏の居城であった向山丘陵の西崖面にある。この地方の中世の磨崖仏の中では最も風化が少なく、後でつけられたと思われるが赤い彩色も残る。 硬い安山岩に彫ってあるため螺髪を省略した大まかな像容であるが、硬いシャープな線のフォルムが魅力的である。像高2.15mの体躯も量感に富み、頼もしい体つきで東北を代表する磨崖仏の1つである。  



令和5年5月10日撮影 近くの河川にて
イカルチドリ・イソシギ・ウグイス・ホオジロ
コチドリと思ってレンズを向けたのですが、この日もこの川でよく見かけるイカルチドリでした。
イソシギもこの川でよく見かけます。
ウグイスは河川敷のオギにとまって鳴いていました。
河川敷にはホオジロもいました。



令和5年5月11日 近畿の石棺仏(3)(4)
近畿の石棺仏(3) 正楽寺石棺仏
奈良県香芝市平野1053  「平安後期」
 西名阪道「香芝IC」の北の集落が香芝市平野である。平野の集落の北に正楽寺がある。コンクリートつぐりの本堂の北側のコンクリート覆堂にこの石棺仏が安置されている。

 古墳石棺の棺台を転用したと思われる高さ230cm、幅95cmの板状石に、二重蓮華座の上に上品上生印を結んで端座する定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしたものである。年号は記されていないが、繊細な造形とおおらかな曲線の表現に平安時代後期頃の作風を残す。石棺を利用した石仏では最も古い遺品である。
アクセス
・ JR和歌山線「志都美」駅下車北西1km。 
自動車・ 西名阪道「香芝IC」から北500m。




近畿の石棺仏(4) 池田地蔵石棺仏
奈良県大和高田市池田145 「鎌倉時代」
 大和高田市の西、大和高田市池田の小池寺の門前に建てられた小さな地蔵堂の中に安置されている。長持石棺の蓋石内部に地蔵立像を彫ったものである。

 高さ175cm、幅1mの石棺内壁に蓮華座を刻み、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ像高79cmの地蔵立像を半肉彫りしたものである。面長で、細身、大きく裾広がりにつくった裳裾で、光蓮寺跡石棺仏など柳本方面に残る建治年間の石仏、石棺仏とよく似た様式である。石棺の向かって右上部分と、顔の下部と錫杖が欠損している。

 奈良県の石棺仏は一目見ただけではでは石棺材を利用したものとは思えないものがほとんどであるが、この石仏は網掛け突起もついていて一見して石棺仏であることがわかる。

アクセス
・近鉄大阪線「築山」駅下車南へ1.4km
自動車・西名阪道「香芝IC」から国道168号線を南へ6km、葛城市勝根付近を左折、東へ1.4km。



令和5年5月9日撮影 隣町の山にて
ソウシチョウ
 アオゲラは見られませんでしたが、この日もキビタキ・センダイムシクイ・ソウシチョウがいました。キビタキ・センダイムシクイはカメラを向けたのですが、ヒントが合いませんでした。ソウシチョウは木の上で鳴いている姿を撮影できました。



   
令和5年5月9日 近畿の石棺仏(1)(2)
近畿の石棺仏
 石棺材を使った石仏(石棺仏)が多くあるのは加西・加古川・姫路などの播磨地方である。(播磨の石棺仏参照)しかし、石棺仏の古いものは大和・河内地方にある。

 石棺仏で最も古いものは、藤原時代の作で、奈良県香芝市の正楽寺石棺仏や大阪府柏原市の高井田石棺仏などである。ともに定印阿弥陀座像で、石材いっぱいに薄肉彫りしていていて、穏やかな面相や繊細な造形とおおらかな曲線表現などに藤原仏の特色を見る。しかし、これらの石棺仏は板状石材をつかっていることはわかるが、案内板や本などを見ないと石棺仏とはわからない。

 柏原市にはもう一つ、藤原時代の石棺仏がある。瑠璃光寺石棺仏がそれである。一見して石棺材を使ったとわかる石仏で、上部に蓋石の合わせ目部分が、上部外側に縄付突起が残っている。正楽寺石棺仏のような優美さには欠けるが、縄付突起や蓋石の合わせ目部分を生かした石棺仏らしい石棺仏として、播磨石棺仏につながる秀作である。

 鎌倉時代の石棺仏としては、奈良県天理市の長岳寺弥勒石棺仏や光蓮寺跡石棺仏、専行院阿弥陀石棺仏などが知られている。これらは、石棺材に舟形光背、もしくは二重円光背の深い彫りくぼみをつくり、仏像が厚肉彫りで彫られいるのが特徴である。

 鎌倉時代の石棺仏では大和高田市の池田地蔵石棺仏や柏原市の青谷地蔵石棺仏などは石棺蓋石の内側を使っていて、一見して石棺材を使っていることがわかる。

 石棺という古墳時代の石の世界を生かした、これらの石仏は、普通の石仏とはまた違った不思議な美しさに充ちている。どうぞ、「石棺仏の造形美」をお楽しみください。



近畿の石棺仏(1)  瑠璃光寺石棺仏
大阪府柏原市山ノ井町  「平安後期」
 柏原市の北部、八尾市との境近くの、山ノ井町の東の山麓に曹洞宗の小さな禅寺、瑠璃光寺がある。その瑠璃光寺の門を入った左側に小さな堂があり、石仏が三体、安置されている。

 その中央に高さ1.4m、幅75cmの石材に二重円光背を彫りくぼめ蓮華座に坐す像高67cmの如来像を半肉彫りした石仏がある。一見して石棺材を使ったとわかる石仏で、家形石棺の蓋を横断カットして使用していて、上部に蓋石の合わせ目部分が、上部外側に縄付き突起が残っている。

 如来像は右手をあげ、左手をさげて膝上に置くが、親指先を欠損しているため、尊名は断定できないが阿弥陀如来か釈迦如来と思われる。体部の充実感や衣紋の表現などから見て、藤原時代の造立と考えられる。

アクセス
・近鉄大阪線「法善寺」駅下車、北東へ徒歩1.2㎞。
自動車・西名阪道「藤井寺」ICより北西へ6㎞(大阪外環状線/国道170号・府道174号・20号線・旧国道170号線/国道170号経由して山ノ井町の「柏原市立堅下北スポーツ広場」付近を東へ0.3㎞。)



近畿の石棺仏(2)  高井田石棺仏
大阪府柏原市高井田  「平安後期」
JR大和路線「たかいだ」駅から西へ細い道を200mほど行ったところに、高井寺がある。その寺の南側の塀に接して石仏が数体並んでいる。その中に大きな長方形の平板な石材に彫られた阿弥陀石仏がある。石棺の蓋石、または棺台石を使った石棺仏である。(案内板は棺台石となっている。)

 高さ1.7m、幅1m、厚さ30cmの石棺材の表面に像高1mあまりの定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。かなり摩滅が加わっているため衣紋の線はわからないが、穏やかな面相や裳架座と呼ばれる古式の台座などから藤原時代の造立と思われる。 

アクセス
・JR大和路線「高井戸」駅下車、西へ0.4㎞
自動車・西名阪道「藤井寺IC」より東へ3.8km。(府道12号線・国道25号線経由、大和川にかかる国富橋をわたり、国富橋北詰よりすぐ)



令和5年5月8日 少し遠くにある大きなため池近くの草原にて
セッカ
 セッカは鳴き声はあちこちで聞こえ、鳴きながら飛んでいるセッカもよく見られますが、なかなか撮影できません。何とか粘って、飛んでいるセッカを目で追って、スイバにとまったセッカを撮影できました。



令和5年5月6日撮影 隣町の山にて
キビタキ・ソウシチョウ
 前日引き続いてアオゲラを撮りたいと隣町の山に行きました。鳴き声だけでなく姿も見ることができたのですが、写真は撮れませんでした。この日はキビタキとソウシチョウを撮影しました。
キビタキが薄暗い林の中で鳴いていました。
今までなかなか撮影できなかったソウシチョウですが、この数日、木の上から下りてきて撮影しやすい場所に姿をあらわします。



令和5年5月5日撮影 隣町の山にて
ソウシチョウ・センダイムシクイ
 前日、ドラミングと「ピョーピョーピョー」とアオゲラの鳴き声を聞いたので、アオゲラを撮りたいとこの日も隣町の山に行きました。残念ながらこの日も鳴き声とドラミングを聞いただけで、姿も見ることができませんでした。キビタキも鳴き声を聞いただけです。結局、撮影したのはソウシチョウとセンダイムシクイでした。
 あちこちでセンダイムシクイの声は聞くのですが、なかなか撮影できません。撮影できたのは葉の落ちた高い枝で鳴いているセンダイムシクイの後ろ姿でした。



令和5年5月4日撮影 隣町の山にて
キビタキ・センダイムシクイ・ソウシチョウ
キビタキの囀りがあちこちで聞こえるのですが、姿をなかなか見ることができません。この日ようやくキビタキを撮影できました。
センダイムシクイの鳴き声もこの山ではよく聞こえます。姿はなかなか見られないのですが、何とか粘って撮影できました。
キビタキの鳴き声が聞こえている木の下の藪の中に黄色い鳥がいました。キビタキと思ってカメラを向けてみるとソウシチョウでした。



令和5年5月3日 少し遠い山の公園にて
コサメビタキ・ソウシチョウ
少し遠い県境の近くの山の公園のコサメビタキです。
巣作りの材料らしきものを咥えています。
 地元や隣町の山と少し遠い山の公園は同じ山地にあります。4~6月にかけてこの山地ではあちこちでソウシチョウの鳴き声が聞こえます。なかなか姿を見ることができないのですが、この日は藪の中のソウシチョウを撮影できました。



              
令和5年5月2日 近江の磨崖仏(7)(8)(11)
近江の磨崖仏(7) 息障寺の磨崖仏
滋賀県甲賀市甲南町杉谷3774
 
地蔵座像磨崖仏
「至徳2年(1385) 南北朝時代」
 
不動立像磨崖仏
室町時代
 三重県伊賀市との県境にそびえる岩尾山の中腹にある天台宗の息障寺は、伝教大師最澄によって開かれたと伝えられる古刹であり、周りには大岩や奇岩が点在していて修験者や忍者の修練の場所となっていたと伝えられている。

 本堂の前から鐘楼脇の奥の院に続く石段を40段ほど登ると、巨岩に貼り付けるように覆堂が建っていて、奥壁に小さな磨崖仏が彫られている。高さ60㎝ほどの船形光背を彫りくぼめ、像高32㎝の結跏趺坐する僧形の座像を厚肉彫りしたもので、結跏趺坐して膝上で定印を結ぶ。案内板で確認すると法界定印地蔵菩薩であるという。一見すると小像でおおざっぱな作風の像に見えるが、よく見ると柔和で豊かな表情、二重の鱗葺の蓮弁の蓮華座など整った地蔵磨崖仏である。像の左下に「至徳二年(1385)」の紀年銘があり、南北朝時代の作である。

 地蔵磨崖仏よりさらに200段ぐらいの石段を登ると息障寺奥の院で眼前に屹立する高さ20m以上も巨岩がせまる。私が訪れた時はこの巨岩に接して切り妻の社殿の屋根が建てられていた。奥の院の本尊はこの社殿の上の巨岩の岩肌に彫られた像高の不動明王の立像である。火炎を背負い、右手に剣、左手に羂索を持って立つ不動明王を線彫りする。伝教大師自作の伝承がある。室町時代初期の作と考えられ、写真では伝えられないが大きく迫力がある。残念なことに、現在、崩落のためか社殿はなくなり崩落防止のため岩山全体を網の目状のワイヤーで厳重に補強している状態である。

アクセス
・JR草津線「貴生川」駅下車(タクシー乗り場あり)、タクシーで12㎞。またはJR草津線「甲南」駅下車、タクシーで10㎞。
自動車・新名神「甲南IC」料金所より南南西へ7.2㎞。(料金所より「甲南IC口」交差点を右折して県道337号線に入り南へ750m、「磯尾口」交差点を右折して県道49号線を南西へ700m、三叉路を右折して新田公民館まで西へ2.2㎞、左折して県道132号線へ2.7㎞。「岩尾山息障寺」の案内板付近を右折して600mで息障寺。



           
近江の磨崖仏(8) 善水寺の磨崖仏
滋賀県湖南市岩根3518 「建武元(1334)年 南北朝時代」
 
地蔵立像磨崖仏  「鎌倉後期」
 
阿弥陀座像磨崖仏  「江戸時代」
 岩根山の中腹にある善水寺は、和銅年間(708年~715年)に創建され、最澄(伝教大師)によって中興された古刹であり、国宝の本堂をはじめとする多くの文化財を有している。善水寺には磨崖仏が3体ある。観音堂の東側の巨大な岩の高い位置にある室町時代の不動磨崖仏、地蔵堂の北側にある地蔵磨崖仏、そして歩行者用の参道の仁王門跡の北側に彫られた阿弥陀磨崖仏の3体である。ここでは、地蔵磨崖仏と阿弥陀磨崖仏について紹介する。

 地蔵磨崖仏は、千体地蔵をまつった地蔵堂の北側の岩肌に船形光背を深く彫りくぼめ、像高40㎝ほどの地蔵立像を半肉彫りしたものでよく整った美しい姿である。妙光寺山地蔵磨崖仏や少菩提寺跡地蔵石仏と同じように、柄の短い錫杖を持っていて鎌倉後期の作風である。

 阿弥陀磨崖仏は、参道に面した大きな岩に座す像高90㎝の阿弥陀定印如来を浅く半肉彫りしたものであり、蓮華座は、花弁だけでなく茎も表現されている。体の線や衣紋、蓮華座などの表現は抽象的で写実性に乏しい。面相や像容も堅く稚拙な表現で、江戸時代の作と考えられる。しかし、参道という雰囲気と岩そのものの魅力が補って、それにりにあじわいある磨崖仏になっている。

アクセス
・JR草津線「甲西」駅下車。甲西駅北口より湖南市コミュニティバス「めぐるくん」下田線・甲西駅線またはひばりヶ丘線で「岩根」下車。北へ0.8㎞で善水寺本堂。磨崖仏は本堂手前の参道と地蔵堂にあり。(岩根集落の北の山裾から歩行者用の参道が2カ所あり。集落内数カ所に案内板あり)。
自動車・名神「栗東湖南IC」より栗東水口道路/国道1号線を東へ6.6㎞、「正福寺東」交差点を左折し、十二坊林道に入り「日枝山手台」住宅地南端まで東へ3.1km、右折し南へ林道を南へ0.6㎞、右折して約0.3㎞で善水寺駐車場。
・名古屋方面からは新名神「土山IC」より西へ約20㎞。( 「土山IC」より県道24号線を経て国道1号線で西へ17.4㎞、「山根」交差点を右折して県道13号線を0.7㎞の交差点を左折して山根集落に入り、案内板にそって集落の北より林道に入り、途中で案内板にそって左折して善水寺駐車場。)。
・彦根方面からは名神「竜王IC」より国道477号、県道13号経由下田南交差点右折し「日枝山手台」住宅地から林道をへて善水寺駐車場。



  
近江の磨崖仏(11) 妙感寺地蔵磨崖仏
滋賀県湖南市三雲1758 「鎌倉後期」
掌善童子・掌悪童子
 妙感寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で建武の中興で活躍した万里小路藤房(妙心寺二世授翁宗弼和上)が開基し晩年を過ごした寺という。この、妙感寺の裏山に「山の地蔵磨崖仏」とよばれるこの地蔵磨崖仏がある。大きな花崗岩の岩壁に、舟形光背を彫りくぼめ、約170㎝の地蔵菩薩立像を半肉彫りする。錫杖は妙光山地蔵磨崖仏のような短い柄ではなく通常の長さである。地蔵の左右に像高約40㎝の掌善童子・掌悪童子が脇侍として彫られている。鎌倉後期のすぐれた地蔵石仏である。

アクセス
・JR草津線「三雲」駅下車。南西へ徒歩2.5㎞。
自動車・名神「栗東湖南IC」より東南東へ12.8㎞(「栗東湖南IC」より栗東水口道路/国道1号線を東へ9.6㎞「岩根」交差点を右折し、県道13号線に入り0.7㎞、「吉永」交差点を左折し



4月 6月