磨崖仏100選U
鎌倉時代(西日本) 
 
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磨崖仏100選(29)   富川磨崖仏
滋賀県大津市大石富川町    「鎌倉時代」
阿弥陀三尊
 信楽川沿いの山腹の40mを越える大岩壁に刻まれた阿弥陀三尊磨崖仏である。像高6.3mで線刻彫りの大野寺や笠置寺の磨崖仏を除くと近畿では最大の磨崖仏である。

 一見線彫りのように見えるが、中尊の阿弥陀如来は、像の周りをやや深く彫り沈め、板彫風に線や面を薄肉彫りした陽刻である。そのために、口や目などの表現が不自然になっている。観音と勢至の脇持は普通の手法の薄肉彫りである。

 九州の磨崖仏のほとんどは厚肉彫りか半肉彫り・薄肉彫りで、線刻の像は少ない。中には臼杵磨崖仏や菅尾・元町磨崖仏のように丸彫りに近い磨崖仏もある。それに対して、近畿の磨崖仏は線刻彫りや薄肉彫りの像が多い。それは、技術の違いというよりは素材の違いである。つまり、近畿地方の岩のほとんどが硬質の花崗岩であるのに対して、九州は加工しやすい柔らかい凝灰岩であることが、この違いを作り出したといえる。

 特に、この富川磨崖仏のような大規模な磨崖仏となると、花崗岩の岩に半肉彫りをすることは非常に困難なことと思われる。そのため、笠置寺虚空蔵磨崖仏(像高約9m)や大野寺弥勒磨崖仏(像高約11.5m)は線刻彫りである。笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏は近畿を代表する磨崖仏として知られているが、私はあまり魅力を感じられない。確かに、線は美しく優美であるが、表現は絵画的で岩の雄大さ、力強さを生かしていないように思える。

 富川磨崖仏は、笠置寺虚空蔵磨崖仏や大野寺弥勒磨崖仏のような優美な表現でないが、薄肉彫りや陽刻の線彫りといった方法で、岩の厳しさに正面から取り組んでいて、大岩壁をうまく生かした力強い表現で、忘れがたい磨崖仏である。

 富川磨崖仏は、右耳の脇から山水がしみ出るので、「耳だれ不動」とよばれ、耳病の人の信仰を集めている。阿弥陀如来の向かって左側には線刻の絵画的な表現の不動磨崖仏がある。
この不動磨崖仏も阿弥陀三尊磨崖仏と同じく鎌倉時代の作である。



 
磨崖仏100選(30)   妙光寺山地蔵磨崖仏
滋賀県野洲市小篠原 「元亨4年(1324年) 鎌倉時代後期」
 近江富士と称される三上山の北の尾根づたいの峰が妙光寺山とよばれる山で、その山の北斜面にこの地蔵磨崖仏がある。野洲中学校方面から入るとわかりやすい。現在、案内板がきちんと整備されていて、登山口さえわかれば、迷わずにたどり着ける。

 妙光寺山の北面中腹に露出する岩壁に長方形の彫り込みをつくり、像高約1.6mの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。地蔵は柄の短い錫杖と宝珠を持ち、木ぐつをはいている。「元享四(1324)年」の造立銘があり、近江を代表する地蔵磨崖仏である。六頭身から七頭身のすらっとした体躯であるため、力強さはあまり感じられないが、整った写実性豊かな優れた磨崖仏である。


 
磨崖仏100選(31)   妙感寺地蔵磨崖仏
滋賀県湖南市三雲妙感寺 「鎌倉時代後期」
 妙感寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で建武の中興で活躍した万里小路藤房(妙心寺二世授翁宗弼和上)が開基し晩年を過ごした寺という。この、妙感寺の裏山に「山の地蔵磨崖仏」とよばれるこの地蔵磨崖仏がある。

 大きな花崗岩の岩壁に、舟形光背を彫りくぼめ、約170pの地蔵菩薩立像を半肉彫りする。錫杖は妙光山地蔵磨崖仏のような短い柄ではなく通常の長さである。地蔵の左右に像高約40pの二童子が脇侍として彫られている。鎌倉後期のすぐれた地蔵石仏である。


 
磨崖仏100選(32)   さんたい阿弥陀三尊磨崖仏(笑い仏)
京都府木津川市加茂町岩船 「永仁7年(1299) 鎌倉時代後期」
 大門仏谷磨崖仏とともに、当尾の里を代表する石仏である。岩船寺から西南500mの山裾に露出する大きな花崗岩の岩に、 舟形に彫りくぼめをつくり、 蓮座に座した定印の阿弥陀像と蓮台を持つ観音像と、合掌する勢至菩薩像を半肉彫りにしている。

 「永仁七年(1299)二月十五日、願主岩船寺住僧‥‥‥大工末行」と3行にわたる刻銘があり、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行の作とわかる。花崗岩の岩肌を生かして柔らかい丸みのある表現になっていて、 「笑い仏」 という愛称もつけられている。


 
磨崖仏100選(33)   岩船不動磨崖仏(一願不動)
京都府木津川市加茂町岩船 「弘安10年(1287) 鎌倉時代」
 「唐臼の壺磨崖仏」から岩船寺へ向かうハイキングコースをしばらくすすむと、三差路に出るその辻を右に数メートル行くと「笑い仏」があり、左の山道を進むと岩船寺に出る。その山道を数メートル進んだところから下りた谷間の藪の中に露出した大きな岩面に薄肉彫りさた岩船不動磨崖仏がある。やや斜め向きの顔は両眼を見開き、眉をつり上げた憤怒相で、剣を右手にかまえ、索を左手に持った不動明王立像である。風化が少なく、午後になると木漏れ日があたり、憤怒相であるがどこか穏やかな顔が浮かび上がり、印象的である。

 像の向かって右下方に「弘安十年丁亥 三月廿八日 於岩船寺僧□□令造立」の刻銘がある。


 
磨崖仏100選(34)   藪の中三尊磨崖仏
京都府木津川市加茂町東小 「弘長2年(1262) 鎌倉時代」
阿弥陀・地蔵・十一面観音
東小高庭の集落の南、府道を隔てた樹林の中に「藪の中地蔵」または「やぶの地蔵」と呼ばれる磨崖仏がある。露出する二つの岩面にそれぞれ船型の彫り窪みをつくり、向かって左から阿弥陀・地蔵・十一面観音の各像を厚肉彫りしたものである。中尊の地蔵菩薩は像高153pで、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ引き締まったおおらかな面相の重厚感のある秀作である。

 右の岩に彫られた像高111pの定印阿弥陀座像は東小会所阿弥陀石仏によく似た硬い表現の磨崖仏である。像高113pの十一面観音は右手に錫杖を持つ長谷寺型の観音像で穏やかな女性的な顔である。「弘長二年」の紀年銘や願主とともに「大工橘安繩 小工平貞末」と石工名の刻銘があり、尾の在銘石仏としては東小会所阿弥陀石仏とともにもっとも古い。


 
磨崖仏100選(35)   岩船寺三体地蔵磨崖仏
京都府木津川市加茂町岩船 「鎌倉時代後期」
「みろくの辻磨崖仏」の府道を隔てた向かいに細い山道がある。この山道を進むと岩船寺に出られる。その山道を200mほど行った右手の高い岩壁に、三体地蔵磨崖仏が彫られている。

  四角形の彫り窪みをつくり、像高90p程の三体の地蔵を半肉彫りしたもので、三尊とも右手に短い錫杖を斜めに持ち、左手で宝珠を胸の前で持った地蔵立像で中尊は少し大きい。三体とも穏やかな顔の優れた容姿の地蔵菩薩である。


 
磨崖仏100選(36)  鹿背山地蔵磨崖仏
京都府木津川市鹿背山大木谷 「鎌倉時代後期」
 R木津駅の東の丘陵地帯にあるゴルフ場の北、鹿背山の南の麓に鹿背山不動がある。像高45pの南北朝時代の不動磨崖仏が祀られていて昔から厚い信仰を集めている。

  鹿背山不動の境内から急坂を登って裏山山頂に出ると大きな岩石が突き立っていて、そこに地蔵磨崖仏が彫られている。岩いっぱいに船型の彫り窪みをつくり、そこに錫杖と宝珠を持つ像高128pの地蔵立像を半肉彫りしたもので、引き締まった写実的な顔の磨崖仏である。「しょんべんたれ地蔵」と呼ばれていて、お参りを続けるとこの地蔵が子供の寝小便の代わりをしてくれると言われている。


 
磨崖仏100選(37)  谷山不動磨崖仏
京都府木津川市山城町平尾峰山 「鎌倉時代」
 JR京都線「棚倉」駅の東北東、約1.5q。木津川の支流不動川の谷沿いの山腹にある。谷沿いの道から石段を百数十段、登ったところの岩にさしかけるようにお堂がつくられ、その中に不動磨崖仏がある。

  内部の岩肌に瑟々座を刻み、その上に船型の彫り窪みをつくって、蓮華をのせ両眼を見開いて垂髪を左に下げ、右手に剣を構え、左手に索を持った不動明王座像を半肉彫りしたもので、鎌倉中期の作と思われる。温和な中にも迫力がある不動磨崖仏である。


 
磨崖仏100選(38)  夕日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「鎌倉時代」
弥勒如来
 能登川の渓流沿いの石畳の道・滝坂の道を2qほど歩くと、寝仏と呼ばれる転落した大日如来石仏がある。そこから北側の山手に急な道を20mほど登るとこの磨崖仏がある。夕陽に映える姿が美しいので、通称「夕陽観音」と呼ばれている。

 「夕陽観音」は、傾いた大きな三角形の花崗岩の巨岩に、二重光背を彫りくぼめ、右手を下にのばし、左手を上げた施無畏・与願印の立像(像高1.6m)を半肉彫りした磨崖仏で、観音ではなく如来形の弥勒仏である。滝坂の道の数ある磨崖仏の中では最も整った優美な石仏である。


 
磨崖仏100選(39)  朝日観音
奈良市春日野町 滝坂道 「文永2(1265)年 鎌倉時代」
地蔵・弥勒・地蔵
  夕陽観音から滝坂の道を500mほど進むと、東面した高い岩壁に、通称「朝日観音」と呼ばれる3体の磨崖仏が彫られている。夕陽観音と同じように観音ではなく中尊は約2.3mの弥勒如来立像である。左右に地蔵立像が彫られている。弥勒如来の左右の刻銘に「文永弐年乙丑十二月」の紀年があり、文永2(1265)年に造立されたことがわかる。

 夕陽観音とよく似た作風であるが、夕陽観音と比べるとやや彫りは浅く、浮き彫り風である。左の錫杖・宝珠を持つ地蔵も同じ作風を示す。右の舟形光背の地蔵は錫杖を持たず、春日本地仏の姿をしていて、後世の追刻である。


 
磨崖仏100選(40)  滝坂地蔵
奈良市春日野町 滝坂道 「鎌倉時代後期」
 夕陽観音に登る道の途中に、三体地蔵磨崖仏がある。 三体とも右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。摩滅風化が激しく、岩肌の模様が目立ち、かろうじて地蔵菩薩の面影をとどめている。

 三体地蔵磨崖仏の所から、夕陽観音と逆の右の方へ進み上方の岩を見上げるとそこに、滝坂地蔵と呼ばれる等身大の地蔵磨崖仏がある。上方の突き出た岩に二重光背を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ、地蔵菩薩立像を半肉彫りしたもので、鎌倉末期の様式を示し、滝坂の道の地蔵菩薩の中では最も整った石仏である。

 滝坂の道からは見えない位置にあるためにほとんどのハイカーはこの石仏にきづかずに通り過ぎていくが、晩秋の紅葉に映えた滝坂地蔵の姿は美しい。


 
磨崖仏100選(41)  ほうそう地蔵
奈良県奈良市柳生町 「元応元(1319)年 鎌倉時代後期」
徳政銘文

「正長元年ヨリ サキ者(は)カンヘ(神戸)四カン カウ(郷)ニヲ井メ(負いめ)アル ヘカラス」
 阪原町の南出より柳生までの旧柳生街道は急な山道である。その山道の峠を越えて、しばらく進むと、大きな花崗岩の南面に彫られたこのほうそう地蔵がある。(柳生からは柳生陣屋跡より旧柳生街道を1qほど南へ行ったところになる。)

 岩肌に高さ140p、幅約80pの方形の枠組みを彫りくぼめ、蓮華座に立つ錫杖を持つ通常型の地蔵を半肉彫りする。以前は面部が剥落していて、疱瘡にかかったように見えたため、ほうそう地蔵といわれていた。(私が高校生の時、初めて見たときは顔が剥落していた。) 昭和44年、すぐ下の土中より顔が見つかり修復された。顔は穏やかな童顔で印象深い。元応元(1319)年の銘がある。

 その左側に正長の土一揆の資料として中学社会科や高校日本史の教科書に載っている有名な徳政銘文がある。「正長元年以前の借金は神戸(かんべ)の四ケ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)では帳消しにする。」という意味である。


 
磨崖仏100選(42)  あたや地蔵
奈良市柳生下町 「鎌倉時代後期」
阿弥陀如来
 柳生から北(笠置方面)に1qほど行った、川の東の大きな岩壁にあたや地蔵がある。高さ2mほどの方形の枠組みを彫り、放射光を刻んだ頭光背を背負った、像高約150pの来迎印阿弥陀如来を薄く半肉彫りする。保存状態は良く、西日を受けた姿は美しい。左下には像高70pほどの追刻と思われる地蔵菩薩がある。

 あたい地蔵から県道を少し北に行くと、弥勒大磨崖仏や、虚空蔵石磨崖仏で知られた笠置山への東海道自然歩道が通じている。


 
磨崖仏100選(43)   上出阿弥陀磨崖仏
奈良市大柳生町上出 「鎌倉時代後期」
  誓多林から大柳生へ出る白砂川に沿った旧柳生街道に突き出た大岩の岩壁にこの阿弥陀磨崖仏は彫られている。誓多林から大柳生への旧柳生街道は東海道自然歩道に指定されていないため、ほとんどのハイカーは忍辱山へ向かう東海道自然歩道を通るので、この磨崖仏は人の目にふれることは少ない。

 岩肌に、高さ約110p、幅約60p、深さ15pの方形を彫りくぼめ、蓮華座上に像高約90pの来迎印の阿弥陀如来立像を半肉彫りする。頭部が大きく4〜5頭身ほどであるが、豊かな包容力のある力強い顔に魅力がある。


 
磨崖仏100選(44)   大野寺弥勒磨崖仏
奈良県宇陀市室生区大野 「承元3年(1209) 鎌倉時代初期」
  高さ約30mの岩に二重光背を彫りくぼめ、像高11.5mという巨大な弥勒立像を線彫りしている。大野寺の前、宇陀川の清流をはさんだ大岸壁に刻まれた大磨崖仏は周りの風光と相まって雄大で魅力的である。

 興福寺の雅縁僧正が、笠置寺の大弥勒像を模して、宋人の石工二郎 ・三郎らに彫らして、 承元3年 (1209)に完成させたのがこの弥勒磨崖仏である。


 
磨崖仏100選(45)   滝山(下笠間)阿弥陀磨崖仏
奈良県宇陀市室生区下笠間 「永仁2年(1294) 鎌倉後期」
 笠間川対岸の岸壁に、二重光背式の彫りくぼめを作り、その中に連座上にたつ来迎相の阿弥陀像を半肉彫りする。 頭光には、 放射光が線彫りされている。優雅でおおらかな面相の磨崖仏で、鎌倉後期の磨崖仏の秀作である。

 絵画的な柔らかい表現で、 同じ時代のつちんど墓地の阿弥陀石仏とは違った魅力がある。


 
磨崖仏100選(46)   向淵三体地蔵磨崖仏
奈良県宇陀市室生区向淵 「建長6年(1254) 鎌倉時代」
集落の西はずれの畑の中に建つ堂に「穴薬師」と呼ばれるこの三体地蔵がある。凝灰岩の四隅を落とした正八角形の石材を利用して作られたもので、中央に蓮華座を設けて高さ150pの二重円光背の彫り窪みをつくり、像高130pの宝珠と錫杖を持つ地蔵立像を厚肉彫りする。その両側には同じく二重円光背の彫り窪みをつくり、中尊よりやや小さい像高90pの地蔵立像を厚肉彫りする。両脇持は共に、右手を下げて与願印を示し、右手で宝珠を持つ古式の地蔵である。

 充実感のある、鎌倉中期らしい写実的な表現の地蔵石仏で、三体地蔵形式では最も古い様式である。施主名と共に建長6年(1254)の紀年銘を像の間に刻む。


 
磨崖仏100選(47)   濡れ地蔵磨崖仏
奈良県宇陀市榛原山辺三  「鎌倉時代」
 国道165号線沿いの山辺三の集落の集落から近鉄大阪線の線路を越えた南に下った谷あいに濡れ地蔵磨崖仏がある。

 川の向こう岸の岩に、高さ184mの船型の彫り窪みをつくり、線刻の頭光背を負って蓮華座に立つ地蔵立像を半肉彫りしている。大きな頭の錫杖を直立して右手で持ち、左手を胸前に上げて宝珠をささげる。光背面の左右に三体ずつ、六地蔵立像が墨画で描かれていたという。また、光背の外側の左右に太山王と閻魔王が線刻されていて、地蔵十王の信仰が伺える。

 濡れ地蔵と呼ばれるのは、山から滴る水で常に濡れているところから名付けられたものである。この川は宇陀川の支流にあたり、宇陀川に作られた室生ダムのため、増水時はダム湖の一部となり、増水時は濡れ地蔵は水没してしまう。


 
磨崖仏100選(48)   切りつけ地蔵
奈良市田原南田原町  「元徳3年(1331) 鎌倉時代後期」
阿弥陀如来
 地元の人が「きりつけ地蔵」とよんでいる阿弥陀磨崖仏である。 花崗岩壁に高さ、約2mの長方形を深く彫り込み、蓮華座上に立つ来迎相の阿弥陀像を厚肉彫りする。

 像の両脇奥壁に、石大工行恒が彫刻したことを刻む。行恒は有名な伊派石工の一人で、 和歌山県地蔵峰寺地蔵石仏(重文)など鎌倉後期を代表する石仏を残している。 いずれも、木彫仏に劣らない、丁寧な技法の熟達した作品である。


 
磨崖仏100選(49)   桃尾滝不動三尊磨崖仏
奈良県天理市滝本町  「鎌倉時代後期」
  「下滝本」のバス停から坂道を登ると三方花崗岩にかこまれた正面に20mばかりの滝が音を立てて落ちている。桃尾滝不動三尊磨崖仏は、その滝の向かって左の岩壁にある。

 岩面を長方形に彫りくぼめ、不動明王を板彫り状に浮き出し、線彫りで面相や着衣を線彫りで表したもので、勇壮で力強い像である。脇持のコンガラ童子・セイタカ童子も板彫り式線刻である。火焔は枠の外まではみ出す。技法的にも類の見ない像で富川磨崖仏ほどの雄大さはないが同じように岩の厳しさに正面から取り組んでいて迫力がある。


 
磨崖仏100選(50)   三谷阿弥陀・地蔵磨崖仏
奈良県桜井市三谷小字下の佛  「延慶2年(1309) 鎌倉時代後期」
阿弥陀磨崖仏
三谷寝地蔵(地蔵磨崖仏)
  都祁村藺生から三谷に抜ける旧道の藺生峠に、この地蔵磨崖仏と阿弥陀磨崖仏がある。

  三谷阿弥陀磨崖仏はもとは、 寝地蔵と呼ばれる横向きに転落している地蔵磨崖仏と2体の対になった磨崖仏であった。 高さ約60cmの二重光背を彫りくぼめ蓮華座に座す定印阿弥陀如来を半肉彫りする。端正な表情の整った石仏である。

  三谷寝地蔵(地蔵磨崖仏)は120cmの船形を彫りくぼめ、錫杖と宝珠を持つ端正な地蔵菩薩立像を半肉彫りする。 石が割れて地蔵のほうだけが転落し、地蔵は横になったままで、「ネンゾ(寝地蔵)」と呼ばれている。三谷寝地蔵の左右の岩面に藺生(いう)の住人祐禅浄覚房が延慶2年(1309)造立した旨が刻まれている。


 
磨崖仏100選(51)   清滝八尺地蔵磨崖仏
奈良県生駒郡平群町鳴川  「鎌倉時代」
  平群町鳴川にある千光寺は役行者の開いたと伝えられる寺で、役行者が大峰山を修験の場とする前にここで修行していたため、「元の山上ヶ岳」という意味で「元山上」とも呼ばれている。行者の母親も入山修行してたと伝えられ、「女人山上」ともいわれていて、女性にも山内が開放された修験道の霊場である。千光寺の周りは修験道の行場となっていて、清滝八尺地蔵磨崖仏のある清の滝も行場の一つである。

 鳴川集落は千光寺の参道に沿った山道にあり、その中程にゆるぎ地蔵と呼ばれる地蔵を安置した辻堂がある。その辻堂から細い道を下ると川の流れ沿いに巨岩が露出するところがあり、鎌倉時代から室町時代にかけての多くの磨崖仏が彫られている。その中でも特に優れているのが八尺地蔵磨崖仏で、清滝という小さな滝の岩肌に彫られている。

 八尺地蔵磨崖仏は地蔵菩薩立像の薄肉彫りで、蓮華座から頭光背まで337pもある大きな磨崖仏である。やや体を斜めに向け、錫杖を体から離して、右手で錫杖の柄を持つ。左手で持つ宝珠は大きく立派である。銘はないが鎌倉中期の造立と考えられる優れた磨崖仏である。現在、苔が生えて、昔の面影がなくなりつつあるのが残念である。


 
磨崖仏100選(52)   弥谷寺阿弥陀三尊磨崖仏
香川県三豊郡三野町大見70  「鎌倉時代」
 標高382mの弥谷山は、死者の霊が帰る「仏の山」として昔から信仰を集めている。その弥谷山の中腹にある四国霊場第71番札所弥谷寺は本堂まで急勾配の階段が続き、遍路泣かせの難所であるが、いかにも密教の修行の場に相応しいところである。

 この弥谷寺に四国で唯一といってもよい、鎌倉時代の磨崖仏がある。比丘尼谷と呼ばれる崖の面に彫り窪めた舟形光背の中に阿弥陀三尊像を半肉彫りする。摩滅がひどく、脇持の観音・勢至菩薩は顔がほとんどわからない。舟形光背の彫り込みの上にコンクリートで補強されたひさしが興ざめるが、端正な顔の阿弥陀如来は四国の石仏の中でも傑作といってよい。


 
磨崖仏100選(53)   立石観音磨崖仏
佐賀県唐津市相知町相知緑町  「鎌倉時代」
薬師如来
 相知町の中心部から南、平山川の支流に面した、砂岩の断崖の下面の、自然の半洞窟(高さ3m、幅20m、奥行き5m程)のような岩に薬師・阿弥陀・十一面観音の体を薄肉彫りで刻む。

 左端の薬師如来が一番大きく、像高約2mである。薬師如来は丸みを帯びた大きな顔の部分だけ薄肉彫りにして、体は線彫りで簡単に処理しているため、岩の中に仏像がとけ込んでしまったような印象を受ける。阿弥陀如来は体の部分も半肉彫りで、顔もやや細長く、作者や造立年代が違うように思える。

 近くの鵜殿窟磨崖仏と同じように地方色濃厚な石仏である。鵜殿窟磨崖仏に較べると土俗的な怪奇さは少ないが、共通した印象を受ける。平安末期の作と伝えられているが、鎌倉中期以降の制作と思われる。 


 
磨崖仏100選(54)   鵜殿窟磨崖仏
佐賀県唐津市相知町相知和田  「鎌倉時代後期〜室町時代」
持国天
持国天・十一面観音・多聞天
制多迦童子
大きな丘の頂上近くに切り立つ岩壁を穿った石窟に不動明王像など多くの像を半肉彫りする。石窟は現在著しく崩れ、かって窟内にあった磨崖仏はほとんど露出している。現在58体が遺存する。歯を食いしばる形相は怪奇的で、地方色濃厚な磨崖仏である。

 鵜殿窟は、大同元年(806)、唐から帰った空海(弘法大師)によって阿弥陀・薬師・観音の三像が大洞窟にに刻まれたことに始まると伝えられている。天長年間には鵜殿山平等寺が建立され真言密教の寺院として栄え、その後、天文の戦火にあい、衰滅していったという。

 石窟の中心には十一面観音と不動明王、持国天・多聞天を彫る。その中でも、持国天と十一面観音は保存状態も良く、赤や茶、肌色の彩色が遺る。(十一面観音の彩色は後の補作か?)全体的に土俗的な怪奇さが漂う彫刻で、何となく、チベット仏教の仏像に印象が似ている。

  十一面観音や不動明王、持国天がある石窟の向かって左には如来座像を彫った小龕か続き、その左に不動三尊を彫る。そのうち、セイタカ童子は、エジプト絵画のように肩は正面を向き顔は横顔になっていて、手には蛇を握り、オリエント風で、印象的な彫刻である。

 鵜殿窟の諸像は豊後の石仏のような写実性を欠き、姿態・手足はアンバランスで、彫刻の技術自体は低いと思われる。しかし、下手ではあるが、宗教的な情熱が感じられる石仏群である。制作年代は、鎌倉時代末期から室町期と思われる。


 
磨崖仏100選(55)   岩洞窟飛天像
福岡県豊前市岩屋  「鎌倉時代?」
 英彦山とともに修験道の山として知られる求菩提山の山腹の岩洞穴の天井に彫られている。ごく薄い肉付けだか、技巧は優れ、衣の流れも美しい。顔と手は黄白色、衣は朱、雲は青白色に塗られている(着色は近年の補修か)。他に、洞穴の内には薬師堂(御堂)と層塔と近世の妙見菩薩などの石仏がある。薬師堂の薬師如来像が12世紀の作とされているのでこの飛天像も平安後期の作とされているが、鎌倉時代の説もある。


 
磨崖仏100選(56)   元宮磨崖仏
大分県豊後高田市真中字宮田  「鎌倉時代後期」
多聞天
不動明王・矜羯羅童子
 田染郷の総社であった八幡神社の北側の凝灰岩層の岩壁に6体の立像を半肉彫りする。向かって左から地蔵菩薩・持国天・欠損像(セイタカ童子)・不動明王・矜羯羅童子・多聞天である。いずれも穏やかな表情で、鎌倉末期から室町初期の作と思われる。


 
磨崖仏100選(57)   臼杵門前磨崖仏
大分県臼杵市大字前田字大日  「鎌倉時代」
不動明王・矜羯羅童子
 臼杵にはもう一つ平安後期〜鎌倉時代の磨崖仏がある。臼杵磨崖仏の北、臼杵川沿いの小高い丘の麓にある門前(もんぜ)磨崖仏がそれである。臼杵石仏の一部として国の特別史跡に指定されている。2mほどの如来形座像を中心に、下記のような像が残っている。不動明王以外は破損が甚だしい。

  定印如来形座像の左右に菩薩形座像と思われる像があり、三尊形式になっていたと思われる。面相も体躯もいたみが激しいが、堂々たる像で、臼杵の石仏群と通じるところがある。藤原時代の制作と考えられる。

 不動明王は像高150pの厚肉彫りの立像で、石仏には珍しい八頭身のすらっとした姿体である。鼻が欠けているが、保存状態はよく、木彫仏の様な写実的な磨崖仏である。鎌倉時代の作と考えられる。二童子が不動の左手に並んで配されているのが珍しい。


 
磨崖仏100選(58)   犬飼不動磨崖仏
大分県豊後大野市犬飼町田原渡名瀬  「鎌倉時代」
 岩層にさしかけて建てた覆堂の中にある。凝灰岩の岩層に像高約3.8mの不動明王と像高約1.7mの制多迦童子と矜羯羅童子を厚肉彫りしたものである。不動明王は右手に剣、左手に索を持つ結跏趺坐像である。温和な作風であるが、堂内で間近に見ると、押しつぶされるような圧迫感がある。体躯の所々に赤色の彩色が残る。


 
磨崖仏100選(59)   普光寺磨崖仏
大分県豊後大野市朝地町大字上尾塚  「鎌倉時代」
不動三尊磨崖仏
多聞天立像磨崖仏
 普光寺の本堂から谷を隔てた、高さ20m、幅10mの大岸壁に、高さ約8mの巨大な不動明王像と2童子が彫られている。不動は右手剣、左手索の半肉彫り座像である。遠くから見ると扁平な印象を受けるが、近づくとかなり量感が感じられる。線彫りの像をのぞくとわが国の磨崖仏では最大教の巨像である。一面に紫陽花の花が咲いた谷を隔ててこの赤茶色の磨崖仏を見た時の印象は忘れられない。

 不動明王像の、向かって右手に、石窟が2カ所あり、その一カ所に護摩堂がはめ込まれるように建てられ、その右窟壁面に高さ3mの多聞天の半肉彫りの磨崖仏がある。不動明王像より古い様式をしめす力強い表現の磨崖仏である。

 普光寺は豊肥本線の朝地駅の南の山中にある。最近、道が整備されて、観光バスも駐車場まで行けるようになった。


 
磨崖仏100選(60)   鹿谷阿弥陀三尊磨崖仏
宮崎県串間市福島鹿谷  「永仁六年(1298) 鎌倉時代後期」
宮崎県の南部、串間市の鹿谷に鎌倉時代の阿弥陀三尊磨崖仏がある。鹿谷の集落の西300m、県道ぞいの、高さ約250p、幅約220pの大きな凝灰岩の岩に阿弥陀三尊を厚肉彫りしたものである。道からやや下がったところにあるためうっかりすると見過ごしてしまう。

 阿弥陀如来像は、摩滅のためか、他の鎌倉時代の磨崖仏と比べると鋭さや厳しさがないが、面長の優しそうな目をした顔がすばらしい。額付近が右から左に斜め帯状に剥落しているため、正面から見ると顔を傾けているように見える。

 三尊像の左に石塔があり、「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」の願文と「永仁六年(1298)」の年号が墨で書かれている。また、その横には、一石に彫られた五輪塔があり、これも市指定有形文化財である。

 なお、この磨崖仏には「鉄砲の腕を自慢するため、向かいの飯盛山から三尊に鉄砲を撃ちかけ、観音にあたり、天罰を受け狂い死んだ。」という伝説が残っている。(「串間の民話と伝説」串間市教育委員会参照)


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